合唱通信 No.19 2014/12/17
◇ 「拙(せつ)」について考える ◇
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はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。
いしよ(一生)のたのみて。ありまする。
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかしさむいてわおかみ。しております。
きた(北)さむいてはおかみおります。みなみ(南)さむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわしおたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま(栄昌様=修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわおかんてもろておりまする。
なにおわすれても。これわすれません。
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上に記した文章は、野口英世に宛てて書いた母シカの余りにも有名な手紙の中の一部です。
文盲だったシカが、『一日も早く我が子に会いたい』という一心で、囲炉裏の灰に火箸で綴ってかなの練習をし、
拙い文章で心のたけを書いたものです。拙いとは言いながら、これほどに人の心に訴える文章はないと言っても
言い過ぎではないほどの切実さで読む人の心に迫ってきます。
美文でもなければ巧みでもない素朴な文章がなぜこれほど人の心を打つのか、読み返す度に涙が流れるのをおさ
えきれないほどに訴える力を持つのか、私たちは謙虚に振り返ってみる必要があるかも知れません。
なぜなら、文章も音楽も共に私たち人間の有効な「表現の手段」だからです。
ところで中国の明代の古典に洪自誠が著した『菜根譚』という書物があることをご存知の方は多いことでしょう。
これは「儒教・道教・仏教」の三教を混交させた、いわば庶民のための「処世訓」という趣の強い書物です。
その中に次のような一文があります。
『文は拙(せつ)を以て進み、道は拙を以て成る』
(文を作る修行は拙を守ることで進歩し、道を行う修行は拙を守ることで成就する)とでもいった意味でしょうか。
ここで言う〝拙〟は、文字通り“つたない”という意味ですが、それ以上に「技巧や修飾を排す」という意味が
濃厚で、「素朴で訥々としている」ことを意味しています。
技巧に走ってしまえば、見かけは立派でも生気を失って味わいのないものになってしまうが、訥々とした語り口の
方が人の心に浸みこんでいくものだ、というほどの意味ですが、表現の極意はここにあるかも知れません。
実は老子にも同じような意味の一文があります。
『大巧(たいこう)は拙なるが若(ごと)く、大弁(たいべん)は訥なるが若し』
(本当に巧妙なものは、まるでへたくそであるかのようである。本当に雄弁なものは、まるで口べたであるかのよう
である)
立て板に水を流すように流暢に話す人の話ぶりには、『ツルツルと次から次へとよくまあ、言葉が出てくるものだ。
しかも計算されたように巧妙に文脈が構成されていて、何と見事なことか』と感心させられることがしばしばですが、
後で考えてみると話の構成の見事さや調子の良さばかりが記憶に残り、肝腎の内容については『さて、あの人は結局
のところ何を主張したかったのか』が曖昧模糊として思い出せないということもよくあります。
話に限らず、音楽でも一見「拙い」訥々とした語り口ながら“きかせる”“歌心にみちた”“共感できる”歌に出
会うことがよくあります。逆にうまくやろうとする歌からは、“作意や衒い”、そしてその向こうに「ごまかし」や
「表現の驕り」が透けて見え、残念な思いをさせられることが多いものです。
「飾らない」「素朴な」表現で、一つの音も、一つのフレーズも、一つの言葉もゆるがせにせず、心をこめて歌う
ことができればその曲に生命を吹き込めること請け合いです。
『訥なるがごとく』歌い、音楽に真摯に大切に向き合おうとする態度は、聴く人の共感を呼ぶことにつながりミュ
ーズの神も微笑んでくれると思うのですが、いかがでしょうか。