2010年12月 クリスチャン・マークレイ試論-見ることによって聴く

2010年12月 クリスチャン・マークレイ試論-見ることによって聴く

クリスチャン・マークレイ試論-見ることによって聴く

中川克志

An Attempt at Interpretation of Christian Marclay - Listening by Means of Seeing

(ここで公開している論文たちには校正での訂正が反映されていない部分があり、実際の掲載稿とは若干相違があります。また図版は掲載していません。引用などの場合、必ず、公開された原文をご参照ください。)

(Christian Marclayは、2010年頃から「クリスチャン・マークレー」と表記されることも増えた。)

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註は、本文中に(*** 1 ***)と表記し(「()」は全角です)、註の内容は、キャプションの前にまとめました。

文中での図指示は[Figure1-3]などと入れ、前後に半角空白を入れました。キャプションは注の後にまとめました。

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1.はじめに

クリスチャン・マークレイ(Christian Marclay 1955-)は、レコードを演奏するミュージシャンであり、音や音楽に関わる事物をテーマに作品を制作するサウンド・アーティストである。マークレイは、1955年にアメリカ合衆国カリフォルニア州サン・ラファエルでアメリカ人の母親とスイス人の父親の間に生まれ、子供の頃にスイスに移住し、そこで視覚芸術高等学校を卒業した後、1977年にボストンのマサチューセッツ美術大学に入学した。1978年に交換学生制度を利用してニュー・ヨークのクーパー・ユニオンの学生となり、一年間ニュー・ヨークに滞在した。その時に当時のNYのクラブ・シーンを知り、ギターの弾けないギタリストとして有名なアート・リンゼイのDNAなど、いわゆるNo Waveのバンドたちに刺激を受けて音楽活動を始めた(*** 1 ***)。翌年ボストンに戻ったマークレイは、ヒップホップDJたちとは違う文脈でレコードを楽器として使って人前で演奏するようになり、やがてジョン・ゾーン(John Zorn 1953-)周辺の、いわゆる「実験的ポップ・ミュージック」の即興演奏家たちと一緒に演奏するようになり、元祖ターンテーブリストとして有名になった。マークレイは、日本の大友良英を初めとする世界中の多くのターンテーブリストたちに影響を与え、現在も世界各地で演奏活動を行っている [Figure1-1] (音楽家としてのマークレイについては中川2011も参照)。とはいえマークレイは音楽家であると同時に美術家でもある。マークレイは、しばしば自らを音楽家としてではなくヴィジュアル・アーティストとしてアイデンティファイする(例えばMarclay and Gordon 2005: 10; Licht 2003: 91など)。彼は、リサイクル・レコード(Recycled Records)のシリーズ―レコードに彩色したり何枚かのレコードを分割して一枚に貼り合わせることでレコードを「リサイクル」するもの [Figure1-2] ―やイマジナリー・レコード(Imaginary Records)のシリーズ―実際には存在しない想像上のレコード・ジャケット(《Christian Marclaqy at the St. Regis》(1981) [Figure1-3]など)―といった、レコードを素材とする視覚芸術作品を80年代初頭から制作しており、音と音楽に関わるサウンド・アーティストとして有名になった。特に90年代以降は、世界的にはおそらく、ミュージシャンとしてよりも「サウンド・アーティスト」として有名なのではないだろうか(*** 2 ***)。

本論では、マークレイのサウンド・アートについて考察する。それらは実際には音を発しない。にも関わらず、音や音楽を知覚させる作品である。実際には音が生じない「聞こえない音」は、実際には聴こえないからこそ逆に、現実の音に限定されずに想像力を刺激して頭の中で変幻自在に変化することで、私たちに、音や音楽にまつわる様々な制度的なステレオタイプと、ステレオタイプに侵入された私たちの知覚を浮き彫りにさせてくれるように思う。以下は、そうしたマークレイのサウンド・アートに接近するための試みである。

本論では、まず第二章で、音楽家から美術家にわたるマークレイの活動を、鑑賞者に知覚させる音を生成する手段の変化という観点から解釈する。そうすることで、音楽家あるいは美術家としてのマークレイのどちらかだけに重点を置くのではなく(*** 3 ***)、シンプルなマークレイ像を提示したい。マークレイの視覚作品は、見ることで「聞こえない音」を知覚させる。マークレイは、音楽家としてはレコードを、美術家としては「視覚」を、音響生成テクノロジーとして利用する芸術家なのだ。また、三章でケージ的な実験音楽における「聞こえない音」とマークレイの「聞こえない音」とを比較した後、四章で、後者を、不特定多数の人々の集団的な記憶の場における音の記録可能性に関わろうとするものとして解釈する。そうすることで、実験音楽的な「聞こえない音」の系譜から離れた実践として、マークレイの音にまつわる視覚芸術作品を解釈できるだろう(*** 4 ***)。

2.音響生成手段の変化

2.1.楽器としてのレコード、モノとしてのレコード

音楽家としてのマークレイは、レコードを楽器として用いることで、即興演奏を行なったりコラージュ作品を制作したりする。レコードを楽器として演奏する音楽家としての彼の特徴は、レコードを音響再生メディアとしてのみならず、音響を生み出すツールとしても用いることにある。つまり、レコードに記録されていた音・音楽だけではなく、物質としてのレコードが生産する音響―「レコードの音」―も利用することにある。「レコードの音」とは、例えば、レコードの表面ノイズ、ひっかき傷の音、あるいは物質的に変形したレコード―例えば中央ではない場所に穴をあけたものやいくつかのレコードを分割して1つに貼り合せたレコード―の再生音などである。この「レコードの音」は、記録した音を再生産するというレコード・メディアの通常の機能―音響参照機能―を抑圧することで、レコード・メディアといえどもそれ自身が音を発する物質であるという事実を聴き手に意識させるものだ。「レコードの音」を使うことで創作対象の物質性を強調し、メディアの媒介的な性質を浮き彫りにすること、これがマークレイの特徴である。最終的にメディアの媒介的な性質を浮き彫りにするという点で、マークレイは、同じく楽器としてレコードを演奏するヒップホップのDJたちと大きく異なる。

メディアの媒介的性質を強調するこうした姿勢は、《Record Without a Cover》(1985) [Figure2.1-1] という作品に最も明瞭に現れている。これは、単純な仕掛けで多様な効果と作用をもたらす、シンプルながらも力強いコンセプチュアルな作品だ。このレコードには、他のレコードのスクラッチ・ノイズやスキップ・ノイズが録音されている。また、普通は一曲目が始まるまでの数秒間だけ続く表面ノイズが、このレコードでは10分間続く。片面にはタイトルやクレジットが印刷されており、その反対側の片面にだけ音響が記録されている。このレコードには初めからレコード・ジャケットや保護スリーブがなく、購入後も何かに入れて保護しないよう指示される。なので、運搬時や販売時に指紋やホコリやちょっとした傷がつきやすくなっており、レコードに簡単にノイズが加わるような仕掛けになっている(*** 5 ***)。それゆえ、このレコードではひたすら表面ノイズが再生されるのだが、それが、メディアとしてのレコードに元々記録されていたノイズなのか、傷をつけられることで加わった、物質としてのレコードが生産する音響―「表面ノイズ、破裂音、炸裂音など、望ましくない音全て」(Marclay 2005a: 121)―なのかは区別できない。レコード聴取とは通常は前者の再生産された音を聴くことだ。しかしここでは、再生音とレコードが発する表面ノイズは併置され、聴き手も二種類のノイズが併置されていることは知っているのに両者を区別できない。結果的に、聴き手は、レコードというメディアは単なる音の入れ物ではなくそれ自身が音を発する物質であることを意識することになろう。さらには、それがいかなる種類の音響であれレコードが再生産する音響は常に物質としてのレコードが生産する音響であること、またそれゆえ、レコードに記録される音響は常にレコード・メディアの物質状態に影響をうけること、を自覚的に意識するようになるかもしれない。

このように、《Record Without a Cover》(1985)は、メディアの媒介的な性格を前景化する。音・音楽が記録された音響メディアを聴くという行為は、普通は、そこに記録される以前に発せられていたであろう音・音楽を想像的に追体験する行為で、その場で新たに生み出された音響をその場で生み出された音として聴取する行為とは考えられない。レコードの再生音は、そこに記録される以前の音・音楽を―「原音」というある種の起源として―表象しようとするかもしれないが、厳密には、あるいは科学的には、その時にその場でレコードやスピーカーといった音響メディアが毎回生産する音響である。マークレイが前景化するのはこの事実である。マークレイは、メディアとしてのレコードが再生産する音響は物質としてのレコードが生産する音響であるという事実を前景化するのだ(*** 6 ***)。

2.2.演奏=再生できないレコードへ

このような「モノとしてのレコード観」は、まず第一に、レコードを楽器として使うアイデアの背景で「レコードとは音楽再生メディアである」という常識的な観点を相対化するのに貢献したといえよう。それゆえ第二に、このレコード観は「演奏=再生できないレコード」を構想させたと考えられるだろう(*** 7 ***)。この、 音を発しない、演奏=再生できないレコードが、後のマークレイのサウンド・アートにつながったといえるだろう。

ヴィジュアル・アーティストとしてのマークレイを概観する中で、ファーガソンは、マークレイはリサイクル・レコード・シリーズ(1980-86)の制作で音楽から美術の世界へと踏み込み、《Mosaic》(1987) [Figure2.2-1] の制作で決定的な転機を迎えた、と指摘している(Feruguson 2003: 21)。前者は何枚かのレコードを分割して1枚に貼り合せたもので演奏にも用いられた。しかし後者の《Mosaic》(1987)は、溝を合わせずにレコードを組み合わせたものなので、演奏=再生できない。それゆえ美術の世界への転機として言及されるわけだ。実際はマークレイはこの時初めて視覚美術を制作したわけではないし(*** 8 ***)、マークレイはその後も今も演奏活動を続けているので音楽家と美術家としてのマークレイが明確に分断されているわけでもないが、マークレイが、80年代後半以降に音や音楽にまつわる視覚美術の制作に活動の重点を移したことは確かだ。80年代後半には、レコードという物質を素材として用いる(が、演奏=再生できない)視覚作品―《Endless Column》(1988) [Figure2.2-2] や《Ring》(1988) [Figure2.2-3] 、あるいは《5 cubes》(1989) [Figure2.2-4] や《Untitled (melted records)》(1989) [Figure2.2-5] など―や、レコード以外の音楽にまつわるオブジェや聴覚文化全般にまつわるオブジェを用いる視覚作品―マイクとそのシールドを首吊り縄(hangman's noose)に擬した《Hangman's Noose》(1987)[Figure2.2-6] 、蓄音機のラッパ部分を蝋で制作することで初期の蓄音機の「物質的性質(の脆弱さ)」をほのめかす《Candle》(1988)[Figure2.2-7] 、次節で取り上げる《Chorus II》(1988)など―が制作され、床にレコードを敷き詰めるインスタレーション《850 Records》(1987)―後に《Footsteps》(1989)[Figure2.2-8] など同様のインスタレーションも制作された― も行われた。

2.3.見ることによって聴く

マークレイの視覚作品の多くは、見ることで「聞こえない音」を知覚させる作品である。例えば、絵画に描かれた音楽演奏場面、何かの音が発生している場面の写真、マンガの描き文字、これら全て、見ることによって鑑賞者の頭の中で「(想像上の)音」が知覚されるものだ。これらと同じように、マークレイのサウンド・アートは、鑑賞者に知覚される音の生成手段として「見ること」を採用しているということができる。それらは「見ることによって聴く」作品なのだ。分かりやすい事例として、「音」を主題とするインスタレーション作品をあげておきたい。

それらのインスタレーションでは、何かの音が発されていることは視覚的には明らかだが聴覚的には音響は知覚できない。例えば、《Chorus II》(1988)[Figure2.3-1]は、叫んだり歌ったりしている人間の口元だけがアップされた写真22枚に、額装を施して展示したインスタレーションである。私たちは、それらの写真を見ることで、頭の中で、そこで叫ばれていたであろう「音声」を想像して「聴く」だろう。また、《Ghost Quartet》(1990)[Figure2.3-2]は、弦楽四重奏楽団を模して白いヴェールが掛けられた四客の椅子が設置されているインスタレーションである。また、《White Noise》(1993)[Figure2.3-3]は、蚤の市で大量に買ってきた、撮影の瞬間に音が発されていると分かる古い写真を、全て裏返しに壁にピン留めしたものである。また、《Amplification》(1995)[Figure2.3-4]は、蚤の市から買って来た6枚の写真―ピアノを弾く老婆、バンドネオンとアコーディオンとヴァイオリンで演奏に興じる三紳士、峡谷で仲間たちに囲まれて笛を吹く女性、海岸でアコーディオンを弾く青年、子供部屋でリコーダーを吹く幼女、カフェでギターのおどけた弾き語りをしている男性―を巨大に引き伸ばして半透明の斜幕に焼き付け、教会の内部に張り巡らせた過去最大規模のインスタレーションである。あるいは《Pictures at an Exhibition》(1997)[Figure2.3-5]とその先行作品(*** 9 ***)をあげることもできよう。これらは、それぞれが設置された美術館の所蔵品の中から、楽器演奏場面や楽器など音楽に関連する場面が描かれた絵画を集めたインスタレーションである。

多様な傾向を持つマークレイのサウンド・アートを一律に論じるのは乱暴だが、マークレイのサウンド・アートは全て、見ることによって「聞こえない音」を聴かせるという方法を採用するものだということができる。つまり、マークレイの活動を通じて、鑑賞者の知覚する音を生成する手段は、楽器としてのレコードの使用から「見ること―あるいは、見せること、音を想像させること―」へと変化したと整理できるだろう。音楽と美術の領域に広がるマークレイの活動全般は、鑑賞者に知覚させる音を生成する手段の変化として整理できるだろう。

3.聞こえない音:実験音楽とマークレイ

3.1.聞こえない音:実験音楽の場合

さて、ではマークレイの「聞こえない音」は、どのように解釈できるか? 20世紀後半以降の、ジョン・ケージ以降の実験音楽の系譜における「聞こえない音」と比較することから考えてみたい。

「聞こえない音」の系譜は様々に辿ることができる。例えば、12世紀に出版されたボエティウス『音楽論』では、音楽は、天上の音楽(耳には聞こえないムジカ・ムンダーナ)、人体の音楽(やはり耳には聞こえないムジカ・フマーナ)、そして器楽や声楽を含めた実際に鳴り響く全ての音楽(ムジカ・インストルメンタリス)の三つに分割されていた。また、中世ヨーロッパでは、「音楽」は「算術、幾何、天文学」とともに「数学的四科」のひとつだったが、それは、音楽あるいは音響の理論的研究だった。あるいは、17世紀の初めにケプラーは、惑星の運行の規則性を音高で表現して「惑星の音楽」を考案した。実際に鳴り響かない「聞こえない音」は、西洋芸術音楽の伝統の中に散見されるものだ。

そして20世紀以降の「聞こえない音」として重要なものは、ジョン・ケージ以降の実験音楽で追求されたものだろう。それらは、耳には聞こえないけれども遍在しており、ちょっとした仕掛けを経由することで知覚できるようになる存在として想定された。例えば、ケージは「沈黙」という「聞こえない音」を想定し、「沈黙」を「非意図的な環境音」として読み替え「環境音」を知覚することで、「聞こえない音」を知覚しようとした。また、ケージの次世代、実験音楽第二世代のフルクサスの音楽家も、「沈黙」を様々な遍在的存在に読み替えることで、「聞こえない音」を知覚可能な対象へと変換した。例えばラ・モンテ・ヤングは「音量的に小さ過ぎて聞こえない音」を想定し、音響の視覚的な知覚可能性を宣言することで、「聞こえない音」の視覚的な知覚可能性を確保した。つまりヤングは、音は、聴かずとも見ることによって知覚できると宣言することで、「聞こえない音」を知覚しようとしたのだ。そうしたフルクサスの音楽家たちの強引なロジックに基づく活動は、ケージ的な実験音楽に連なるものとして位置づけることが可能だろう。ヤングを初めとするポスト・ケージ・アーティストだったフルクサスの音楽家たちは、ケージ以上に新しく過激な音楽を提示するために、「音楽的素材の拡大」という戦略を継承発展していく必要があったと考えることができるだろう(実験音楽というジャンル全体については中川の博士論文=中川2008を参照。特にヤングの音楽実践については中川2002を、また同じくフルクサスの音楽の事例である小杉武久についてはNAKAGAWA 2003を参照)。

3.2.聞こえない音:マークレイの場合

マークレイもまた、このケージ以降の「聞こえない音」の系譜に位置づけることができる。例えばダグラス・カーンによれば、マークレイは「埋め込まれて遍在している音(the embedded ubiquity of sound)」(Kahn 2003: 59)を扱うアーティストである。カーンによれば、マークレイの「聞こえない音(コンセプチュアル・サウンド)」は、あらゆる事物の中に埋め込まれており「見ること」によって取り出される。マークレイもまた、「聞こえないが遍在する音」の系譜に位置づけられるのだ。

マークレイの「聞こえないが遍在する音」についてもう少し説明しておこう。何かを見たときに全く何の音響も想像できないということはまずない。というのも、全く完全に無音の状態を想像することは困難だし―私たちは例えば、「シーン」という擬音語を想像してしまうのではないか―、全く何の音も想像せずにいることは困難だからだ―自分が何かの音を聴いていることや、何かの音を頭の中で想像していることに気づかないことはあっても―。たいていの場合、人は、意識的/無意識的に、ついつい何かの音を想像してしまうものではないだろうか。だとすれば、何の音響も喚起し得無い視覚的なイメージというものはない、といえよう。マークレイは、視覚的イメージをきっかけとして用いて「記憶のレコードを再生することで、あらゆる人々をレコード・プレイヤーに変え」(Kahn 2003: 70)て演奏=再生する「生体を使うターンテーブリスト(bio-turntablist)」(63)なのである。見ることによって取り出されるこの埋め込まれた「聞こえない音」は、至る所に遍在するといえよう。

とはいえ、この「聞こえない音」は、なんなのだろうか? 実験音楽においてそうだったように、音楽的素材の拡大という戦略の拡大発展として解釈すべきものなのだろうか?(*** 10 ***) そうではあるまい。確かにマークレイは音楽家だが、マークレイのサウンド・アートは、あくまでも視覚美術なのである。マークレイ作品には、実験音楽の展開として以外の解釈が与えられてしかるべきだろう。それゆえ以下、私は、こうしたマークレイの「聞こえない音」に、不特定多数の人々の集団的な記憶の場における音の記録可能性に関わろうとするものという解釈を与えてみたい。そうすることで、実験音楽的な「聞こえない音」の系譜から離れた実践として、マークレイの視覚作品を解釈したい。次章では、マークレイが 1)音の記録可能性に関わること そして 2)集団的な記憶の場に関わろうとすること を確認する。

4.集団的な記憶の場における記録可能性

4.1.音の記録可能性

まず注意を促しておきたいことは、マークレイは、レコードや磁気テープやCDといった音響テクノロジーだけではなく、写真や絵画、あるいは文字テクストやイラストといった視覚的なテクノロジーを用いた音響記録のあり方にも関心を持っていることである。つまり、マークレイにとっての音響記録テクノロジーはいわゆる音響テクノロジーだけではなく、何かを記録するテクノロジー全般に及んでいる、ということである。さらにマークレイは、しばしば次のように、自分は「(音響テクノロジーを用いた)録音」に代表される「記録」という人間活動一般に魅了されて作品を制作してきたとさえ述べることがある。

「アートって多くの場合、痕跡を残すでしょう。人はなにか残るものをつくる。それに対して僕は疑問を投げかける。……記憶してとどめておくというのはわれわれの日常の一部でごくあたりまえのことだけど、なぜかといえば、人生っていうのは喪失や流れ行く時間のことだから。で、僕を魅了するのは、それを懸命にとどめようとする人びとの試みなんだ。いろんな形態をとるけど、それが僕のやっていることの本質的な部分なのかもしれない」(マークレイ1996)。

この言葉を参照すれば、マークレイの「音」作品は、視覚的な画像テクノロジーを用いて音響を記録しようとする活動を検証するもの、として解釈できるのではないか。写真とは音を視覚的に記録するテクノロジーだ。なので、「音」作品は、視覚的な音響テクノロジーを用いることで、視覚的には知覚できるが聴覚的には知覚できない音響を主題として扱う作品として解釈できるだろう。マークレイの作品は、音響テクノロジーではなく写真などの視覚テクノロジーが記録する「音」はどれほど「正確」なのかとか、鑑賞者に何らかの情動を喚起し得るのかといったことを検証する作業として解釈できるではないだろうか。

4.2.集団的な記憶の場への関与

また、マークレイは、何らかのレベルで、不特定多数の人々の集団的な記憶の場に関わろうとすると解釈できる。関わろうとする集団や、関わろうとする記憶の種類―どれほど具体的あるいは抽象的かだとか、どれほど深層あるいは表層のレベルなのか、など―は、作品によって様々だし、さほど明確でない場合も多い。しかし、マークレイはしばしば、それ以上の具体的な説明はないまま、自分の作品は人々の記憶と関わるものであると発言している(Marclay2008など)。また、何らかのレベルで人々の集団的な記憶に関わろうとする傾向は、マークレイが扱う素材に表れているように思う。

例えば《White Noise》(1993)[Figure2.3-3]の場合。これは《Chorus II》(1988)[Figure2.3-1]に似た作品で、数百枚の写真が裏返しに展示されたインスタレーションである。裏返しではあるが、それらは、マークレイが蚤の市やがらくた市や個人コレクションから何年もかけて集めてきた、無名あるいは匿名の個人写真たちで、ドラムを叩いたり歌を歌ったりといった音を発している場面が撮影された写真である。つまりこれらはある種の「集団的な記憶」のサンプルなのだ。そしてそこに記録されている、無名あるいは匿名の個人たちが発した「音」は、「集団的な記憶の場」の中に生み出された音である。つまり、ここでマークレイが提示する「聞こえない音」は、フルクサスの音楽で提示されるような「見ることによって知覚される音一般」ではなく、あくまでも、個人的な生活や記憶の中で発せられた「音」であり、しかし不特定多数の集団的な記憶の場の中で生み出された「音」なのだ。しかもそれらは、裏返され隠されているので、表が見えている時よりも強力に鑑賞者たちの想像力を刺激して、鑑賞者たちが仮想的に共有する記憶の中にある音響を刺激する、と解釈できるのではないだろうか。視覚的に隠されているがゆえに逆に、鑑賞者たちの想像力に訴えかけるのだ、と。裏返された写真たちは、何らかの普通の反応―上手そうに歌っているなあ、だとか、大きそうな声だなあ、といった「普通」の反応―を喚起するかもしれないし、鑑賞者たちそれぞれの個別的な記憶に訴えかけるかもしれない―あの人の歌い方は友人の歌い方を思い出させるなあ、とか、この人の声は家族の声に似ていそうだ、といった個別的な記憶を連想させる、など―。いずれにせよ、これらの集団的な記憶のサンプルは、裏返しにされて視覚的に隠されることで、また、視覚的なテクノロジーが記録する音によって構成される人々の記憶に依存することで、機能する作品として解釈できるのではないだろうか。

またマークレイの「聞こえない音」を「集団的な記憶の場における音の記録可能性」に関わると解釈する傍証として、彼のレコード・ジャケット・シリーズに言及しておきたい。これは美術家としてのマークレイの活動の最初期から制作され続けているものだ。

レコード・ジャケット・シリーズという言い方で私が念頭に置いているものは、三系統ある。1)イマジナリー・レコードと名づけられている作品群―《Christian Marclaqy at the St. Regis》(1981)[Figure1-3]など― 2)ボディ・ミックス(Body Mix)と名づけられている作品群 そして特に呼び名はないが、3)ステレオタイプな意匠を用いるレコード・ジャケットを何枚も集めたもの(以下、「ステレオタイプ・シリーズ」と言及)である。1)は実際には存在しないがいかにもありそうなアルバムのジャケット 2)は実際に存在するレコード・ジャケット何枚かを組み合わせて一つの人体や顔を模したもの 3)は同じような絵柄のジャケットを何枚も集めたもの である(*** 11 ***)。

これら初期作品のテーマは、マークレイによれば「音楽の商業化(に意識的になること)」だった(Maclay 2005c: 138)。録音された音楽のほとんどは、商品として、広告宣伝の商業的な流通プロセスの中で不特定多数の消費者に訴求するために、ステレオタイプなイメージとともに提供される。これらのレコード・ジャケット・シリーズは、そうしたステレオタイプなイメージを可視化して、その存在を意識化させる作品だと解釈できよう。これらの作品は、商業的な流通プロセスを通じて人々の記憶の中にある種のイメージが蓄積されていることを、そこで用いられるステレオタイプなイメージを抽出することで提示するのである。

例えば1)イマジナリー・レコードの場合。マークレイにとって、このシリーズを制作することは「広告業者と同じゲーム」(Maclay 2005c: 137)を行うのと同じことだった。つまり、現実には存在しないがいかにもありそうなレコード・ジャケットを制作することで、マークレイは、レコードを商業的に流通させるために用いられるイメージの典型を可視化し、あるいは、音楽の流通にはそのようなステレオタイプなイメージが伴なうという事実を意識させるわけだ。

また2)の場合。ここではステレオタイプなジェンダー・イメージがからかわれている。マークレイによれば、音楽の広告戦略に用いられる最大のステレオタイプは性に関するイメージで、クラシック音楽の場合は家父長的なイメージである。例えば、普通のポップスでは「一人の女性」がレコード・ジャケットに使われるものが多いが、クラシック音楽の場合、指揮者一人がレコード・ジャケットに使われることが多い。そこでマークレイは「男性性と女性性のステレオタイプを混乱させ」(Maclay 2005c: 138)、ジェンダーを混乱させることで、そうしたステレオタイプを大げさに抽出して提示してみせる。例えば、2)ボディ・ミックスのイメージの多くは、男性の顔に女性の下半身がつけられたりその反対だったりして、ジェンダーが曖昧になっている。ジム・モリソン(《Doorsiana》(1991)[Figure4.2-1])やカラヤン(《If You Can't Lick》(1992)[Figure4.2-2])の下半身が女性になり、「Alma Mia」という曲を歌う女性―特定できなかった―の胴体に男性の体がついたりする(《Alma mia》(1991)[Figure4.2-3])のである。

そして3)では、ある特定ジャンルのレコード・ジャケットが持つステレオタイプなイメージが、抽出されて提示される。例えば、《Dictators》(1990)[Figure4.2-4]では指揮者が指揮している場面のジャケットだけが、《Incognita》(1990)[Figure4.2-5]では一人の女性がジャケットになっているものだけが、《Guitar Neck》(1992)[Figure4.2-6]ではギターの弦がジャケットになっている―ので組み合わせると一本の長いギターネックになる―ものだけが、《Road to Romance》(1992)[Figure4.2-7]では女性が柱のようなものにもたれかかっている―ので組み合わせると一本の長い柱が出現する―意匠のジャケットだけが、集められている。つまり、3)ステレオタイプ・シリーズとは、1. レコード・ジャケットにはステレオタイプ―男性指揮者、一人の女性、ギターの弦、 柱にもたれかかった女性 ―があること あるいは 2. そうしたレコード・ジャケットを受容する文化は、ステレオタイプなデザインのレコード・ジャケットを持つ音楽―レコードに記録された音楽―を、ステレオタイプなイメージ―男の指揮者、柱にもたれかかった女性など―に即して理解する傾向があるかもしれないこと、といったことを意識させるのだ。

このように、レコード・ジャケット・シリーズは、私達がステレオタイプに侵食されていることを意識させてくれる。ステレオタイプとは、ある対象―この場合レコード・ジャケット―に対して抱かれる共同幻想の最大公約数として抽出されるものだとすれば、これらの作品は、メディアを通じて仮想的に形成される人々の集団的な記憶の特徴を、「ステレオタイプ」として共約的に抽出して提示するのである。

以上、レコード・ジャケット・シリーズを分析することで、マークレイが、不特定多数の人々の集団的な記憶と関わろうとしていることを確認した。実験音楽的な「聞こえない音」が、人々の個別的で具体的な記憶とは無縁の場所で音響知覚を聴覚から視覚まで拡大することで得られるものであるのとは異なるものとして、マークレイの「聞こえない音」は解釈できるだろう。

5.むすびにかえて

以上、マークレイの活動について考察してきた。まず二章で、音楽家並びに美術家としてのマークレイの活動を、鑑賞者に知覚させる音を生成する手段の変化という観点から連続的に解釈しようとした。マークレイは、音楽家としてはレコードという楽器を、美術家としては「視覚」という知覚器官を、音響生成テクノロジーとして利用する芸術家である。モノとしてのレコード観を背景に、音楽家としてのマークレイは楽器としてのレコードというアイデアを追究し、美術家してのマークレイは演奏=再生できないレコードというアイデアを追究したのだ。また三章では、「聞こえないが遍在する音」という観点からマークレイをケージ以降の実験音楽に連なるものとして位置づける視点を紹介し、四章では、そうではないマークレイ像の提示を目指し、マークレイの「聞こえない音」を不特定多数の人々の集団的な記憶の場における音の記録可能性に関わろうとするものとして解釈することで、実験音楽的な「聞こえない音」の系譜とは異なるものとしてマークレイの活動を位置づけた。

本論はマークレイの作品に関する今後のより詳細な議論の始点として機能するものになったといえよう。本論では言及できなかったマークレイの映像作品の多くも、マークレイが集団的な記憶の場に関わろうとする傾向を持つことを示しているように思う(*** 12 ***)。マークレイの作品と、人々の集団的な記憶や時代的・社会的背景との関連に関する具体的な分析は今後の課題だが、マークレイ作品にアプローチすべき方向性は明らかになったといえよう。また、ケージ的な実験音楽とマークレイの「聞こえない音」との比較考察は不十分かもしれないが、ケージ以降の実験音楽の展開について考察するための指針は得られたといえよう。少なくとも、ケージ的な実験音楽とは異なる活動としてマークレイの実践を位置づけたことを成果として、本論は満足しておきたい。以上、残された課題を確認して、本論を終える。

参照文献

言及しなかったが参照したものを含む。

Christian Marclay: Festival, Issue 1. Created on the occasion of the exhibition “Christian Marclay: Festival” curated by David Kiehl and Limor Tomer, July 1 - September 26, 2010. New York: Whitney Museum of American Art.

Criqui, Jean-Pierre, ed. 2007. Christian Marclay: Replay. Zurich: JRP / Ringer.

Ferguson, Russel. 2003. “The Variety of Din.” Marclay et al. 2003: 19-58.

González, Jennifer. 2005. “Survey.” González et al. 2005: 22-81.

González, Jennifer, Kim Gordon, and Matthew Higgs. 2005. Christian Marclay. London: Phaidon.

Higgs, Matthew. 2005. “Focus Video Quartet (2002).” González et al. 2005: 82-91.

細川周平 1990 「付論3 レコードの濫用__ケージとマークレイ」 『レコードの美学』 東京:勁草書房:339-385。

Kahn, Douglas. 1994. “Christian Marlay's Lucretian Acoustics.” Marclay 1994: 23-34.

---. 2003. "Sourround Sound.” Marclay et al. 2003: 59-88.

Kwon, Miwon. 2003. “Silence is a Rhythm, Too.” Marclay et al. 2003: 111-133.

Licht, Alan. 2003. “CBGB as Imaginary Landscape: The Music of Christian Marclay.” Marclay et al. 2003: 89-110

---. 2007. Sound Art: Beyond Music, Between Categories. Book & CD. Foreword by Jim O'Rourke. New York: Rizzoli.(アラン・リクト 2010 『SOUND ART ──音楽の向こう側、耳と目の間』 ジム・オルーク(序文)、恩田晃(日本語版特別寄稿) 荏開津広、西原尚(訳) 木幡和枝(監訳) 東京:フィルムアート社。)

Marclay, Christian. 1994. Christian Marclay. Exhibition Catalogue. Berlin: daad galerie.

クリスチャン・マークレイ 1996 「クリスチャン・マークレイ インタヴュー 瞬間と永遠のコントラストが僕を魅きつける」 『美術手帳 特集 サウンド/アート』12月号:18-32。

Marclay, Christian. 1998. “CHRISTIAN MARCLAY.” Interview by Jason Gross. http://www.furious.com/perfect/christianmarclay.html (accessed 11/1/2010).

Marclay, Christian. 2003. The Bell and the Glass. Ed. by Susan Rosenberg. Published for the installation and performances at the Philadelphia Museum of Art, May 17 to July 6, 2003. Philadelphia, PA: Philadelphia Museum of Art in collaboration with Relâche.

---, Thomas Y. Levin, Taddeus A. Squire, and Ann Termkin. 2003. “The Bell and the Glass. With a Conversation by Christian Marclay, Thomas Y. Levin, Taddeus A. Squire, and Ann Termkin.” Marclay 2003: 44-55.

Marclay, Christian and Douglas Kahn. 2003. “Christian Marclay's Early Years: An Interview.” Leonardo Music Journal, 13: 17-21.

Marclay, Christian, Russell Ferguson, and Miwon Kwon. 2003. Christian Marclay. Accompanyying the exhibition “Christian Marclay.” Presented at the UCLA Hammer Museum, Los Angeles, CA: Steidl / UCLA Hammer Museum.

Marclay, Christian and Kim Gordon. 2005. “Interview, Kim Gordon in conversation with Christian Marclay.” González et al. 2005: 7-21.

Marclay, Christian. 2005a. “Artis's Writings - Interview Cut-Up, 1991-2004.” González et al. 2005: 106-131.

Marclay, Christian. 2008. “Interview with Christian Marclay .” January, 2008, Berlin. http://www.geraeuschen.de/9 (accessed 11/1/2010).

中川克志 2002 「音響生成手段としての聴取 ―ラ・モンテ・ヤングのワード・ピースをめぐって―」 『美学』53.2: 66-78。

NAKAGAWA, Katsushi. 2003. “On Kosugi Takehisa's ‘Catch Wave’.” SASAKI, Ken-ichi and OTABE, Tanehisa: The Organizing Committee of the 15th International Congress of Aesthetics, ed. The Great Book of Aesthetics. The 15th International Congress of Aesthetics, Japan 2001, Proceedings. CD-ROM.

中川克志 2008 『聴くこととしての音楽―ジョン・ケージ以降のアメリカ実験音楽研究』 京都大学博士論文。

---. 2011 「音楽家クリスチャン・マークレイ試論―ケージとの距離」 近畿大学文芸学部紀要『文学・芸術・文化』22.2(2011年4月刊行予定)。

Parkett, 70 (May, 2004). Feauturing Christian Marclay, Wilhelm Sasnal, and Gillian Wearing. Parkett Series. Zurich: Parkett-Verlag.

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以下、註

つまりマークレイは、ディスコやヒップホップといった70年代のダンス・ミュージックに連なるべく音楽活動を開始したのではないし(Marclay2005a:110 :マークレイがグランドマスター・フラッシュを初めて知ったのは81年のことだ)、また、ジョン・ケージの実験音楽やピエール・シェッフェルの具体音楽といった名前に代表される「シリアスな現代音楽」を意識してそこに連なるべく音楽活動を開始したのでもない。

2

80年代にも多くの展覧会にグループ展で出品しているが、国際的な評価を得たのは90年代以降だろう。2003年にはUCLA Hammer Museumで大規模な個展が開かれ(Marclay et al. 2003)、2005年にはPhaidon社からマークレイだけを扱ったGonzalez et al. 2005も出版された。

3

先行研究について。

音楽と美術の双方の領域で、マークレイのライブや展覧会に関するレビューは無数にある。ある程度まとまった考察が展開されている論考は、Marclay1994; Marclay et al. 2003; 『Parkett』誌の第70号(May, 2004); Gonzalez et al. 2005などである。現段階ではマークレイに関する考察は、Marclay et al. 2003とGonzalez et al. 2005の二冊に集約されているといえよう(本論でも、以下、基本的なデータについてはこの二冊を参照する)。とはいえ、いずれも美術家あるいは音楽家としてのマークレイ像に偏っているように思われる。

また、その他に重要な一次文献としてCriqui 2007があるが、これは、90年代後半以降の彼の映像作品に的を絞った展覧会のためのカタログである。本論ではマークレイの映像作品には言及しない。

4

詳細は未定ながらも、私は、本研究を現在構想中の「音楽とサウンド・アートとの関係」に関する研究の一部として位置づけるつもりである。マークレイの「聞こえない音」はサウンド・アートと実験音楽との距離を示すものとして位置づけられるのではないか、というのが現段階での私の見通しである。

5

それゆえこの作品は、作品に対するコントロールを抑制した作例であり、開かれた作品であるとされる(Marclay 2005a: 116)。この作品は「演奏の記録ではなく、固定されたドキュメントとしてのレコードとは反対に、時とともに変化して進化するレコード」(Marclay 2005a: 121)なのだ。

6

マークレイによれば「メディアへの関心は、音楽よりもアートの実践から生じ」(quoted in Licht 2003: 98)た。音楽よりもアートのコンテクストのほうが、レコードを「再生産する音」の単なる容器ではないもの、として捉える機会に恵まれていたからだろう。またこの発言からも、マークレイが自分のアイデンティティを「音楽」ではなく「アート」の領域に求めていることがうかがえよう。

ジェニファー・ゴンザレスは、この作品を「音とオブジェの境界線を崩壊させようとする初期の彫刻的なプロジェクトの一つ」(Gonzalez 2005: 33)として紹介している。「彫刻的」と呼ぶことで、ジェニファー・ゴンザレスは、美術家としてのマークレイに重点を置きながらも音楽家かつ美術家としてのマークレイの活動を一貫したものとして解釈しようとしているわけだが、それほど明確かつ詳細に分析しているわけではない。とはいえ少なくとも、この作品が「音楽」のコンテクストから(のみ)生じたものではないことは、了解されよう。

7

またマークレイは、自分がレコードを楽器として使うようになった背景として、自分が成長したスイスとアメリカにおけるレコードに対する価値観の落差をあげる。渡米したばかりの頃、マークレイは、スイスでは貴重品だったレコードが時にガラクタのように捨てられたり乱暴に扱われていることに衝撃を受けて、レコードをモノとして扱うアイデアを思いついたたらしい。レコードに対する価値観の相違に衝撃を受けることで、マークレイは、レコードに対する常識的理解(音響再生メディアとしてのレコード理解)を振り払うことになったといえよう。ヒップホップ文化における「楽器としてのレコード」との相違は、双方の生活環境の中で占めていた「レコード」の位置に求めることも可能だろう(ちなみに、Marclay and Kahn 2003は、特に、スイスとアメリカの文化的相違という観点からマークレイのインタビューを構成したものである)。

8

Record Without a Cover》(1985)もコンセプチュアルな美術作品として分類できるだろう。

9

Accompanying Musical》(1995)、《Musical Chairs》(1996)、《Arranged and Conducted》(1997)、《Wall of Sound》(1997)など。

10

ちなみにカーンによれば、マークレイは19世紀以降の音の遍在性を追求する音楽家たちとは次の点で異なる。後者はトップ・ダウン・アプローチで「遍在する音」にアプローチするのに対して、マークレイはあくまでも個別事例からアプローチする点である(Kahn 2003: 60)。

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それぞれ、他に以下のような作品を念頭に置いている。

1)イマジナリー・レコード

Christian Marclay at the St. Regis, 1981 / 1955, 1988 / Again, 1988 / Ghost, 1988 / Live!, 1988 / Yellow, 1988 / Forever, 1989 / Multiplication, 1989 / Skull, 1989 / Untitled, 1989 / Fire, 1990 / Silence, 1990 / Whisper, 1990 / Remember, 1991 / Mort, 1992 / Sounds, 1995 / Speech, 1995 / Blind Faith, 1997 / Blue Candle, 1997 / Bubbles, 1997 / Echoes, 1997 / Fingerprints, 1997 / Great Sounds, 1997 / Swiss Savage, 1997 / Smoke Rings, 1999

2)ボディ・ミックス

Alma Mia, 1991 / David Bowie, 1991 / Doorsiana, 1991 / Footstompin', 1991 / Magnetic Fields, 1991 / Stay Hard, 1991 / Sweethog, 1991 / Black or White, 1992 / Furious, 1992 / If You Can't Lick, 1992 / Pardonnne moi ce caprice d'enfant, 1992 / Slide Easy In, 1992 / Voice of Venice, 1992 / Body Mix series at the Margo Leavin Gallery, 1993

3)ステレオタイプ・シリーズ

Dictators, 1990 / Incognita, 1990 / Arms and Legs, 1992 (これは上半身と下半身が組み合わされて指揮者を模すものなのでボディ・ミックスでもある) / Guitar Neck, 1992 / Road to Romance, 1992 / Untitled (Large Circle); (Small Circle), 1992 (この二つは口が組み合されるものなのでボディ・ミックスでもある)

12

彼の映像作品の多くは日本では経験できないが、2009年10月から11月にかけて開催されていたヨコハマ国際映像祭ではマークレイの《Video Quatet》(2002)が展示されていた。この映像作品は、4つのスクリーンに過去の様々な映画から「音や音楽に関連するシーン」が数秒単位で引用される14分間ほどのコラージュ作品である。マリア・カラス、マイケル・J・フォックス、ジミ・ヘンドリックス、エリック・ドルフィー等々の20世紀後半のアメリカ文化を代表する様々なアイコンや、「激しい身振りで演奏するピアニスト」「アンニュイな様子でギターを弾くカウボーイ」「恍惚とした姿で演奏するギタリスト」等々の様々なステレオタイプがコラージュされている。この映像作品は、人々の記憶のプールの中に蓄積している様々なアイコンやステレオタイプを刺激するのだから、私たちの「集合的無意識」に踏み込んで「ある種の社会史」(Higgs 2005: 90)を語ろうとする作品として解釈することは可能だろう。ヒッグスは、この「集合的無意識」や「社会史」という言葉をほとんど説明せずに用いており、マークレイの映像作品と「集合的無意識」との関連について詳しく考察を展開するわけではない。とはいえ、マークレイは、映像作品でも、不特定多数の人々の集団的な記憶に関わろうとする、と考えることは許されよう(映像作品についてはGonzález 2005: 61-63, Higgs 2005: 83-91; Marclay2007を参照)。

画像キャプション

Figure1-1演奏するマークレイ(1980)(Marclay et al. 2003)

Figure1-2《Recycled Records》(1985)(González et al. 2005)

Figure1-3《Christian Marclay at the St. Regis》(1985)(Marclay et al. 2003)

Figure2.1-1《Record Without a Cover》(1985)(González et al. 2005)

Figure2.2-1《Mosaic》(1987)(González et al. 2005)

Figure2.2-2《Endless Column》(1988)(González et al. 2005)

Figure2.2-3《Ring》(1988) (Marclay et al. 2003)

Figure2.2-4《5 cubes》(1989)(Marclay et al. 2003)

Figure2.2-5《Untitled (melted records)》(1989)(Marclay et al. 2003)

Figure2.2-6《Hangman's Noose》(1987)(Marclay et al. 2003)

Figure2.2-7《Candle》(1988)(Marclay et al. 2003)

Figure2.2-8《Footsteps》(1989)(Marclay et al. 2003)

Figure2.3-1《Chorus II》(1988)(González et al. 2005)

Figure2.3-2《Ghost Quartet》(1990)(Marclay et al. 2003)

Figure2.3-3《White Noise》(1993)(González et al. 2005)

Figure2.3-4《Amplification》(1995)(González et al. 2005)

Figure2.3-5《Pictures at an Exhibition (Whitney Museum, New York)》(1997)(González et al. 2005)

Figure4.2-1《Doorsiana》(1991)(González et al. 2005)

Figure4.2-2《If You Can't Lick》(1992)(Marclay et al. 2003)

Figure4.2-3《Alma mia》(1991)(Parkett, 70)

Figure4.2-4《Dictators》(1990)(González et al. 2005)

Figure4.2-5《Incognita》(1990)(González et al. 2005)

Figure4.2-6《Guitar Neck》(1992)(González et al. 2005)

Figure4.2-7《Road to Romance》(1992)(González et al. 2005)

*Christian Marclayは、2010年頃から「クリスチャン・マークレー」と表記されることも増えた。