合唱通信 No.2 2010/05/19
合唱に限らず、文学でも美術でも音楽全般でも、表現手段として私たちが持っている表現媒体を考える際、どうしても表現の技術とのかかわりを抜きに考えることはできません。
どのような楽器を奏するにしても、基本的な奏法やあるレベルの演奏技能を身につけることが求められますし、歌うにしても発声法の基礎や声をコントロールする技術、曲想を思い通りに表現するテクニックなどがどうしても必要になるからです。
しかし表現に関する技術は大切なものですが、それがすべてではないことはご承知の通りです。なぜなら、技術は「言いたいこと・伝えたいこと」をより相手にわかってもらうために工夫さ
れ、その都度生み出される手段だからです。「言いたいこと」が何もないのに、小手先のテクニッ
クを弄して表現されるものは、鑑賞者に何の感興も引き起こさない空虚な表現にしかなり得ませ
ん。逆にたとえテクニックは稚拙でも、「言いたいこと」を素朴な語り口で訥々と訴えるものであ
れば、相手の心に響き、共感を呼ぶこともできます。
表現と技術のかかわりを考える時、いつも思い浮かぶのは野口英世の母シカが英世に切々と「お前に会いたい」と綴った手紙です。ここには文章作法も小手先のワザもなく、むしろ間違いだらけの文字による稚拙な語り口ながら、人の心に強く訴えるものがあるからです。
多少読みやすくなるよう、正しい文字遣いで書き直すと次のようです。
(略)
春になると、皆北海道にいってしまします。私も心細くあります。
どうか早く来てくだされ。
早く来てくだされ。早く来てくだされ。早く来てくだされ。早く来てくだされ。
一生の頼みであります。
西さ向いてはおがみ、東さ向いてはおがみしております。
北さ向いてはおがみおります。南さ向いてはおがんでおりまする。
には塩断ちをしております。英昌様(僧侶の名前)ににはおがんでもろておりまする。
何を忘れても、これ忘れません。
早く来てくだされ。いつ来るとおせて(教えて)くだされ。
これの返事待ちておりまする。寝ても眠れません。
これを読む度に、私は目頭があつくなるのですが、人の心に届くのは小手先のワザでは決してなく、「言いたいこと」を自分の言葉で、すなわち手垢の付いた表現でではなく心から紡ぎ出された素直な心情の吐露だ、ということの証だと思っています。
それは文章に限らず、音楽についても言えることだと思っていますが、音楽の指導者の中には、技術さえ身につければ何とかなると思い違いをしている人も少なくないのも事実です。
アメリカの著名な音楽学者、マーセルは音楽的な能力について次のように言っています。
『それは、ア、音楽的識別力、イ、音楽的洞察力、ウ、音楽的意識、エ、音楽的自発力、
オ、音楽的知識・技術のことである』
ここで見るように、「知識・技術」は音楽的な能力のほんの一部でしかなく、それも最後に挙げられていることからわかるように、他の4つの能力より重要さは稀薄だと言うです。
しかも、マーセルは、ここに挙げたア~エの能力(識別力、洞察力、意識、自発力)とオの能力(知識・技術)の間には、ほとんど相関関係は見いだせないと言うのです。つまり、知識や技術を身につけたからと言って、音楽的な能力を構成する他の重要な力が伸張するわけではなく、技術を駆使したからと言って音楽的な表現にはならないと指摘しているのです。
私たちは、見事な響きの声で正しい音程で歌うのを聴くと、それだけで『うまい!』と思ってしまいがちですが、「言いたいこと」を抜きにした発声法やテクニックだけに頼った空虚な表現では「音楽的」な表現とは言えず、また聴き手の心に届くものにはなり得ないのだ、ということを銘記すべきだと常々思っている次第です。