2013年03月 大正期日本における蓄音機の教育的利用の事例

大正期日本における蓄音機の教育的利用の事例

―雑誌『音樂と蓄音機』と日本教育蓄音機協會の場合

(ここで公開している論文たちには校正での訂正が反映されていない部分があり、実際の掲載稿とは若干相違があります。また図版は掲載していません。引用などの場合、必ず、公開された原文をご参照ください。)

1.はじめに

本論では、大正期の雑誌『音樂と蓄音機』とこの雑誌が母体となって作られた「日本教育蓄音機協會」という団体の活動を、大正期日本における蓄音機の教育的利用の事例として取り上げて紹介する(注1)。そうすることで、大正期日本における蓄音機の位置づけや日本における音響メディアの展開の考察に貢献できるだろう。明治10年代に初めて輸入され明治30年代には一般層に浸透しつつあった蓄音機は、大正期には、音楽再生メディアとしてのみならずその他様々な用途での利用が模索されていた。そのなかで、音楽や語学の分野における蓄音機の教育的利用も模索されていた。そこで本論では、まず第二章で、大正期日本の音楽ー洋楽ーと蓄音機をめぐる状況と『音樂と蓄音機』のコンテクストを確認し、第三章で、音楽教育における蓄音機の利用を提唱するロジックを整理し、第四章で、「日本教育蓄音機協會」なる団体が設立されて国語教育レコードなるものが成立されたことを紹介する。

蓄音機の教育的利用の事例を検討することは、西洋芸術音楽の輸入プロセスの再検討や、本科研の目的である近代日本文化の近代化プロセスの再検討にも資するだろう。なぜなら、大正期は日本に「クラシック」の規範が誕生した時期だし(細川1998: 28-31)、 蓄音機を用いた音楽教育において鑑賞対象として想定されていた音楽の多くは西洋(芸術)音楽ー洋楽ーだったからだ。蓄音機の教育的利用の事例は、複製メディアを通じた「オリジナル=西洋芸術音楽」受容の事例のひとつなのである。

2.蓄音機の教育的利用のコンテクスト

大正時代の日本で、『音樂と蓄音機』という雑誌が創刊され日本教育蓄音機協會なる団体が創設された背景として、大正時代に、1)音楽―洋楽―と蓄音機が大衆化したこと そして 2)唱歌教育中心だった日本の音楽教育に音楽鑑賞教育論が登場したこと を指摘できる。洋楽と蓄音機(を用いた洋楽聴取)が大衆化した時代に音楽鑑賞教育論が登場したからこそ、大正時代の日本で蓄音機の教育的利用が様々に模索されたのである。

2.1.音楽―洋楽―と蓄音機の大衆化

明治以降の洋楽受容については多くの先行研究がある(堀内1968、神林2006、日本音楽教育学会2004「明治前期」の項、奥中2008、塚原1996など)。それらをまとめると、はじめは音楽取調掛を通じて教育音楽として輸入された洋楽がエリートに浸透するようになったのは明治20年代以降である。大衆レベルでは明治の中頃まで(唱歌以外の)洋楽を耳にする機会はほとんどなかったようだ。明治30年代にレコードの輸入販売や国産レコードの製造販売が産業として成立するようになってからやっと、鑑賞対象としての洋楽が、蓄音機の普及とともに、大衆に浸透することになったといえよう(倉田2006: 34-44など)。

2.2.大正期日本の音楽教育の変化:(蓄音機を用いた)音楽鑑賞教育論の登場

こうした音樂と蓄音機の大衆化を背景に、大正期には、それまで唱歌教育中心だった日本の音楽教育において、脱唱歌中心主義が唱えられ音楽鑑賞教育論が登場した(西島2009、日本音楽教育学会2004「音楽教育史」: 115)。大正期に蓄音機の教育的利用が様々に模索された所以である。

寺田貴雄は日本における音楽教育の軌跡を概観している(寺田2001-2002)。それによれば、明治40年代には音楽鑑賞(教育)に対する関心が生じ、一般愛好家向けの洋楽の解説書や音楽鑑賞教育に関する論考が発表されはじめた。明治43年には、日本の音楽教育史上、初めてタイトルに「鑑賞」が明記された論考―牛山充「學校に於ける鑑賞力と批判眼との養成」―が発表され、また大正4(1915)年には、小川友吉(青柳善吾)が「鑑賞的教授に就て」(大正4<1915>年2月)という論考を発表し、唱歌教授のみに偏っていた当時の音楽教育の状況を批判した。こうして大正4(1915)年頃から、先進的な教師たちは、唱歌科における鑑賞指導を試みはじめた。寺田は、大正5(1916)年の第七回全国小学校唱歌教授担任中等学校音楽科担任教員協議会と大正10(1921)年の全国唱歌担任教員協議会を比較することで、 大正年間に生じた教育現場の変化を報告している(この二つの協議会の比較については、日本音楽教育学会2004「大正」: 561-562も参照)。それによれば、大正5(1916)年にはすでに、唱歌科における歌唱の技術的指導偏重を批判し、音楽聴取によって人間的な成長が可能になるとする主張が登場していた。そこでは、従来は歌う対象だった唱歌は聴く対象でもあることが主張され、唱歌科の授業に音楽鑑賞教育を導入すべしという音楽鑑賞教育論が主張されていた。大正10(1921)年の協議会では、唱歌科における鑑賞教育の必要性を説く報告はますます増加し、さらに、蓄音機を用いた音楽鑑賞教育の実践も幾例か報告されていた(注2)。

このように、大正の半ば過ぎから学校での音楽鑑賞教育の試みは活発化し、蓄音機を用いた音楽鑑賞教育指導が本格的に研究され始めた(注3)。大正13(1924)年には、日本の音楽鑑賞教育黎明期を代表的する二つの著作が刊行された。山本壽『音樂の鑑賞教育』(7月)(山本1924)と津田昌業『音樂鑑賞教育』(12月)(津田1924)である。いずれも、当時のアメリカの代表的な音楽鑑賞教育書だったヴィクター蓄音機社教育部の著作『Music Appreciation for Little Children』(MALC)を翻案したものである―これは、授業に使う曲目を録音したレコードの型番をたくさん収録した、半ば自社のレコード販売促進をはかる冊子だった―。いずれも、幼稚園から小学校三年生の子どもを対象に、どの学年の子どもにどの曲をどのように鑑賞させるかという具体的な指導方法や指導計画を、授業に用いる曲やレコードまで考慮に入れて日本向けに翻案したものだった(この二冊とMALCとの照応関係については寺田1999参照)。この後、昭和初期には日本の実情に即した日本独自の音楽鑑賞教育理論が提唱され始め、昭和16(1941)年には太平洋戦争下に交付された「国民学校令」において、日本の学校教育において初めて音楽鑑賞指導が法制上明文化されるのである。

2.3.雑誌『音樂と蓄音機』について

さて、以上が雑誌『音樂と蓄音機』と日本教育蓄音機協會が登場したコンテクストである。大正年間とは、蓄音機が家庭や人々に音楽を提供する音楽メディアとして機能し始め、また、音楽教育において音楽鑑賞論が勃興した時期だった。この時期に音楽鑑賞教育における教育的利用を模索したのが、雑誌『音樂と蓄音機』である。

雑誌『音樂と蓄音機』は、大正年間に横田昇一なる人物によって、音樂と蓄音機社から発行されていた雑誌である。大正4(1915)年に蓄音器世界社なる出版社から創刊された『蓄音器世界』という雑誌が前身で、7巻10号(大正9(1920)年)以降『音樂と蓄音器』へと名称を変更し(後に『音樂と蓄音機』へと名称変更)、関東大震災による一時休刊を挟み,昭和2(1927)年の14巻9号以降は発行された形跡はない。

本論では、この雑誌を大正年間の蓄音機の教育的利用の事例として取り上げたい。この雑誌は、当時蓄音機が教育界に普及していたことを示す事例だし(西島2009: 81-82, 94 - 95)、また、大正期に登場してきた蓄音機を用いる音楽鑑賞教育論の事例(日本音楽教育学会2004「大正」: 560)でもある。また、この雑誌あるいは横田昇一の目的は、一貫して蓄音機の教育的利用だった。この雑誌は、例えば、西洋芸術音楽を日本に啓蒙するために「良い」レコードをレビューしたり外国人演奏家に関する情報を知らせたり西洋芸術音楽史的な知識の啓蒙を目指す音楽ジャーナリズムではなかった。そうした目的も皆無ではなかったが、この雑誌の最大の目的は「聴覚教育の上に蓄音機の利用を以て奉仕」すること(音樂と蓄音機社12(1923): 10.8: 25)だった。『音樂と蓄音機』(に寄稿していた複数の論者)は、日本では美術教育などの「目の教育」はなされてきたが、「聴覚教育」あるいは「耳の教育」は閑却されてきたので、知的あるいは感情的な側面に問題が生じており、それゆえ蓄音機を活用した「耳の教育」が必要だ、ということを主張していた(栗山11(1922): 9.11「目と耳の教育」や日本教育蓄音機協會特集号(10.4)など)。つまりこの雑誌はレコードという新しいメディアの使い方を模索していた事例なのだ(注4)。

この雑誌で蓄音機を活用すべき領域としてとりあげられたのはおもに二つである。ひとつは「音楽的教養」に関する領域、もうひとつが「言語(国語)」に関する領域である。蓄音機は、日本に音楽―西洋芸術音楽―を普及させることで日本全国を教育するためのツールとして、あるいは教室で(日本の田舎の一教師が模範演奏をして事例を提示するのが困難な)西洋芸術音楽の実物=「ホンモノの芸術音楽」を提示するためのツールとして、考えられた。また蓄音機は、(地方では訛りのある教師が模範を提示することが困難な)標準語―国語―=「ホンモノの日本語」を提示して国語―標準語―を教育するためのツールとして、考えられた。

以下、次章では音楽教育における蓄音機の利用を1)音楽の普及 と 2)音楽の教育―音楽演奏教育と音楽鑑賞教育― を目的とするものに分類して紹介した後、章を改め、語学教育における蓄音機の利用を模索した事例として、日本教育蓄音機協會について紹介する。

3.音楽における蓄音機の教育的利用

3.1.音楽の普及:日本社会における西洋芸術音楽の浸透

蓄音機はまず第一に、日本社会に音楽―西洋芸術音楽―を普及させ、そうして日本社会全体を向上させる道具として理解された。蓄音機を使うことで、大衆は、低級な浪花節だけではなく、生演奏に触れる機会を持つことが難しい高級な西洋芸術音楽を聴けるようになり、知的あるいは感情的に成長できる、とされたのだ。つまり、蓄音機は音楽を社会に浸透させることで日本社会全体を向上させる最新のハイテクノロジーとして、大衆啓蒙に役立つ機械として理解された。

例えば、佐久間鼎「楽壇から民衆へ」(佐久間11(1922): 9.8: 9-16)では蓄音機という最新テクノロジーが果たす文化的貢献への期待が表明されている。佐久間によれば現代社会は「文明の利器」(10)を利用する社会である。それゆえ、当時利用され始めた無線電話は普及すれば「耳によつて丁度今日新聞が行つてゐるやうな仕事を一層迅速に一層直接に報道する」(10)ことに役立つと推測される。要するに、ラジオは演説や音楽を家庭に伝達するのに役立つだろうと推測される。しかし、佐久間によれば「一方に於てその日〳〵(中川:くの字点)に讀み捨てゝ行く日刊新聞を必需品とする現代の生活は、他方に於て同時に保存に適する月刊雜誌、乃至精神の糧となるべき書籍を要求する」(10-11)。それゆえ蓄音機は評価される。というのも、蓄音機は、書物や事物が私たちに「深遠な思想や幽玄な情景や切實な興趣に耽」らせてくれるように、音を保存することで「私共の魂を隨時に捉へ隨所に悠遊させる」(11)ものであり、賞賛すべき発明だからである。しかも今日の蓄音機は「半獸的な聲色によつて世人の神經を痺れさせ」る浪花節などを流行させた下品な機械ではなく、「一流の藝術家が安んじてその妙音を託」す「信頼すべき再現能力を有する忠實な寫音器 」(13)である。かつてレコードに記録された音楽は「罐詰音樂 」と軽蔑されたこともあったがそれは蓄音機の性能が悪かったからで、今や蓄音機は今日の文明の利器として「一流の藝術」を託し得る機器として認められる。このように佐久間は述べる。蓄音機は文明の利器として位置づけられるのだ。

蓄音機は西洋芸術音楽の普及に貢献するので日本社会の教育と向上に役立つ、というロジックはたくさん見出せる。例えば石川義一「蓄音機と社会教化」(石川11 (1922): 9.2: 8-12)はその典型である。石川は、10年以上滞米して帰国した時、日本が拝金主義、経済中心主義、物質中心主義に染まっていることに驚いた。とはいえ石川によれば、人や社会は物質中心主義的な思考だけでは駄目でもっと精神的に教化されねばならない、つまり芸術を通じて美的に教化されねばならない。それゆえ石川は、蓄音機を、音楽を社会に普及させるという点でその「效の絶大なるを激賞して止まない」(9)と評価する。石川によれば「人間の生活の安定といふことは金錢のみでは出來ません。…金錢は生活の安定の全部と心得るのは實に淺い考へである。蓄音器は此の物質慾の融和に偉大なる效力があつたと思ふ。卽ち一般の廣い意味での社會敎化に盡力したと思ひます」(10)と述べる。つまり蓄音機は、日本社会に(西洋芸術)音楽を普及させた媒体として教養主義的な思考の中で評価されるわけだ。石川は、この後も何度か日本社会での洋楽普及に関する文章を寄稿している(注5)。

このように、音楽―西洋芸術音楽―を社会に浸透させることで日本社会や大衆を教育する機械として、蓄音機を教養主義的で啓蒙主義的な思考の中で受容する傾向があった。この教養主義的で啓蒙主義的なテクノロジー理解は、文部省推薦認定レコード事業に結実したといえよう。これについては次項で言及する。

3.2.音楽の教育:音楽演奏教育、音楽鑑賞教育

また蓄音機は、音楽教育のためのツールとしても理解された。音楽教育ということで想定されるのは、音楽演奏の教育―楽器の訓練―と、(学校での)音楽鑑賞教育の二つである(注6)。両傾向の事例を確認しておきたい。

1)音楽演奏教育

蓄音機は、日本音楽であれ洋楽であれ、歌唱や楽器演奏の訓練に役立つとされた。

例えば田邊尚雄「日本音楽の学習に蓄音機を用ふることについて」(田邊11(1922): 9.8: 4-9)によれば、蓄音機は「声楽」の訓練に最も効果を発する。というのも、「声楽」であれ何であれ、良い先生を得るのは難しいし、また、先生に何度も同じ手本を示してもらうのも難しい。というのも「日本の歌謠は節廻しや咽喉の使ひ方が頗る技巧的で」何回も繰り返して手本を聞かないと学習は困難だが、名人大家は何でも繰り返して同じ節を教えてくれないだろうし、また「同一人でも同じ節を幾度もやると多少疲れるに従つて節廻しが變化して來る」ものだからである(4-5)(注7)。蓄音機は、好きな時に好きなだけ繰り返し模範を示してくれるがゆえに音楽演奏教育に役立つ、とされるのだ。これは、音楽演奏教育における蓄音機の効用を述べる際にほとんどの論者が採用する立論だといえよう。

2)音楽鑑賞教育:須永と大橋と推薦レコード

また既に述べたように、大正期は、それまで歌唱教育中心だった音楽教育の領域で音楽鑑賞教育論(と、そのための蓄音機の利用)が論じられ始めた時期だった。音楽鑑賞教育の目的を大別すると、音楽を通じた人格的成長などを目的とする音楽鑑賞教育―音楽経験を介して学習者の美的情操を育てて人間的成長を促す教育―と、西洋音楽芸術という対象を学習する教養教育とに大別できるが、どちらの場合も、蓄音機はわざわざ演奏会などに出かけなければ実際に経験するのが難しい西洋芸術音楽の実物を提示する手段として理解された。

例えば須永克己「最近の音楽教育と蓄音機の利用」(上は須永11(1922): 9.8: 22-49;下は須永11(1922): 9.9: 5-32)は前者の例で、人格的成長を目指す音楽鑑賞教育論である。須永によれば、音楽とは単なる娯楽ではなく「世界を導き人生の歸趨」(27)を教えるものであり、音楽教育とは「有機體の調和を完全にし、必要な印象と表現との最直接にして有效なる路を拓く事」であり「換言すれば音樂が有する敎育的の力を遺憾なく發揮せしめる事」を目的とするものである(28)。そして須永は、音楽教育では出入力の両面-音楽によって自らを表現する能力の育成すなわち歌唱教育と、音楽鑑賞教育-を重視すべきであると主張し、それゆえ主として音楽鑑賞教育において「蓄音機を利用すること」を主張するのである。須永によれば、蓄音機を使う最大の利点は蓄音機を用いることで元々の音楽演奏を再現できることにある。録音物を通じて音楽鑑賞する機会の方が多い私たちからすれば奇妙に感じられるが、大正時代にはまだ、音楽作品の実例を提示できるという利点は強調される必要があったといえよう。音楽鑑賞教育に蓄音機を利用することは須永以外にも多くの論者が主張している。蓄音機は、児童たちをいちいち演奏会に連れて行ったり音楽家を招待したりせずとも、教師の模範演奏よりも多くの種類の「実例」を提示できる手段として期待されていた。蓄音機は手軽に「ホンモノ」を提示できる手段だったのだ。

また、大橋生「音楽的智識の涵養に蓄音機を利用せよ レコード音楽會の有効化」(大橋11(1922): 9.8: 51-58)は、後者の例で、蓄音機の最適な利用法の一つは西洋芸術音楽史という教養学習のために使うことだと主張している(注8)。この記事の目的は、レコードで音楽を聴いた後に田邊尚雄による西洋芸術音楽史の講義を聞くレコード音楽会―エコー・シンフォニック・ソサエティー―について報告してこの種の会の増加を訴えることである。その中で大橋はわざわざ蓄音機の使用の利点を強く訴えている。音楽史の知識を録音物ではなく生演奏から得る場合の方が少ないだろう今日の私たちには奇妙に見えるが、「レコードを使えば西洋芸術音楽を鑑賞できるということ」は、大正時代にはまだ、文章化して断っておくべき事項として理解されていたといえよう。そしてまたこの場合も、蓄音機は西洋芸術音楽という「ホンモノ」を提示するツールだったといえるだろう。

また、文部省推薦認定レコード事業というものがあった。これは、学校を超えた日本社会全体の教育を目的として行われた、日本社会全体を対象とする音楽鑑賞教育だったといえようーまたこれは、前節で言及した、教養主義的で啓蒙主義的なテクノロジー理解の産物でもあろう―。以下、この事業についてまとめておきたい。

大正15(1926)年の『音樂と蓄音機』13巻10号が、この事業の存在と意義を紹介した特集号で、関係者の多くが寄稿している。これによれば、大正10(1921)年頃にレコード推薦事業の構想が生じ、大正11(1922)年9月に具体的な事業化が決定した。映画の審査事業にも委員として関わっていた菅原教造が田邊尚雄に相談を持ちかけ―後で言及するように二人とも日本教育蓄音機協會の評議員でもあった―、推薦レコードの選定基準などを立案整理した。翌大正12(1923)年1月には初めて会議が行われ、2月に推薦レコード審査が行われ、4月に第一回推薦レコードが発表され、128種203枚のレコードが選定された。

推薦レコードは、基本的には日本製レコードだけを対象に行われた―外国製レコードは審査対象に入れると事業規模が大きくなりすぎるので省かれた―。審査ではレコードを 1. 民衆娯楽に資するもの/2. 芸術的賞玩に資するもの/3. 学校の教育に資するもの/4. 特殊なる教育に資するもの/5. 語学練習用に資するもの に分類し、楽曲の性質、録音した演奏者、レコード制作方法、レコードの素材 の良否で審査してA - Dとランク付けを行った(田邊尚雄「文部省レコード推薦事業の生ひ立ちに就て」=田邊15(1926): 13.10: 7-11)。この推薦レコード事業は年に数回のペースで行われた。大正12(1923)年5月には文部省推薦レコード演奏発表会が行われ、7月には第二回の審査と発表が行われ、第三回の審査を終えたところで関東大震災(9月1日)が起こった。その後、同年12月に震災者慰安を兼ねて第二回推薦レコード演奏会が開催され、大正13(1924)年には審査事業が再開され、11月には第四回推薦レコードが発表され、以降大正15年(1926年)6月の段階で第十回の推薦レコードが発表されるまで継続した。

なぜこのような事業が行われたのか? この事業を行う文部省の目的は、国民に「社会教育」を行うことだったといえよう。文部省関係者によれば、全国的に普及しつつあった蓄音機は「社會敎化の機關として重要な役目を演ずる」(文部省普通学務局長 関屋龍吉「教育上より見たる蓄音機」: 2)ようになった。それゆえ文部省は、(活動写真に続いて)市販されるレコードの中から優秀なものを選んで一般社会に推薦することで「社會的敎育」に役立たせたいと考えた(文部省普通学務局社会教育課長 小尾範治「蓄音機の改善及利用」: 4)。そうして構想されたのがレコード推薦事業である。その目的は、学校教育だけではなく社会全体の教育に資することであり、音楽鑑賞教育や語学教育の教材に限らず民衆娯楽や芸術鑑賞のためのレコードの中から「優秀」なものを選定して「一般社會に推薦」(関屋3;小尾5)することだった。推薦レコード事業とは、教養主義的で啓蒙主義的なイデオロギーと結びつき、蓄音機を通じて「優秀」な「レコード」を普及することで「社會的敎育」を行い国民を教育しようとする、教養主義的で啓蒙主義的な思考に基づいて構想されたものなのだ。

とはいえ、この推薦レコード事業は一般にあまり認知されていなかったようだし(注9)、あまり大きな影響も与えなかったようだ。そもそも法的な規制や軍の圧力などを背景に持つ大規模な政府事業ではないので何らかの強制力を持つものではなかったし、市販されるレコードの中から一部を「推薦」するだけではその他のレコードに影響を与えることは難しかったようだ。大正12(1923)年5月に行われた、日比谷楽奏堂での第一回文部省推薦レコード演奏會の広告には次のような文句が書かれていた。「音樂なき生活は乾ける砂漠を行くが如く、/家庭に音樂を有する生活は春の海に船を行くが如し。/蓄音機は音樂の泉なり」。音楽とは砂漠の底を流れる地下水のようなものだとすれば、推薦レコード事業とは、いわばその水質を管理しようとする事業だったわけだ。生半可な人力では不可能な事業ではないだろうか。軍や政府の圧力を背景に持たなかった大正時代のレコード推薦事業が一般に認知されなかったのも無理もなかろう。

以上、音楽教育の場において蓄音機がどのように利用できると考えられていたか、その諸相を概観した。蓄音機は、日本社会において「ホンモノ」の西洋芸術音楽を提示するツールとして、あるいは、学校の音楽鑑賞教育においては教師の模範演奏よりも多くの種類の「実例」を提示する手段として理解されたのだ。

4.日本教育蓄音機協會:国語教育レコード

また蓄音機は、言語教育に役立つツールとしても理解された。言語教育における蓄音機の利用は、外国語教育と日本語標準語教育に大別できるが、「日本教育蓄音機協會」は、英語学習のための外国語レコードではなく、日本語標準語を学習するための「国語教育レコード」を制作するために設立された(注10)。蓄音機は、(地方では訛りのある教師が模範を提示することが困難な)標準語―国語―を提示して国語―標準語―を教育するためのツールとして期待されたのだ。標準語―国語―教育に対する要請をめぐって、近代国家と標準語―国語―との関連という興味深いが大きなテーマを論じる余裕は本論にはない。標準語は国民間の意思疎通や国家から国民に対する指揮系統を可能とし、近代国家がひとつの共同体として機能することを可能とするためには必須のツールだった、とだけ述べておこう。

では、日本教育蓄音機協會とは何か? 10巻4号(大正12(1923)年)は、日本教育蓄音機協會創設の告知と、その第一期事業である国語教育レコードの諸問題を特集した号である。本節以下の引用は全てここからである。それによれば、大正4年に雑誌『蓄音器世界』を創刊して以来の、蓄音機を教育に貢献させたいという横田昇一の長年に渡る希望がこの日本教育蓄音機協會創設につながった。日本教育蓄音機協會事業は数年前から計画されていたが、文部省の国語調査委員たちが国語読本の標準レコード作成を計画したことをきっかけに直ちに具体化された。この協會の評議員のうち4名は「文部省國語調査嘱託」という肩書きを持ち、その他の評議員である音楽学者の田邊尚雄も「文部省邦楽教育調査委員」の、音楽教育者の菅原教造も「文部省社会教育調査委員」の肩書きを持つ。設立の経緯からも顧問や賛助員の肩書きからも文部省や教育界との関連が深いことが察せられる。

ではこの協會は何を目指していたのか? 日本教育蓄音機協會は、「教育と蓄音機との新交渉!! これ本協會存立の理由也」(日本教育蓄音機協會 12 (1923): 10.4: 1)と宣言していた。また「日本教育蓄音機協會設立旨意(しい)及事業方針」(31-38: この文章の日付は大正11(1922)年9月28日)によれば、この協会の設立理由は次のように要約できる。

すなわち、「従来わが國では教育上甚だ耳を軽んじた觀」(31)があり、それゆえ「國語の不統一、否むしろ紛糾」と「立派な音樂が普及せずに、低級な歌謠が喜ばれてある現狀」が生じ、国民は知的にも感情的にも未発達な状態となっている(注11)。それゆえ「耳の教育」が必要で、そのために「最も普及に便利な現代文明の利器たる蓄音機」(32)を用いるのは大変時機に適った考えである。また「社会教化の具として蓄音機と姊妹關係にあるところの活動寫眞」は学校や様々な場所で活用されて「一個の有力な教化機關の實」(32)を備えているのに対して、蓄音機の「文化的使命」が一般に認められていないのは、(蓄音機は一般には娯楽装置に過ぎないからかもしれないが)非常に遺憾である。なのでこの協会を設立することにした。「蓄音機の效用をその文化的使命の發揮において認めようとするのは、私共の年來の所懷」だから、「私共は適當な方針の下に愼重の用意と最高の技術とを以て、教育用蓄音機及び教育的レコード」(33)を生産することにした。一言で言えば、日本教育蓄音機協會の目的は、標準語教育と音楽鑑賞教育ひいては社会教化という、「文化的使命」に役立たせるべく蓄音機を教育的に利用すること、だった。

では日本教育蓄音機協會は具体的には何をしようとしたか? 10巻4号に掲載されている「日本教育蓄音機協會設立旨意(しい)及事業方針」(31 - 38)によれば、計画されていたのは次の五つ 1. 教育用蓄音機の製作及び普及/2. 國語教育レコードの製作及び普及/3. 音樂教育レコードの製作及び普及/4. 外國語教育レコードの製作及び普及/5. 一般の教育に資するレコードの製作及び普及 である。この後、10巻8号(大正11(1922)年)を発刊した後に関東大震災が生じて雑誌とこの協會の活動は停止するので、この五つの事業の中で実際に行われたのは「2. 國語敎育レコードの製作及び普及」だけだったようだ(注12)。以下、「国語教育レコード」にかけられていた期待について整理しておこう。

事業方針に明記されているのと同様に(注13)、全ての論者が国語教育レコードが標準的な発音とアクセントを提示する点を賞賛していた。当時はまだラジオ放送も始まっていなかったし、東京近郊ならまだしも東北地方やあるいは山間地域の人々が、学校教師やその他の人々から標準的な発音やアクセントを知る機会は皆無に等しかった。しかし、国定教科書を標準的な発音とアクセントで朗読する国語教育レコードを用いることで、「標準語としての東京言語の発音やアクセント」(上田12(1923): 10.4: 4)や「発音およびアクセントの標準」(佐久間12(1923): 10.4: 23)を提示して、「標準語の標準的発音を諸方に普及させる」(三上12(1923): 10.4: 6)ことができると期待された。例えば、「あふぐ・あふぎ・かばふ」といった言葉における「あふ・ばふ」は「アウ・バウ」か「オー・ボー」と発音するのか、とか、「へいえい」は「ヘイエイ」と読むのか「ヘーエー」と発音するのか、といった問題が解決するだろう、といったことが期待された(佐久間12(1923): 10.4: 24)。こうして「標準語」を学ぶことで、方言がひどすぎて日本国内なのに会話が通じないということもなくなるだろうし、また、音声を用いた国語教育が行われることで、言語教育の四大要素―話すこと、聞くこと、話すこと、読むこと―のすべて―特に「話すこと、聞くこと(そして音読すること)」―が訓練されるので、十分な「国語」教育が可能となると期待された(上田12(1923): 10.4: 2)。佐久間鼎「国語の標準レコード出現の意義」(佐久間12(1923): 10.4: 16-25)では、この教育レコードが登場するまで数年の間、文部省は毎年夏休みに全国の小学校の教員を対象に講習会を開催してきたがあまり成果は上がらなかったと述べられている。全ての記事に、日本教育蓄音機協會の国語教育レコードが標準語の発音とアクセントの「実物を提示すること」に対する期待感が溢れている。

この日本教育蓄音機協會について幾つか指摘しておきたい。まず第一に、この協会の事業計画からも分かるように、教育用レコードは「国語教育レコード>音楽教育レコード>外国語教育レコード」と明確に序列化されている。音楽教育レコードよりも国語教育レコードの方が重視されていたわけだ。これは、この協會がそもそも文部省が国語読本標準レコード作成を計画したのをきっかけに設立されたものだから当然かもしれないが、大正期の蓄音機の教育的利用の傾向を示すものと解釈すると興味深い。蓄音機というテクノロジーは音楽鑑賞教育よりも語学教育にこそ用いるべきだと考える傾向があったことを示すものと解釈できるかもしれないからだ。日本教育蓄音機協會の事例だけでは判断できないが可能性として記しておく。少なくとも、横田と『音樂と蓄音機』にとっては、音楽教育のためだけに蓄音機を利用することではなく(何らかの)教育的目的のために蓄音機を利用することが重要だった、ということはいえるだろう。

もう一点、音楽教育レコードの用途として音楽鑑賞教育は考慮されるが音楽演奏教育は考慮されていないことを指摘しておきたい。事業計画に記されている音楽教育レコード制作としては、音楽鑑賞教育のための教育レコードだけで演奏教育のためのレコードは想定されていないようだ(注14)。日本教育蓄音機協會の設立以前は、『音樂と蓄音機』誌上でもしばしば音楽演奏教育に蓄音機を用いることが論じられてきたが、これ以降あまり論じられなくなる。その理由は現段階では不明である。

5.おわりにかえて

以上、大正期の雑誌『音樂と蓄音機』とこの雑誌が母体となって作られた「日本教育蓄音機協會」という団体の活動を取り上げ、大正期日本における蓄音機の教育的利用の事例を紹介し、そのコンテクストを整理した。蓄音機が、日本社会や学校の音楽鑑賞教育において「ホンモノ」の西洋芸術音楽の実例を提示したり、あるいは本物の「国語―標準語―」を提示したりするためのツールとして期待されていた事例を確認した。これが本論の成果である。美術史における「スライド」を通じた名画受容と同じく(注15)、芸術音楽受容における複製メディアを通じた「オリジナル=西洋芸術音楽」受容の事例として紹介しておく。

『音樂と蓄音機』と「日本教育蓄音機協會」は、音楽教育と国語教育の双方の領域で蓄音機を利用することを模索した事例である。これを音楽以外の領域でも蓄音機の利用を模索した事例としてメディアとしての蓄音機の展開史のなかに位置づけることが今後の課題である。また、大正期の語学教育レコードの系譜を調べ、当時の蓄音機をめぐるメディア的想像力の布置をさらに解明することも今後の課題である。そうすることで日本における音響メディアの展開史の考察に貢献できるだろう。また、音楽鑑賞教育は、近代日本が西洋(芸術)音楽(洋楽)を受容するプロセスのひとつとして機能したはずだ。それゆえ本論の事例は、近代日本文化の洋楽受容プロセスの考察に貢献するものだろう。

以上、今後の課題は多いが、ひとまず本論は終えておきたい。

(注1)

私は、雑誌『音樂と蓄音機』と「日本教育蓄音機協會」という団体の存在を西島千尋氏の博士論文(西島2009)を通じて初めて知った。単著(西島2010)出版前の博士論文を快くお見せしていただいた西島氏に深く感謝したい。西島2009は、明治期から昭和に至る「鑑賞」概念の成立と展開を考察したもので、「鑑賞」概念の特異性ー日本独特の概念かもしれないという可能性ーに注目しつつ大量の一次資料を渉猟した労作である。また西島2007は、大正期以降の日本における音楽鑑賞教育と西洋芸術音楽受容との関連を考察したものである。大正期の音楽鑑賞教育論を通じた西洋芸術音楽輸入は「教育志向のアメリカのレコード産業」を迂回した西洋芸術音楽受容であった、とする西島2007の指摘は興味深い。

本論では、西島2007を参考にしつつも、直接的に西洋芸術音楽受容の問題には触れず、時期的にも大正期の音楽鑑賞教育論が登場する少し前を検討することになる。

(注2)

蓄音機を用いた音楽鑑賞教育は、はやくも明治40年代には試みられており―明治40年代以降、蓄音機を音楽教育に利用しようとする動きが認められる。なかでも、東洋音楽研究の先駆者として有名な田邊尚雄は積極的で東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)での講義に蓄音機を利用していたし、音楽学者の田村寛貞も東京音楽学校での講義に蓄音機を使用していた―、大正4(1915)年には、平戸大「音楽教育に於ける蓄音機の利用」(大正4年(1915年)1月)という論考が発表されていた。これは、歌唱指導のみの唱歌科に、教師の模唱の代わりにレコードの演奏を導入することを主張するもので、寺田によれば「積極的な鑑賞指導の意識が希薄である感は否めないが、レコードの演奏を聴くことによって、洋楽への耳を慣れさせ、子どもの音楽的基盤を醸成することを意図していることは、感じられる」(寺田2001-3: 25-26)論説だった。また大正5(1916)年の協議会では、教師の模範演奏の代わりにレコードの演奏を子どもが聴くことが想定されていた。実際は、大正半ば頃までは実際に教育現場で音楽鑑賞教育のために蓄音機を使う実践はあまりなされていなかったようだが、大正10(1921)年の協議会では、鑑賞教育の必要性が主張され―鑑賞教育は、例えば、児童の心情を陶冶したり音楽的趣味を向上させたりする効用を持つとされた―、そのために、教師が歌ったり演奏できない音楽を児童に鑑賞させるための道具として蓄音機を用いる、音楽鑑賞教育実践の事例が報告されていた。

(注3)

また、大正年間には蓄音機は爆発的に社会に浸透した。蓄音機のレコード輸入額は、複写盤氾濫による国内産業の混乱に伴ない大正4(1915)年には18,147円にまで落ち込んだが、大正9(1920)年には354,149円に、大正13(1924)年には1,646,144円にまで上昇し、戦前の最高値を示している(倉田2006: 114,123)。

(注4)

この雑誌が同時代にどのように受け入れられていたかは良く分からない。この雑誌は同時代の新聞にはほとんど何の形跡も残していない。私は、この雑誌は同時代の音楽ジャーナリズムを牽引するメジャーな雑誌ではなくある種の業界誌のようなものだったのではないか、と推測している。というのも、まず第一にこの雑誌には記事の偏りが見られるからである。例えばこの雑誌には、大正13年に刊行された日本の音楽鑑賞教育黎明期を代表的する二つの著作(山本1924と津田1924)への言及や広告が見当たらない。この雑誌はしばしばアメリカのレコード会社制作の音楽(鑑賞)教育論の翻訳や日本人による音楽教育論の記事を掲載しており、あってしかるべきなのにもかかわらず、である。また第二に、この雑誌には業界関係者を想定読者とする記事が多いからである。この雑誌には、海外蓄音機の新製品の性能に関するレビューや蓄音機の新案特許目録、あるいは蓄音機小売店店主やレコード会社取締役たちの執筆記事が掲載され、時には日本の蓄音機産業黎明期の社史や立志伝が掲載され、蓄音機業界内の労働問題を論じる記事が掲載される。それゆえこの雑誌と団体は、明治末から大正にかけての日本の蓄音機業界黎明期の情報源-当時のレコードの生産枚数や製造従事者人数や販売従事者人数など-として用いられる(倉田1979、倉田2006)。また、この雑誌の主幹である横田昇一は、大正期の日本でレコードに著作権を認定させるべく精力的に活動したジャーナリストとして言及される(倉田1979: 210-214、倉田2006: 114-116)。

(注5)

例えば石川義一「音樂の大衆化」(石川15(1926): 13.4: 3- 4)や石川義一「再び音樂の大衆化について」(石川15(1926): 13.5: 6-8)など(作曲家石川の活動については藤井2004を参照)。

ちなみに石川は、米国では社会教化や学校教育や家庭での教育に蓄音機を用いることは常識なので、日本でも蓄音機を用いるべきだと主張する。石川は米国を理想化するのである。

(注6)

音楽演奏における蓄音機の利用も蓄音機を用いた音楽鑑賞教育論もかなり早い段階から論じられており、どちらが先に主張され始めたのかは分からない。ただ、日本教育蓄音機協會の設立以降、音楽演奏教育における蓄音機の利用についてはほとんど語られなくなることを指摘しておきたい。

(注7)

田邊はさらに、とはいえ蓄音機で学習した節廻しには特徴があるからそれを避けるべく良い性能のプレイヤーを用いなければならないし、また練習用レコードだけでは不十分で一種の講義録のような解説書が必要で、そのためにも「完全なる日本音樂の樂譜」(9)―原文は「完全なる日本音樂」だが、9.9: 4より「完全なる日本音樂の樂譜」の誤植だと判断できる―が必要だが、そのためには、完全ではないのは承知しつつも五線譜を用いてできるかぎり微妙な点まで五線譜で日本音楽を表現する方法を研究する必要がある云々と論を続ける。

(注8)

ちなみに、教養教育のための蓄音機利用を訴える後者の事例は音楽鑑賞教育のための蓄音機利用を訴える前者の事例より少ない。他に正面から音楽史の教育に蓄音機の利用を訴える記事は、須永克己「レコードを以て例示する「概観西洋音楽史講座」(其一)」(須永15(1926): 13.2: 6-7)くらいしか見当たらなかった。現段階では私にはその理由は分からない。

(注9)

この特集号の編集顧問を務めた須永克己によれば、文部省が推薦レコード事業を行っていることを知っている一般人あるいは教育関係者はあまりいなかった(「レコード推薦事業の理想と実際」(須永15(1926): 13.10: 18)。また、この特集号の中では、日東蓄音器株式会社常務取締役の勝田忠一も「レコード推薦事業」の広報の徹底を望んでいる(「レコード推薦事業に就ての所感」: 33-34)。

(注10)

倉田1979、倉田2006は、「國語レコード」を制作した団体として「日本教育蓄音機協會」に言及している。倉田によれば、「レコード芸術」が誕生しつつあった大正期、芸術音楽や流行歌の録音以外にも「人間社会に役立つ」べくレコードを様々に活用することが模索された。そのなかには演説レコードや教育レコードという二つの傾向があり、横田は、教育レコード―なかでも「國語レコード」―を制作した人物として言及される(倉田1979: 272-273、倉田2006: 143-144)。

ところで、教育レコードとりわけ語学教育のためのレコードについて記しておきたい。語学教育のためのレコードは、第一次世界大戦終戦直後の『蓄音器世界』には英語学習レコードの記事や広告があるので、遅くとも大正8(1919)年までには登場していたらしく、大正12(1923)年4月以降の全国中等学校で採用された英語教科書『ニュー・クラウン・リーダー』のために製作販売されたものは反響が大きかったようだ。これは大正末に来日して日本でオーラル・メソッドによる英語教育の改革運動を始めたハロルド・E・パーマーが日東の新譜として録音したもので、2月の販売時に開催した講演会ではおよそ5000名の聴衆が集まったという(パーマーについては伊村2003: 67-74)。

日本で初めて商用販売された外国語レコードもまだ同定できていないし、語学教育レコードの展開に関するさらなる検討は今後の課題である。

(注11)

例えば「かやうにして國民の精神生活は、知的方面に於ても國語の紛難といふことのために正常の發達を阻碍されて國民文化を遲滯させ、感情の方面に於ても音樂的敎養の不足のために民衆を卑俗な鄭聲の中に沈湎させることによつて高い特性を萎糜させるやうなみじめさを露呈してゐます」(横田12(1923): 10.4: 31-32)など。

(注12)

この時作られたレコードが具体的にどこでどのように使われたかは不明である。また、これらが震災後も現存しているかどうかも不明である。昭和館SPレコードコレクションには、日本蓄音器商会から発行された尋常小学校国語の教科書を朗読したレコードがあるが、日本教育蓄音機協會発行のものはなかった。

(注13)

「國定小學校讀本について文部省における國語調査の成績により、及び斯道の專門家の監督の下に精確な標準的發音及びアクセントを吹込み、尙摸範的な朗讀法及び話し方を示すこと。そのレコードには、標準的發音及び敎授竝びに學習に際しての注意を示した解說書を添へて、國語敎育上の效果を擧げるやうに努めること」(34)。

(注14)

「3. 音樂教育レコードの製作及び普及」ということで、以下のような事項を計画していた。

「子供に音樂の美的情操を涵養するを目的とし一切のマンネリズムを排して多分の藝術味ある優秀な唱歌、童謠等の標準的レコードを作りその普及を計ること。/又社會敎化の目的で、藝術的鑑賞に堪ふべき平明で雅致ある東西の名曲、乃至民衆娛樂に資すべき穩健で和氣に滿ちた古今の佳曲を吹込み、その普及を計ること。/又工人の能力增進、趣味向上の目的を以て、工場音樂として適當なものを選んでレコードを作り、その普及を計ること。/尙蓄音機による音樂の系統的知識の敎授や古曲保存の如き有意義の事業も將來を期して漸次著手すること」(34)。

(注15)

スライドを通じた美術史の受容をめぐる問題については、前川2000、前川2002を参照。

参照文献

言及しなかったが参照したものも含む。

○雑誌『音樂と蓄音機』について

『音樂と蓄音器』 9巻7号まで(大正11年7月まで) 東京:蓄音器世界社。

『音樂と蓄音機』 9巻8号より(大正11年8月より) 東京:音樂と蓄音機社。

この雑誌収録記事の書誌情報は「著者姓+年(西暦年): 巻号: ページ数」と記す。この雑誌は大正年間にしか刊行されていないので、発表年は大正の年号で記す。例えば

石川義一 「蓄音機と社会教化」 『音樂と蓄音機』9.2(大正11<1922>年): 8-12

は「石川11(1922): 9.2: 8-12」と記す。

○その他の文献

藤井浩基 2004 「朝鮮における石川義一の音楽活動 : 1920年代前半を中心に」 鳥取短期大学(編)『北東アジア文化研究』第19号: 73-91。

堀内敬三 1968 『音楽明治百年史』 東京:音楽之友社。

細川周平 1998 「近代日本音楽史・見取り図」 『現代史手帖 特集 日本「近代」音楽の発生』41.5(1998年5月号): 24-34。

伊沢修二 1976 『洋楽事始 音楽取調成績申報書 東洋文庫』 東京:平凡社

神林恒道 2006 『近代日本「美学」の誕生』 講談社学術文庫 東京:講談社。(特に第六章「洋楽受容と音楽美学 -教育音楽から芸術音楽へ」)

倉田喜弘 1979 『日本レコード文化史』 東京:東京書籍。

---. 2006 『日本レコ-ド文化史』 岩波現代文庫 東京:岩波書店。

前川修 2000 「複製の知覚」 『哲学研究』(京都哲学会)570号(2000年10月)。

---. 2002 「美術史の目と機械の眼」 岩城見一(編)『芸術/葛藤の現場―近代日本芸術思想のコンテクスト』 京都:晃洋書房

日本音楽教育学会(編) 2004 『日本音楽教育事典』 東京:音楽之友社。

西島千尋 2007 「日本における音楽鑑賞教育の成立: 教育としての鑑賞 と芸術の鑑賞」 金沢大学大学院人間社会環境研究科『人間社会環境研究』13号: 211-227。

---. 2009 『「鑑賞」教育からみた近代日本の西洋芸術音楽受容の研究』 博士論文 金沢:金沢大学大学院人間社会環境研究科。

---. 2010 『クラシック音楽は、なぜ〈鑑賞〉されるのか』 東京:新曜社。

奥中康人 2008 『国家と音楽─伊澤修二がめざした日本近代』 東京:春秋社。

山東功 2008 『唱歌と国語 明治近代化の装置』 講談社選書メチエ 東京: 講談社。

寺田貴雄 1998 「山本壽の音楽鑑賞教育論-『音樂の鑑賞教育』(1924)および雑誌『學校教育』掲載論文の検討を通して‐」 『エリザベト音楽大学研究紀要』18号: 27-43。

---. 1999 「大正期の音楽鑑賞教育におけるアメリカの音楽鑑賞教育書の影響 : Victor Talking Machine 社刊 Music Apprecation for Little Children (1920)の受容の諸相」 東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科芸術系教育講座音楽教育学研究室(編)『音楽教育学研究論集』第一号: 54 -65。

---. 2000 「自動演奏楽器と音楽鑑賞―20世紀初頭から1920年代にみる鑑賞・教育メディアとしての役割―」 財団法人音楽文化創造『CMC音楽文化の創造』18号(2000年9月): 78-81。

---. 2001-2002 「日本における音楽鑑賞教育の軌跡」 財団法人音楽鑑賞教育振興会(編)月刊『音楽鑑賞教育』2001年1月号(No.389)-2002年3月号(No.391)掲載。

津田昌業 1924 『音樂鑑賞教育』 大正13年12月刊行 十字屋楽器店(河口道朗<監修> 1992 『音楽教育史文献・資料叢書 第12巻』 東京:大空社を参照)。

塚原康子 1996 「第2部 日本音楽史 第4章 近代-伝統音楽と西洋音楽の並存のなかで(西暦1850年~1945年まで)」 片桐功(他)『はじめての音楽史』 東京:音楽之友社: 165-173。

Victor Talking Machine Company Educational Department. 1920. Music Appreciation for Little Children: in the Home, Kindergarten, and Primary Schools. Forward by Frances Elliot Clark. Camden, New Jersey: Victor Talking Machine Company. (= MALC) (= Clark, Frances Elliott. 2008. Music Appreciation: For Little Children, In The Home, Kindergarten, And Primary Schools (1920). MT: Kessinger Publishing, LLC.).

http://www.archive.org/details/musicappreciatio00victiala (accessed June, 30, 2010)

山本壽 1924 『音樂の鑑賞教育』 大正13年7月刊行 東京:目黒書店。

吉見俊哉 2012(1995) 『「声」の資本主義 電話・ラジオ・蓄音機の社会史』 河出文庫 東京:河出書房新社。