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このハルモニーの先号を書いてから、いつの間にか半年以上経ってしまい、それほど長い時間書いていなかったのかと我ながら驚き呆れています。

いまやもう秋・冬を越えて「立春」も過ぎ、暦の上では春となってしまいました。気がつけば、ご近所の庭では梅がちらほらとほころびはじめ、辛夷の芽もずいぶん大きくふくらんでいます。

春を迎えて“めでたい”と喜ぶのは、古来から春の到来を待つ人間の素直な心情のようです。

冬至から日一日と太陽の力が増すと同時に日足も伸び、その陽気に応ずるように草木の芽が萌え出る様子を見て、「(草木の)芽が出たい」と言っているようだと喜ばしく思い、それは同時に人間にも天地にも好ましく“よいこと”だと言祝いだこと、それが“めでたい”という日本語の語源だと言われています。

ですから草木の芽がふくらんでいる今の時期こそ、ほんとうの「めでたい季節」なのでしょう。

その芽出たさをもたらすのは暗く寒い冬にはない“陽の気”で、それは文字通り“太陽の持つ明るい力、気”だと言えますが、それはまた人間にとっても万物を照らす太陽のような明るく優しい気持ちを取り戻すことにもつながる気配だと言ってよいでしょう。

手元にある漢語林(大修館書店)によると、『陽』の字義として、「易の用語。天、春、夏、日などのように積極的な性質を持つもの」「あらわれる、またあきらか」「きよい、すむ」「たかく大きい、貴い」「いきる、また生」などがあると記されています。

弱々しかった太陽の光が生き返ったかのように復活し、それに併せて万物が息を吹き返すように“生き生きと輝き出す”今の季節は、あらゆるものの「生」が蘇り、前向きになれる季節だと古来より感じられていたということは疑いようがありません。

先日(2/5)のこと、私が担当していた合唱講座の皆さんの発表会代わりに、土浦三中地区公民館近くのケアハウスで訪問演奏を行いました。訪問演奏というより、利用者さんたちと一緒に懐かしい歌の数々を歌うという「歌の集い」のような催しでした。

こういう場に立ち会うといつもそうですが、歌い進むうちに利用者さんたちの表情が次第にほぐれ、和やかで柔らかい表情と声に変わり、顔つきまで若々しくなっていくことに気づかされます。私たちも優しい気持ちになっている自分を発見し、つい嬉しくなってしまうものです。

今回はその“愉悦の表情”が顕著で、中には手拍子を打って体ごと歌にとけ込んでおいでの方もおり、みんなで歌を共有できていることが実感でき、いつもより更に深い感銘を覚えました。

そうしたお年寄りにかぎらず、子どもから大人まで、人間には音楽に触れると心の深いところが揺り動かされ、快感を感じる性質がありますが、それは音楽を「よいもの、安心で安全をもたらすもの」と理屈でではなく本能的に感じるからだと言われています。それはまるで、「陽の気」に触れることで、浄化され生を実感し、前向きで優しい気持ちになれている自分を発見することと二重写しになっているかのように考えられます。音楽療法が有効な所以です。

誰のために歌うのでもない、技を磨くために歌うのでもなく、まして競うためでもなく、自分の命の輝きの発露として歌うことで、よりいっそう音楽の世界にひたることを愉しむことができるということと深く関係しているかも知れません。愉しんでいる自分を発見することで、その愉しさがますますふくらむことを実感するのも人間のコアにある本性でしょう。

陽の気があふれる今だからこそ、自らも「陽の気」を発し、発することを愉しんで、互いに影響し合い、歌い合わせることで、より合唱の喜び・歓びに浸ることができるかも知れませんね。