[調査報告]日本におけるサウンド・アートの系譜学:神戸ジーベックホール(1989-1999)をめぐって:その1――『Sound Arts』誌(1992-1998)の場合――
中川克志(横浜国立大学)
(ここで公開している論文たちには校正での訂正が反映されていない部分があり、実際の掲載稿とは若干相違があります。また図版は掲載していません。引用などの場合、必ず、公開された原文をご参照ください。)
1.はじめに
ジーベックホールは1989年5月に「音の情報発信基地」あるいは「音のショールーム」として設立され、その後およそ10年間に渡り、1990年代の関西におけるアヴァンギャルドな音響芸術の拠点の一つとなった。株式会社ジーベックは、そもそも、神戸ポートアイランドに建設された業務用音響機器と映像機器の専門メーカーTOA社の本社ビル1-2階のオープンスペースを管理する子会社として設立された。オープンスペースは、300席のホール、100平米のスタジオ、4つの録音リハーサル用ブース、54個のスピーカーシステムを設置したホワイエ、カフェからなる施設だった。ジーベックホールでは、企画制作プロデュースを担当した下田展久氏(以下、諸氏敬称略させていただく)を中心に、当時の関西でアヴァンギャルドな音響芸術に関わっていた主要人物の多くが関わりながら、「人、音、空間」をテーマに自主プロデュースの活動が行われた。1993年にまとめられた冊子(ジーベック1993)によれば、1989年には9個、1990年には29個、1991年には32個、1992年には35個の事業が行われた。これは冊子に記載されている事業数であり、一週間に渡る展覧会もシリーズ物の各回もいずれも一個として数えている。連日連夜ではないにせよ、継続的に何かが開催される場所だったと言えるだろう。
ジーベックホールの杮落としには、ブライアン・イーノによる音と光のインスタレーションが発表された。その後も多くの現代音楽あるいはアヴァンギャルドな音響芸術のアーティスト、ミュージシャン、作曲家が参加した。小杉武久、塩見允枝子、高橋悠治、鈴木昭男、吉村弘、藤枝守、藤本由紀夫、美音子グリマー、カール・ストーン、中村滋延、髙橋アキなどである(ジーベック1993より人名を適宜ピックアップ)。そこでは「現代音楽、サウンドアート、世界音楽、コンピュータ音楽やメディアアートのプログラムが中心だった」(トークイベント2018)が、中川博志のキュレーションによるアジアの音楽あるいはインド音楽に関連する事業も活発に開催されていた。イベントの開催頻度や街中からのアクセスのしやすさは異なるし、バブル期とバブル崩壊以降という時代背景の違いも大きいが、企業がスポンサーだったという点で、90年代関西におけるジーベックは本誌第7号で報告した1980年代のスタジオ200に比肩する場所だと言えるかもしれない(金子・中川 2015)。スタジオ200もまた、アヴァンギャルドな音響芸術のみならず落語や映画上映会なども開催する場所だった。
ジーベックホールに関与していた人々の多くは、今なお、あるいは今こそ精力的に活発な活動を展開しているため、90年代ジーベックホールの活動については十分に整理されているわけではない。歴史化するには早すぎる近過去なのだ。しかし私は、日本における音のある芸術の軌跡を実証的に調査する「日本におけるサウンド・アートの系譜学」の一環として、1990年代の日本とくに関西における「サウンド・アート」の拠点の一つであるジーベックホールの活動について基礎資料を確認整理しておきたい。また、ジーベックの活動は、90年代日本における「サウンド・アート」なるジャンルあるいはラベルの意味内包を明らかにすることに貢献するだろうとも見込んでいる。
とはいえ、残念ながら現段階では私はまだジーベックホール周辺の人々のインタビュー調査やアーカイヴ調査を十分には行えていない。参照可能な資料も参考文献に記したものしかなく、つまり、調査状況は不十分である。そこで以下では、現段階で可能な調査報告として、ジーベックホールの機関誌『Sound Arts』誌(以下SA誌と略す)の内容を概括的に報告しておきたい。おそらくこの機関誌は、日本で「サウンド・アート」という言葉を(逐次)刊行物のなかで明示的に使用した最初期の事例である。この機関誌において「サウンド・アートとは何か」といった議論が行われた訳では無いが、「サウンド・アート」あるいは「sound art」という言葉がどのような対象を漠然と指示するために機能していたのか、ということを示す事例として、SA誌の事例を検討しておきたい。
2.位置づけ
2.1.概要
SA誌は1992年4月に0号が発刊され、同年6月に1号が発行された後しばらく発行が滞り、1995年1月17日の阪神淡路大震災をきっかけに復刊し、1995年4月30日に第2号が刊行された。以後、2-7号は隔月で、その後は年4回程度のペースで発行し、1992年11月30日発行の17号が最後だった。内容については次章で詳しく説明するが、インタビューが多く、日英バイリンガルで発行されていた。海外からジーベックに来たアーティストやミュージシャンをきっかけに、海外の研究者や批評家の記事が掲載されることにつながったようだ(下田2011)。雑誌だけが有名になりタワーレコードに置かれたこともあったし(下田2011)、IRCAMにも送られていたらしい(オンラインイベント2020)。英語版は、音楽家カール・ストーンのウェブサイトで公開されている(SA_en)。
2号以降のSA誌の編集は「下田展久、森信子、溝口治子」とクレジットされており、1992年の0-1号と復刊後の2号が表裏表紙と14ページ、それ以降の3-17号はすべて表裏表紙と18ページ、という分量である。0号は日本語版と英語版に分けられており、2号以降は18ページの冊子が各ページ2列に分けられて日英バイリンガルで記載されている(1号のみ英語版がない)★★★画像「2号表表紙」★★★。
本調査報告では「SA誌」と記載するが、半角空白の有無と複数形であることについて補足しておく。購読方法のお知らせ欄には「サウンドアーツ SoundArts」と半角空白無しで表記されるが、目次や表紙では「Sound Arts」と半角空白有りで表記される場合も多く、後年の下田へのインタビューでも半角空白が挿入されている(下田2011)。本調査報告では「sound」と「arts」の間の半角空白の有無にはこだわらないことにする[1]。また、ここでは「Sound Arts」と複数形で記載され、カタカナでも「サウンドアーツ」と記載されている(1号表表紙など)。英語でも日本語でも複数形で記載する事例はあまりないが、これはおそらく、様々なタイプのアヴァンギャルドな音響芸術を呼称するために複数形を採用しているのではないかと思われる。
2.2.自己規定
ジーベックホールは、自主イベントなど様々な活動を維持発展させるために「ジーベック・サウンド・カルチャー・メンバーシップ」という会を設立した。そもそもSA誌はその会報誌として始まった。SA誌0号(1992年4月)の表表紙にはこう書かれている。
「…ジーベックホールではパッケージ化されてしまった所謂「音楽」という既存のアートフォームにとらわれることなく音というメディアの可能性を様々に捉え、自主催事として、紹介を続けてきました。…この『豊かな聴覚生活を社会に提供する』という宣言をさらに実現して行くためにメンバーシップ制度が加えて開設されることに成りました。完成された作品の鑑賞だけでなく、現在のアートシーンのフロンティアをアーティストと共に考えていく目的でワークショップ、レクチャー等の特別プログラムが用意されます。サウンドアーツはこのメンバーシップの為の冊子であり、TOAのマニフェストに賛同する世界のアーティストネットワークと、社会との新しいコミュニケーションメディアとして誕生しました。 1992年2月 SoundArts編集者」
ここから、ジーベックホールでの活動が「音というメディアの可能性」を中心においていたこと、ただしポピュラー音楽(つまりパッケージ化された音楽)は念頭に置いていなかったこと、また、おそらくは、単なる音響的なアヴァンギャルドだけではなくより広く「現在のアートシーンのフロンティア」をも念頭に置いていたこと、が読み取れるだろう。この会の目的は「講座やイベントを通じて『音の文化』について自由に討議、鑑賞するための便宜を図ること」であり、入会金と年会費を支払った会員の特典は、ワークショップやレクチャーを受講できること(参加費別)、SA誌を定期購読できること(無料郵送)、ジーベック自主イベント20%チケットオフ、だった。
また、SA誌0号(1992年4月)と1号(1992年6月)の表紙には、アートのジャンルを想起させるフレーズが羅列されている。0号と1号の記述は多少異なるが[2]、1号の方を参照しておくと「op, new music, kitsch, midi, ambient music, pop, hyper, sampling, installation, kinetic, performance, sound space, computer music, audio art, cybernetics, conceptual, minimal music, sound object, improvisation, chance operation, sound sculpture, experimental music」と記載されている。これが何かという説明はない。おそらく、これらの言葉から形容、想起、連想されるアヴァンギャルドな音響芸術を総称する言葉として、「サウンド・アート」というラベルが使用されたのではないか、と推測しておきたい。これらのラベルをより詳しく見てみると、次のように分類できる。
(1)soundやmusicといった言葉が最初から付けられているもの:new music, ambient music, sound space, computer music, audio art, minimal music, sound object, improvisation, chance operation, sound sculpture, experimental music
(2)soundやmusicといった言葉を補えばそこで想定されているだろうアヴァンギャルドな音響芸術あるいは現代アートが予想できるもの:pop, installation, conceptual
(3)想定されている対象がよく分からないもの:op, kitsch, midi, hyper, sampling, kinetic, performance, cybernetics
である。(3)(と(2))はartという言葉を補うと、何らかのタイプの現代アートが想起される言葉が多い(が、kitschとmidiという言葉は、どう理解すべきかいまいち分からない)。ともあれ、これらの言葉から連想される複数のアヴァンギャルドな音響芸術を「サウンド・アート」というラベルで呼ぶために、SA誌は「sound arts」という複数形を採用したのではないか、という推測を提示しておく。
2.3. 2号以降のSA誌
0号(1992年4月)と1号(1992年6月)の後しばらく発行が滞っていたSA誌が、復刊して2号(1995年4月)を発行したのは、1995年1月17日の阪神淡路大震災がきっかけだった。第二期埋め立て工事中だった人工島のポートアイランドでは、三宮や長田ほど壊滅的ではなかったにせよ液状化現象などの甚大な被害を受けた。ジーベックホールのあるTOA社ビル本体はほとんど被害を受けなかったとのことだが、それでも、ガスや上下水道のインフラは止まり、電気系統の設備も漏電等の被害を受け、何より交通アクセスが甚大な被害を受けた。市街地とポートアイランドを結ぶポートアイランド線の運転再開は7月31日と当初予定より一ヶ月早かったが、それでもSA誌3号(1995年6月)発行時にはまだ鉄道網は復旧していなかったわけだ。SA誌2号の表表紙にはこう書かれている。
「こんな時[大震災の後]に、ジーベックとして何が出来るのでしょう? 人間が作ったもの、ビルや道路、橋や港は壊れてしまいました。いくら気に入った食器でもきっといつか割れてしまうのです。陶芸家は割れるものを作り続け、建築家は建物を作ります。壊れては作り、作っては壊れる。なぜ壊れてしまうものを何度も作るのでしょうか? 今年は、コンミュの力を借りBBS上での活動を行い、また遅れに遅れて罪の意識に苛まれ続けてきたSoundArtsもニュースレターとして発行していきます。人間の創造力に関わる仕事を持てたことに感謝して、みなさんとのコミュニケーションを進めていきたいと思っています。」
こうして2号以降SA誌はある種のコミュニティ維持という役割を担いつつ、定期的に刊行されることになった。
「コンミュ」とはパソコン通信上のBBSであり、そのBBSでSA誌を読むこともできた。9号(1996年9月)以降は「岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー(IAMAS)の全面的支援によって、コンミュがファーストクラスのBBSに発展し」た。「ファーストクラス」とはおそらく、元はSoftArc社の製品でパソコン通信上のBBS管理システムとして広く使われたサーバー・クライアント型のグループウェアだと思われる。9号(1996年9月)以降はIAMASのサーバーをホスト局として、個人のパソコンと通信回線を用いてデータ通信を行うようになったわけだ。日本におけるパソコン通信の全盛期は80年代後半から90年代で、Windows95が発売された1995年以降の日本ではパソコン通信よりもインターネットが一般化しつつあったはずだが、SA誌のコミュニティを支える基盤としてパソコン通信が選択されたのは、その時期ならばまだ、先端的な技術に早くから関心を持っていたような人々はインターネットではなく旧来からあったパソコン通信に先に習熟していたからかもしれない。ジーベック周辺の人々のインターネット・リテラシーを示唆する事項といえようか。
3.記事の分析
3.1.傾向
SA誌0−17号には合計116個の記事があり、各号6-7個の記事が掲載されていた。記事の傾向は大まかに5つに分類できる。それぞれ
1.アヴァンギャルドな音響芸術の紹介:43記事:インタビュー記事が多く、高橋悠治や鈴木昭男など当時すでに有名だった人物だけでなく、当時は日本ではまだほとんど知られていなかった海外アーティストも多い。
2.アヴァンギャルドな音響芸術の場所、機会、施設の紹介:19記事:藤枝守による当時計画中だった環太平洋諸国で開催されたSoundCultureというフェスティバルの紹介報告や、当時設立準備中だったICCの紹介など。
3.アヴァンギャルドな音響芸術でもポピュラー音楽でもない音楽の紹介:5記事:インド音楽や仏教音楽(声明)に関する記事が少数あった。
4.論考:22記事:音楽に関する歴史的考察や哲学的考察。連載記事が多かった。
5.ジーベックホールの活動の紹介:27記事:ジーベックホールによるワークショップやレクチャーなど自主企画の報告記事。
である。以下、もう少し詳しく紹介しておこう。
3.2.詳細
以下、丸括弧内の数字は号数を示す。[]内は現在よく使われる日本語表記である。また、QRコードで示したリンク先(「SA誌記事目録へのリンク」)に、各号に掲載された記事リストを掲載しておく。リンク先は私の個人ウェブサイトだが、将来的には、機関リポジトリかresearchmapなどより公的な場所に公開しておく。
1.アヴァンギャルドな音響芸術の紹介
1にはインタビュー記事、本人執筆記事、人物紹介記事がある。インタビュー記事は、高橋悠治(2,3,4)、鈴木昭男(5,6,7)、赤松正行(2)、カール・ストーン(5,8,9)、チャールズ・アマカニアン[アマーカニアン](10,11)、ジョエル・レアンドル(10)、三輪眞弘(12,13)、ダグラス・カーンによるボブ・オスタータグ[ボブ・オステルターグ](12)、デビッド・グラブス[グラッブス](13,14)、ブッチ・ローバン(14)、マイケル・ロビンソン(15)、坂出達典(15)、ヨハネス・シスターマンス(16)である。本人執筆記事は、塩見允枝子(0, 7)、デヴィッド・トゥープ(6)、ノラ・ファーマン(0)、嶋本昭三(16)、うすいひろこ(17)、である。人物紹介記事には、吉村弘(1)、Kukan Archive(4)、フェリックス・ヘス(1)、HACO(5)、小杉武久(8)、ダニエル・レンツ(9)がある。インタビュー記事では中川真の貢献が大きい。「a sound & art vision」と題して多くのアーティストのインタビューが公開されている。ピエール・バスティエン(3)、ピーター・ボッシュ(4)、シモーネ・シモンズ(4)、ペーター・フォーゲル(5)、エリック・サマク(6)、ジョー・ジョーンズ(7)である。
ここで注意を促しておきたいことは、SA誌で紹介されたのが日本への最初あるいは最初期の紹介となった人物が多そうなことである。中川真がインタビューしたアーティストに加え、フェリックス・ヘス(1)、チャールズ・アマカニアン[アマーカニアン](10,11)、ダグラス・カーン(12)、ボブ・オスタータグ[ボブ・オステルターグ](12)、デビッド・グラブス[グラッブス](13,14)らはSA誌が初出ではないか。また、ジョー・ジョーンズ(7)やチャールズ・アマカニアン[アマーカニアン](10,11)はそれぞれフルクサスと音響詩周辺のアーティストとして重要だが、彼らに関する日本語資料は2020年代においてもほぼないので、このインタビュー記事は貴重である。後に別の経路で日本に紹介されたアーティストも多いが、その際にSA誌からの影響が直接的あるいは間接的にどの程度あったかは不明である。まったく無関係な事例も間接的にはSA誌を通じて名前が知られていた事例も多いだろう。当時のSA誌読者はこれらの記事をどのように読んだのだろうか。
特筆すべき記事として嶋本昭三「僕の前衛音楽」(16)を挙げておきたい。具体美術協会を代表するアーティストが、小杉武久や刀根康尚らによるグループ音楽(1960年結成)以前の1958年に、アヴァンギャルドな音響芸術(「具体音楽」!)を制作していた(が途中で放擲した)というエピソードは、この「具体音楽」が同時代にも後の世代にもほぼ何の影響も与えていないのでアヴァンギャルドな音響芸術の歴史にとっては脚注でしかないかもしれないとしても、その先進性と「具体音楽」というその名称から、大いに興味を掻き立てられる。SA誌以外ではほとんど語られていない事実ではないだろうか。
2.アヴァンギャルドな音響芸術の場所、機会、施設の紹介
環太平洋諸国で開催されたSoundCultureというフェスティバルの紹介(0)と報告(8)、1997年完成予定のICCについての紹介(3)と開館報告(12)、鈴木昭男が開催した「サウンドアート・フェスティバル」である「古代の丘のあそび」の報告(9)、ベルリンで行われたゾナビエンテの報告(10)、群馬県桐生市のアートスペース「有鄰館」の紹介(11)、内橋和久が開催していたフェスティバル・ビヨンド・イノセンスに関する内橋かえによる紹介(13)、コンピュータ・ミュージック・アンデパンダンに関する上原和夫による報告(14)、「In the Eye of the Ear ~サウンドアート・フェスティバル」なるイリノイ州シカゴで開催される音のフェスティバルの紹介(15)、「レゾナンス107.3FM」というラジオ・アートのフェスティバルの紹介(16)があった。ジーベックホールと同じ様に、パッケージ化されていない音というメディアの可能性を様々に捉えようとする場所を紹介したい、という意図が感じられる。
3.アヴァンギャルドな音響芸術でもポピュラー音楽でもない音楽の紹介
記事としては、櫻井真樹子という女性声明家による「artist’s view 唱えることによって現れてくるもの」(2)という記事と、中川博志「インド音楽と日本音楽の接点〜七聲会をめぐること」という連載(8-11)があるだけである。ただし、トークイベント2018やオンラインイベント2020では、ジーベックホールがある種のコミュニティとして機能するにあたって中川博志という人物の果たした役割の大きさが随所で感じられた。中川博志はインドから帰国してまもなく、ポートアイランドを散歩中にたまたまジーベックホールを発見し、それ以来、ジーベックでたくさんの企画を行うようになったらしい。SA誌における記事の露出は多くないが、かなり自由に様々な企画を実現できたジーベックホールの諸活動を考えるうえで重要な人物であるようだ。
4.論考
藤本由紀夫による「二十世紀の音と芸術」という連載記事(0,1)(英語版では「Sound Art in the 20th century」)があり、それぞれ「vol.1ティンゲリーの音」(0)と「vol.2未来派と音楽」(1)という副題が付けられていた。また、中川真とともに京都国際現代音楽フォーラムを企画運営していた藤島寛による「ヨーロッパのエレクトロアコースティック・ミュージック」(3-7)という連載があり、それぞれ「モダニズムの音楽」「アンチ・モダニズムとしてのエレクトロニクスの使い方」「サウンド・アートへの期待」「シュトックハウゼンを超えて」「もう一度光を」という副題が付けられていた。これは前衛音楽の歴史からサウンド・アートの出現の意義や意味について考察しようとするものだった。また、佐近田展康による「音楽以前の音楽テクノロジー論序説」という連載記事(14,15,17)では音楽をめぐる技術哲学的な考察が展開され、連載が掲載されなかった16号には赤松正行による「ネットワークと仮想空間から聞こえる音」という、インターネット技術を駆使する作品を紹介する記事が掲載された。また、藤枝守による純正律を紹介する記事(10,15)や巻上公一によるトゥヴァでのホーメイ・フェスティバルに参加した報告などもあった(13)(後者は2に分類すべきかもしれない)。
5.ジーベックホールの活動の紹介
これは会員規約や編集後記などだが、ほぼ毎号、その参加が会員特典でもあった「イブニング・ティー・パーティー」の様子が報告された。参加者は10名に満たないことも多かったようだが、音楽療法士養成講座で研修中だった人物を囲んで談話会を行ったり、坂出達典によるラジオを使ったパフォーマンスが行われたり、スピーカーを聴き比べたり、古典調律について調律師から話を聞いたり、ジーベックでパフォーマンスを行ったヨハネス・シスターマンスがプレゼンテーションを行ってくれたりしたことが記録されている。
印象深い記事として、岩淵拓郎「だからそれはなんなん? 〜パーソナルミュージックパーティー報告」(17)がある。これは、「あなただけの音楽をもってきてください」という言葉を唯一のコンセプトとして1997年5月から2ヶ月に一度開催されてきた「パーソナルミュージックパーティー(PMP)」なるものについて、参加者の一人である岩淵が(なぜか女子高生二人の会話形式で)紹介する記事である。これによれば、参加者のなかで最高齢だった坂出達典がスピーカーとマイクをスプリングで接続した装置を使って音を生成したり、「銀色のマスクかぶった宇宙人みたいなのがいっぱい出てきて」「白い布かぶって寝ながら演奏」したり、Ken Kohdaが「果物に銅板を差し込んで電気を発生させそれをマッキントッシュによって音に変換」する「フルーツ電池」を発表したり、「篠原さん」は19個のスピーカーと卵を使ってスピーカーのスイッチを入れたら「ビィー」って音」が出るので「卵一つずつ割って、中身をスピーカーに入れていく」と「ガァーってやってるうちにそれがメレンゲにな」ったり、岩淵拓郎が20個の小型スピーカーを鑑賞者の皮膚に装着したり(岩淵はパフォーマンス終了後スピーカーを取り付けた鑑賞者に「すんませんでした」と謝罪したらしい)、といったことが行われたらしい。この試みは、プロやアマチュアとの境界線や、普通の音楽とアヴァンギャルドな音響芸術との境界線を溶解させ、音楽実践あるいは音響実践を拡大させようとする試みであるように思われる。ということは、類似事例として、1960年代の政治的背景を踏まえた集団即興演奏の実践――ムジカ・エレットロニカ・ヴィヴァ[Musica Elettronica Viva]やタージマハール旅行団――を想定しても良いかもしれないし、あるいはおそらくは、ジャズのライブハウスでよく行われているタイプの飛び込み参加歓迎のジャム・セッションを想定すべきなのだろう。とはいえ、ここでは、まったく類型化されていない音響芸術が披露されていたわけで、それぞれが個別化されていたパフォーマンスがどのようにある種の共同体を構築し得たのか、あるいは、そこで披露されていたパフォーマンスにはやはり何らかの共通点があったのか、といった疑問が生じるだろう。つまり、このPMPは、アヴァンギャルドな音響芸術に基づく共同体の構築可能性の問題を考えるうえで、様々な点で非常に示唆的な事例なのだ。
4.まとめにかえて
最後にSA誌の位置づけについて2点指摘し、1点課題を提示しておきたい。
まず、SA誌は国会図書館になく、現在では参照しやすい資料ではないため、直接的に次世代に影響している訳では無い。ただし、当時SA誌を購読していたり関わっていたりしていた世代の多くは、今(2020年代)まさに油の乗り切った、あるいは各自の活動の集大成をすべき年代である。つまり、SA誌の影響力は、SA誌を購読していた世代には直接的だが、次世代には間接的である。
第二に、そのようなものだとしても、SA誌は1990年代日本における「サウンド・アート」という概念の内包を教えてくれる可能性がある。あるいは、当時の「サウンド・アート」という概念を構築した可能性がある。サウンド・アートとはその定義や対象を規定できたりそれを担う歴史的運動体があったりするジャンル概念ではなく、時代と文脈によってその指示対象の異なるラベルである。それゆえ、SA誌における「サウンド・アート」は(それは複数形でもあるし)、1990年代日本(あるいは関西)における様々なサウンド・アートなるものの全体像を(漠然とかもしれないが)参照指示するもの、と考えることができるだろう。つまり、新しい音楽、ゲンダイオンガク、藤本由紀夫、鈴木昭男、インド音楽、声明などを包括的に「サウンド・アート」として理解する経路が存在したことを、SA誌は教えてくれるかもしれない。
だとすれば、SA誌において1990年代の日本を席巻していた渋谷系やJPOP、あるいはジャズやクラブミュージックが参照されていないことは不思議ではない。対して、2020年代の視点からは、同時代の関西における「アヴァンギャルドな音響芸術」の一翼を担っていたように思われる難波ベアーズ界隈の動きが、SA誌では参照されていないことは、私には少し不思議にも感じられる。とはいえ、こうした「サウンド・アート」表象のさらなる分析は今後の課題である。
以上、神戸ジーベックホール(1989-1999)が発行していたSA誌に関する調査報告を終える。これはジーベックホールの諸活動に関する調査の現段階における途中報告であり、今後いくつかの調査報告を予定している。
参考文献
ジーベックホール関連資料
1.「SA誌」と記載
ジーベックホール機関誌『Sound Arts』vol.0-17
vol.0-1のクレジットは「編集長:広田均、スタッフ:下田展久、クリストファー・スティブンス、広瀬美紀、溝口治子、和田忠 発行:(株)ジーベック」である。
vol.2-17のクレジットは
「編集:下田展久、森信子、溝口治子
編集協力:コンミュ・テレプレゼンス・ラボ、(vol.2のみ「伊藤祐子」の記載あり)
翻訳:クリストファー・スティヴンズ
デザイン:和田忠(チャンス・オペレーション)
発行:(株)ジーベック」である。
2.「ジーベック1993」と記載
ジーベック(企画・編集) 1993 『ドキュメント・オン・ジーベック:2010年人・音・空間の遠心力』 兵庫: TOA。
3.「下田2011」と記載
阪神・淡路大震災 + クリエイティブ マッピング プロジェクト 2011 「ニューズマガジン「Sound Arts」下田展久さん/ジーベックホール(当時)、C.A.P.メンバー」 松本ひとみ(テキスト) https://tm19950117.jp/interview/50/ 2011年10月12日発行、2023年9月14日アクセス。
4.「トークイベント2018」と記載
2018年1月21日に芦屋市立美術博物館で開催されたトークイベント「90年代の神戸の音の実験 ~XEBECの試み~」
:登壇者は藤枝守、下田展久、HACO、中川博志(チラシ記載順)
5.「オンラインイベント2020」と記載
C.A.Pによるオンライン特別講座「神戸、1990年代のジーベックホール」。2020年9月1日(火)20:00-21:30開催。
:語り手:下田展久(C.A.P.代表)/聞き手:中川博志(インド音楽研究者/バーンスリー奏者)と中川真(音楽学者、本講座企画)
:イベント情報アーカイブページ:https://cap-kobe-art-rinkan.com/2020/2020/12/16/030/。
6.「SA_en」と記載
“XEBEC SoundArts.” http://www.sukothai.com/xebec.html 2011年10月12日発行、2023年9月14日アクセス。
:カール・ストーン氏のウェブサイトで公開されている英語版。ただし0,1,13,17号はない。1号の英語版はおそらくそもそもない。
その他
金子智太郎+中川克志 2015 「日本におけるサウンド・アートの展開――スタジオ200における脱ジャンルとサウンド・アート――」 『京都国立近代美術館研究論集 CROSS SECTIONS』7(2015年9月):56-62。
中川克志 2023 『サウンド・アートとは何か――音と耳に関わる現代アートの四つの系譜』 京都:ナカニシヤ出版。
[1] 英語でsoundartと記載する事例は稀で、管見の限りでは作曲家のWilliam Hellermannが1980年代に設立したThe soundart foundationという団体の事例しかないが、日本語で「サウンドアート」と中黒を記載しない事例は頻繁にある(中川2023第一章注10、第二章注20を参照)。つまり、「sound」と「art」との間の空白の有無は、英語ならば何らかの意味がある可能性があるが、日本語ならば多くの場合大した意味はないと思われる。
[2] ちなみに0号には「op, pop, cybernetics, kitsch, experimental music, sound space, sound sculpture, performance, sound object, ambient music, audio arts, minimal music, electronic music, sampling, computer, improvisation, kinetic, hyper, MIDI」と記載されている。