2012年11月 現代音楽の「現代」ってなに?

現代音楽の「現代」ってなに?

この原稿は、PR誌『春秋』543号(2012年11月号)に掲載されたものを転載しています。

『春秋』に掲載されたもの(中川克志 2012 「現代音楽の「現代」ってなに?」 『春秋』543(2012年11月号):5-8。 )には 2.「現代音楽」と「クラシック音楽」 の部分に誤植があります。ここでは正しいバージョンを掲載してあります。しかしこのウェブ版には初校時の校正での訂正が反映されていない部分があるかもしれません(たぶんあまりないはずですが)。引用などの場合、必ず、公開された原文をご参照ください。

1.現代音楽ってなに?

大学の授業で学生に「現代音楽」について話すと、多くの生徒はポカンとします。たぶん今まであまり触れる機会もなかったであろうし、無理もありません。ほとんどの学生は「現代音楽」というくらいだから最近流行ってる音楽のことだと推測しますが、実際は違います。「現代音楽」という名称は「現代の音楽」を代表する音楽という意味ではないのです。授業では「『現代音楽』とは20世紀以前の西洋芸術音楽が20世紀以降に示した展開で、いろいろある『現代の音楽』のなかのジャンルのひとつだ」と説明します。

とはいえ、もちろん釈然としないものが残ります。「現代音楽」というレッテルはまるで「現代の音楽」すべてを代表するかのような名称なのに、「現代音楽」とはかなり限定された種類の音楽のようだ、ではなぜそのような音楽が「現代」音楽と呼ばれるのか? そのような疑問を誰もが感じるでしょう。

その答えは単純です。西洋芸術音楽の末裔であるこの「現代音楽」がある種の人々の間では「現代の音楽」すべてを代表する規範的な音楽として考えられていた時代があったのですが、その時代が終了し、そもそも「現代の音楽」すべてを代表する規範的な音楽などあり得ないことが広く意識されるようになった後も、そのレッテルだけが使われ続けているといったことが理由に挙げられます。おそらく1970年代までにはそうした認識の変化が生じたと思います。

しょせんはレッテルなので、あまりこだわっても仕方がないですし、たいして大きな問題ではありません。とはいえ、せっかく「現代の音楽」すべての代表であるかのように勘違いできる「現代音楽」というレッテルがあるのだから、ここはひとつ、現代音楽が「現代」音楽と呼ばれる積極的な理由を考えてみたいと思います。「現代音楽」というレッテルにふさわしい音楽とはどのようなものか、考えてみましょう。

2.「現代音楽」と「クラシック音楽」

「現代音楽」とは西洋芸術音楽が20世紀に示した展開だ、と先ほど言いました。作曲家が五線譜に音符を書くことで音楽作品を創作するのが西洋芸術音楽だとすると、それは大きく、20世紀初頭を境にそれまでに作曲された「クラシック音楽」と、それ以降に作られた「現代音楽」とに分けることができます。「クラッシック音楽」とは、コンサートホールで演奏される西洋芸術音楽の大半―20世紀初頭までに作られた音楽、つまりバッハやモーツァルトやベートーヴェンなどの音楽―のことです。たいして、「現代音楽」とは西洋芸術音楽だけれど「クラシック音楽」として親しまれてはいないものだ、と考えることもできるでしょう。この場合、偉大な作曲家の発展史としての西洋芸術音楽史は20世紀初頭に終焉し、代わりに偉大な演奏家や指揮者たちの時代が始まった、と考えるわけです。とはいえ、20世紀以降にも作曲家たちは芸術音楽を創作し続けてきたわけで、それを「現代音楽」だとするわけです。

3.二つの流れ――アメリカとヨーロッパ

こうした「現代音楽」には、ヨーロッパ的な前衛音楽とアメリカ的な実験音楽というふたつの流れがあります。

ヨーロッパ的な前衛音楽とは、20世紀初頭のシェーンベルクら新ウィーン楽派の流れを進化させたもので、戦後にダルムシュタット夏季現代音楽講習会を中心に形成されたものです。ピエール・ブーレーズやシュトックハウゼンといった作曲家が代表です。シェーンベルグの十二音技法が発展し、音楽におけるあらゆる要素―音高、音の長さ、強さ、音色等々―をパラメーター化してコントロールしようとするトータル・セリエリズムが登場しました。ざっくりいって、これは、システマティックに音楽構造をゼロから組み立てようとする西洋合理主義的な音楽です。世界に存在するあらゆる事象を理解し、分析し、再構成しようとする、理性による世界統治への欲望に貫かれた音楽です。

他方アメリカ的な実験音楽とは、20世紀前半のアメリカの作曲家、チャールズ・アイヴスやヘンリー・カウエルといった作曲家の流れを汲むもので、何よりも、「実験音楽」というジャンル(名)の生みの親ジョン・ケージと、ケージからの影響が強い音楽のことです。ざっくりいうと、こっちはなんだかヘンな音楽です。ケージ以降の実験音楽の特徴は前衛音楽とは反対で、作曲家が最終的な音響結果を確定しないというものです。これは「音をあるがままにせよ」というケージの理想を追求した帰結で、このためにケージは、偶然性の技法―要するにサイコロを振って音の高さや長さを偶然的に決めて作曲する技法―や環境音を音楽制作に使いました。最終的な音響結果から作曲家の関与を切り離すことでケージは、「音をあるがまま」にして「非個人的な音の流れ」を出現させることに尽力したのです。ケージにとって音とは、作曲家が操る操作対象ではなく、それ自体が独立したある種の擬人的な存在です。前衛音楽が噴水から出てくる水の配置を隅々まで計算するものだとすれば、実験音楽は噴水の仕組みを設計するものだと言えるでしょう。

このような実験音楽の面白さは和音の面白さやメロディの素晴らしさにあるわけではありません。例えば、初めて偶然性の技法で作曲されたケージの《変化[易]の音楽》(1951)には、覚えやすいメロディや感情を高揚させる和音の積み重ねはありません。「表現」とは無縁の「非個人的な音の流れ」とでも言えるでしょうか。「感情的内容や物語的内容を交えずにただ音を聴くこと、それだけでも面白いこと」を教えてくれることも、こうした作品の面白さなのかもしれません。ともあれケージは、確定した音と音との関係性を五線譜上に固定すべし、という作品至上主義―あるいは楽譜至上主義―を否定し、音楽の様々なあり方を探求する土壌を提供した存在として重要です。ここから、「ケージ以降」、「現代音楽」を超えたさらに多様な広がりが生じるからです。

4.メタ音楽としての「現代音楽」

このように、「現代音楽」とはある特定のジャンルのためのレッテルで、「現代の音楽」すべてを代表する音楽ではありません。僕は誤解を避けるために、ときどき、「ゲンダイオンガク」とすべてカタカナで書くこともあります。とはいえ、せっかくなのでここはひとつ、「現代」音楽というレッテルについてちょっとしたことを提案してみたいと思います。

「現代音楽」を「メタ音楽として機能する音楽」のためのレッテルとして使う、というのはどうでしょう。メタ音楽とは「音楽とは何かを考えるための音楽」と考えてください。音楽に対する柔軟な思考を可能とすることで音楽の様々なあり方を考えさせる音楽のことを、現代の音楽のあり方全般に反省を加える音楽として「現代音楽」と呼ぶのです。こういう提案をするのも、過去あるいは現在のゲンダイオンガクの最良のものはそのような機能を持っていた(る)ように思うからです。

例えばケージの《4’33’’》という曲があります。この有名な作品は、舞台に上がった演奏者が何も演奏しないことで、聴き手がその場で発せられている環境音に注意を向けたり「聴く」という行為に意識的になったりする、そのきっかけとして機能する作品です。この作品は、「音とは何か」とか「聴くという行為にはどのような可能性があるか」といった問いを喚起することで、音楽を取り巻く様々な概念や行為を根本から考え直すきっかけとなるメタ音楽として重要です。

またあるいは、「現代音楽」は、音楽には色々な存在の仕方が可能なことを教えてくれるものです。今年は世界各地でケージの生誕100年を記念するイベントが開催されていますが、そのうち少なくない割合のものが美術館などコンサートホール以外の場所で開催されています。ケージが音楽のための素材や方法を「拡大」したことで、音を発する視覚美術作品―サウンド・アートとかサウンド・インスタレーションと呼ばれるもの―がたくさん生み出されました。「どんな音でも音楽になる」というこれまたケージ的な理念の帰結として、音を発するこれらの視覚美術作品もまた「音楽」だと感じられることがあります。これらの作品は、「音楽」と「視覚美術」との境界線を曖昧にすることで「音楽」のあり方について改めて考えさせる、メタ音楽だと言えるでしょう。

5.音楽を考えるための音楽として

「音楽」とは色々なものであり得るのだと考えて懐を大きく構えることは、現代の音楽全般のあり方を考え直すきっかけとして役立ちます。というのも、「現代の音楽」は蛸壺化しているからです。おそらく今日、「音楽」という言葉が意味する対象はひとによって様々で、ひとは自分の好むジャンルの音楽だけを「音楽」として語ります。JPOP好きはJPOPを、ジャズ好きはジャズを、ゲンダイオンガク好きはゲンダイオンガクを。というように様々な音楽(musics)が併存している状況下で、「現代の音楽」全般を広い視野から捉え返すような視点は残念ながらないように思うのです。

このような状況下で音楽に対する柔軟な思考を回復し、各ジャンル内部に自閉した思考から離れて「音楽」について広い立場から考え直させるメタ音楽は、「音楽」を取り巻く状況にコミュニケーションを回復させるのに役立つと思うのです。そのような音楽のことを「現代音楽」と呼ぶのはどうでしょうか。難解で閉鎖的でよく分からないものと思われることの多い「現代音楽」ですが、このように考えることで、なかなかステキなものになると思うのですが、いかがでしょうか。