2014年03月 中川克志、金子智太郎「[調査報告] 日本におけるサウンド・アートの展開―80年代後半の「サウンド・アート」の展覧会をめぐって―」
日本におけるサウンド・アートの展開
―80年代後半の「サウンド・アート」の展覧会をめぐって―
中川克志+金子智太郎
The Development of Sound Art in Japan - Two Exhibitions of 'Sound Art' in the latter half of 1980s: "moments sonores" at Tochigi Prefectural Museum of Fine Arts in 1989, and "Discovery of Modeling: in the Case of Sound" at National Children's Castle in 1986 and 1987
(ここで公開している論文たちには校正での訂正が反映されていない部分があり、実際の掲載稿とは若干相違があります。また図版は掲載していません。引用などの場合、必ず、公開された原文をご参照ください。)
はじめに
三回目の調査では、日本におけるサウンド・アートが美術の文脈でどのように組織されてきたのかを探ることにした。前回の本調査報告では80年代後半における同時代の美術が音楽に対して向けた関心の調査を課題としてあげた。今回はこの課題に関連するふたつの事例を紹介する。ひとつは、音楽ではなく音を用いた子どものためのワークショップを作家とともに行っていた『造形発見展:音と造形』展(こどもの城、1986年と1987年、以下『音と造形』展)。もうひとつは、日本におけるサウンド・アートの先駆的な展覧会といえるだろう『音のある美術』展(栃木県立美術館、1989年)である。両展はいかなる背景のなかで、どのような経緯で企画されたのか。こうしたことを明らかにするため、80年代後半に両展に携わった当事者にインタビューを行った。お話を伺ったのは、こどもの城センター事業運営部課長の有福一昭氏と、栃木県立美術館学芸課特別研究員の杉村浩哉氏である(共に肩書きは現在のもの、以後敬称略)。お二人には長時間に渡り興味深いお話をお聞かせいただいた。記して感謝したい。
本調査報告では『音と造形』展、『音のある美術』展を順に取りあげる。まずそれぞれの展示の概要を述べた後、インタビューにもとづいてこれらの開催経緯および背景をまとめた。
1.『音と造形』展(こどもの城、1986年と1987年)の場合
まずお話を伺ったのは現在こどもの城センター事業運営部課長の有福一昭である。2013年3月28日に青山にある「こどもの城」事業部でお話を伺った。有福は美術大学卒業後、85年開館時から「こどもの城」にスタッフとして参加し、『音と造形』展の企画、運営にも深く関わっていた[1]。インタビューからは、同展の内容や関連イベントがアートの文脈だけではなく教育を念頭に置いて行われた事業だったこと、80年代の日本における音楽、音を使ったパフォーマンスや展示の状況、とりわけいわゆるセゾン文化の一部から色濃く影響を受けていたことが明らかになった。
1.1. 概要
『造形発見展:音と造形』展はこどもの城造形事業部の『造形発見展』シリーズのひとつとして、1886、1987年の二回、夏休みの時期に開催された。同シリーズは毎回異なるテーマを掲げ(次節参照)、鑑賞、体験、制作が組み合わさった複合的なワークショップの形式を取っていた。1996年に同事業部が出版した冊子『音体験』のなかで、同展の概要が紹介されている。
同展に参加した作家には、鈴木昭男、松本秋則、加藤到、WAY、MUSA、金沢健一、吉村弘、横尾哲生らがいた。作家たちはワークショップにそれぞれの作品を「サウンド・オブジェ」、「音具」として展示した。子どもたちはその多くに触って音を出し、演奏することができた(画像1,2)。展示物には秋山邦晴らが多摩美術大学で復元した「イントナルモーリ」や、サウンド・オブジェの写真と録音などもあった。さらに、作家の作品に混じって、造形事業部スタッフが創作したさまざまな「音具」が置かれていた(画像3)。これらは音の出る玩具やメディア、子どもの音遊びから発想を得た音具が多かったようだ。スタッフの手によるものとはいえ、壁や天井を埋める大掛かりなものもあった。会場に設置されたステージには、民族楽器も置かれていた。イベント・ワークショップでは松本の指導の下、子どもたちは音具を自分の手で創作することもできた。また、開館中は、いつでもスタッフ考案の音のプログラムを制作できた。
以上のような展示に加えて、各作家が組織するイベントも開催された。例えば、鈴木昭男は「音の展覧会」と題したイベントで、子どもたちに即興的に絵を描かせ、それをいわば楽譜のように使って創作楽器「アナラポス」の演奏を披露した(画像4)。吉村弘の「耳をすます」というイベントでは、吉村の制作した空き缶をつないで筒状の楽器を使って簡単なルールにもとづく偶然を取り入れた合奏を行った(画像5)。子どもたちは座って鑑賞することもあれば、演奏することもあった。
こうして見ると、作家、子どもたち、スタッフが織り成す同展が非常に複雑で柔軟な構造を持っていたことがわかる。特に子どもたちは、展示を鑑賞し、作家や他の子どものパフォーマンスを鑑賞し、音具を体験、制作、演奏、合奏するという、きわめて多岐に渡る活動をひとつの機会で経験することができたわけだ。
後に詳しく述べるが、有福によると展示には音を発するプロセスが子どもたちに理解できるような作品や音具が選ばれた。シンセサイザーのようにこのプロセスが「ブラックボックスに入っている」ものは避けられた。とはいえテクノロジーをまったく排除したわけではなかった。加藤到は磁気テープを床に貼り、磁気を読み取るヘッドを取り付けたラジコンカーをその上に走らせた。鈴木昭男はラジオのノイズを拾うパフォーマンスを行った。
『音と造形』展には子どものためのワークショップに加えて、一般成人のために企画されたイベントもあった。音響彫刻のような創作楽器を演奏するニュージーランド出身の三人組ユニット、フロム・スクラッチ(From Scratch)や鈴木昭男、吉村弘によるコンサート、『目で聴くパフォーマンス サウンド・ウォッチング』(1986年7月30日から8月3日まで)である。同イベントのカタログには坂本龍一らが寄稿し、ピーター・バラカンらの紹介によって多くの反響があったという。
1.2. 開催経緯
そもそも、こどもの城の活動目的は「全国的な規模での児童館活動の活性化を目的として、プログラムの企画立案・実施にいたるまでのノウハウを各地の児童館などに紹介し、それをもとに情報を交換しあう」ことである[2]。同組織には体育、プレイ、造形、音楽、AV(オーディオ&ヴィジュアル)という5つの事業部があった。各事業部は基本的に単独で企画を行い、ときに協力し合うこともあった。
造形事業部の趣旨は、子どもたちに「形の識別の力、色彩の区別、バランス感覚、対象を触ったときに感じる感覚、物の運動に対する感じ、点や線あるいは平面から立体への発想、量をどのように捉えるかという感覚、また聴覚や味覚などの領域に及ぶ感覚など」「感性の世界を体験」させることだった。そのために造形事業部では「子どもの造形体験を〈素材=材料〉の側面から行う「素材との出会い展」、子どもの造形体験を〈造形の隣接領域=音楽・科学など〉の側面から行う「造形発見展」、〈素材・道具・技法〉を視覚を通じて体験させる「オープンスタジオ」」という三種類のワークショップを開催してきた。「素材との出会い展」で取りあげられたのは、「紙と造形」「木と造形」「土と造形」といったテーマだった。そして、「造形発見展」では「光と造形」「空気と造形」「音と造形」「建築と造形」「絵本と造形」などのテーマを扱った。
有福によれば、「造形発見展」で一般的には造形と直接関係のない「音」が取りあげられたのは、造形事業部が音楽とは別に、造形の隣接領域として音を扱う活動を位置づけたからである。音と音との組み合わせや演奏ではなく、音が出る仕組みや音を出す楽器の構造が重視されたわけだ。『音と造形』展のコンセプトも「音楽になる前の音を素材として扱うこと」であり、「音楽ではない何か」が重視された。こうした姿勢は現在のサウンド・アートにも受け継がれていると言えるだろう。
1.3. 背景
このように、「こどもの城」は基本的には子どものための施設であり、『音と造形』展も含め、そこで行われた企画のほとんどは子どものために企画されたものであった。有福によれば、こうしたこどもの城の運営理念には、ブルーノ・ムナーリ(Bruno Munari, 1907-1998)の影響もあるとのことである。ムナーリは芸術家としての活動のなかで、ワークショップを非常に重視しており、自らも頻繁にワークショップを行なっている。こどもの城は、その柿落としの時にムナーリを招聘したこともあった[3]。
有福は『音と造形』展が80年代の日本の状況から大きな影響を受けていたと語った。彼によれば、このころは美術と音の接点はいくつもあり、特に重要だったのが西武美術館8階にあったスタジオ200だった。収容人数200名程度の同施設は先端的な映像、コンサートやパフォーマンス、あるいは舞踊や落語など様々なイベントが開催され、吉村弘や松本秋則、鈴木昭男らもしばしば出演していた。こどもの城開館前から有福やこどもの城の他のスタッフも通っており、ここから受けた様々な刺激をこどもの城の事業に活かしていったという。これに並んで、同じくセゾングループでは六本木のレコードショップWAVEや、東京のギャラリーでは鎌倉画廊、ギャラリー山口、村松画廊、ときわ画廊などの名前が挙がった。
有福はまた当時、未来派に対する関心の拡がりや、80年代前半に「サウンドスケープ」概念を提唱したレイモンド・マリー・シェーファー(Raymond Murray Schafer, 1933-)が来日したことなども、美術において音が注目されるきっかけになっていたと語っている。
2.『音のある美術』展(栃木県立美術館、1989年)の場合
次に2013年3月28日に栃木県立美術館で、現在栃木県立美術館学芸課特別研究員の杉村浩哉氏にお話を伺った。1958年生まれで有福とほぼ同世代の杉村は1985年に栃木県立美術館に入り、31才で『音のある美術』展を企画した。インタビューを通じて、この『音のある美術』展もこどもの城『音と造形』展と同様、市民教育――この場合、美術館による――の一環として行われた事業だったことが明らかになった。
2.1.概要
『音のある美術』展は1989年8月13日から9月24日まで開催され、国内から伊藤隆康、WAY、牛島達治、金沢健一、小杉武久、鈴木昭男、田辺光彰、坪井昭憲、藤原和通、藤本由紀夫、本郷重彦、増田感、松村要二、横尾哲生、吉村弘が参加した。またジョー・ジョーンズ(Jo Jones, 1911-1985)、フェリックス・ヘス(Felix Hess, 1941-)の作品や、ミラン・ニザック[ママ] (Milan Knizak, 1940-)の《ブロークン・ミュージック》(1983)のレコード、ラ・モンテ・ヤング(La Monte Young, 1935-)らの著作『アンソロジー』(1963, 1970(2nd Ed.))といった資料、さらに『音と造形』展にもあったイントナルモーリの再現も展示された(画像6,7,8,9)。
展示作品の傾向としては金属や木材を用いたいわゆる音響彫刻が目立つ。これらはオブジェとしての形態や運動、存在感がそこから鳴る音と並ぶ重要性を持っている。また、こうした作品はモーターなどによって自動的に音を発するものと、叩くなどして演奏できるものに分けられる。一方、電子音やスピーカー、マイクロフォンなど、オーディオ装置が中心となる作品は小杉とヘスの作品だけだった。
同展では展示に加えてパフォーマンス、レクチュア、ワークショップなどが毎週末に開催された。鈴木がパフォーマンスとレクチュア、吉村はサウンド・オブジェを制作するワークショップ、鳥越けい子がサウンドスケープに関するレクチュアを行った。藤原和通はバイノーラル・レコーディングを使ったレクチュアを行い、また彼が1974年に渋谷の野外に展示した巨大な音具《音響標定》のドキュメンタリー映画を上映した。
展示カタログには庄野進と恩地元子、また担当学芸員の杉村が解説を寄稿した(画像10)。「眼と耳が交差する時」と題された庄野の論考では、20世紀における音響彫刻と創作楽器の歴史と思想を概説した後、その流れがB・フォンタナやM・ニューハウスのサウンド・インスタレーションに受け継がれたことを論じている。恩地は主に70年代、80年代のヨーロッパと日本における、音や音楽と関わる美術展を紹介した。杉村は美術館におけるBGMの利用などに言及しつつ、栃木県立美術館の活動や同展のねらいを解説している。
杉村によれば、同展は成人にも子供にも人気で入場者も比較的多かった。触って音を出せる作品がいくつもあったため、常設展の作品にも手を出してしまう子供たちも少なくなかったという。また、杉村は同展を振り返って、展示全体の「音の配置」に苦労したと語っていた。この問題は現在も音を使った作品の展示にとって未解決の課題と言えるだろう。
2.2.開催経緯
『音のある美術』展に先立ち、栃木県立美術館では毎年夏休みの時期に美術館教育を趣旨とする展示を開催していた(「背景」で詳しく述べる)。同展の2年前、1987年に企画された『彫刻動物園』展は「夏休みに親子で楽しめる、体験型の現代美術の展覧会」として企画され、子どもたちが作品に触って楽しめる点が好評を得た。『彫刻動物園』展と同趣旨の次の企画を考えていた杉村は同僚から、同展の評価を受けて触覚をテーマとする展示はどうかと提案されたという。しかし、杉村はこのテーマに応じた展示案が思い浮かばなかった。代わりに思いついたのが、触覚ではなく聴覚、音をテーマとする展覧会だった。したがって、『音のある美術』展はそもそも美術教育の必要性から生まれた企画であり、サウンド・アート展のパイオニアたらんとする意志も、同時代の音を使った美術作品の状況を総括しようといった意図もなく、「普及教育的な展覧会だからこそ許される自由」を感じながら比較的自由に企画したものだったそうである。
2.3.背景
1980年代に重視されだした美術館教育の流れを受けて、栃木県立美術館では1980年代後半からさまざまな試みが始まっていた。例えば、高校の美術教員が学芸課に所属し美術館教育について検討する、といった取り組みが行われた。『彫刻動物園』展や『音のある美術』展はこうした動向を背景としている。また、栃木県立美術館ではこうした取り組みに先立って、音楽を使うことで「開かれた美術館」を実現しようと試み、1972年の創立後まもなく70年代前半頃から毎年数回コンサートを開催していた。『音のある美術』展の前年、1988年4—6月に行われた『アメリカの美術・1945年以後』展の会場では、吉村弘と芦川聡の環境音楽をBGMとして使用していた。この試みは『音のある美術』展カタログのなかで触れられている。つまり、同展は美術館が教育やイベントを通じて社会と接続しようとする取り組みの産物だったと言ってもいいだろう。これは同展とこどもの城『音と造形』展の共通点のひとつである。
もうひとつの共通点は、有福と杉村がともに同時代の状況から大きな影響を受けていたと語ったことである。彼らが具体的にあげた作家や場所、動向は少なからず重なっていた。杉村はまず、同時代の音楽の動向に継続的な関心を持っていた。彼はクラシック音楽からスティーヴィー・ワンダー、さらに当時のアヴァンギャルド、環境音楽―ブライアン・イーノやECMレーベル、民族音楽―まで、さまざまなジャンルの音楽を聴いていた。
杉村はまた、同時代の美術作家が音を使った表現を展開していく状況を追っていた。例えば、前回と前々回の本調査報告でとりあげた吉村弘氏や『サウンド・ガーデン』展、WAYの活動は『音のある美術』展以前から関心を持っていた。西武美術館横のアール・ヴィヴァンでは「音具」が販売されており、杉村は関心を持ち続けていた。先に言及したスタジオ200には、就職して栃木県に移ってからもしばしば通っていたという。当時から音を使った作品を展示していた鎌倉画廊や村松画廊、岡崎珠子画廊にもよく足を運んだ。杉村はこうしたネットワークを通じて『音のある美術』展の出品作家を選んでいった。藤原和通は岡崎珠子画廊で、藤本由紀夫は大阪の児玉画廊で知ったという。フェリックス・ヘスを出品作家に加えることができたのは、ちょうどそのころにギャラリー360°が彼を招聘したからだった。
杉村は『音のある美術』展カタログで庄野や恩地が紹介したような海外のサウンド・アートをまとまった動向として認識していたわけでも、それを日本に紹介しようとして同展を企画したわけでもなかったという。開催経緯からも、杉村がこうした作品を専門的に研究していたのではないことがわかる。したがって、同展の企画は、杉村が直に接していた同時代の日本の文化的状況から大きな影響を受けていたと考えていいだろう。
3.まとめ
今回、調査報告者たちはふたつの事例の企画者[1]にインタビューすることで、開催の経緯とその背景を調査した。ひとつは『音と造形』展(こどもの城、1986年と1987年)、もうひとつは『音のある美術』展(栃木県立美術館、1989年)である。いずれも80年代後半に同時代の美術関係者(造形事業部スタッフ、美術館学芸員)が音に関心を向けた事例であり、また、日本におけるサウンド・アートの先駆的な展覧会といえるだろう。この調査で明らかになったのは、まずどちらも教育を趣旨として企画された展示だったことである。 また、どちらの企画者も80年代の東京を中心とする美術・音楽文化、とりわけいわゆるセゾン文化を背景としていたということである。さらには、「日本におけるサウンド・アートの展開」にはある種の美術教育(美術を通じた教育)の文脈が深く関わっていたことも明らかになった。これは海外におけるサウンド・アートの展開にはあまり見られない日本独自の特徴かもしれない。これは現段階では断言できないが興味深い問題である。『音と造形』展と『音のある美術』展は、ともに日本におけるサウンド・アートの初期の事例と言っていいだろう。これらの開催経緯と背景にかなり共通点があったことは今回の調査において印象深かった。
現段階ではこの調査結果についてどう考えるべきかよく分からない。日本におけるサウンド・アートの展開を調査しようとする本研究の今後の課題としては、80年代セゾン文化と日本におけるサウンド・アートの展開の関係について考察すべきかもしれないし、あるいは、前回からの積み残しとして、関西の動向、海外のサウンド・アートからの影響などを検討する必要もあろう。さらには、今回は見送った、日本におけるサウンド・アートの史的展開の厳密な調査にも手を付けねばなるまい。この調査報告は直接的に歴史記述を志向するものではないが、その下地となる調査を今後も継続していく予定である。
注
1.
「音と造形」展は、当時、造形事業部長・岩崎清(現ギャラリーTOM副館長)を中心に、造形事業部スタッフ・田嶋茂典(元愛知県児童総合センター顧問)が企画、前田ちま子(現名古屋芸術大学教授)、有福がサポートする形で実施した。
2.
こどもの城ウェブサイトより(http://www.kodomono-shiro.net/index.shtml)。
3.
近年、ムナーリの造形に係る活動については展覧会が開催されるなど研究が進みつつあるが、音に対するムナーリの関心については資料がないとのことである。記して研究状況の不備に注意を喚起しておく。
参考文献
『こどもの城の10年』 平成9年3月31日 (財)児童育成協会。
こどもの城造形事業部(編著) 1996 『音体験(おとたいけん)』 発行:(財)日本児童手当協会。
こどもの城造形事業部 1986 『目で聴くパフォーマンス: サウンドウォッチング』 協力:こどもの城、ニュージーランド大使館、青山円形劇場 東京:こどもの城。
栃木県立美術館 1989 『音のある美術 moments sonores』 展覧会図録(1989年8月13日-9月24日)。
『スタジオ200活動誌 1979-1991』