合唱通信 No.6 ◇◇ “音楽をつくる”について考える ◇◇ 2010/11/10
以前NHKの教育TVで放送されていた「ピアノレッスン」を見ていて違和感を覚え、『それでよいのだろうか』と音楽の指導について改めて考えさせられ、未だに持ち続けている疑問があります。シリーズで放送されていたそのレッスンは、有名な外国人ピアニストが毎回違った学生を指導するというものでした。ベートーベンやショパンの曲をレッスン曲として取り上げ、学生が弾くピアノ演奏を聴いて、その指導者が過ちを指摘し、『こう弾くべきだ』とタッチやアーティキュレーションについて自らピアノを弾いて聴かせ、学生がその演奏をモデルにしてそのフレーズの弾き方を練習するという内容です。
その様子を見ていて奇異に感じたのは、その指導者が『こう弾くべきだ』『それではいけない』と言うばかりで、なぜそう弾いた方がよいのか、違った弾き方(タッチやテンポ、歌い方)をしてしまうとその曲の何が損なわれてしまうのか、ということについて何も語っていないことに気がついたからでした。すなわち“指摘の根拠”を何も示さないことを音楽の指導と呼んでよいのか、学生はそこから何が学べるのか、という素朴な疑問を感じたのです。このレッスンを受けた学生が身につけることができたのは、その曲のそのフレーズを演奏する時の「弾き方」だけであり、他の曲を演奏する際の「曲の解釈の仕方」やそこから生じるはずの「その解釈にふさわしい表現技法の創出」ではないはずです。これでは彼もしくは彼女たちが長じて指導者になった折に、彼らの弟子に伝えられることは“自分が教えてもらったこと”の範囲を出ず、私はそう教えてもらったのでそれが正しいはずだ、だからそう弾きなさいという「指導にならない指導」しか展開できないであろうことは火を見るより明らかです。
音楽には歌であれ器楽であれ、『こう歌わなければ(演奏しなければ)ならない』という束縛や決まりはなく、あるのはその楽曲の正しい解釈に基づいた『この方が望ましい』という考えです。
そこで指導者にとって必要となるのは、この曲のこのフレーズはこう歌った方が望ましいと考えているが、それはこうした理由からだ、という根拠を示すことを柱としたメッセージを極力伝える努力をすることだと思っています。
「極力」と書いたのは、音楽や美術などの芸術では、言葉で言い尽くせないことが多々あるからですが、それでも学生に「音楽について考えることで以降の音楽づくりに役立つ」何事かを伝える努力をすることが指導観のベースになければならいだろうと考えるからです。
しかもそこでは難しいことをわかりやすく伝えることが必要で、それでなくても難しい音楽表現のあれこれを権威付けのために摩訶不思議な呪文のような文言で表現し、煙に巻くようなことをしてしまっては学生の音楽的な育ちに良い貢献などできないでしょう。
こう書いてきて思い出すのは北辰一刀流の開祖、千葉周作のことです。それまでの剣術指南は、自らの流儀にいやがうえにも権威を持たせ、もったいぶって尊大に見せるために、禅や密教などの用語を用い、用いるばかりでなくその修業内容や方法を取り入れ、難解でしかも意味のない虚仮威しのような指導に終始することが多かったと言われています。『お前の剣には魂がこもっていない』といった具合の抽象的な指摘をされたところで、弟子はどうしてよいか戸惑うばかりでしょうし、恐れ入るばかりで剣の上達はますます遠のくことでしょう。
ところが、千葉周作は農民や商人、子どもにでもわかるような言葉で具体的にワザについて解き明かし、わかりやすく説明しながら指導をしたために、他の流儀なら10年かかるところを3年で習得できると評判がたち、評判が評判を呼んで江戸末期の一大流派となったと言われています。
音楽でも『こころを込めて歌おう』などとひどく抽象的でわかりにくいことを言って、学習者を困らせるケースがないわけではありません。どうすれば“こころを込める”ことができるのか、どうしたら“こころを伝える”表現に近づけるのかを「ことをわけて」伝えるのが指導者の務めで、そういう過程を通して学習者は「音楽のつくり手」として独り立ちしていくのだと思うのですが、それはなかなか難しいことだと、この40年の自分を振り返って思うばかりです。