合唱通信 No.5 ◇◇ 指揮者と指揮棒 ◇◇ 2010/10/06
オーケストラや吹奏楽など、編成の大きな演奏団体を指揮する指揮者は指揮棒を使って指揮をするのが通常です。指揮棒を使うのは、テンポを示し拍の位置をしっかりと団員に示す必要があるからですが、指揮者の役割はテンポや拍を示して「出を揃える」ということ以上に、表現上のあれこれを指示し、音楽的な表現をめざすことにあることは言うまでもありません。
そこで、微妙で繊細な表情の創出を柱とする合唱では、指揮棒を使わずに身体とりわけ腕や指先のデリケートな動きでめざす表現を団員に伝える方法で指揮をすることが通常です。
もちろん大編成の合唱団を指揮する際には、テンポや拍が全体によく伝わるように指揮棒を使用することがよくありますが、中には40~50人程度の規模の合唱団でありながら指揮棒を使っている指揮者も見受けられます。何ともったいないことか、あるいは指揮の意味について何か誤解があるのではないかと思わされます。
オーケストラの指揮者でさえ、繊細な歌い方を要求する際には指揮棒を横たえ、微妙な指の表情で「言いたいこと」を伝えようとするほどで、指揮棒の動きだけではどうしても伝えにくい音楽のニュアンスを大切にしたいからです。(指揮棒を使わなくても、指揮をすることを「棒を振る」とは言うのですが)
常に同じテンポで、しかも強拍と弱拍をきわだたせて演奏することが要求される行進曲でないかぎり、音楽は「歌うこと」が要求されます。担当する楽器がピアノであれフルートであれ、トランペットであれ、その楽器で「歌う」ことができなければ全体のアンサンブルが音楽的にならないことは言うまでもありません。
「歌う」ということは、とりもなおさずテンポにも強弱にも響きにも「ゆれ」が求められ、ゆれるからこそ聴く側は音楽を感じ取ることができ、音楽の流れに身を委ねて同調することができるのです。どんなに正確な表現であっても、それが機械的な正確さであれば人間はそこに音楽を感じ取ることはできず、芸術的な感興にひたることもできません。
文字通り「歌う」ことで音楽を表現しようとする合唱における指揮は、そうした自在に変化する音楽の「ゆれ」や文脈を体現するために、ことのほか「音楽の表情」「フレージング」を重視しようとします。そこで指揮棒では表現しにくい音楽のニュアンスを手や指、指先の微妙な動きで表現し伝えようとするのです。
合唱指揮で有名なクルト・トマスはある本の中で『拙い合唱団はない。拙い指揮者がいるだけだ』と言っています。その言葉を肝に銘じて指揮の工夫に心がけていますが、その工夫を文字通り“棒に振らない”ように今後とも指揮のあり方を追究していきたいと思っています。
10月はシビックコンサートへの出場という大イベントを控えていますが、フロイデ合唱団が
これまでの練習の成果を発揮して「息のあった合唱」をステージ上で発表できるよう、残された練習時間を充実させていきたいものですが、そのためにも「棒に磨き」をかけたいと思っています。音楽的な表現をめざしてお互いがんばりましょう。