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合唱通信 No.1 2010/04/14

牛久フロイデ混声合唱団の3年目がスタートしました。

今年も“合唱の楽しさを味わい尽くす”ことをモットーにさまざまな曲に取り組んでいきたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

私は長いあいだ学校教育の中で、音楽専科として子どもたちと音楽にかかわって来ましたが、教科をメンタルな要素だけで名付けているのは音楽科だけだと子どもたちに話してきました。

他の教科、例えば国語や社会などは学習内容そのものを教科の名称にしていますし、理科も「自然の理(ことわり)を科学する」といった具合に学習の内容と方法を直截に教科名としています。

また、技術や美術は「術(テクニック・ワザ)」を身につけることを主眼として設けられた教科であったことが窺える教科名ですし、数学も古くは算術と呼ばれたことを考えると「計算のテクニック」について学ぶことを窺わせます。(もっとも「算」は古来「かんがえる」と訓読されていたことから察すると、単に計算することとだけとらえるのは早計かも知れませんが、それはまた別の機会に)

しかし教科「音楽科」だけは、“音を楽しむ”という誠にメンタルな要素に着目し、それを教科名としているのです。このことは、音楽を学習することの意味を考える際に、すこぶる重要なことだと考えています。

さて、その“楽しむ”ということについて、孔子は論語の中で次のように述べています。

『これを知る者は、これを好む者にしかず。これを好む者は、これを楽しむ者にしかず』

現代語に言い換えれば、『あることについて知っている者は、そのことを好きでしている者にはかなわない。またそのことを好きでしている者でも、それを楽しんでしている者にはとうていかなわないものだ』ということになるでしょうか。あることに通暁するには、楽しんでそのことに取り組むことが一番さ、と言っているのでしょう。

ところで、楽しむと言えば、これは遊びの精神に通じるものがあるでしょう。

五木寛之はその作品『遊行の門』の中で、次のように言っています。

『遊ぶことは、目的をもってすることではない。楽しいから遊ぶのだ。しかし、遊びの中で、人は学び成長していくのである。』

他に目的を持たず、無心で無我夢中で我を忘れて額に汗しながらも楽しく遊ぶからこそ、さまざまなことを学び取れ、身につけていけるのが“遊び”の真骨頂ですが、音楽教育研究で知られている柳生力もその著『感受性はどこへ』の中で同様の指摘をしています。

『目的をもって遊びを行なおうとするとき、遊びは失われてしまうであろう。遊びの夢中と無心と真面目さがもたらす結果の大きさに着目すべきである』

楽しい遊びの重要な意味は、無目的なそれゆえの“夢中と無心と真面目さ”にあるのです。

そう考えた時、徳川斉昭が藩校弘道館に掲げた扁額“游於藝(芸に遊ぶ)”の意味深さがひしひしと伝わってきます。ここで言う“藝”は文武にわたる諸芸のことで、藩校で学ぶ諸々のことを指していますが、遊ぶように学べ、また学ぶことを遊べ、それが人間を成長させるのだから、と

藩校に学ぶ子弟に道筋を指し示す意図をもって書かれた扁額なのでしょう。

合唱という“人間の身体を楽器として”“うたう”営みは、非常に人間的であり、それゆえに心の働きが重要な核として位置づく表現手段ですが、それだけに“音を楽しむ”という音楽の精神を何よりも大切にしたいと思うのです。

歌うことの喜びや歌い合わせる楽しさを知っている私たちですから、まるで遊んでいるかのように無心で無我夢中で真剣に楽曲と戯れる中で、音楽の奥深さや精神性の高さに触れて味わうことができ、またその喜びを深め広げていくことができるのではないかと3年目のスタートにあたってつくづく考えています。