2010年10月 雑誌『音楽芸術』における電子音楽の複数化

雑誌『音楽芸術』における電子音楽の複数化

    • ―「ライヴ・エレクトロニクス」受容をめぐって

The multi-stratified Electronic Music in the Magazine “Ongaku Geijutsu”

- when “Live Electronics” was imported in the 1960s.

(ここで公開している論文たちには校正での訂正が反映されていない部分があり、実際の掲載稿とは若干相違があります。引用などの場合、必ず、公開された原文をご参照ください。)

はじめに

本論の目的は、雑誌『音楽芸術』誌上に「ライヴ・エレクトロニクス(電子音楽の生演奏)」というレッテルが輸入された状況を検討することで、1960年代後半の日本の『音楽芸術』では、音楽の未来に複数の選択肢があったことを示すことである。

ここで「音楽の未来」という言い方を使用して指し示すのは、50年代半ばに輸入された電子音楽の次に位置づけられる音楽のことである。70年代以降、現代音楽はいわゆる「前衛の終焉」あるいは「多様式の時代」を迎え、一つの支配的な音楽様式が次々と入れ替わりつつ進化していく進歩史観的な音楽史は崩壊し、様々な音楽的語法が同時並存するようになった。これは現代音楽史を語る際のクリシェの一つだと言えよう(刀根1970;Morgan1991; 日本戦後音楽史研究会 (編)2007a; bなどの通史を参照)。私はこの現代音楽史のクリシェを精査したいと構想している。本論はそのための準備作業であり、本論の目的は、「無調音楽→十二音音楽→トータル・セリエリズム→電子音楽」と進化してきたとされるクリシェの中で、電子音楽の次に置かれるべき音楽に複数の選択肢(「コンピュータ音楽」あるいは「ライヴ・エレクトロニクス」)があったと示すことである。そうすることで、一方向的な進歩史観が変質し始めたポイントの一つを確定できるだろう。

以下、第一章で1960年代後半の日本の電子音楽を取り巻く状況を概観する。電子音楽の次の音楽として、「コンピュータ音楽」だけでなく「ライヴ・エレクトロニクス」も期待されていたことを確認する。次に第二章で、雑誌『音楽芸術』を調査することで、「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルの受容史を辿り、電子音楽の多様性を肯定しようとする視点を確認しておきたい。そして第三章では、「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルの使用の偏差を確認するために、このレッテルを肯定・誤解・無視する事例を検討する。最後に第四章で、本論を整理し、もう一度60年代後半の日本の電子音楽を取り巻く状況を少し違う角度から概観する。

戦後日本への現代音楽や電子音楽に関する詳細な研究(日本戦後音楽史研究会2007a;川崎2006;田中2001)では、「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルが輸入された時期の電子音楽の未来をめぐる、ある種の混乱した状況は検証されていない。本論はそれを検証しようとするものである。また、川崎2006:16が指摘するように、輸入された諸々の現代音楽に対する当時の批判や抵抗も検証されているとは言えまい。それゆえ、「ライヴ・エレクトロニクス」に対する無視、誤解を検討することは意味あることだろう。

用語について述べておく。本論では、1950年代前半のドイツを中心として制作された狭義の「電子音楽」に言及する時には、カギ括弧をつけて「電子音楽」と表記する。また、1950年代前半の「電子音楽」と「具体音楽」の双方に言及する時には、括弧をつけずに電子音楽と表記する。さらに、テルミンやエレキギターといった電子楽器・電気楽器を用いる音楽も含め、電子的・電気的手段で制作された音楽一般に言及したい時には、電子音響音楽と表記する。また、1960年代の「コンピュータ音楽」に言及するときには、カギ括弧をつけて「コンピュータ音楽」と表記する。またさらに、ライヴ・エレクトロニクスという種類の音楽ではなく、特に「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルに言及したい時には、カギ括弧をつけて「ライヴ・エレクトロニクス」と表記する。それぞれについては次章で簡単に説明する。

*以下、雑誌『音楽芸術』の記事は、

著者姓_年代:巻号(x月号):ページ数

と記す。例えば

一柳慧「ライヴ・エレクトロニック・ミュージックの可能性」 『音楽芸術 特集 現代音楽とエレクトロニクス』 28.13(1970年12月号):38-41。

一柳1970:23.13(12月号):38-41

と記す。

1.1960年代後半の日本の電子音楽

1.1.進歩史観の継承:電子音楽から「コンピュータ音楽」へ

1960年代後半の日本で、電子音楽の次の音楽と見なされたのは、まず第一には「コンピュータ音楽」だったと言えよう(本節は中川2010の要約である)。

ここで電子音楽という言葉で念頭に置いているものは、1950年代前半に作曲家が電気的・電子的な手段で音響を編集加工して制作した電子音楽のことで、第二次世界大戦までにはすでに広く浸透していた、テルミンなどの電子楽器やエレキギターなどの電気楽器を用いて演奏される電子音響音楽一般のことではない。つまり、「具体音楽(ミュジック・コンクレート)」-主にフランスで、ピエール・シェフェール(Pierre Schaeffer 1910-1995)らが制作した、録音された音を用いて制作する音楽-と、当初は「具体音楽」とは理念的に対立するものとして区別されていた「電子音楽(エレクトロニッシェ・ムジーク)」-ヘルベルト・アイメルト(Herbert Eimert 1897-1972)がケルンに設立した西ドイツ放送局(WDR)の電子音楽スタジオで、作曲家のカールハインツ・シュトックハウゼン(Karlheinz Stockhausen 1928-2007)が中心となって制作した、電子的に生成された音響を用いて制作する音楽-のことである。「具体音楽」や「電子音楽」の理論と制作は、黛敏郎や諸井誠らによって1950年代前半に輸入され始め、遅くとも1956年が終わるまでには(少なくとも『音楽芸術』誌上では)その存在と概要が認知されていた(詳細は、川崎2006;田中2001)。

日本では、電子音楽は基本的には「電子音楽」として理解された。それゆえ日本では、電子音楽は進歩史観の最先端の動向として位置づけられた。例えば、「電子音楽」を初めて日本に紹介した諸井誠の論文「電子音楽の世界」(諸井1954:12.6(6月号):40-45)では、「電子音楽」は「歴史的必然性をもつた音楽的発展の新たな担い手」(44)とされた。というのも、ワーグナー以降の調性の崩壊、無調音楽や十二音技法の登場といった「音楽上の合理主義的傾向」(43)が推し進められ、音響関係のみならず「音組織に固有の音響学的基礎の変革」(44)が必要となり、それが可能なのは「電子音楽」だったからだ。

60年代半ばに、「電子音楽」から進歩史観の最先端の位置を引き継ぐものとして位置づけられようとしたのが「コンピュータ音楽」だったと言えよう。本論で「コンピュータ音楽」という呼称で念頭に置いているのは、50-60年代に、大型で高価な汎用型メインフレーム・コンピュータを利用して、情報の入出力にバッチ処理プロセス(パンチカードを用いた入出力)を介して制作された音楽のことである。このような意味での「コンピュータ音楽」は、コンピュータを、1)作曲のために必要な計算を行う作曲補助ツールとして、あるいは 2)(部分的であっても)自動的に作曲させる自動作曲ツールとして、そして 3)音響生成の段階からコンピュータに行わせる音響生成加工ツール(そして作り出した音響を構造化する、音楽構造構築ツール)として、用いる音楽である(「コンピュータ音楽」黎明期の記述についてはDunn 1992/1996; Chadabe 1997; Holmes 2002; Manning2004; 松平1995などを参照)。それぞれの用途で初めてコンピュータが用いられたのは1954年(クセナキス)、1957年(レジャーレン・ヒラー)、1957年(マックス・マシューズ)である。そして雑誌『音楽芸術』に、「コンピュータ音楽」に関するある程度まとまった解説が初めて登場したのは少し遅れて1966年11月号「特集 最近の世界の作曲界」(24.11)においてである。この特集では、執筆者による力点の違いはあれど、「コンピュータ音楽」は、作曲家の音楽として、そして、十二音音楽、トータル・セリエリズム、電子音楽へと発展的に進化する、合理主義的な作曲技法の進歩史観の中で最先端の動向として位置づけられた。例えば篠原真「新音楽の諸傾向」(篠原1966:24.11:24-27)では、「コンピュータ音楽」では「プログラムがコンピューターの論理によって完全に正しく書かれていなければならず、したがって、作曲の過程そのものがいっそう徹底的に客観化合理化されなければならない」(24)ことが指摘されている。「コンピュータ音楽」は、電子音楽以上に、音楽上の合理主義的傾向を推し進める音楽として理解されていたのである。

1.2.進歩史観の変質?:電子音楽からライヴ・エレクトロニクスへ

とはいえ、1960年代後半に電子音楽の次の音楽として想定されたのは「コンピュータ音楽」だけではなかった。「ライヴ・エレクトロニクス」というものがあった。この時期、電子音楽の次の音楽として想定されていたのは、「コンピュータ音楽」、あるいは「ライヴ・エレクトロニクス」、あるいはその両方だったように思われる。1966年から67年にかけて日本に「コンピュータ音楽」が紹介され始めたのとほぼ同時期、1967年から1970年にかけて「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルが日本に輸入されていた。私は、この「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルの輸入は、電子音楽の未来が複数化した状況を明確化する、という効果をもたらしたのではないかと考えている。第三章で検討したい。

ライヴ・エレクトロニクスという音楽について簡単に説明しておこう(「ライヴ・エレクトロニック音楽」あるいは「ライヴ・エレクトロニック・ミュージック」とも形容される)。これは、舞台上でリアルタイムに電子的あるいは電気的に音響を発生させ、リアルタイムに電子的・電気的に変調させる音楽のことである。本論の目的はライヴ・エレクトロニクスの美的特質の検討ではないので、「生演奏されることを念頭に置いた電子音楽」(Holmes 2002: 127)という簡単な規定を参照しておこう1。60年代後半の『音楽芸術』ではたいてい、ライヴ・エレクトロニクスは「電子音楽の生演奏」として説明される。こうした形態の音楽が要請された背景は二つある。一つは、スタジオで磁気テープに固定される電子音楽では「排除」された、人間の生演奏を復活させようとする要請(それゆえ、この意味では、ライヴ・エレクトロニクスを「電子音楽」の進化形として位置づけることは可能である)。またもう一つは、演奏時にどのような音響結果が生成されるか予め確定させたくないというケージ的な不確定性の要請である。歴史的に最初のライヴ・エレクトロニクスとされるのはケージの《カートリッジ・ミュージック Cartridge Music》(1960)である。これはレコード・プレイヤーのピック・アップに色々な棒状のものを取り付けた装置を用いて、図形楽譜を用いて決定した動作(こする、ひっぱる、指で撥ねる等々)を行うことで不確定に音を発生させる作品である(電子音ではなく電気音を用いるのだから、正確には、電子音楽ではなく電気音楽である)。つまりライヴ・エレクトロニクスとは、かなり「ケージ的」(これがどのような意味かはともかく)で不確定性の要素をはらむ音楽として理解されるものでもあるのだ。

2.日本における「ライヴ・エレクトロニクス」の受容:レッテルの輸入

2.1.レッテル輸入の経緯と位置づけ

では、日本に「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルはどのように輸入されたのだろうか。後に「ライヴ・エレクトロニクス」と呼ばれることになる音楽作品そのものは、60年代初頭には既に輸入されていた。例えばケージの《カートリッジ・ミュージック》(1960)の日本初演は1961年である。しかし「レッテル」は、60年代後半になって初めて日本に持ち込まれた2。私は、この60年代後半のレッテル受容こそが、当時、電子音楽の未来が複数化した状況を明確化する効果を果たしたのではないかと考えている。

「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルを日本に持ち込んで普及させたのは一柳慧である3。一柳は、1967年に一年間NYに滞在し、帰国後 、NY滞在中に知った印象的な電子音楽「ライヴ・エレクトロニック・ミュージック」を日本に紹介した4。一柳の帰国後のインタビューには、ライヴ・エレクトロニクスを簡単に説明する際の常套句としてその後頻繁に使われるようになった「電子音楽のなま演奏」というフレーズも登場している(三宅・一柳1968:26.3(3月号):42-45「<作曲家のみた作曲家3> 一柳慧」)。遅くとも1969年が終わるまでには、「電子音楽の生演奏」という常套句と「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルが『音楽芸術』誌上には浸透していたようだ。そして1970年12月号の『音楽芸術』で「特集 現代音楽とエレクトロニクス」という特集が組まれ、「ライヴ・エレクトロニック 」という言葉が付された記事が初めて 『音楽芸術』誌上に掲載された。一柳の「ライヴ・エレクトロニック・ミュージックの可能性」(一柳1970:28.13(12月号):38-41)である。「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルの輸入はこの時点である程度達成されたと考えられるだろう5

「ライヴ・エレクトロニクス」(というレッテル)が、当時どのように受容されたのか知るために、簡単に一柳1970:28.13(12月号)の記事をまとめておこう。

一柳によれば、1960年代のうちに、電子音楽はあまりにもポピュラーな存在となりマンネリズムに陥った。電子音楽はその創成期に比べて想像もできないくらい発展変化した。(電子音と具体音を問わず)電子的に変調した音を用いる音楽やシンセサイザーで演奏した音楽は全て電子音楽(本論の言い方では、電子音響音楽)だし、芸術音楽ではないマスメディアのコマーシャル音楽やポピュラー音楽にも電子音は溢れているからだ。一柳によれば、電子音楽のそうしたマンネリズムに刺激を与えるのがライヴ・エレクトロニクスである。ライヴ・エレクトロニクスとは、簡単に言えば「電子音楽の生演奏形態」で、ケージとチュードアの不確定性の音楽に起源がある。その音楽では、スタジオ制作の電子音楽が最終的には音響をテープに固定されねばならないのとは違って、ステージ上で様々な機械的手段を用いて演奏して、初めて音響(電子音)として現実化される。つまりライヴ・エレクトロニクスは、人間の演奏と機械的手段とは本来的に対立するということではなく、そのような二分法を想定することは無意味だと教えてくれる音楽なのである。

どうやら一柳は、ライヴ・エレクトロニクスの最大の可能性を、それが電子音楽の世界の多様性を示唆することに見出しているようだ。

例えば一柳は、磁気テープも電子楽器も用いずに純粋に電子回路の組み合わせによる演奏こそがライヴ・エレクトロニクスの本質とするような考え方には疑問を呈している。確かに最終的な音響結果が磁気テープ上で固定されるか否かは、従来の電子音楽とライヴ・エレクトロニクスを区別する大きな目安である。しかし一柳は、従来の電子音楽との差異化を図るだけでは「これからの音楽の問題としてはあまり意味をもってこないように思われる。」(41)と述べる。というのも、単なる電子音楽との差異化を行うことが「結果的に豊かな音楽の創造に結びつくとは思われない」(41)からである。それよりも一柳は「多様な内容とあり方を呈している電子音楽に優劣をつけたり、細分化することではなく、あらゆる種類の電子音楽を総括的にとらえるができるような視点を確立すること」(41)の重要性を訴え、一柳は記事を終えている。

一柳は、ライヴ・エレクトロニクスが電子音楽の先端を行くものと見なされることには理解を示している。しかし彼は、ライヴ・エレクトロニクスが旧来のスタジオ制作の電子音楽に取って代わってしまうものだと考えるわけではない。一柳はむしろ、ライヴ・エレクトロニクスを電子音楽の世界の多様性を広めるものとして理解しようしている、と言えよう。

2.2.多様性

ここで注目しておきたいのは、電子音楽の多様性を肯定しようとする視点である。それは、一柳の記事が収録されている、1970年12月号の『音楽芸術』における「特集 現代音楽とエレクトロニクス」の他の記事の題目を見るだけでも確認できるだろう。この特集の他の記事は、順に、秋山邦晴「芸術とテクノロジー」、松平頼暁「現代の作曲創造とエレクトロニクス」、一柳慧「ライヴ・エレクトロニック・ミュージックの可能性」、和田則彦「電子音楽と現代音楽」、江崎健次郎「現代音楽とコンピューター」、相沢昭八郎「エレクトロニクスの及ぼした演奏形態の変化」となっている。

煩瑣になるためそれぞれを詳細に検討することは避けるが、これらの記事を通読してすぐ分かることは、各執筆者が抱いている電子音楽(の未来)像が一様ではないことである。

例えば(一柳の記事と最も異なると思われるものから述べていく)、相沢の記事では、「電子音楽」や「具体音楽」において演奏者による再現行為としての演奏形態が変化したことは述べられるが、ライヴ・エレクトロニクスや「コンピュータ音楽」については言及されない。また江崎の記事では、コンピュータを用いて音響を合成・変換する手法についてかなり専門的な知識が説明されるが、数式を用いたこの記事を理解できた人間がどれほどいたかは疑問であるし、ここでもライヴ・エレクトロニクスは言及されない。また松平の記事は、テープを用いた音楽の「全体像」の分類整理を試みたものだが、ここではライヴ・エレクトロニクスは、その中の一傾向として言及されるものである。そして和田の記事は、昔は電子音楽は全て「現代音楽」だったが、今やシンセサイザーを用いたエンターテイメントとしての電子音楽が簡単に作られていること、すなわち今や状況が全く変わってしまったことを宣言する記事である。

このように「多様」なのは、10年ほど前に電子音楽について抱かれていた「常識」のようなものが、ライヴ・エレクトロニクスあるいは「コンピュータ音楽」については形成されていないからだと言えよう。もしそのような「常識」があったとすれば、この特集の全ての記事で、ライヴ・エレクトロニクスや「コンピュータ音楽」に対して何らかの言及があったはずだ。「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルが輸入され、ライヴ・エレクトロニクスを解説する記事が登場した頃、電子音楽の現状と未来は多様化していたのである。

3.日本における「ライヴ・エレクトロニクス」の受容:レッテルの効果

筆者は、68年以降に輸入された「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルは、60年代後半に電子音楽の未来像が複数化していた状況を明確化したのではないかと考えている。そこで以下では、「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルの使用方法に関する偏差を検討したい。レッテル使用の偏差を観察することで、電子音楽の未来に位置づけられるべき音楽に関する共通了解が成立していたわけではないこと(全員が、電子音楽の未来を「コンピュータ音楽」あるいはライヴ・エレクトロニクスに見出していたわけではないこと)を示したい。電子音楽の未来像が複数化し、分裂していた状況は、一方向へと進む一直線の進歩史観が幾つかの方向へと分裂しつつあった状況を照らし出すのではないだろうか。

3.1.レッテル使用の偏差:肯定

まず「ライヴ・エレクトロニクス」がレッテルとして十分通用した事例を紹介しておく。

既に述べたように、後からレッテルが輸入されたことで、それまでそう呼ばれていなかった多くの作品が「ライヴ・エレクトロニクス」と呼ばれるようになった。ケージ《カートリッジ・ミュージック》(1960)はその最たるものである。この作品は1962年のケージ初来日前後のケージ関連の記事で何度も言及されたが、一度も「ライヴ・エレクトロニクス」とは形容されなかった6。しかしこれは、現在では最初のライヴ・エレクトロニクス作品として位置づけられる作品で、68年以降は日本でもライヴ・エレクトロニクス作品として記述されるようになった7

またこのレッテルは、1970年の大阪万博までには、「電子音楽の生演奏」という常套句とともに、簡潔に適切に、用いられるようになった。例えば、1970年5月号(28.5)「EXPO'70 / 万国博の作曲家」というグラビア写真は、大阪万博の様々なパヴィリオンのために作曲家たちが制作した音楽に関する記事である。ここでは20組の作曲家とパヴィリオンの組み合わせが紹介されており、一ページに付き一つの組み合わせが400字程度の字数で紹介されている。この中で、松平頼暁は、お祭り広場のために幾つかのライヴ・エレクトロニクスを制作した、と簡単に述べている。また高城1970:28.6(6月号):65-67(高城重躬「万国博 音の聴き歩き」)では、ドイツ館で50組のスピーカーを配置したシュトックハウゼンの《ヒムネン》が「電子音楽の生演奏」と形容されている。ドイツ館では、ミキサーに入力されて電子的に処理されたソリストの独奏が、もう一度スピーカーから再生され、ソリストはその再生音に反応して即興演奏を行っていた。1970年以降の記事のほとんどでは、「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルが用いられる時には、適切に用いられているようだ。70年には、「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルはレッテルとして認知されていたと言えるだろう。

3.2.レッテル使用の偏差:誤解と無視

まだ十分「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルが浸透していなかったと思われる1969年には、このレッテルを誤解ないし無視する事例が観察できる。これらは「ライヴ・エレクトロニクス」という言葉の使用に対する熱意の差を示しているように思われる。

まず「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルを誤解している事例について。これは1969年の段階ではまだ「ライヴ・エレクトロニクス」をめぐる理解が混乱していたことを示すものだろう。例えば武田明倫は、レコード評でウォルター・カーロスの『スウィッチド・オン・バッハ』を「ライヴ・エレクトロニクス」と呼んでいる。シンセサイザーを駆使してバッハ作品を演奏することで、「シンセサイザー」の音色を一般に浸透させ歴史的な売り上げを記録したこのアルバムを、武田は、「一種のライヴ・エレクトロニック・ミュージックであり、カッターとスプライシング・テープで忍耐強く作られる電子音楽ではない」(武田1969:27.7(7月号):70-71)と述べる。確かにこれは磁気テープを編集する50年代前半の狭義の電子音楽ではないが、しかし、これは「ライヴ・エレクトロニクス」でもない。というのも、おそらくこのアルバムの第一の目的は、「シンセサイザー」を用いて西洋芸術音楽を(魅力的に)演奏できると示すことで、電子音楽に演奏家を復権させることやケージ的な不確定性を音楽の中に取り込むことではなかったと思われるからだ。少なくとも、このアルバムは(「アルバム」としてリリースされたものなのだから)「生演奏されることを念頭に置いた電子音楽」(Holmes 2002: 127)ではない。にも関わらずこのアルバムを「ライヴ・エレクトロニクス」と呼ぶのは、第一に、これがステージ上で電子音を演奏できることを示す事例だったこと、第二に、これがバッハという非ポピュラー音楽を題材としているので「(狭義のケルン的な)電子音楽」の延長線上の音楽として理解されたことが原因ではないだろうか。いずれにせよ、こうした誤解は、「一つだけの電子音楽の未来」を共有しようとするがゆえに「電子音楽の未来としてのライヴ・エレクトロニクス」という思考を取り込もうとしたが失敗している事例と解釈できるだろう8

またそもそも「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルが用いられない事例について。68年以降でも「ライヴ・エレクトロニクス」が言及されてしかるべき記事で言及されないケースが散見される。例えば柴田1970:28.9(8月号):60-63(柴田南雄「ユネスコ主催の音楽とテクノロジー」)。これは、ストックホルムで開かれたユネスコ主催の国際会議に《日本における音楽とテクノロジー》という題目で日本のテープ音楽の歴史、現状、将来への予見について報告した柴田のレポートである。この会議では柴田の報告でも他の報告者たちの報告でもライヴ・エレクトロニクスという言葉は全く触れられなかったようだ。柴田によれば「会議の中心課題はあきらかに一九七〇年代におけるコンピューターによる電子音楽創作の問題」(61)だったし、そこで柴田が報告するよう要求された内容はテープ音楽に関するものだった。なので、そこでライヴ・エレクトロニクスが取りあげられなかったことは不思議ではないのかもしれない。とはいえしかしこの事例は、電子音楽の未来について語る際に、コンピュータ音楽について語ってもライヴ・エレクトロニクスについては語らない層が存在していたことを示す事例だと言えよう9

また、「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルの使用にはあまり熱心ではない事例にも言及しておこう。『音楽芸術』1969年4月号では、1969年1-2月に行われた三種類(四回)の現代音楽祭10に関する記事、総括、批評が、「三つの現代音楽会」として特集された。しかしこの特集の中で「ライヴ・エレクトロニクス」という言葉が登場するのは一箇所だけで、塩見充枝子が、「クロストーク/インターメディア・アート・フェスティヴァル」について「これには一九六〇年代の各国の中間的領域に属する作品、たとえばイヴェント、ライヴ・エレクトロニック・ミュージック、コンクリート・ポエトリー、フィルム・イヴェント等」(塩見27.4: 24)をとりあげたものだと説明している部分だけである。特に解説もない。これは、この特集の全ての記事で、常に「インターメディア」という言葉については何らかのコメント11がなされようとするのと対照的だと言えよう。この事例は、「インターメディア」という概念を強調しようとするため、「ライヴ・エレクトロニクス」という言葉はあまり熱心に用いない傾向の存在を示す事例として解釈できるのではないだろうか。

4.電子音楽の複数化~終わりにかえて

本論の議論をまとめておこう。

第一章と第二章で確認したように、進歩史観の中で「電子音楽」の次に位置づけられるべき音楽には、「コンピュータ音楽」あるいはライヴ・エレクトロニクス、あるいはその両方があった。さらに第三章で確認したように、「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルの使用に対する熱意にも偏差があった。筆者の主張は、この偏差は、電子音楽の未来が多様化していたことを示すものではないか、というものである。

本論では「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルを肯定、誤解、無視する傾向を、整然と分類できてはいない。しかし少なくとも次のことは言えるのではないだろうか。つまり、68年以降の日本では電子音楽の未来に複数の選択肢が提示されていたのだ。言い換えれば、「コンピュータ音楽」あるいはライヴ・エレクトロニクスのどちらか「だけ」が、電子音楽が進化していくべき未来だとは考えられていなかったのだ12。それゆえ次のように推測出来るだろう。一方向に直線的に進む進歩史観は、遅くとも68年以降には崩壊していたのだ13

もちろん、実際は、常に複数の音楽があったに違いない。五線譜に記譜される西洋芸術音楽の「正典」には記録されなかった、多くの音楽が常に存在してきたに違いない。本論で検証できた事例が教えてくれることは、50年代から60年代にかけて、電子音楽→「コンピュータ音楽」というライン以外に電子音楽→ライヴ・エレクトロニクスというラインもあったこと、そして電子音楽→ライヴ・エレクトロニクスというラインは揺れ動くものだったことである。一方向に直線的に進む進歩史観の崩壊を検討するには、他にも多くの状況を調査する必要があろう。例えば、電子音楽黎明期から輸入されていた「アメリカの電子音楽」14と、電子音楽→「コンピュータ音楽」というラインとの関連や、あるいは、ライヴ・エレクトロニクスと「インターメディア」との関連などである。とはいえ、それらは全て今後の課題としておきたい。

現代音楽史をめぐる進歩史観が変質した時期を分節すること、これは、70年代以降に「前衛の終焉」が唱えられ始めた状況が出現するプロセスを精査するためには必要な道程である。その意味で、本論は、今後の調査に必要な予備調査としての役割を十分達成した。考察すべき事柄は多いが、現代音楽史の展開における一つの変節点を見出したことを成果として、ここで本論を終えておきたい。

参考文献

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刀根康尚 1970 『現代芸術の位相 芸術は思想たりうるか』 東京:田畑書店。

1辞書的な説明を補足しておく(ボスール2008: 52-54; Chadabe 1997: 81-107 ; Colins 2007: 38-54; Holmes 2002: 124-131; Nyman 1974: 89-109; 松平1995: 66-84を参照)。

ライヴ・エレクトロニクスの起源は、50年代に、ジョン・ケージとデヴィッド・チュードアがマース・カニンガム舞踏団のために制作した音楽作品に求められる(さらには、試験放送用のレコードを再生し、再生スピードを変えてグリッサンドのように演奏した、ケージ《想像上の風景第一番》(1939)まで遡って求められることもある)。そこでは舞台上で音楽作品を生演奏する必要があった。また、50年代以降のケージにとって、(磁気テープ上に)音を固定することは避けるべきことだった。それゆえ、ツアーする場所ごとに変わる舞台上に、エレクトロニクスを用いた器材を簡単に設置・解体できる方法を考案しなければいけなかった。

また、1952年以降音楽監督を務めていたカニンガム舞踊団では、多くの意欲的な音楽家(チュードア、ゴードン・ムンマやデヴィッド・バーマンらSonic Arts Unionのメンバー、小杉武久など)と一緒に作業することになった。彼らの多くとチュードアは、後に多くの「ライヴ・エレクトロニクス」作品を制作することになったし、ケージは、カニンガム舞踊団のために《Variations I》(1958)などを制作した後、幾つかの文献で最初の本格的なライヴ・エレクトロニクスとして位置づけられる《カートリッジ・ミュージック》(1960)を制作した。

2後からのレッテル輸入について。

「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルは、現在の視点からは「ライブ・エレクトロニクス」と呼ばれる作品が輸入され日本で制作されるようになった後に、輸入されたレッテルである。しかし多くの文献は(日本の現代音楽史や電子音楽史、あるいは、当事者である一柳もまた)、60年前半には日本でも「ライヴ・エレクトロニクス作品が作られていた」と述べている(川崎2006:30;日本戦後音楽史研究会2007a ;田中2001;一柳1998など)。現在の視点からはそれら(ケージ《カートリッジ・ミュージック》(1960)や一柳《弦楽器のための『スタンザス』》(1961))は確かにライヴ・エレクトロニクスなのだから、それらの記述は間違いではない。しかしここでは、それらは68年頃までは「ライヴ・エレクトロニクス」とは呼称されていなかっただろう、という事実を指摘しておきたい。

3ちなみに、『音楽芸術』誌上における「ライヴ・エレクトロニクス」というレッテルの初出は、1967年7月号「海外音楽の動向」の欄で、ケージが「「ライヴ・エレクトロニクス」と呼ばれているもので仕事」をはじめたと述べられている部分である(三浦1967:25.7:74)。しかし何の説明もない。

4一柳の二度目の帰国時の手土産は「ミニマル・ミュージック」だと位置づけられることが多いし、本人もそう述べている(川崎2006;田中2001;一柳1998;あるいは日本戦後音楽史研究会2007a: 465; 477-478; 488; 517など)。事実、一柳は帰国後、1968年に開かれた「オーケストラル・スペース」において、世界的にもかなり早い時期にライヒの《ピアノ・フェイズ》(1967)の初演を行った(日本戦後音楽史研究会2007a: 465)。しかし、一柳は帰国後のインタヴューでは、ミニマル・ミュージックについては一言も触れていない。

51970年1月に掲載された、秋山邦晴による帰国直後の高橋悠治へのインタビュー(高橋・秋山1970:28.1(1月号):57-61)では、早くも、高橋は、もはやライヴ・エレクトロニクスは最先端ではないと述べている。

「ライヴ・エレクトロニックはいままでの電子音楽に対抗するものとして出てきた。それだけに対抗という意味で終わっているところがあるわけ。実際、技術的には一歩も進んでいないし。かえって退歩している面があるんじゃないかな。」(高橋・秋山1970:28.1(1月号):58)

「ライヴ・エレクトロニクス」が浸透したからこそ、ライヴ・エレクトロニクスに対する「アンチ」の立場の表明が意義を持ち可能になった、と解釈できるだろう。

6おそらく『音楽芸術』誌上におけるこの作品名の初出は、白(ナム・ジュン・パイク)1961:25.3(3月号):13-17である。そこでは、《カートリッジ・ミュージック》(1960)という作品名と、これはレコード・プレイヤーのカートリッジを使うという情報が記されているが、「ライヴ・エレクトロニクス」という言葉は用いられていない(15)。また1962年のケージ・ショックの年に増えた多くのケージ関連記事においても、《カートリッジ・ミュージック》(1960)やその他の後に「ライヴ・エレクトロニクス」と呼ばれることになる作品が言及されるが、「ライヴ・エレクトロニクス」とは呼ばれない。

また、1962年の秋にケージとチュードアが来日したので、その前後には多くのケージ関連の記事があった。3月号の一柳の記事(一柳1962:20.3(3月号):14-19,47)では、《カートリッジ・ミュージック》(1960)の楽譜図版二枚とそれぞれの説明文「20枚の紙に書かれた1から20までのパターンのうちの1枚。6パターンのもの。選んだパターンの数と同じだけのカートリッジを用い、カートリッジ1つにつき1個ずつのアムプリファイアーとラウドスピーカーを備え付ける。」「各1枚ずつの黒点、白丸、点線、ストップウォッチの図形のプラスチックを重ね合わしたもの。」(15)が掲載されているが、「ライヴ・エレクトロニクス」という言葉は用いられていない。また、音楽芸術では12月号に「特集1 JOHN CAGE」「特集2 不確定性音楽の問題と意見」が組まれたが、「ライヴ・エレクトロニクス」という言葉は用いられていない。

7なぜ、《カートリッジ・ミュージック》(1960)は初めから「ライヴ・エレクトロニクス」と呼ばれなかったのだろうか。推測だが、おそらく60年代前半の日本では「ライヴ・エレクトロニクス」という概念やレッテルよりも先に、「不確定性」や「偶然性」といった ケージの50年代の思想を解説せねばならなかったからではないだろうか。だからこそ1968年の段階でも、ケージが既に8年前に開始したライヴ・エレクトロニクス(後年の一柳は、一度目のアメリカ留学時にケージと知り合った頃に、ケージはライヴ・エレクトロニクスという音楽を行っていたと述べるのだから、その存在は認知していたはずだ。)が、日本ではまだ「音楽の未来」として機能する、と考えられたのではないだろうか。ちなみに蛇足だが、後年、一柳は、「バイオ・フィードバック・ミュージック」の音楽的背景に、ライヴ・エレクトロニクスを位置づけることになる(一柳1973:一柳・高橋1973:77-78)。一柳がある種の進歩史観を背景に「ライヴ・エレクトロニクス」を輸入しようとしたことの傍証と言えるかも知れない。

8その他の誤解事例について。

入野・諸井・松平1969:27.11(10月号):26-32は、この後三ヶ月続く60年代の日本の作曲界回顧特集の一回目で、「特集 1960年代の日本の作曲1―管弦楽曲」における「鼎談 ’60年代の傾向」というものだが、ここではライヴ・エレクトロニクスは、「コンタクトマイクの問題と関連して」(30)言及され、「電子音楽の生演奏」という常套句で説明されるだけで、それ以上の議論はなされず、次の話題に移っている。 また、松平1970:28.7(7月号)も同じレコード評だが、ここでは、ライヴ・エレクトロニクスを開拓した作曲家はシュトックハウゼンである、と述べられる。

9その他の無視事例について。

遠藤1969:27.3(3月号):56-60は「電子音制作の一例―柴田南雄作曲<電子音のためのインプロヴィゼーション>の場合」という記事だが、ここでは(この作品は一つの作品における電子音作成を解説するものだから当然なのだが)「ライヴ・エレクトロニクス」については全く言及されていない。

また、1969年2月号には秋山が具体音楽の創始者ピエール・シェッフェルについて解説記事を書き、7月号ではインタビュー記事が掲載されている(秋山1969:27.2:58-63(秋山邦晴「<異端の作曲家8>P・シェフェール」);シェフェール・丹波1969:27.7:56-61(ピエール・シェフェール・丹波正明「<インタヴュー><フランスの現代作曲家4>ピエール・シェフェール」))。しかしいずれにおいても、具体音楽が発展していった帰結として現在では「ライヴ・エレクトロニクス」やコンピュータ音楽が登場した…といった言及はない。

10それぞれ、「クロストーク/インターメディア・アート・フェスティヴァル」(1/18,19,21/'69、日経ホール、銀座ディスコテークなど)と「クロストーク/インターメディア」(2/5-7/'69、代々木国立競技場第二体育館)、「現代の音楽展'69」(2/10/'69、日比谷公会堂)、「第三回日独現代音楽祭」(2/17,22/'69、東京文化会館小ホール)。

以下、補足説明。

60年代には現代音楽関連のフェスティバルが盛んに行われた。「現代の音楽展」(1967-73)、「日独現代音楽祭」(1967-72)、「クロス・トーク~日米現代音楽祭~」(1967-71)、「オーケストラル・スペース」(1966,68)、「民音現代作曲音楽祭」(1965-95)などである(日本戦後音楽史研究会2007a: 443-449; 450-478)。これらの現代音楽祭の興奮は1970年の大阪万博で頂点に達し、その後、実験主義や前衛音楽の方法論上の鮮度が急速に失われ、「こうして「前衛の時代」は幕を閉じたのである。」(447)と見なされることになる。60年代の現代音楽フェスティヴァルの隆盛と「前衛の終焉」との関連は、興味深いトピックだが、本論の枠組みを超えている。今後の課題として記しておく。

11あまり明確な説明ではないが、塩見は、「インターメディア」とは音楽の媒体に対して意識的な音楽として説明している。どうやら当時の「インターメディア」という観念は、ディック・ヒギンズが唱えた「インターメディア」とは異なるもののように思われるが、本論では検討しない。

121969年10月号、XYZ1969:27.11(10月号):14-15(XYZ「ぽわん・どぅ・ヴゅ」)では、電子音楽の未来として、ライヴ・エレクトロニクスと「コンピュータ音楽」の双方の名前が挙げられている(挙げられるだけで実質的な議論はなされないが)。これは、ライヴ・エレクトロニクスを「コンピュータ音楽」と同じレベルの音楽として認めようとする傾向があったことを示すだろう。

13以下は推測に過ぎないが、今後の課題として記しておく。

進歩史観に基づく現代音楽史が、基本的に「作曲家によって書かれた音楽」の歴史であったことを考えると、進歩史観の崩壊とライヴ・エレクトロニクスが「書かれていない音楽」であることとの間には、何らかの関係があると考えるべきだろう。それが何かはまだ明言できない。ただ、この時期以降、現代音楽史は、ライヴ・エレクトロニクスという「書かれていない音楽」を認知する歴史と、認知しない歴史とに分裂していった、と考えることは可能かもしれない。「書かれていない音楽」を認知しない歴史は、電子音楽の未来として「コンピュータ音楽」を要請することだろう。だとすれば、ライヴ・エレクトロニクスを排斥する歴史と認知する歴史との分裂を、ゲンダイオンガクの複数化、音楽の分裂という事態を示すものとして記述・解釈することも可能かもしれない。

14アメリカの電子音楽について。

諸井《7のヴァリエーション》が放送され、シュトックハウゼンの初期作品集SP『電子音楽 習作I、習作II、若人の歌』(日本グラモフォン)が発売された1956年、『RCA電子音楽シンセサイザーの音と音楽』(ビクター)というLPが発売された。これはアメリカの電子音楽のレコードで、バッハやブラームスといったクラシックの小品や、ディズニーの『バンビ』の音楽などを電子音楽にしたものだった(田中2001:78-80)。

このレコードを、当時の日本の「電子音楽」の作曲家は不可解に感じたらしい。例えば諸井は「アメリカの電子音楽」は「思想が違う」と感じた。彼は「アメリカの電子音楽なんてのは、違うと思ってたのね。僕らの考える音列主義ってのとは、事実違ってたわけだしね」と語っている(田中2001:78)。また同時期の批評(雑誌『ラジオ技術』56年4月号)には、黛の「根本の目的は電子音楽とは全然ちがうと思う」「現在のようなミュージック・シンセサイザーの仕事では、あれも電子音楽のひとつであるとなると、一般の電子音楽に対する認識が混乱されると思います」という言葉もある(78)。ちなみにこの記事によれば、TBSラジオ番組『科学の眼』で55年12月5日にこのレコードが紹介され、リスナーは「アメリカの電子音楽はわかりやすい」という反応を示したらしい。記事は「日本人の99%以上の人が」「つまり前時代のぬけきらない人が多いのだろうということを示している。」と述べて結ばれている(78)。

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