合唱通信 No.27 2016/10/19 ◇ 組曲『水のいのち』の『雨』について考える ◇
牛久フロイデ混声合唱団にとっては、一年間で最大のイベント「シビックコンサート」が間近
に迫ってきました。今年のプログラムの目玉は、なんと言っても組曲『水のいのち』の『雨』を
取り上げ、挑戦することだと言えるでしょう。
多くの合唱団に愛唱され、名曲の一つと考えられている組曲『水のいのち』ですが、中でも『雨』
は一度は歌ってみたい曲のNo.1と目されている曲です。
この憧れの名曲に挑戦できるまでに牛久フロイデ混声合唱団が育ってきたということを、皆さん
と共に喜びたいと強く思っています。
ところで、私はこの曲に通奏低音として流れているのは、“祈りの心情”だと考えています。
私たちが「祈り」を想像するとき、神様や仏様に対して「願う」場面を思い浮かべがちですが、
本来「祈り」は恵みをもたらし、かつ守ってくれる“神への感謝”を捧げるもので、人間の営みを
とりまく山、岩、林や森、海、川など自然のどこにでも存する精霊への『ありがたい』という感謝
と畏敬の念がこめられた行為であったはずです。
いつの頃からか、人間の力の及ばない天の大きな力(御稜威)を頼って、『祈りに感応して神が
“よきこと”をもたらしてくれる』との期待と願望の方に傾斜がかかり、効験を願ってさまざまな
願(がん)をかける祈祷こそ「祈り」だ、ととらえる傾向が強くなってしまったようです。
それはさておき、ここで詠われている“雨”は、荒ぶる神の業としての強く激しい雨ではなく、
柔らかく静かにそうっと降ってくる慈しみに満ちた「慈雨」であることは言うまでもありません。
人にも草にも花にも木にも、そして土にも、生きとし生ける地上のすべてのものに「生きる力」
と「生きようとする気持ち」を与えてくれる「救いの雨」であることは、論を待ちません。
身の置き場のない悲しみのあまり途方にくれている者にも、枯れてみずみずしさを失い、力を落
としている者にも、気持ちがふさがれる思いで萎えている者にも、優しくあたたかく『生きよ』と
立ち上がる力や立ち直る勇気を与え、蘇らせてくれる、文字通り「天の恵み」「天の慈しみ」に対
する感謝と感恩に満ちた祈りがこの曲の主題です。
いわば、蘇生させ、そのものの本来の姿に立ち返らせてくれる「慈雨」へのありがたいという
感謝を基調とした思いこそが、繰り返し詠われる『降りしきれ』というモチーフにこめられている
と言って良いでしょう。(命令形で表現されてはいますが、天に命じようとしたものでないことは、
どなたにもおわかりのことでしょう。)
その思いは『おお、おお、すべてをそのものに~』の『おお』という心からの感嘆詞に端的に表
されていますが、そこにだけではなく、この詩に綴られているすべての言葉に、“慈しみ”に対す
る深く強い感謝の思い、祈るような敬虔な気持ちがこめられています。
この曲はそうした思いを見事に表現した曲だと言えますが、これを表現する心持ちは、昨年の
シビックコンサートで発表した『大地讃頌』に通じるものがあります。一方は大地の恵みに感謝し、
一方は天の恵みに感謝し、謙虚に真摯に自分を生きていこうとするものだからです。
どちらも単なる小手先のテクニックで一見うまそうに表現しても伝わらない曲です。
静かで柔らかく、そしてあたたかみのある「祈り=感謝の気持ち」をどう歌にこめ、伝えようと
しているかという姿勢にこそかかっていると思われてなりませんが、いかがでしょうか。