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合唱通信 No.34 2020/06/03

◇ 古関裕而考 ◇

皆さんも毎日楽しみにご覧になっておいでかと思いますが、今年前期のNHKテレビの朝ドラ

は、「昭和の国民的作曲家」と呼ばれる古関裕而さんをモデルにした物語です。初回から高視聴率

で好調なスタートを切り、これから益々面白くなっていくはずなのですが、この度の新型コロナ

感染による影響で、撮影が中断されていると聞きました。これまで撮影済みのものは放送される

ようですが、それも6月までで録画のストックが切れてしまうとのこと。どうなってしまうこと

かと(私は古関裕而の大ファンなのでいっそう)心配が募ります。

そこで、この号はこのドラマ「エール」と古関の実像について書かせていただきます。

ドラマはあくまでもドラマで、視聴者にわかりやすく、端的に主人公の人間像を描こうとしま

すので、虚実入り交じって多少脚色して構成されがちです。このドラマでも、福島県の田舎町で

作曲のおもしろさに目覚めた少年が、独学で作曲について学び、あろうことか国際作曲コンクー

ルで日本人初の入賞を果たすという快挙を成し遂げたと描かれています。

これこそ文字通り“破天荒”なお手柄と言って良いでしょうが、これは事実で、まさに古関裕而

の輝かしい事蹟の一つと言って良いでしょう。

しかもショスタコービッチやストラビンスキーといった著名かつ当時としては前衛的な作曲家

の審査を経たということは、古典的な作曲法を身につけたというにとどまらず、近代的な無調性

音楽などの作曲理念や作曲技法にも触れ、掌中のものとしていたことが窺えます。

作曲は感性と創造意欲があればできるというものではなく、和声学や対位法、楽器論や管弦楽

法などの幅広い音楽理論に精通していることが求められます。どうやら古関の独学は、まったく

の独学ではなく、“ほぼ独学”あるいは“独学ベース”といったもので、独学で得た知識を幾人か

の指導よろしきを得て確かなものとして身につけられていったようです。

その最たる師は、当時の日本の音楽界を席巻していた山田耕筰でしょう。商業学校在学中から

山田耕筰著『作曲法』を頼りに音楽を勉強していたことはよく知られていますが、それにとどま

らず、何度も書簡のやりとりをし、指導を受けていたとも伝えられています。さらに、当時出版

されていた山田の作品集のほとんどを入手し、それらを諳んじるほどに楽譜を仔細に読み取り、

楽曲分析をしていたと言われています。

独学だからこそ生じる多くの疑問を何とか氷解して自分の中に組み込みたいという強い思いが

あるからこそ、幾度もの書簡のやりとりを通して“腑に落ちる”ように自己のものにしていった

のだろうということがよくわかります。

教育界では、「啐啄の機」ということがよく言われます。鳥のヒナが卵から孵ろうとして、卵の

殻を内側からつつくののが“啐”、そのチャンスを外から察して親が卵をつついてヒナが孵る手助

けをするのが“啄”です。雛が孵ろうとするその機をとらえて親が手助けする様子を見て、先人

が『これこそ教育のありようだ』と考えたのでしょう。

学習者が“喉から手が出るほどに欲しい”と思えたそのタイミングで、指導者が絶妙の助言や

指示を施すことで、学習者はよりよく学べるし、自分の欲しいものとして手に入れた“かけがえ

のないもの”として身につけるという意味で、教育界では古くから重視されてきた言葉です。

逆に言えば、学習者が欲しがってもいないのに、外から無理強いして教え込もうとしても良い

結果にはつながらないということですが、この古関の山田との書簡を通しての学びは、文字通り

「啐啄の機」を自らつくり出したことと言って良いかも知れません。

先に、古関の独学を“ほぼ独学”と表現したのは、そのような山田耕筰の教えを受けた事実を

うけてのことですが、古関にはさらにもう一人の師がいたようです。

その人物は、仙台に在住していた金須嘉之進。古関が商業学校在籍当時にハーモニカソサイエ

ティに在籍していたことはドラマでも描かれていましたが、そのハーモニカバンドとともに仙台

中央放送局の記念番組に出演したことを契機として師事した人物です。金須は、正教徒で、正教

の聖歌を学ぶためにペテルブルグの聖歌学校に留学し、そのときリムスキー=コルサコフから

直接に管弦楽法(オーケストレーション)を学んでいたそうです。古関はその金須から、懇切

にオーケストレーションを、しかも古典とは一線を画する近代的なオーケストレーションを学ん

でいて、それが国際作曲コンクールで二位に入賞した「管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』」

に結実したことは言うまでもありません。この作品は、色彩的で斬新なオーケストレーションが

なされていたということですが、残念ながらその楽譜は散逸してしまっていて再現・再演不可と

いうことですが、察するにストラビンスキーの『春の祭典』を彷彿とさせるような斬新な響きと

日本の音楽の美しさが見事に融合されたような、西洋人にとっては新鮮なカルチャーショックを

受けるような内容のものだったのだろうと思われます。

それにしても、このような学びの成果を生んだのは、何よりも自学自習の、しかも独断に陥ら

ない古関の独学に依るものです。そうした意味を込めて“ほぼ独学”“独学ベース”と表現したの

ですが、どうやらドラマではすべて独学と受け止められ兼ねない「独学ばかりが強調」される描

き方がなされていて、少し残念なような気がします。しかし、その“独学”こそ古関の音楽に対

する姿勢や構え、もっと言えば生き方をよりよく表していることは疑いようがありません。

ところで、虚実入り交じっていると言えば、福島三羽ガラスと言われた作詞家・歌手について

もドラマでは同じ小学校の同級生ということになっていますが、実はそうではないようです。

後に作詞家として名を挙げた“大将”は、古関より5歳年上で近所に住んでいた遊び友だちの

野村俊夫のようです。(私は勝手に丘灯至夫と思い込んでしまっていましたが)

野村は、作詞家として「湯の町エレジー」「東京だよおっかさん」「ほんとにほんとにご苦労ね」

「暁に祈る」など、たくさんのヒットを生んだ人物のようです。(「暁に祈る」は古関とのコンビ

で作った曲で、レコーディングで歌ったのは三羽ガラスの一人、伊藤久男です)

伊藤久男は、福島県議会議員の子息で帝国音楽学校で声楽を学んだ歌手ですが、同じ福島県で

も古関の育った福島市とは離れた本宮市出身の恵まれた家庭のお坊ちゃんだったようです。同郷

ではあっても、ドラマで描かれているような“同級生”、“幼なじみ”ではなかったようです。

それでも期せずして同時期に音楽界で活躍した三人は、まさに福島の三羽ガラスと称されるに

相応しい三人だったのでしょう。先に書いた「暁に祈る」の他に、「福島音頭」もこの三羽ガラス

によって世に出た作品で、福島の人々にとっては、誇らしい三人だったのではないかと思われま

す。古関とのコンビで伊藤久男がレコーディングし大ヒットしたのは、何と言っても「イヨマン

テの夜」ではないでしょうか。ハリのあるバリトンで歌われる「イヨマンテ~」は圧巻で、非常

に聴き応えのあるものでしたね。ここで字数が尽きてしまいました。6月から変則的ではありま

すが、練習を再開できるようです。無理をせず、“おそるおそる”注意深く、それでも楽しく合唱

に取り組んで参りましょう。どうぞよろしくお願いいたします。