2008年03月 「ただの音」とは何か?

「ただの音」とは何か?

-ジョン・ケージの不確定性の音楽作品の受容様態をめぐって

中川克志

中川克志 2008 「『ただの音』とは何か?-ジョン・ケージの不確定性の音楽作品の受容構造をめぐって」 京都市立芸術大学美術学部(編)『研究紀要』第52号(2008年3月):1-11。

(ここで公開している論文たちには校正での訂正が反映されていない部分があり、実際の掲載稿とは若干相違があります。引用などの場合、必ず、公開された原文をご参照ください。)

1.はじめに~「ただの音」とは何か?

本論の目的は、1950年代以降にジョン・ケージが提唱し始めた「実験音楽」において実現されるという「ただの音である音(sounds which are just sounds)」(Cage 1957: 10: 11行目)の成立条件を抽出することである。そうすることで、ケージの言葉だけに従えば無限の広がりを持つかのような錯覚をもたらす「実験音楽」の領域を限定することを目指す。

「ただの音」なる音響が登場するのは1950年代以降である。それは、いかなる表現のための媒体でもなく、何からも独立したある種の自律的な存在として理解され、あらゆる人間的な精神の刻印から完全に逃れた音響として表象されるような音響のことである。「ただの音」を形容する言葉として次の文章をあげておこう。

「音 は自らを、思考、あるべきもの、自らの解明のために他の音を必要とするものなどとは考えない。音には考えている時間はない_音は自分の特性を実現すること にかかりっきりになっている。音は自らが消えてしまう前に、その周波数、音量、長さ、倍音構造、そしてそうした特性や自らの正確な形態を、完全に厳密なも のにしなくてはならないのだ。」(Cage 1955: 14)1

本論では、このような、音響の本質を体現しある種の真理を開示するかのような「ただの音」とは何か?ということを考える。表面的に考えれば、「ただの音」などある種の虚構に過ぎず「ただの音」と形容されるに過ぎない音ではないかと思われる。しかしこうした「ただの音」という言い方に何らかの魅力があることも確かだろう。本論の目的は、この「ただの音」という本質主義的な表象を相対化することである。

そのために本論では、「ただの音」の成立条件を抽出するという手順を踏む。いかなる人間的な精神の刻印からも逃れている「ただの音」というものが存在するか否かではなく、そのようなものとして音響が表象される条件について考えたい。そのためにまず、「ただの音」という表象が成立する前提である「ケージの不確定性の音楽作品」の成立条件について確認する。以下、本論の手順を説明しておく。

まず第二章で、ケージの不確定性の音楽作品について概観する。聴覚的な同一性が失われているケージの不確定性の音楽作品は、ケージにとっては、偶然性の技 法で作曲された作品よりも、より完全なあり方で「ただの音」を実現するための音楽作品である。そこでは楽譜の機能が変化しており、音響結果の非同一性、楽 譜と音響結果の乖離が生じ、結果的に音楽作品の聴覚的な同一性が失われていることを指摘しておく。しかし、そもそもそのような「不確定性の音楽作品」の存 在を認めない立場もある。

そこで次に第三章で、 「ただの音」という表象が成立する前提として、「ケージの不確定性の音楽作品」の成立条件を確認する。ケージの不確定性の音楽作品が「肯定」的に受容され るロジックについて検討することで、「ただの音」の成立条件を抽出することができるだろう。結論を先取りすれば、ケージの不確定性の音楽作品が肯定的に受 容されるには、次の二つの条件が必要である。まず、1.音楽作品概念に歴史性(歴史的に変化してきた概念であるという性格)と現実に対する実効力(現実の音楽実践に働きかけていくという性格)を認めること そして 2.ケージの不確定性の音楽作品を、歴史的に先行する(ロマン主義的な)音楽作品概念に「挑戦」する(批判しようとする意図を持つ)「実践」として位置づけること である。

以上の考察を踏まえ、第四章では、「ただの音」という表象の成立条件を抽出し、その限界を指摘しておきたい。「ただの音」の成立条件とは、ケージの不確定性の音楽作品を「肯定」的に「音楽作品」として受容し、更にケージの批判的意図に共感し、それらを「挑戦という実践」として肯定的に評価することである。と はいえ、こうして「ただの音」の成立条件を抽出することで、「ただの音」という表象が歴史的に先行する(ロマン主義的な)音楽作品概念との相対的な関係性 の中でしか存在しないものであることも明らかになる。第四章では最後に「ただの音」とは虚構に過ぎないことを指摘し、この表象の限界を指摘することで得ら れる指針について述べて、本論を終えたい。

2.ケージの演奏に関して不確定な音楽作品について

まず、ケージの不確定性の音楽作品とはどのようなものか?以下、不確定性のアイデアが必要とされた経緯、不確定性の音楽作品における楽譜の機能の変化、不確定性の音楽作品がもたらす問題圏について概観しておきたい。

2.1.不確定性の必要性

偶然性と不確定性という概念はしばしばほぼ同じものとして用いられるが、ケージの言葉遣いにおいては明確に区別される。偶然性とは、作曲の段階で作曲家と 楽譜との間に挿入されるものである。対して不確定性とは、楽譜あるいは演奏家と、音響結果との間に挿入されるものである。

作曲における偶然性の技法は、あらゆる音を音楽的素材として用いようとするケージの作曲家としての欲望に牽引されて導入されたものだと考えることができる。ケージが偶然性の技法を用いることで導入しようとした新しい音楽的素材は「非意図的な音」だった。ケージが繰り返し語る逸話に従えば、ケージが「非意図的な音」を発見したのは 1951年にハーヴァード大学の無響室に入った時である2。無響室の中でそれでも二つの高い音と低い音が聞こえることに気付いたケージは、完全な無音状態としての沈黙など存在せず、沈黙は「音楽的な意図の一部を担っていないというだけの理由で、沈黙と呼ばれる」(Cage 1958: 23 )音のことであり、意図されずに発されているがゆえに気付かれていない音に過ぎない、と考えるようになった。ケージは沈黙を「非意図的な音」として再定義したのだ。

ケージにとってこの沈黙の再定義は決定的に重要である。というのも、この再定義された沈黙、非意図的な音響を音楽的素材として用いるために、ケージの活動 は新しい段階に突入し、様々な偶然性の技法を考案したり、実験音楽という理念を形成していくことになると考えられるからだ。例えば、偶然性の技法が初めて 全面的に採用された《変化の音楽 Music of Changes》(1951)では、ケージは、楽譜にどのような音高の組み合わせの素材を何個書きつけるか、その時テンポと持続はどのように扱うか、その音の強弱はどうするかといったことを、コインの裏表で偶然的に決定した(Cage 1952-1958)。偶 然性の技法とは、楽譜に書き付けられる音符同士の関係性を偶然性に従って決定して作曲家と音響結果とのつながりを断つことで、「非意図的な音響」を実現し ようとするものだと言えるだろう。最終的な音響結果は偶然性に従って決定されるため、狭義の「実験音楽」は「その結果が知られていない行為」(Cage 1955: 13)として規定される3。そこで実現される「非意図的な音響」こそが、ケージが「ただの音」と形容したものだと言えるだろう。

演奏における不確定性というアイデアは、この作曲における偶然性の技法の欠点を補うものとして導入されたものである。ケージによれば、偶然性の技法の欠点 とは、結果的に楽譜と音響結果が固定されること、それゆえ演奏家が単なる音響化作業の従事者でしかなくなることである。偶然性の技法の欠点についてケージ は、1958年9月のダルムシュタットでの講演(Cage 1958: 35-40)で、《変化の音楽》(1951)を例に挙げ、それは楽譜が固定されており演奏家をその楽譜の単なる音響化作業の従事者にしてしまう「非人間的な」ものなので「フランケンシュタインの怪物」 (Cage 1958: 36)のように危険なものだ、と(自己)批判することになる。

偶然性の技法の欠点については庄野進も指摘している。偶然性の技法は、少なくとも作曲家にとっては「その結果が知られていない行為」(Cage 1955: 13) としての実験音楽を実現するものかもしれない。しかし、演奏家が、確定的なものとして固定される楽譜に対して自らの好みに従った解釈を導入したり、聴き手 が、毎回ほとんど同じものとなる音響結果に対して(音響結果に作曲家や演奏家の意図を聞き出すといった)何らかの解釈を行うことが可能となるという問題が ある、という指摘をしている(庄野 1991: 64)。

不確定性というアイデアは、このような偶然性の技法の欠点を克服し、作曲家だけでなく演奏家にとっても「予見できない状況」(Cage 1958: 36)を作り出すためのアイデアとして導入されたものだ。偶然性の技法が用いられた直後から不確定性のアイデアは模索されていた。例えば時間の長さをタイトルに持つ作品群や、同時に演奏される重ね合わせの作品群は、演奏家も音響結果を「予見できない状況」(Cage 1958: 36)を作り出すための作品だったと考えることができる4。とはいえ、ケージが明確に「不確定性」に取り組み始めたのは1957年以降である(Pritchett 1993: 109)。次にケージの不確定性の音楽作品の受容様態について考えるために、楽譜の機能の変化について検討しておきたい。

2.2.楽譜の機能の変化

ケージの不確定性の音楽作品の受容構造を考える上で重要なのは、楽譜の機能が変化していることである。というのも、楽譜の機能が変化しているからこそ、ケージの不確定性の音楽作品は、音響結果の非同一性、楽譜と音響結果の乖離、その結果としての作品の同一性の脆弱化という重要な諸特徴を持つことになると考えられるからだ。不確定性の音楽作品では、楽譜は、まず第一に「1.演奏される音響を一義的に決定しない楽譜」に、そして「2.演奏楽譜を制作するためのツール」に変化している。それゆえ楽譜と音響結果とは乖離し、伝統的な意味での音楽作品の聴覚的な同一性が脆弱化しているのだ。

「1.演奏される音響を一義的に決定しない楽譜」が登場するのは、楽譜に記された音型の解読方法に幾つかの可能性がある《ウィンター・ミュージック Winter Music》(1957)以降である(Pritchett 1993: 110-112)。こうした楽譜の明確な事例として、50年代後半のケージの代表的な図形楽譜を用いた《ピアノとオーケストラのためのコンサート Concert for Piano and Orchestra》 (1957-58)をあげておこう。

これは、50年代半ばに作られたケージの図形楽譜を用いた作品群の集大成として位置づけられる。そのピアノ・パート(《ピアノのためのソロ Solo for Piano》(1957-58))だけでも84種類の記譜法が使用されており、それらは全て、そのままでは演奏不可能なので、演奏家が「解読」して演奏楽譜を作成する必要がある図形楽譜である。例えばBYと命名される記譜法では、長方形の中に点が描かれている。この点はあらゆる種類の「ノイズ」を意味しており、長方形の辺に対する点の水平的な位置関係が時間を、垂直的な位置関係が相対的な音高関係を決定するとされる。また、Tと命名される記譜法では、通常の五線譜上に点で音響が示され、その周囲に描かれた雲形の輪郭線がクラスターを示し、その中の数字はダイナミクスを示すとされる(Pritchett 1993: 113-124)。図形楽譜については多くの論ずべき事柄があるが、ここでは、一義的には演奏楽譜が決定されないということだけを指摘しておきたい。

全てとは言えないが5、50年代後半以降のケージは、演 奏すべき音響を指示するのではなく、図形を用意し、演奏家が図形を翻訳して演奏楽譜としての五線譜を作成するよう指示する楽譜を制作するようになる。少な くともケージが楽譜を制作した時点では、楽譜から音響結果を一義的には導き出せないので、ケージも演奏家も音響結果は予想出来ない。ケージにとって図形楽 譜とは、演奏家に楽譜を制作する手段を指示するというやり方で、作曲家による恣意的な音響選択を禁じるとともに演奏家による恣意的な音響選択をも禁じつ つ、毎回の演奏結果を不確定なものとするためのツールとなっていったのだ。

この「2.演奏楽譜を制作するためのツール」(Pritchett 19933: 126, 128)としての性格が鮮明に現れるのは、ケージが用意する楽譜に初めて透明シートが使用された《ミュージック・ウォークMusic Walk》 (1958)以降だ。この作品では、ツールとしての楽譜は、様々な数の点が描かれた十ページの紙と、五本の線が描かれた透明シートと、五本の斜線を含む長方形が8つ描かれている透明シートで構成されている。点が音響を、五本の線が五つの音響素材(かき鳴らされたもしくはミュートされた弦楽器の音、鍵盤で演奏される音、外部のノイズ、内部のノイズ、補足的な音[つまりその他の全ての音];もしくは、ラジオから発生する音)の性格を決定する。五本の斜線を含む長方形が8つ 描かれている透明シートは、同時に用いられる音の数、音が発生する時間の順序、音の高さ、持続、大きさを決定するために任意に使用されるものである。演奏 家は、このツールとしての楽譜を用いて、演奏楽譜を作成するために紙に透明シートを重ね合わせて点と線の位置関係を読み取り、ケージの指示に従って各自の 楽譜を作成する。したがって建前上は、演奏されるたびに作成される演奏楽譜は異なったものとなるのである。

2.3.不確定性の「音楽作品」という問題圏

それゆえ、ケージの不確定性の音楽作品では、ツールとしての楽譜と音響結果との間に直接的なシニフィエ/シ ニフィアン関係がほとんどないこと、伝統的な意味での音楽作品の聴覚的な同一性が脆弱化していることは明らかだろう。ケージの不確定性の音楽作品では、作 曲家が用意した楽譜が音響結果を一義的に決定することも、音響結果に基づいて楽譜を演繹することも、そして楽譜に基づいて私たちの聴体験を演繹することも 不可能なのだ。というよりもむしろ、それはそうした事柄が不可能な状態を目指して作られた「音楽作品」なのだ。音響結果の非同一性、楽譜と音響結果の乖 離、その結果としての作品の同一性の脆弱化という性格は、音楽作品の聴覚的な同一性を脆弱化させるという問題をもたらすものだが、意図的に目指されて獲得 された性格なのだ。

こうした問題は実は、不確定性の音楽作品に限った問題ではない。というのも、ケージは《4'33''》(1952)以降、人為的に生成された音響のみならず、作品が演奏された現場に存在する全ての環境音をも作品を構成する音楽的素材として認めることになるからだ。《4'33''》(1952) では演奏家は全く音を生み出さず、楽譜には休符しか書かれていない。代わりに、演奏された場所に存在している音、例えば「聴衆のざわめき」などが、聴き手 が聴くべき対象として提示されるという作品である。無論この作品では、演奏されるたびに音響結果が変化する。つまり、音楽作品の聴覚的な同一性の脆弱化と いう傾向は、実はケージのほとんど全ての「音楽作品」に関して言えることなのである。

対して音楽美学の古典的主題の一つである、音楽作品の同一性の議論では、次章で述べるように、楽譜と音響結果との相互互換性を基盤に「音楽作品」なる自律 的で個別的な存在を確保することが目指された。それゆえ、ケージの不確定性の音楽作品において聴覚的な同一性がほとんど崩壊していることは、それが「音楽 作品」として認知されたりされなかったりする原因となる。次章では、音楽作品の同一性の議論を手がかりに、ケージの不確定性の音楽作品の成立条件を確認し ていきたい。

3.ケージの不確定性の音楽作品を肯定するロジック

音楽作品の聴覚的な同一性が脆弱なケージの不確定性の作品の 受容様態は、否定・抑圧・肯定の三つに分類できる。この三つの受容様態は、「音楽作品」なる概念に対する理解のあり方と相関関係を示しており、各々の立場 は各々の音楽作品概念理解に従い、ケージの不確定性の音楽作品を否定・抑圧・肯定する。本章では「肯定」するロジックを参照することで、ケージの不確定性 の音楽作品が成立する条件を抽出したい。

3.1.否定・抑圧するロジック

その前に簡単に、ケージの不確定性の音楽作品を否定する立場と抑圧する立場について触れておこう。

否定するのは、ロ マン・インガルデンとネルソン・グッドマンに代表される、「音楽作品」の根底に「楽譜」を置く音楽作品論である。インガルデンは「音楽作品」を理念的な志 向対象として規定し、個々の演奏を図式としての楽譜の一側面を現実化したもの、と規定する。また、グッドマンの理論では、音楽作品が正当に成立するのは、 楽譜と音響結果とが相互に一義的に演繹可能な時に限られる(Goodman 1976: 127-130, 177-178; 渡辺2001を参照)。

このような楽譜本質主義的な音楽作品論においては、ケージの不確定性の音楽作品は「否定」される。融通無碍なインガルデンの理論においては、ケージの音楽 作品の存在は認められるだろう。またグッドマンの理論でもケージの図形楽譜は一事例として取り上げられている。しかし楽譜が音響結果と対応することを前提 とするインガルデンの音楽作品論からは、音響結果の非同一性、楽譜と音響結果の乖離といった不確定性の音楽作品の重要な特徴に言及する術がない。また、 グッドマンの理論では、ケージの不確定性の音楽作品は、音響結果と楽譜との一義的な対応関係を欠く事例として取り上げられるに過ぎない(Goodman 1976: 189-190)6。いずれの立場からもケージの不確定性の音楽作品の重要な諸特徴は無視されるのだ。

また、抑圧するのは、ケージの音楽作品の根底に「楽譜」ではなく「作曲システム」を置く、近年の音楽学における実証主義的なケージ研究の分析的アプローチである(Pritchett 1993; Perloff and Junkerman 1994; Bernstein and Hatch 2001; Nicholls 2002; Patterson 2002等)。 その多くは、従来のケージ研究が美学的、観念的であったことを批判し、何よりもまずケージを「音楽家、作曲家」として位置付け、具体的な「作品」分析を行 うために、偶然性の技法で生み出された「ランダムな結果」としての楽譜ではなく、そのような楽譜を産み出すための「作曲家が熟慮して生み出したものであり 固定した性質を持つ」(Pritchett 1989: 252)「作曲システム」を分析し、そこに介入する作曲家の嗜好、恣意的な選択や関与の指摘を行おうとする。これは「ケージ研究史の転換点」(Bernstein 2001a: 2)を示すものとして評価できよう。

しかしこうした分析的アプローチは、特にケージの不確定性の音楽作品について用いられるとすれば幾つかの問題がある。というのも、それは、ケージの音楽作 品の存在論的基盤を、楽譜ではないにしても作曲家の制作物としての「作曲システム」に還元する、既存の楽譜中心主義を拡大したものに過ぎないという問題が あるからだ。

この問題は、彼らがケージの不確定性の作品にほとんど言及しないことに兆候的に現れているように思われる。不確定性の音楽作品では、作曲家の最終的な制作物としての楽譜もしくはその楽譜を生み出すツールとしての楽譜と、音響結果とのシニフィエ/シニフィアン関係がほとんど失われている。この分析的アプローチの枠組みでは、ケージの不確定性の作品における諸特徴の意味は理解できないだろうし、そもそもケージが意図的にそうした「音楽作品」を制作した積極的な意義を上手く説明できないだろう7。音響結果に対す る作曲家の責任放棄という事態を否定する立場は、歴史的にはブーレーズに代表されるヨーロッパの前衛音楽家たちが示してきたものである。ケージの音楽作品 は、彼らの基準に従い、様々な奇妙な要素を持ち込んだ音楽として時々は評価されるかもしれないが、音響結果に対する作曲家や演奏家のコントロールを廃棄し ようとするケージの実験音楽の理念は決して受け入れられないだろう(具体的にはCage and Boulez 1993; Nattiez 1993参照)。つまりケージの実験音楽の理念は「抑圧」されるのだ。

3.2.肯定するロジック:L・ゲアの音楽作品概念

ケー ジの不確定性の音楽作品が持つ、音響結果の非同一性、楽譜と音響結果の乖離、その結果としての作品の同一性の脆弱化という諸特徴の意義を肯定的に評価する のは、リディア・ゲアの音楽作品論である。この立場からは、ケージの不確定性の音楽は、歴史的に先行するロマン主義的な音楽作品概念に挑戦する実践として 肯定的に評価される。

ゲアの音楽作品概念は、歴史性と現実に対する実効力の強調という二点で特徴付けられる。しかしより詳しくは、ゲアは、「音楽作品」なる概念が西洋芸術音楽史の中で中心的な役割を果たす概念に変化してきたことを示しつつ、音楽作品概念の概念としての特徴を五つ挙げている。ゲアによれば、音楽作品概念とは、

1:その本来の対象以外の様々な対象に対しても使用され、結果的に自らの内実をも変化させていく概念(an open concept with original and derivative employment)であり、

2:音楽実践の現場においては目指されるべき理想的な状態を示す理念として機能し(it is correlated to the ideals of a practice)、

3:様々な実践に対して規範的な(regulative)機能を果たすと共に、

4:現実に存在する対象でないにも関わらず個々の対象をそのようなものとして理解するという意味で、投影的な(projective)概念であり、

5:以上のような機能をある時期以降に担い始めた(emergent)概念

という五つの特徴を持つ(Goehr 1992: 89-90、特に第四章)。

ここではそれぞれの規定を詳細には検討しないが、この規定は、例えばケージの図形楽譜を用いる音楽やアフリカの儀式的性格の強い集団即興演奏などをも「音楽作品」として聞いてしまう(1)現実をより整合的に説明するだろう。またこの規定は、音楽作品概念を、実体的で現実的な存在としてではなく、(地域的にも)歴史的にも限定された概念(5)として理解する。また、単なる概念であるにも関わらず実在的な対象として意識される(4)がゆえに、ある特定のパラダイムにおいては中心的な存在として機能し(2)、音楽実践のあらゆる側面を規制する力を持つ概念(3)として音楽作品概念を 規定する。

この音楽作品概念の、特に一番目と四番目の規定を参照すれば、音楽作品(として認知されるもの)とその同一性とは、ある音楽作品が存在する文化的歴史的条 件の枠組みの中で、楽譜に限らず様々な関与的な要素が考慮に入れられることによって認識されるしかないものだと考えることができるだろう。楽譜本質主義の 想定とは異なり、音楽作品概念とは様々な現実との相互関係の中で、構成されるものでしかないからだ。そのことを、ゲアは音楽作品概念の概念史を綿密に辿ることで示している8

ゲアによれば、音楽作品概念が、音楽という文化的で制度的な領域の中でこうした中心的な影響力を獲得したのは1800年以降である(5)。 私たちはそれ以降いまだに、ゲアが「ベートーヴェン・パラダイム」と形容する、音楽作品概念が中心的な機能を果たしている時代の延長線上でしか「音楽作 品」を理解してはいない。私たちはいわば「音楽作品」概念の虜なのだ。作品中心主義を解体しつつ、しかし私たちが完全に作品中心主義を脱したわけでもない ことを強調する、今や穏当と言えるだろうこうした「作品」概念理解から、ケージの音楽作品という対象を捉え返してみよう。

3.3.音楽作品概念に「挑戦」する「実践」としてのケージの音楽作品

ケージの 不確定性の作品では聴覚的な同一性が崩壊しており、それは伝統的な音楽作品概念に即せば「音楽作品」とは認められないだろう。しかしゲアのような立場に立 てば、必ずしも聴覚的な同一性こそが「音楽作品」であるための必要条件だとは断言できないのだから、ケージの不確定性の音楽作品なるものの存在も認知でき るだろう。

ゲアが指摘するように、この時興味深いのは、ケージの音楽作品が、楽譜や音響結果によって確保される作品の同一性を拒否しようとするその意図にも関わらず、その実践においてはやはり作品でしかない、というパラドクスに巻き込まれていることだ(Goehr 1992: 261)。 しかしこれは見せかけ上のパラドクスに過ぎない。ゲアはケージの音楽作品が巻き込まれているパラドクスを二つの方向から解消している。そしてそうすること で、ケージの不確定性の音楽作品を、歴史的に先行するロマン主義的な音楽作品概念に「挑戦」する「実践」として、肯定的に評価するのだ。

1.

ゲアはまず第一に、純粋に思弁的で哲学的な作品概念批判とは違って、作品概念に「挑戦」する「実践」が存在する可能性を示唆して次のように述べる。

「あ る概念への挑戦が、その概念がある伝統的な意味を持つという知識に依存するのなら、この種の挑戦は反例法を用いてなされる類の挑戦からは区別される。とい うのも、音楽家がもっとたくさんの音楽や新しいアイデアを含めたいがために概念の意味を拡大することと、一定の領域の音楽作品に基づく哲学的な定義に対す る反例として新しい例を用いることとは全く別のことだからである。後者だけが、ある定義は形而上学的に不正確だということを要求するのだ。」(Goehr 1992: 260)(「哲学的な定義」とは「歴史的に不変で静的な定義」という程度の意味である。)

ゲ アはここで、「反例法」そのものを否定している。「反例法」とは、「音楽作品」概念についての哲学的な唯一絶対的な定義に対し、その定義に当てはまらない 音楽作品を挙げる反論方法のことである。しかしゲアによれば「反例法」とは不適切なものである。なぜなら、「反例法」は、音楽作品を閉じた概念として捉え る(つまり音楽作品概念の歴史性を無視した)本質主義的な信念を、「反例法」の批判対象である音楽作品論と共有しており、ただ「ある対象が、問題になって いる対象に関係のある属性を持つか否かという決定」に関して争うに過ぎないものだからだ(Goehr 1992: 258)。 ゲアは、そうした「反例法」とは異なるものとして、音楽作品概念が歴史的に変遷する「伝統的な意味を持つという知識」を念頭に置いた上で、それを変化させ ようと働きかける実践的な「挑戦」が存在することを主張する。つまり「反例法」とは異なり、ある概念に対する挑戦が、形而上学的な正確さに対する要求を含 まない「実践」というあり方で存在する可能性を主張しているのだ。

ゲアは、ケージを始めとする二十世紀の音楽的アヴァンギャルドの実践を、反例法とは異なり形而上学的な正確さに対する要求を含まない、伝統的な作品概念に対する変更、修正を求める「実践」として理解する可能性を示唆しているのだ。

2.

ゲアは次に、この時批判される作品概念と批判する作品概念とを区別する。ゲアによれば、この時批判対象となる作品概念は、伝統的なロマン主義的な音楽作品 概念である。それは十九世紀の美学と社会が発展させた「統合された形式と内容に天才のひらめきが表現される、自己充足的に形成される統一体としての音楽作 品という中心概念」(Goehr 1992: 242) に、記譜、演奏、聴取といったあらゆる音楽実践が理念的に従属することを要求する音楽作品概念である。対して、批判する側のケージたち二十世紀の音楽的ア ヴァンギャルドたちの実践的な作品概念批判は、先行するロマン主義的な音楽作品概念を「中立化」しようとする動向として理解される。この時「中立化」と は、特殊なイデオロギー的、政治的、美的内容から概念を引き離すことと規定される。つまり二十世紀のアヴァンギャルドたちの作品概念批判する実践は、ロマ ン主義的な音楽作品概念から、音楽作品概念を引き離して相対化しようとする実践として理解されるのだ。

単純化すれば、ゲアは、ロマン主義的な音楽作品概念と、それを歴史的対象として捉えるケージたちの音楽作品概念とを、後者は同じ単語を使用してはいるがせいぜい「ある種の音楽的パフォーマンスのための機会」(Goehr 1992: 268)を示すに過ぎないものとして区別するのである。

こうしてゲアは、第一に、作品概念批判は形而上学的に不正確な実践であっても可能であると示唆することにより、第二に、批判される作品と批判する作品の内 実を区別することにより、作品概念批判を(作品の同一性を拒否するというやり方で)行う実践が作品というあり方で存在する事態を整合的に説明する。作品を 批判する作品もまた作品でしかないという事態がパラドクスであるように「見える」のは、実践を、定義づけを求める「哲学的」な議論と混同し、ロマン主義的 な作品概念を担うものとして理解しようとしてしまうからなのだ。

とはいえ、おそらく事情はもう少し複雑だろう。というのも、現在の私たちの音楽的状況は、そうした二つの音楽作品概念が混合しつつも、しかしおそらくは未 だにロマン主義的な作品概念が優勢な音楽的パラダイムに属していると思われるからだ。私たちは結局のところ、ロマン主義的な音楽作品概念を中心に組織化さ れた様々な語彙_作家性、独創性など_を使用せずにケージの音楽作品について語ることは困難だし、ケージも自らを「作曲家」としてアイデンティファイして いる。ケージも私たちも、決して完全にロマン主義的な音楽作品概念から脱出しているわけではないのであり、私たちはより正確には、「ロマン主義的な」作品 概念の虜なのだ。ケージの音楽実践は、それがどのようなものにであれ、実践において私たちの聴き方を変化させた瞬間には、ある程度はロマン主義的な作品概 念を忘れさせ得る作品となるのかもしれない。しかし同時に、ロマン主義的な音楽作品のようなものとして言及され、存在せざるを得ない、両義的な存在でしか ないと言うべきだろう。ケージの音楽作品とは、いわば19世紀と20世紀に登場した二つの音楽作品概念の混合なのだ。

3.4.肯定されるケージの不確定性の音楽作品

以上のように、音楽作品概念の歴史性と現実に対する実効力を認める立場からは、音響結果の非同一性、楽譜と音響結果の乖離、その結果としての作品の同一性の脆弱化という傾向を持つケージの不確定性の音楽作品は、ロマン主義的な音楽作品概念を批判しようという意図を持つがゆえに作品としての同一性を弱体化させていることが明らかなのではないだろうか。そしてそのような意図を持つものとして位置づけることは、ケージの不確定性の音楽作品を「肯定」的に受容することだと言えよう。その条件は、1.音楽作品概念に歴史性と現実に対する実効力を認めること そして 2.ケージの不確定性の音楽作品を、歴史的に先行する(ロマン主義的な)音楽作品概念に「挑戦」する(批判しようとする意図を持つ)「実践」として理解すること である。

ロマン主義的な音楽作品概念を相対化して批判するという機能は、例えば次のような時に遂行されると言えるのではないだろうか。以下は乱暴な仮説ではあるが、様々な意見を頂きたいと思うので、述べておきたい。

1ケージの不確定性の音楽では、作家性、楽譜、独創性といった観念が希薄化されていることに気付く。

2.その音楽は伝統的な音楽作品概念では理解できないことに気付く。

3.と同時に、しかしそうしたケージの不確定性の音楽もまた音楽作品として言及し、理解するしかない、というパラドクスのようなものに気付く。

4.それがパラドクスのようなものに見えるのは、「伝統的な音楽作品概念」、すなわちロマン主義的な音楽作品概念でケージの不確定性の音楽を理解するからであることに気付く。

5.ロマン主義的な音楽作品概念のパラダイムの強力さに気付くことで、聴き手にもロマン主義的な音楽作品概念を相対化しようとする企図がもたらされる。

6.結果的にケージが意図するロマン主義的な音楽作品概念批判が遂行される可能性が確保される。

こ うした理解がなされることは稀かもしれない。あるいは案外容易になされるのかもしれない。それは分からないが、こうした理解がなされる時には、ケージの不 確定性の音楽作品は、作家性、楽譜、独創性といった観念が限りなく希薄化された「ある種の音楽的パフォーマンスのための機会」(Goehr 1992: 268)であるような音楽作品として、歴史的に先行するロマン主義的な音楽作品概念に対する批判を遂行する実践として、成立する可能性が確保されると言えるのではないだろうか。

4.「ただの音」とは何か?

4.1.「ただの音」という表象の成立条件

「ただの音」が成立するのは、ケージの不確定性の音楽作品が「肯定」される時だけだと言えよう。ここから「ただの音」という表象の成立条件として二つ抽出することができる。

何よりもまず、私たち聴き手は、ケージの不確定性の音楽作品を「肯定」的に受容する必要がある。私たちが「ただの音」を聴く可能性があるのは、音楽作品を 歴史性を担う概念として理解し、不確定性の音楽作品の諸特徴をロマン主義的な音楽作品概念に対する批判的な意図を担う実践として肯定的に評価する、ゲアの ような立場に立つ場合に限られるからだ。この時初めて私たちは、(ロマン主義的な音楽作品との比較において)不確定性の音楽作品において生じる音響はケー ジや演奏家の生産したものではないことを認めることで、ケージが構想する、いかなるレベルにおいても人間的な精神性を担わない、自らを自ら形成する存在と して、人間と等しく世界の構成要素であるような「ただの音」を聞くことが可能になると考えることができるだろう。

そして第二に、「ただの音」を聴くために私たちは、ケージの音楽作品を聴取する時、「音楽」の内側に留まる必要があると言えるだろう。というのも、「ただの音」という表象は「音楽」の外側では成立しないと思われるからだ。

そのように考えるのは、ある音が「ただの音」として表象されるのは、それがある種の「自然物」として理解されるからではないかと考えるからである。つま り、ある音が「ただの音」として表象されるのは、偶然性や不確定性という仕掛けによって、(ロマン主義的な音楽作品における楽音のような)意図的で恣意的 な生産物ではなく、人為的な意味内容を全く担わない、自然の内側に存在する遍在的な自然物の一つとして音が生み出されるからだ、というロジックが採用され るからではないかと考えるからである。これは「音楽」の外側では採用し難いロジックではないだろうか。

ケージはしばしば、アナンダ.K.クーマラスワミに倣い、芸術の目的を「自然が作動するやり方の模倣」(Cage 1961b: 100等)だと述べ、自らの音楽実践と「自然との並行関係」(Cage 1957: 11)に言及し、それを、唯美主義的な「芸術としての生(life as art)」ではなく「生としての芸術(art as life)」(Cage 1981: 87) を志向するものとして形容する。つまり音楽作品の自己同一性の解体とは、音楽芸術を消滅させ、音楽を、自然と同じく遍在的な存在に拡大しようとする試みの 一つだったのではないだろうか。だからこそ、音楽作品の自己同一性が解体されれば、音は、自然の内側に存在する遍在的な自然物となり、「ただの音」となる というロジックが採用されるのではないだろうか。

しかしケージの音楽作品が「自然」ではないのは自明である。それはあくまでも近代芸術音楽という西洋文化特有の文化実践の一形式に過ぎないのだから、結局 のところ「芸術としての生」でしかあり得まい。そもそも、ケージの音楽実践を意味あるものとして肯定するためには、それを歴史的に先行するロマン主義的な 音楽作品概念に対する批判的意図を担うものとして位置づけなければいけないのだから、「ただの音」とはロマン主義的な音楽作品との相対的な関係性の中でし か存在しないものだと考えるべきだろう。

したがって、もしも私たちが「音楽」の外側に立ち、「音楽」もまた、音楽作品のように、ある文化の中でそれ自身の歴史性を担っているある種の文化的な制 度、構築物の一つに過ぎないと考えるならば、そのような歴史性を担っている場所に属する音響が「ただの音」になることなぞ不可能だと言えるだろう。おそら くそれはロマン主義的な音楽作品における音との相対的な関係性の中で「ただの音」と名付けられるに過ぎない音響だと言えるだろう。言い換えれば、「ただの 音」という表象が成立するためには、私たちは「音楽」の内側に留まり、「音楽」なるものもそれ自身の歴史性を担っているある種の文化的制度の一つであることを「忘れる」必要があると言えよう。これを「ただの音」という表象の限界として指摘することができるだろう。

したがって「ただの音」という表象が成立する条件は次の二つである。まず第一の条件として、私たちは、ケージの不確定性の音楽作品を音楽作品として肯定的 に認めなければいけない。第二の条件として、そして「ただの音」という表象の限界として、私たちは、「音楽作品」を取り巻く「音楽」なるものも、ある種の 文化的な構築物に過ぎないことを忘れて「音楽」の内側に留まらなければいけない。

4.2.「ただの音」という表象の相対化

とはいえもちろん、より正確には、「ただの音」を知覚することなぞ不可能だと言うべきだろう。

「ただの音」とは、あくまでも、音楽という文化実践の内側で構築されるある種の虚構に過ぎない。音響がケージの音楽作品の中で「ただの音」として表象され るためには、その様々な意味作用は抑圧されねばならないからだ。「ただの音」とは、音楽という文化実践の内部では、今のところそれ以外に形容のしようがな いがゆえに「ただの音」として(あるいは「ノイズ」として)表象されるしかないような音響だと考えるべきだろう。

例えば、《4'33''》(1952)における「聴衆のざわめき」という音楽的素材は、音楽とい う文化実践の外側からは、何らかのレベルでの意味連関を持つ音であることは明白だろう。それは例えば、コンサート・ホールを所有できる程度に裕福な都市の コンサート・ホールにやってくる聴衆たちが出せる程度のざわめき、を示す音響として位置づけることができるだろう。恐らくそこでコンサート・ホールを破壊 し尽くすような音響が生産されることはあるまい。しかしそうした意味作用は、《4'33''》(1952)を聞く際には抑圧されていなければいけない。なぜなら、それらの音響は、いかなる人間的な精神も刻印されていない「非意図的な音」でなければいけないからだ。

「ただの音」とはある種の虚構に過ぎない。それは音響の意味作用が抑圧されている音響なのだ。音楽作品において音響の意味作用が抑圧される事態について、ダグラス・カーンは次のように述べている。

「音響を音楽化することは、音楽的な観点からは全く素晴らしいことである。しかし、音響の意味作用の素材性(the materiality of its signification)も含め、音響のあらゆる素材としての属性を考慮に入れる、音を扱う芸術実践の立場からすれば、(音の)音楽化とは還元的な操作であり、素材の潜在性に対する制限された応答である。ケージ自身にとって、世俗的な音の音楽化に伴う還元と無理強い(imposition)は、彼自身の美学、特に彼の有名な『音をあるがままにすべし Let sounds be themselves』という格言に現れている彼の美学の中心的な規範とは調和しないものだった。ケージが行ったように音響からその意味連関(association)を奪うことは、音響固有の性格を斥け、経験を否定し、記憶を抑圧することである。というのも、素材レベルで人間によって聞かれ、文化と社会の外側で聞かれる音響などないからだ。純粋な知覚を通じて聞かれる音響などない。ただ、社会性に『汚染』された統覚(apperception)があるだけだ。」(Kahn 1993: 103)

ケージは「世俗的な音」を音楽化することで、あらゆる音を音楽的素材として用いようとしたと言えるだろう。1951年 の無響室の経験において非意図的な音を見つけたケージは、偶然性の技法や不確定性のアイデアを用いて「非意図的な音」を音楽的素材として導入しようとする ことになった。それは具体的には偶然性の技法や不確定性のアイデアを用いて遂行された。ケージが採用したロジックは、作曲家と音響結果とのつながりを断絶 し、「音響からその意味連関(association) を奪う」ことで、つまり音響に「あらゆる意味を拒絶する」という機能を担わせることで、他に形容のしようがないがゆえに(あるいは「自然物」になぞらえら れるがゆえに)ある音を「ただの音」として表象する、というものだったと考えることができるだろう。「ただの音」という表象が成立するためには、音が持つ 様々な意味作用が抑圧される必要があるのだ。ここでダグラス・カーンは、そのようなケージの戦略の限界、つまり、「あらゆる音」とは実はその様々な意味作 用が抑圧されたものに過ぎないこと、を指摘していると言えるだろう。

したがって「世俗的な音」、例えば《4'33''》(1952)における「聴衆のざわめき」を「ただの音」として成立させるためには、それが音楽という制度的構築物の中でのみ、その ように名付けられた音響に過ぎないものであることを忘れる必要がある。私たちはケージの音楽実践が音楽であることを忘れなければ、それを「ただの音」とし て聴くことはできないし、それが音楽という文化実践の一つであることを意識すれば、「ただの音」とは、そのように名付けられた音響に過ぎない「聴衆のざわ めき」でしかない。「ただの音」という表象は、「音楽」というある種の文化的な構築物の内側にしか成立しないものなのだ。

ケージの演奏に関して不確定な音楽作品は、確かに、「音楽作品」概念を批判し、そうすることで既存の音楽のあり方を批判するものとなるかもしれない。しか し、それは決して制度としての音楽そのものを解体し得るものではないだろうし、あくまでも音楽という文化実践の内側に属するものだと考えるべきだろう。

4.3.まとめにかえて~この考察は何のためになされてきたのか?

ここまで、ケージの「ただの音」とは何か?ということについて考えてきた。ケージの不確定性の音楽作品の受容様態が「肯定」されるロジックを参照することで、「ただの音」の成立条件を抽出しようとした。

ケージの不確定性の音楽作品の受容様態が「肯定」される条件は 1.音楽作品概念に歴史性と現実に対する実効力を認めること そして 2.ケージの不確定性の音楽作品を、歴史的に先行する(ロマン主義的な)音楽作品概念に「挑戦」する(批判しようとする意図を持つ)「実践」として理解すること である。これは「ただの音」という表象が成立する第一の条件だと言えよう。

また第二の条件として、「ただの音」という表象を成立させるために、私たちは「音楽」の内側に留まらなければならないことを指摘した。というのも、「ただ の音」という表象が成立するのは、音があらゆる人間的な精神の刻印から逃れたある種の「自然物」として、「あらゆる意味を拒絶する音響」として、それ以外 に形容のしようがないがゆえに「ただの音」として表象される必要があり、それは「音楽」の外側では不可能だからだ。

最終的に私は「ただの音」という表象の限界を指 摘するに至った。というのも、「ただの音」という表象は、音の様々な意味作用を抑圧するために「音楽」の内部でしか成立しないからだ。この指摘は、ケージ のミスティックな言葉を相対化して、盲目的なケージ崇拝やいたずらケージ信仰から距離を取り、「音楽」の外側に立つことを可能としてくれるのではないだろ うか。

とはいえ同時に、私はただケージの功績を否定したかったわけではないことも強調しておきたい。というのも、ダグラス・カーンがケージを批判する「音響のあ らゆる素材としての属性を考慮に入れる、音を扱う芸術実践の立場」に立つのに最も功績があっただろう存在も、あらゆる音響を音楽化しようとしたケージをお いて他にはいないと思うからだ。ケージが作曲家を「音の全領域に向かい合う」 (Cage 1937: 4)ものとして規定し、音楽的素材の拡大という戦略を採用し、「全て」の音響を芸術のための素材として利用しようとしたからこそ、「音響のあらゆる素材としての属性を考慮に入れる、音を扱う芸術実践の立場」があることが意識されるのではないだろうか。

そこで、最後に私は次の仮説を提唱しておきたいと思う。ケージの音楽作品は、音楽作品概念の変容をめざしつつも音楽という文化実践そのものを解消しようと はしないものだったかもしれない。しかし結果的に、ケージの音楽実践は、「音響のあらゆる素材としての属性を考慮に入れる、音を扱う芸術実践の立場」とい う、音響を扱う芸術という領域の内側に、音楽とは異なる音楽にとっては「外部」としての音響芸術、すなわちサウンド・アートを設定させるものだったのでは ないだろうか。

従って最後に、ケージの不確定性の音楽作品の受容について以下のように付け加える必要があるだろう。それは、聴き手の音楽作品概念に従って、単に否定さ れ、あるいは逆に伝統的な西洋芸術音楽の末裔として評価されつつもその意義は十分理解されずに抑圧され、あるいは音楽作品概念の歴史性が意識される時には 「ただの音」が聴きとられるかもしれないような音楽作品である。ただし「ただの音」が聴かれるためには、音が持つあらゆる意味内容を抑圧するために、その 受容が音楽芸術という文化実践の内側で行われる必要がある。そして、「ただの音」の虚構性、音楽において抑圧される音響の意味作用が意識されることによ り、抑圧された音響の意味作用を素材として使用するサウンド・アートという「ジャンル」が登場する可能性が生まれると言えるのではないだろうか。ケージの 不確定性の音楽作品は、音を扱う芸術の内部に、音楽芸術という文化実践の外部としてのサウンド・アートを準備するのだ。

主な参考文献

邦訳があるものは邦訳を参照し、適宜訳し直した。

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本論文は、2007年度に京都大学より博士号を認定された学位論文(『聴くこととしての音楽―ジョン・ケージ以降のアメリカ実験音楽研究』)の第五章を改稿したものである。

1 実際に「ただの音」という言葉が出ている部分はかなり詩的で文意が取りづらいので、この部分を「ただの音」を形容する文章として引用した。実際に「ただの音」という言葉が出ている部分は次の文章である。

「こうした計画[音を人工的な理論や人間の感情表現の伝達手段とするのではなく、音をあるがままにしておくための手段の発見に乗り出すこと]は多くの人々にとって恐ろしいものに思われるだろうが、よく調べてみれば警戒する理由は無い。ただの音である音(sounds which are just sounds)を聴くことは、理論化を行う知性(mind) を直ちに理論化に向かわせることになるし、人間の感情はいつも自然との出会いによって喚起される。山は知らず知らずのうちに私たちに驚異の念を引き起こす のではないか?川の流れを泳いでいるカワウソは陽気な感覚を引き起こすのではないか?(中略)自然に対するこうした反応は自分自身のものであり、必ずしも 他人とのものとは一致しない。感情は感情を抱く人のうちに起こるのだ。そして音は、あるがままにされるならば(when allowed to be themselves)、音を聴く人々が無感情に音を聴くことを求めるわけではないのだ。この反対のものが、反応能力といわれるもの(what is meant by response ability)である。」(Cage 1957: 10)

2 彼は例えば次のように語っている。

「1951年 の技術で可能な限り無音にされた無響室に入った時、私は、私が意図せずに発している二つの音(神経系統の作動音、血液の循環音)が聞こえることを発見し た。明らかに、人間が置かれている状況とは客観的なもの(音と沈黙)ではなく、むしろ主観的なもの(音のみ)であり、意図された音とその他の意図されな かった音(いわゆる沈黙)で成立しているのだ。」(Cage 1955: 13-14)

3 狭義の実験音楽の規定の一例。

「…そしてここでは「実験的」という言葉がふさわしいものである。ただしそれは、後からその成否が判断される行為としてではなく、たんにその結果が知られていない行為 (an act the outcome of which is unknown) を言い表すものとして、この言葉が理解されるときのことである。」(Cage 1955: 13)

4 時間の長さをタイトルに持つ作品群や、同時に演奏される重ね合わせの作品群について。

例えば1954年にドナウエッシェンゲンで《12'55.6078"》(1954)というタイトルで演奏された作品は、デヴィッド・チュードアが演奏する《34'46.776"》とケージ自身が演奏する《31'57.9864''》という二つのピアノ作品を同時に演奏したものである。これらは、例えばたった二秒半の間に、譜面に記されている多くの音を演奏すると同時に、(「H」という記号指示に従い)内部奏法で二つの音を演奏し、さらにその二つの音を演奏する合間にピアノをプリペアする物体を移動させる必要まである(グリフィス2003:90-91)。つまりこの作品は、極度に正確な時間規定を伴う遂行不可能な大量の演奏を指示し、しかもそうした作品を何個か同時に演奏しても構わないとすることで、演奏家も音響結果を「予見できない状況」(Cage 1958: 36)を作り出すための作品と考えられるのだ。とはいえ、これらは作曲された後に「不確定性」を付け加えようとしたものである。

5 というのも、偶然性の時期以降のケージの音楽作品の一部の楽譜は「3.音響を発生させる行為を指示するもの」にも変化していったと考えることもできるからである。しかし本論では紙幅の関係で、そうした「パフォーマンス」的要素の強い「音楽作品」については言及しない。

6 私 たちは、グッドマンのこうした理論的スタンスに、ある種の価値評価的な態度を見出すことができるかもしれない。ケージの図形楽譜が、中世音楽の記譜法と同 じく、楽譜と音響結果の対応関係を一義的に決定できないことを示した後で、グッドマンは「革新は時には退化でもある」(Goodman 1976: 190) と述べている。様々な音楽実践に対して価値評価的な言辞を与えることを極めて慎重に避けるグッドマンが漏らしたこの一言は、拡大解釈すれば、作品の同一性 が確保できないケージの図形楽譜を用いた音楽作品は「作品」という言葉に値しない退化した音楽だ、というグッドマンの価値評価を示す言葉として解釈できる かもしれない(グッドマンがこう述べるわけではないし、彼が積極的に価値判断を下そうとする意図を持っていたとは思えないが。)。そしてもしそうだとすれ ば、この時ケージの音楽作品は、単に「無視」されるのみならず、「音楽作品」には値しない「劣った」音楽として位置付けられると言えるだろう。

7 プリチェットは、自らの分析的アプローチが不確定性の作品ではなく偶然性の作品を対象としたものであり、作曲システムを分析するに過ぎないことに意識的である(Pritchett 1989: 260)。また、確かにこうした分析的アプローチは、プリチェット自身述べるように、音楽学者としての彼らが、不確定性の作品ではなく偶然性の作品を分析するための作業領域を確保するために意識的に選択した戦略的な方法に過ぎないと考えておくべきかもしれない。

し かしこれは、音楽作品なる対象を確定的なものとして前提した上でケージの音楽作品を取り扱うアプローチなのだから、狭い意味での「音楽学」的な枠組みに囚 われているとも批判できるだろう。意地の悪い言い方をすれば、こうした分析的アプローチは、ケージの不確定性の作品を含む音楽作品を確定的なものとして取 り扱い、ケージを西洋芸術音楽の巨匠たちに連なる偉大な作曲家として位置付けることにより、暗黙裡 に楽譜中心主義的な西洋芸術音楽の研究方法を科学的で素晴らしいものとして正当化し、博士論文を量産し、様々な学術論文(集)を量産しようとする「音楽 学」的な欲望に突き動かされているのだと非難することもできよう。

8 詳細は、Goehr 1992の第四章から第八章を参照のこと。

ゲアは1800年 以降、音楽作品概念がその他の音楽実践を規制しつつ、中心的機能を果たし始めるようになったことを詳細に論じている。例えばこの時期以降、作曲家は宮廷か ら独立し、著作権に関する法律が制定され始め、独創性の理念が重要視され、芸術の自律性の観念が発達し、記譜法における作曲家の指示が精密化した。結果的 に楽譜と演奏、演奏と作品の観念は明確に分離し、聴衆の立ち居振舞いに対する要求が変化し、音楽史が登場した。また、それらの反動としてのヴァーチュオソ や指揮者に対しては相対的に低い評価しか与えられなかった。つまりいわゆる芸術音楽の近代化が成立したのだ。その中心に「作品概念」があったというのがゲ アの歴史的パースペクティヴである。ゲアはこうした状況を、「Werktreue」の理念を持つ「ベートーヴェン・パラダイム」と形容する。