2011年09月 楽器の運命―創作楽器の場合

2011年09月 楽器の運命―創作楽器の場合

(ここで公開している論文たちには校正での訂正が反映されていない部分があり、実際の掲載稿とは若干相違があります。また図版は掲載していません。引用などの場合、必ず、公開された原文をご参照ください。)

楽器の運命―創作楽器の場合

中川克志

英文タイトル:The Acceptance of Experimental Musical Instruments by John Cage and SUZUKI, Akio

1.はじめに

意のままに音を操りたい。今まで聞いたこともない新しい音の響きを、自由自在に操りたい。古今東西、音楽家たちは様々な機会にそう考えてきたのではないか。そのためにひとは、「声」を使ったり、「楽器」を工夫したり、「楽譜」を書いたり、「音響記録複製テクノロジー」を駆使したりして、新しい音の響きを手に入れようと努力してきたのではないか。

本論は、この「新しい音」への欲望の一端を「現代音楽」というジャンルのなかに探ることを目的とする。とくに、「新しい音」を手に入れるために考案された道具、「創作楽器」と呼ばれる「新しい楽器」に注目し、その受容可能性について考察する。現代音楽では、「新しい音」と「新しい楽器」への欲望はどのように登場し、「新しい楽器」はどのように受容されたのか? これが本論の問いである。あらかじめ結論を述べておくと、創作楽器はそもそもの目的であるはずの「楽器」となった時点である種の「限界」を背負ってしまう、というジレンマに巻き込まれている。最終的に私は、「創作楽器」とは自閉したコンテクストの中でこそ価値をもつ楽器であり「創作楽器」の存在は「その存在を成立させるコンテクスト=現代音楽というジャンル」の自閉性を示すものだ、とまで述べてみたいと思っている。が、そこまで主張できなくとも、少なくとも、本論は「創作楽器」の受容可能性の一端をモデル化するものであり、それゆえ、現代音楽というジャンル論や、もっと大きな楽器論や、あるいは音楽生産活動一般における「新しい音への欲望」に関する美学的な考察に貢献するものになるだろう。

本論ではまず次章で、現代音楽における新しい音への欲望の起源に置かれる音楽家たち―ルッソロ、ヴァレーズ、ケージ―の思考を確認する。彼らの欲望が、現代音楽のなかに新しい楽器を要請することになったのだ。次に第三章では、ケージのプリペアド・ピアノを事例に創作楽器のふたつの展開可能性について考察し、最後に四章で、鈴木昭男の「アナラポス」を事例に創作楽器のジレンマを定式化したい。

本論が扱う事例は限られたものである。「創作楽器」について体系的に論ずるものではないし、ほぼ同時代に展開した、音響テクノロジーの発展に基づく様々な音楽制作方法の変化―磁気テープやシンセサイザーを活用する音楽制作―については触れない。その意味では、本論で扱う事例は「マイナーな回路」に属する音楽的思考なのかもしれない。しかし、創作楽器のジレンマは、「新しい音」への欲望一般が陥りがちなジレンマであるともいえる。それゆえ本論の考察は、音を扱う人間活動一般において、音とそれを扱う道具との間に潜在的に存在するある種のジレンマを考察することに貢献するものともなろう。

2.新しい音、新しい楽器:ルッソロ、ヴァレーズ、ケージ

現代音楽の場合、新しい音への欲望という回路の起源に置かれるのは、イタリア未来派のルイジ・ルッソロ(Luigi Russolo 1885-1947)と、フランス生まれで1915年にアメリカに移住したエドガー・ヴァレーズ(Edgar Varèse 1883-1965)だ。

ルッソロは、1913年3月11日に発表した「騒音の芸術」というマニフェストにおいて「ノイズ」を用いた音楽制作について語って以来、既存の音楽的素材の領域を超え出ようとする意欲的な音楽制作のほとんど全て―具体音楽、ケージ、テクノなど―から、先駆者として祭り上げられるようになった。このマニフェストの中でルッソロは、近代化された生活の中に氾濫する「市電、エンジン、車、大騒ぎする群集の雑音」といった都市の具体的な「騒音」の魅惑について語り、既存の楽音には含まれてこなかったそれらの「騒音」を用いることを訴えている。曰く、

「…純楽音の狭いサークルを打ち破り、楽音‐雑音の無限の多様性を掌中に収めなくてはならない。…」(ルッソロ1985:113)

そして、このためにルッソロが行ったのは、(実際に都市の「騒音」を用いた音楽制作ではなく―それは20世紀初頭のテクノロジーではまだ不可能だった―)「新しい楽器」の制作だった。彼は「イントナルモーリ(直訳すると、ノイズ調整装置)」という「新しい楽器」を制作し、そのための音楽作品を作曲した。イントナルモーリは、箱の中で回転する円盤を弓で擦ることで音を生み出す、サイレンのような機械的な音響生成テクノロジーを持つ装置だった(Brown 1981; Brown 1986)。この楽器のために制作された作品(《都市の目覚め Veglio di una citta》(1914))の楽譜は一部しか残されていないが、その一部は復元されている―http://www.ubu.com/sound/russolo_l.htmlなどで確認できる―。それを聴く限りでは、都市の騒音とはかなり異なる、「イントナルモーリ」のサイレンのような音がグリッサンドして聞こえるだけで、今の耳には全く刺激的には聞こえない。しかし、ルッソロが、既存の楽音の領域を拡大するために「新しい楽器」を制作したことは確かだ。

またヴァレーズも、とくに1915年に合衆国に移住して以降は、ルッソロのように新しい音楽を作るために新しい楽器を欲望する作曲家だったといえるだろう。早くも第二次世界大戦以前にヴァレーズは、頭の中に浮かんだ着想をそのまま現実に音響化してくれる新しい楽器を夢想していたからだ。

「新しい楽器が頭に思い浮かぶままの音楽を書かせてくれるようになれば、音塊(sound-mass)と変化していく平面の動きが、私の作品の中にはっきりと知覚されるようになるだろう。それは直線的な対位法にとってかわるだろう。…もはや旋律や旋律のインタープレイという古い概念はなくなるだろう。作品全体はメロディの総体となるだろう。作品全体は、川が流れるように流れていくだろう。」(New Instruments and New Music (1936))(Varèse 1936: 197)

この他のヴァレーズの言葉も参照すると、ルッソロが具体的な都市の騒音を念頭に置いて語っていたのとは違って、ヴァレーズは、化学や天文学や地理学や地質学などから得たメタファーを用いつつ自分が夢想する新しい音楽について語っているといえる。そして、ヴァレーズが、それを実現する道具として「新しい楽器」を夢想していたことは確かだ。

ヴァレーズが実際に、五線譜の枠組みにとらわれない「電子音楽」に本格的に 取り組めるようになったのは1950年代以降である。彼は、ピエール・シェフェール(Pierre Schaeffer 1910-1995)のパリのスタジオで《デザート Déserts》(1950-54)を、ブリュッセルで行われた万国博覧会のためにル・コルビュジエが設計したフィリップス・パヴィリオンのために作られた「音と光のスペクタクル」の一部として《ポエム・エレクトロニック Poème électronique》(1957-58)を作曲した。そこで使うことができたテクノロジーは、ヴァレーズが夢想したほどに融通無碍なものではなかったとしても、磁気テープ編集を使えたのだから、ルッソロの時代よりも格段に多くのことが可能となっていた。

ルッソロやヴァレーズ的な「新しい音」への欲望は、1950年代に磁気テープ編集とシンセサイザーが登場することで、擬似的にではあれ成就された。こう考えることは、詳細に異論はあれど一般論としては間違いではあるまい。磁気テープ録音編集とシンセサイザーを使うことで、理念上は、録音したあらゆる現実音を使うことも、あらゆる種類の音色をゼロから作り出すことも、そしてそれらを自由自在に組み合わせて配置することも、可能になったのだから。

とはいえ、ルッソロとヴァレーズの夢は、磁気テープ録音装置やシンセサイザーなどの音響テクノロジーの発明にではなく、ジョン・ケージを初めとするいわゆる「実験音楽」あるいは「現代音楽」に影響を与えたものである。シンセサイザーたちは、ルッソロやヴァレーズの夢を実現するためにではなく、全く異なるコンテクスト―テルミンやオンド・マルトノといった電子楽器の歴史、あるいは音響録音再生の電化などに関わる音響テクノロジー史―の中から生み出されたと考えるべきもので、結果的にヴァレーズ的な欲望を成就させたり自らの先駆者としてルッソロやヴァレーズを召還することもあるが、基本的には、現代音楽史にとっては外様(とざま)のテクノロジーだと理解すべきだ(Chadabe 1997; Dun 1992/1996; Holmes 2002; 川崎2006;田中2001などの電子音楽史を参照)。磁気テープやシンセサイザーが、音楽制作一般に対して与えた影響等にまつわる問題については、まったく別の視点から十分に論じられるべきだろう。本論の目的は、そうした大きな問題を論じることではなく、ルッソロやヴァレーズ的な欲望が現代音楽の中で示した展開のひとつとしての創作楽器の問題について論じること、である。

それゆえ、次に注目すべきは、第二次世界大戦後に、「実験音楽」の理念を提唱しはじめたケージ(John Cage 1912-1992)である。ケージにとっては、そしてケージ以降の実験音楽においては、音楽のために用いる素材を拡大し続けるという戦略が、音を用いる自分たちの活動がアヴァンギャルド芸術としての音楽芸術であることを保証する基本的な前提となる。音楽的素材の拡大という戦略は、ケージ的な実験音楽を特徴付ける通底音として流れている。それゆえケージは、沈黙(サイレンス)や非意図的な音響(偶然性に基づく音響)や「環境音」や「ノイズ」を、自分の音楽作品の中に取り込もうとしたのである。そのようなケージにとっては、ヴァレーズの音楽―というよりも、その言葉―は、音楽的素材の拡大をアヴァンギャルド音楽の基本的戦略として導入した先駆的存在として位置づけられる。ケージは、最初の著作集『サイレンス』に収められた「エドガー・ヴァレーズ」という小文(Cage 1958, Cage 1961: 83-85)のなかで、簡単にヴァレーズに言及している。そこでは、ヴァレーズは、自らの表現のために新しい音を求めるという点で「過去の芸術家」とされる―対してケージは、自己表現や何らかの意味での表現の媒体として音を用いることを拒否する―。しかしヴァレーズは、否定すべき過去の巨匠としてではなく、今日の音楽に対して好ましい影響力を持つ音楽家として召還されている。ケージによれば、ヴァレーズは「全ての可聴現象を音楽のための素材として認知」し、「音そのものの領域に入り込む」(Cage 1958: 84)ことで20世紀の音楽の中に「ノイズ」を導入した作曲家だからだ。

3.創作楽器の受容をめぐるふたつの可能性:プリペアド・ピアノの場合

ルッソロやヴァレーズ的な欲望を実現するための経路として開発されたもののひとつに「創作楽器」がある。創作楽器の代表的な事例として、ケージが発明した「プリペアド・ピアノ」をあげられるだろう。本章では、プリペアド・ピアノを事例に、「創作楽器」の受容をめぐるふたつの可能性を指摘しておきたい。

まず、創作楽器とは何か? 直訳すれば「creative musical instruments」とでも訳すべきだろうが、対応する英語は、おそらく「experimental musical instruments」もしくは「unusual musical instruments」である。例えば、ハリー・パーチ(Harry Partch 1901-1974)が自らの作品のために考案したような「新しい楽器」を念頭に置いている。そもそもあらゆる楽器は、最初はその制作者とその周辺しか使わなかった音響生産装置が、一般化して汎用性を持つツールとなることで「普通の楽器」になったといえよう。例えば、1700年前後にクリストフォリ(Bartolomeo Cristofori 1655–1731)がチェンバロを改造したものは、その後一般化したおかげで、ピアノという「普通の楽器」として定着したといえよう。しかし現代音楽の文脈に散見されるある種の「創作楽器」は、発明された後に一般化して汎用性を持つツールにならないからこそ存在意義を持つように思われる。それゆえここでは、「創作楽器」を、「音楽」の素材として利用するための音響を生産する装置として作られたが汎用性を持つツールとしては一般化しなかった―そして、未だしていない―もの、と規定しておきたい。

そのような意味で、一般化しないからこそ存在意義を持つ「創作楽器」の事例として、ケージが1940年に「発明」した「プリペアド・ピアノ」について検討しておこう(プリペアド・ピアノとその受容の一傾向については中川2007も参照)。

プリペアド・ピアノとは、ピアノに様々な物体を挿入してピアノの音色を変化させた改造楽器だ。『グローブ楽器事典』によれば、それは「ボルト、スクリュー、ミュート、消しゴム、そして/あるいはその他のものを弦の間の特定の箇所に挿入することにより、音高、音色、ダイナミクスを変化させるピアノ」である。ケージ以外にも、プリペアド・ピアノを用いたり、ピアノを改造したり、ピアノの内部奏法を行う多くの作曲家の名前があげられている。「プリペアド・ピアノ」は、音楽界全般ではないとしてもその一部では、汎用性を持つツールとしての楽器として認知されていると考えられるだろう。

例えば、リチャード・バンガー(Richard Bunger 1942-)という人物がいる。彼は、プリペアド・ピアノを通じてケージと親交があった人物で、1967年にケージと知り合い、1973年に『ウェル・プリペアド・ピアノ』という、ピアノをプリペアするためのハンドブックを出版している(私が参照できたバンガー1978という邦訳は第二版に基づいている)。この教本を読む限り、バンガーは、プリペアド・ピアノを、固定され同定可能な音のレパートリーを音楽の世界に新しく付け加える楽器として、汎用性を持つツールとして、プロモートしようとしていたといえるだろう。

対してケージは、プリペアド・ピアノを全く異なったものとして理解し、そこから全く異なる音の在り様を学ぶことになった。ケージは、プリペアド・ピアノについて次のような言葉を残している。

「私が初めてピアノの弦の間にものを入れた時、[それらを再現できるように]音を所有したいという欲望を持っていた。しかし、音楽が私の手元を離れてピアノからピアノへ、ピアニストからピアニストへ移動して行くにつれてはっきり分かったことは、二人のピアニストは本質的に違う存在だということだけではなく、ピアノ自体も一台として同じものはないということだった。生(life)において私たちは、再現可能性ではなく個々の状態の独自性と特異性に直面しているのだ。」(Cage 1972: 8)

このように、ケージは、バンガーとはまったく異なることをプリペアド・ピアノから学んだ。ケージは、そもそも「ピアノ」という楽器は一台一台が異なるものであり、同じようにプリペアされたプリペアド・ピアノであっても全く同じ音を再生産することはない、ということを学んだのだ。バンガーとケージのプリペアド・ピアノ観の最大の違いは、プリペアド・ピアノという「楽器」が生産する音が「再現可能性」を持つと考えるか否かである。ケージは、プリペアド・ピアノから、音とはそもそも再現可能なものではない、ということを学んだのだ。

両者のプリペアド・ピアノ観が違う理由は幾つも考えられる―バンガーはあくまでも演奏家でケージは作曲家だったこと、バンガーとケージのそれぞれの音楽家としての来歴の相違等々―が、ここでは、ケージの音楽制作理念の変化を指摘しておこう。

ケージの創作史の中でプリペアド・ピアノが前面に出てくるのは、1940年代までである。それ以降もバンガーとケージの親交は保たれていたようだが、それは、プリペアド・ピアノを通じてのみ保たれていたようだ―コンサートのセッティングや出版楽譜の校正の諸連絡や『ウェル・プリペアド・ピアノ』の出版(1973年)など―。そもそもプリペアド・ピアノは、音楽家ジョン・ケージの作曲技法の発展史のなかでは、シェーンベルグとヘンリー・カウエルという二人の「師」からの影響を総合発展させたもので、偶然性、不確定性につながるものとして位置づけられる(Charles 1990: 46-47; Salzman 1978: 56)。作曲家として活動をはじめる最初の段階から音楽を「音の組織化」(Cage 1961: 3)として規定するケージにとって、シェーンベルグの12音音楽は「音高」しか考慮に入れないが、打楽器音楽は「音高」以外のあらゆる音のパラメーターを考慮に入れるので、後者のほうが好ましい音楽だった。プリペアド・ピアノは、この意味において、後者の打楽器音楽に連なるものとして位置づけられる。ケージにとって打楽器音楽とは、音高原理が優先される鍵盤音楽から、あらゆる音を用いる音楽へと至る移行途上のものであり(Cage 1961: 5; Charles 1990: 53)、「プリペアド・ピアノは、鍵盤楽器が持つ不均衡な固有パターンへの固執を全て覆し、汎調性(pantonality)というユートピアを実現する道を切り開く」(Charles 1990: 53)ものなのだ。つまり、打楽器の代替手段としてのプリペアド・ピアノとは、ケージにとっては、あらゆる音を用いる音楽に至る途上で遭遇しそして通過した存在なのである。通過した後のケージは、50年代前後に大きく方向性を転換し、「沈黙」の音楽や「偶然性」の音楽を開始するわけだ。

このバンガーとケージの対比から、私たちは、「創作楽器」の受容にはふたつの可能性があると考えることができるだろう。ひとつは「通常の楽器」としての定着である。バンガーたちはそのような楽器としてプリペアド・ピアノを位置づけようとした。対してケージは、プリペアド・ピアノの意義を、再現可能性を持たない唯一の音を生成させる装置であることに見出した。つまり、一般化しないからこそ存在意義を持つ音響生成装置として理解したのだ。これが第二の展開可能性である。汎用性のあるツールではないからこそ、「創作楽器」は、再現可能性を持たない唯一の音、すなわち「再現可能性ではなく個々の状態の同時性と特異性」(Cage 1972: 8)を生成させるツールとして位置づけられ得るのだ。

4.創作楽器のジレンマ:鈴木昭男の「アナラポス」

一般化して陳腐化しないからこそ存在意義を持つ音響生成装置として、サウンド・アーティスト鈴木昭男(SUZUKI, Akio 1941-)の創作楽器「アナラポス」(図)をとりあげ分析することで、創作楽器にはある種のジレンマがあることを指摘しておきたい。

アナラポスは大変魅力的な音を生み出す「楽器」である。ブリキ缶2個を数メートルのコイルバネで結んだ糸電話のような単純な構造だが、リヴァーヴのきいた深い音や豊かな倍音を含んだ様々な種類の音を生み出すことができる。バネの振動がブリキ缶を振動させて音を発するので、ブリキ缶を叩いたりバネ部分を擦ったり、バネを揺らすだけで音が生み出される。糸電話のようにブリキ缶に話しかけたりアナラポスに息を吹きかけて吹いたりすることで、ほとんど「声」とは認識できないほどにまで変調された「声」を発することもできる。アナラポスに使用されるバネは長いので容易に入手できるものではないが、バネさえ入手すれば、単純な構造なので容易に自作できるようである。

ではこのアナラポスという楽器を用いて、鈴木昭男はどのような「音楽」を奏でるのか? 鈴木のパフォーマンスは、かなりの程度まで自らの楽器に方向付けられているように思われる。例えばアナラポスを擦って音を出す場合(鈴木2003:ビデオ『もがり』 33:00前後)。鈴木は、まず適当に弦を擦った後、次はそれよりも長時間、そして短時間、擦る。次に弦を片手で押さえながら擦った後、次はそれよりも長時間、そして短時間、擦る。つまり鈴木は、アナラポスの弦を擦って音を生産するために可能な、最も単純な行為の全てを、いわば機械的に順番に行っているのだ。こうした鈴木の演奏パフォーマンスは、ある一定の時間内にリアルタイムに、アナラポスという単純な構造の楽器から多彩な響きを取り出してその響きの多彩さを開示するために選択されているといえよう。発せられる音と音との組み合わせに大きな関心を抱いているようには聞こえない。楽譜などに予め決められた音と音との関係性を再現するのではないから、次に生産される音は、基本的には、その音の直前に生産された音との関係性のうちで発せられると考えられよう。それはアナラポスの缶にあたる部分―スタンド型アナラポスなので円筒部分―をマレットで叩いて音を出す場合も同様である。だからこそ、マレットで弦を叩き始めた場合も、その後は、弦を激しく擦り、ある種の「クライマックス=音が大量に生産される部分」に向かった後は、「ある種のクライマックス」との対比を演出すべく、ある種の「終結=静寂」に向かうしかないのではないか。こうしたある種の「自動書記」のような即興演奏は、時には「自己表現としてのエゴからの脱却、音の自律性の確保」といった目的に役立つこともあるかもしれない。しかし即興演奏は、エクリチュール―書かれた楽譜―に基づく複雑な構造を持つ音楽と比べれば、演奏者の音楽経験という無意識的な音楽的ヴォキャブラリー、演奏者の音楽経験等々の追従に堕してしまう危険性を持つものであり、「安易」なものと判断されることもあるだろう。

とはいえ、である。急いで述べておきたい。何よりもまず、即興演奏は音楽的構造が安易だからそれゆえ劣ったものだ、と言うつもりは、私には全くない。むしろアナラポスを用いた鈴木の即興パフォーマンスは大変魅力的なものである。ある種の「自動書記」によって生成させられるに過ぎないかもしれないが、そうして生み出される様々な音響は今までに聴いたことがないものだし、鈴木のアナラポスを用いたパフォーマンスは”魅惑的で艶っぽい”とさえ形容できるものだ。また、鈴木のパフォーマンスが常に即興演奏だというわけではない。かなりの程度までは即興だが、ある程度行うべきことを決定した上で行うパフォーマンスも多いようだ(鈴木1985)。

私が言いたいことは、音楽的構造の複雑さという尺度を用いれば、その構造は単純と判断されざるをえないということである。おそらく、鈴木のパフォーマンスの美的聴取の焦点は、音と音との関係性の構造的聴取ではなく「一音」の微細な差異の聴取へと変化しているのだ。だからこそアナラポスを用いた即興パフォーマンスについて語る時、アナラポスが生産する音色の魅力について語ることは多いが、その「音楽的構造」について語ることは少ないのではないか。まさに数段落前の私の記述のように。それゆえアナラポスの魅力については、次のようにいえるだろう。アナラポスの魅力は、それが生み出す音楽的構造ではなく「音色」に見出されるのだ、と。このような「一音」の微細な構造に集中する鈴木の耳は、稀有なものであり、感嘆するしかない。私はそのことを、2010年7月4日に大阪のnu thingsで行われた鈴木昭男のパフォーマンスでも再確認した。そこで行われた鈴木昭男のパフォーマンスは、音楽的構造の複雑さという尺度を用いれば単純なものでしかないかもしれないが、アナラポスやあるいはスポンジや土笛などを用いた演奏は、「一音」が多様な細部が存在することを開示してくれるもので、非常に魅惑的なものであった。普通では気づき得ない「音」を聞き出す鈴木の希少な「耳」については、中川真2008なども参照していただきたい。

また私は、アナラポスのために鈴木以外の人間が楽譜を用いて作曲した音楽作品も、アナラポスという創作楽器の生命線が、再生産可能な音を生産することにではなく、一般化=陳腐化していない音色を産出することにあること、を示唆しているように思う。私の知る事例は、京都国立近代美術館で行われた『ノイズレス:鈴木昭男+ロルフ・ユリウス二人展』(2007年4月3-15日)にあわせて行われたコンサート(京都国際現代音楽フォーラム主催「ノイズレス/サウンドレス」2007年4月7日開催)で演奏された、甲斐説宗(せっしゅう)《アナラポスの為のインターアクティヴィティ》(1977)である。楽曲に関する詳細は不明だが、楽譜に作曲されたものである以上当然のことながら、この作品の聴取の焦点は楽譜に記された音と音との関係性の聴取にあり、アナラポスという楽器が生産する音色の微細な細部の提示は主目的ではなかったようだ。当日配られたプログラムによると甲斐は「アナラポスは非常に豊かな音がする。沢山の表情を持った楽器だ」と述べているが、聴き手としては、そこでアナラポスが用いられなければならない必然性は、感じられなかった。それゆえ私には、甲斐のこの作品が魅力的だったのは、アナラポスが非常に魅惑的な音色を生産するからというよりも、この作品が音楽作品として魅惑的な音楽構造―音と音との関係性―を構築していたからであるように思われた。ということは、次のように考えられるのではないか。つまり、アナラポスという創作楽器の魅力は、この楽器のために作曲される音楽作品が生み出すのではなく、この楽器を用いて生産される音、もしくはこの楽器を用いて音を生産するという行為そのものにあるのではないか。

私は、ここに創作楽器のジレンマとでもいうべきものを見出しておこうと思う。アナラポスという創作楽器も、「楽器」として制作された以上、音楽的素材として利用できる音を(再)生産する「通常の楽器」となる。しかしそうなることで、アナラポスという創作楽器は、その独特の存在意義を失ってしまうというジレンマを持つのではないだろうか。乱暴を承知で創作楽器のジレンマを定式化してみよう。

1.創作楽器の意義

創作楽器の意義は、「通常の楽器」によって一般化されていないものを意識させることにある。例えば、「新奇な音」を聞く喜びや「新奇な音」を発見する喜びをもたらす媒体として機能すること、さらには、あらゆる事物や行為が音を発していることを意識させたり、それらが発する音のみならずそれらを発見する行為そのものも喜びであることを教えてくれること、さらには自ら「楽器」を作る喜びを教えてくれることもあるだろう。

2.創作楽器のジレンマ

しかし「楽器」とはそもそも、一般化=陳腐化した音色や音響制作手段―楽器の演奏方法―を用いて音を(再)生産する、ただの道具となるべく発明されるものである。つまり創作楽器は、実際に音を(再)生産する「通常の楽器」となってしまうとその独特の意義を失ってしまう。創作楽器は、本来の目的―楽器としての一般化―が達成されるならば、その独特の存在意義が失われてしまうというジレンマを持つのである。

この創作楽器のジレンマの定式が乱暴なものであることは承知である。例えば、ハリー・パーチの創作楽器群はこの定式にはあてはまらない。それらは、通常の楽器では生産できないが自らの音楽作品のために欲した音を生産するためにパーチが作ったものであり、音色の新奇さや創作楽器を扱う行為の新鮮さに主眼は置かれていない。しかしここでは、乱暴を承知の上で創作楽器のジレンマを定式化しておきたい。というのも、そうすることで、ある種の創作楽器は「メタ音楽」として成立しているという事態を指摘できると思うからだ。

5.おわりにかえて:メタ音楽としての創作楽器?

創作楽器とは、「普通の楽器」になることで、その独特の存在意義を失ってしまう楽器である。とはいえしかし、そうして失われる「存在意義」とは何か? 最後に、創作楽器の存在意義に対する疑義に、創作楽器の成立基盤に言及して答えてみることで、本論を終えたい。そうすることで、本論を、現代音楽というジャンル論に接続することができるように思う。

以下は私の仮説である。

私は、「創作楽器」が失ってしまうかもしれない存在意義とは、「西洋芸術音楽」というコンテクストの中に、「創作楽器」がある種の「他者」として存在することによって成立するものではないかと考える。それは「非西洋音楽のための楽器」を念頭に置けば明らかだろう。例えば、ミャンマーの鰐琴ミジョーンであれインドのヴィーナであれ何でも構わないが、ほとんどの「非西洋音楽のための楽器」は、専ら西洋芸術音楽にだけ慣れた耳に対しては、「通常」の楽器によっては一般化されていない「新奇な音」を出すことで、「創作楽器」のように機能するといえよう。同じように現代音楽における「創作楽器」は、「西洋芸術音楽」というコンテクストの中でこそ「新規な音」を出す道具としてその存在意義を持つと考えられるだろう。

ということは、「創作楽器」とは、「西洋芸術音楽」の内部である種の「他者」として存在することによって存在意義を獲得するものだといえるだろう。そして、そうだとすると、創作楽器とは、現代音楽がある種の「メタ音楽」として成立することを示す指標だと考えることもできよう。というのも、「創作楽器」は、内なる他者として機能することで、自らが属する西洋芸術音楽という領域が形成される基盤に視線を投げかけ、「西洋芸術音楽」という領域を相対化しようとするのだと考えることもできるからである。つまりいわば「創作楽器」とは、「西洋芸術音楽」を相対化するメタ音楽として、現代音楽を生成するのだ。

以上は私の仮説である。創作楽器を、「西洋芸術音楽」というコンテクストの中で内なる他者として機能することによって、「西洋芸術音楽」という領域を相対化しようとするメタ音楽としての現代音楽を生成する道具、として解釈する可能性を示唆した。これは、ジャンルとしてのゲンダイオンガク論に組み込むことを念頭においた仮説である。現代音楽というジャンルの「狭さ」を指摘してその領域を確定する現代音楽論の展開を今後の課題としてあげることで、本論を終えることとする。

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Varèse, Edgard. 1936-1962. “The Liberation of Sound.” Excerpts from Lectures by Edgard Varèse, compiled and edited with footnotes by Chou Wen-Chung. In: Schwartz, Elliott and Barney Childs, ed. 1988 Contemporary Composers on Contemporary Music. expanded ed. NY: Da Capo: 195-208.