合唱通信No.24 2016/06/18
◇アマチュアだからこそ◇
このところ、柳宗悦が提唱した民藝運動について改めて考えています。いわゆる芸術家の手による作品ではなく、
無名の工人が生み出した「日常的に用いるために作り出された作品」の持つ“用の美”、そこに芸術的な価値を見出
し見直すことを提起した芸術運動です。
端的に言えば、生活の中で「使われること」を目的に作られた品々が「使われること」によって本来の美やよさを
発揮する中に生きた価値を見出そうとするものです。
私は学生の頃には、若さにありがちな稚気から「芸術至上主義」と言って良いほど、芸術のための芸術をめざすこ
とが重要だし、それでなければ意味がないという狭い価値観にとらわれていました。
いわば、たとえ使い勝手や手触りを無視しても、作者の創意が生かされ、鑑賞することを目的とした茶碗があって
も良いはずだし、新しい価値(芸術としてのよさ)を持つものを創出することが芸術活動の最大の意義で、そこに庶
民の手が入り込む余地があろうはずもない思っていたのです。
しかし茶碗はもともとお茶を注いで、掌にしっくりとなじみ、飲んで飲みやすく、お茶のおいしさを味わうための
“うつわ”だったはずで、使うほどに「うつわ」としての味わいが増し、“茶を喫することのよさや愉しみ”をそこ
はかとなく感じることができることこそ重要な機能として持っているはずです。
使われることなく鑑賞されるだけの茶器は、茶器としての機能を持たない、あるいは希薄だという意味で、もはや
茶器であることを放棄してしまった鑑賞のための品だと言って良いとも思えます。
茶器にかぎらず、使いやすさを優先させた生活のための道具に与えられた意匠であっても、そこには名もない庶民が
凝らした見事な工夫によって、生活に根づく「美」や「巧みさ」「存在感」を持つものが多く見つかります。
その中に透徹した厳しいまなざしで芸術性を見いだし、価値を認めたのが民藝運動だと言えます。
民具の多くは、雪に閉ざされた長い冬の農閑期に、きたるべき次の年の農事や山仕事、生活用品として使うために
生み出されたものが多いと考えられます。そうした作業の中で、機能だけでなくより楽しく使うための工夫を凝らそ
うとしたのでしょう。見事な造形や模様などの意匠による「つくること」「編み出すこと」「工夫を凝らすこと」も
楽しんで作ったに違いない、と思われる道具がたくさん見られます。
どうやら人間は、モノゴトに真っ正面から向き合うと、そしてそのことに費やす時間のゆとりがあるといっそう
“よりよさ”をめざしたくなる、という傾向を強く持っているようです。
女性の手仕事から生まれた刺し子の緻密な模様、竹細工の見事な造形、山ブドウやヒロロ、スゲで編まれたザルや
カゴに施された美しい模様など、頑丈さや使いやすさといった機能とは一見かかわりのない美的な工夫に力を入れた
のも、そうした傾向を持っていることの証でしょう。
なんと言っても、長い冬ごもりの生活です。時間はふんだんにあったのですから・・・。
そう考えたとき、アマチュアの合唱団である私たちの活動と似通った側面があることに気づかされます。一つ一つ
の曲に長い時間をかけて向き合い、ついつい「よさ」を志向してしまうこと、さまざまな表現の工夫を試みたくなる
こと、それを追求できることがプロの演奏家にはないアマチュアの特権、メリットだと言えます。
私たちはそのことに誇りと喜びを感じ、それを楽しみながら活動していきたいものですね。