2017年01月 「1980年代後半の日本におけるサウンド・アートの文脈に関する試論——〈民族音楽学〉と〈サウンドスケープの思想と音楽教育学〉という文脈の提案」

1980年代後半の日本におけるサウンド・アートの文脈に関する試論

――〈民族音楽学〉と〈サウンドスケープの思想と音楽教育学〉という文脈の提案

Some of the Contexts of Sound Art in Japan in the late 1980s: ‘Ethnomusicology’ and ‘Creative Music Making and the Soundscape’

(ここで公開している論文たちには校正での訂正が反映されていない部分があり、実際の掲載稿とは若干相違があります。また図版は掲載していません。引用などの場合、必ず、公開された原文をご参照ください。)

[★★★中川:[★]で指示した部分は、註、図版、表の参照指示です★★★]

1.はじめに

本論は、〈日本におけるサウンド・アート〉研究と日本における〈サウンド・アート研究〉に貢献することを目指す。本論では「サウンド・アート」という言葉の厳密な定義や歴史については検討せず、1980年代以降に多く作られるようになった〈音を用いる芸術(多くの場合は音楽ではない)〉という程度の意味で用いる[★1★]。

本論の目的は、〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉の文脈について試論を提示することである。当時の各種資料を参照する限りでは、1980年代の日本では〈音を用いる芸術(多くの場合は音楽ではない)〉のレッテルとしては、「サウンド・アート」という言葉よりも、音具、音響彫刻、創作楽器、サウンド・オブジェといった言葉が用いられていたように思われる。確かに日本で「サウンド・アート」という言葉が使われるようになった歴史[★2★]の検証は重要だが、〈日本におけるサウンド・アート〉を扱う先行研究[★3★]はほとんどなく、その全貌はまだよく分からない。そこで、本論では便宜的に、1980年代後半の〈音を用いる芸術(多くの場合は音楽ではない)〉は一括して〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉と呼ぶことにする。本論は個別研究を蓄積することで〈日本におけるサウンド・アート〉研究に貢献することを目指す。それは、ひいては、日本における〈サウンド・アート研究〉に貢献することにもなろう。

以下、2章で〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉の事例として三つの展覧会――――『造形発見展:音と造形』(こどもの城、1986年と1987年)、『音のある美術』(栃木県立美術館、1989年)、『サウンド・ガーデン』展(六本木ストライプハウス美術館、1987年から1994年まで6回、以下SG展と略称)――――をとりあげて検討する。3章では、それらが出現してきた背景として〈民族音楽学〉と〈サウンドスケープの思想と音楽教育学〉という文脈を提案する。最終的に私は、この二つの文脈が音楽における西洋中心主義を相対化することで〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉を直接的あるいは間接的に準備した、という仮説を提示するつもりである。

本論では〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉とその文脈の一部にしか言及できない。また、考察する事例と文脈との関係には直接的な因果関係だけでなく間接的で潜在的な影響関係もあるので、実証的に証明できるものばかりではない[★4★]。その意味では本論は不十分に思われるかもしれないが、それでも本論には意義がある。限定的な議論と仮説であっても、本論は、まだあまり調査されていない〈日本におけるサウンド・アート〉の生成プロセスとメカニズムの解明の第一歩となり得るからである。

2.1980年代後半の日本におけるサウンド・アートの展覧会

2.1.本論で取りあげる展覧会について

以下の三つの展覧会を取りあげる第一の理由は、1980年代以降、音を使う作品を展示する展覧会が日本でも増えてきたように思われるからである。例えば、日本における〈サウンド・アート研究〉あるいは〈日本におけるサウンド・アート〉研究の最初期の事例のひとつである恩地1989は、60年代以降に国内外で開催された音を使う展示を概観しており、日本におけるそうした試みの先駆けとして、岡崎球子画廊、鎌倉画廊、ストライプハウス美術館(現ストライプハウスギャラリー)、西部美術館の活動に言及している。なかでも六本木のストライプハウス美術館で1980年代半ばから90年代前半にかけて計6回開催されたSG展を、継続性、参加作家数、残された記録などの点で注目に値すると評価している。そこで以下では、1987年から1994年のこのSG展と、この恩地1989を収録しているカタログの展覧会である1989年の『音のある美術』展と、それらの展覧会を調査する過程で浮かびあがってきた1986年と1987年の『音と造形』展について紹介する。

また第二は便宜的な理由からである。現状において〈日本におけるサウンド・アート〉に関する網羅的な先行研究はないが、この三つの展覧会は、その重要性をある程度認められているし、また、残された資料が豊富なので調査しやすいからである[★5★]。つまり、私は、〈日本におけるサウンド・アート〉について考察していくための暫定的な足場として利用するために、これらの展覧会を〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉の代表例として取り扱う。これらだけが日本における最初期のサウンド・アートの展覧会ではないだろうが、これらが最初期の検討しやすい〈日本におけるサウンド・アートの展覧会〉であることは確かである。

2.2.『造形発見展:音と造形』展(こどもの城、1986・87年)

2.2.1.概要

これはホワイトキューブで開催された展覧会ではなく、「こどもの城」という、児童の健全な育成を目的とする、公益財団法人児童育成協会が運営する施設で開催された展覧会のひとつであった。こどもの城造形事業部の『造形発見展』シリーズのひとつとして、1986年と1987年の二回、夏休みに開催された。『造形発見展』シリーズは、毎回異なるテーマを掲げ、鑑賞、体験、制作が組み合わさった複合的なイベントを提供しており、他には「光と造形」「空気と造形」といったシリーズもあった。音楽事業部があったにもかかわらず造形事業部が「音」を主題とする展覧会を企画したのは、音と音との組み合わせや演奏ではなく、音が出る仕組みや音を出す楽器の構造が重視されたからである。この展覧会を企画した中心人物である有福氏によれば、『音と造形』展のコンセプトは「音楽になる前の音を素材として扱うこと」であり、「音楽ではない何か」が重視されたとのことだった。

1996年に同事業部が出版した冊子『音体験』(こどもの城造形事業部1996)のなかで、同展の概要が紹介されている。それによれば、同展には、鈴木昭男、松本秋則、加藤到、WAY、MUSA、金沢健一、吉村弘、横尾哲生といった作家たちが参加し――多くは『音のある美術』とSG展にも参加している[★6★]――、彼らは子どものためにワークショップを開催したり、大人も鑑賞できるパフォーマンスを行ったり、それぞれの作品を「サウンド・オブジェ」あるいは「音具」として展示したりしていた。例えば、鈴木昭男は「音の展覧会」と題したイベントで、子どもたちに即興的に絵を描かせ、それをいわば楽譜のように使って創作楽器「アナラポス」の演奏を披露した。吉村弘の「耳をすます」というイベントでは、吉村の制作した空き缶をつないで筒状の楽器を使って簡単なルールにもとづく偶然を取り入れた合奏を行った。子どもたちは座って鑑賞することもあれば、演奏することもあったようだ。

また、子どもたちは展示物に触れて音を出し、演奏することができた。展示物には、作家の作品や、秋山邦晴らが多摩美術大学で復元した「イントナルモーリ」や、造形事業部スタッフが創作したさまざまな音具が含まれており、それらは基本的には全て、人間が操作(演奏)して初めて音響を発する他動式の音響彫刻だったと考えられるだろう。『音と造形』展で「子どもたちは、展示を鑑賞し、作家や他の子どものパフォーマンスを鑑賞し、音具を体験、制作、演奏、合奏するという、きわめて多岐に渡る活動をひとつの機会で経験することができたわけだ」(中川・金子2014:68)。

2.2.2.考察

冊子『音体験』の冒頭に収録されている「音のしくみ」という文章の冒頭を参照すると、この冊子全体が、そしておそらくは元々のこの展覧会が、音楽における西洋中心主義を相対化しようとする志向を持っていたと考えられるだろう。

この文章では、まず、西洋音楽とはヨーロッパの民族音楽にすぎないのに日本では「音楽」といえば西洋音楽のことだと考えられてきたこと、が指摘される。

「『音楽』というと西洋音楽が中心になっています。ピアノやバイオリンのおけいこ、あるいは学校でリコーダーやハーモニカの練習に見られるようにドレミファの楽譜をよむ必要があると思いがちです。西洋音楽は、ヨーロッパのある民族の音楽(=民族音楽)の中のごく一部の芸術音楽と呼ばれる限られた分野なのですが、明治以降の日本ではそれが広く受け入れられ、音楽のイメージを形作ってきたといってもよいでしょう。20世紀半ばから、それ以外の民族音楽、つまり、もともといろいろな国がそれぞれに展開してきた民族音楽について知りたいという人々が増えてきました。それによって、珍しい楽器を見た演奏が聞かれるようになってきています。それらの楽器をみてみますと、演奏する人が日常の生活と密着した中で音をつくっていることがわかります。」(ページ記載なし)

そしてこの後、音楽や楽器の起源を簡単に説明するために、「たたく」場合と「吹く」場合と「はじく」場合を紹介している。

つまり、ここでは、音を発生させる手段として、既存の(西洋)楽器を紹介するのではなく、また、管楽器・弦楽器・打楽器といった分類法を参照するのでもなく、音を発生させる身体行為から説明を始めるというやり方が採用されている。音を発生させる身体行為に基いて音具を分類するというアプローチは、この冊子で紹介される音具の分類方法にも見られる。この冊子では、「たたく、こする、はじく、ふりまわる、ふる、ふく、おす、しゃべる、まわす」という9つの行為に基いて、18個の音具が紹介される。例えば、ギロに似た「ミニギロ」や、郷土玩具「音を発する蝉」に似た音具「ケロケロブンブン」や、竹製の機関銃のおもちゃと同じ仕組みをルッソロのイントナルモーリになぞらえて説明している「バリバリ」といった音具が紹介されている。

音を発生させる身体行為に基づき楽器を分類し、そこから音楽について再考するというアプローチは、民族音楽学の知識が一般化し、楽器を発音体に基いて分類するザックス=ホルンボステル分類が知られるようになった後だからこそなされたやり方なのかもしれないが、確証はない。ここでは、既存の西洋楽器や楽器分類法を避けるという点で、このアプローチは音楽における西洋中心主義的な観点から距離を取ろうとする態度である、と解釈しておきたい。

2.2.3.まとめ

以上から、私はこの展覧会について、

1.鑑賞者が触れる音具(音響彫刻、創作楽器、音具、民族楽器)が多いこと

2.非音楽家(作家あるいは鑑賞者)による音楽の提示があること

3.教育的意図との交錯があること

4.音楽における西洋中心主義の相対化を志向していること

という特徴を指摘しておきたい。

そもそもこどもの城の活動の主目的は教育だし(3)、それゆえ、鑑賞者=子どもたちが触れて音を出すための音具が展示された(1)。また、音楽家ではない美術家がそれらの音具を操作して音を発するパフォーマンスを行っていたし、鑑賞者(=子ども)もそれらの音具を操作して音を発することができた。つまり、作家あるいは観客による音具を用いた音響生成と、作家によるパフォーマンスという〈非音楽家(作家あるいは鑑賞者)による音楽の提示〉があった(2)。また、音具の分類方法から明らかなように、この展覧会には、音楽における西洋中心主義を相対化しようとする志向も確認できる(4)。

これらの特徴のいくつかは、次に検討する二つの展覧会にも認められるものである。以下、検討しておこう。

2.3.『音のある美術』展(栃木県立美術館、1989年)

2.3.1.概要

これは1989年8月13日から9月24日まで栃木県立美術館で開催された。これは〈日本におけるサウンド・アート〉の最初の展覧会ではないだろうが、代表的な最初期の〈日本におけるサウンド・アート〉の展覧会だと言及されてきた。この展覧会には、国内からは牛島達治、金沢健一[★画像★]、小杉武久、藤本由紀夫らが出品し、海外からはジョー・ジョーンズ、フェリックス・ヘス、ミラン・ニザらの作品や、ラ・モンテ・ヤングら編集の『アンソロジー』(1963)、さらに『音と造形』展にもあったイントナルモーリの再現などが展示された。

展示作品は、図録収録画像と記録映像で確認した限りでは、人間の操作の介在なしに音響を発する自動式の音響彫刻――牛島作品など――よりも、人間が操作(演奏)して初めて音響を発する他動式の音響彫刻――金沢作品など――の方が多い[★7★][出品作品分類表参照]。作品が設置された環境との関係性の中で作品が経験されるサウンド・インスタレーションは2個――小杉作品など――、詳細不明が1個、である。音響だけで構成された作品はない。今日の目から見ても多様で面白そうなサウンド・アートの展覧会として評価できるだろう。

また、この展覧会では、展示だけではなく、パフォーマンス、レクチャー、ワークショップなどが毎週末に開催された。展覧会図録によると、例えば、鈴木昭男によるパフォーマンスとレクチャー「原点の音」(「日本を代表するサウンド・パフォーマー鈴木昭男。ヨーロッパでの公演を終え帰国直後の氏による「音のある美術」開幕記念公演」)、吉村弘によるワークショップ(「作曲家吉村弘によるサウンド・オブジェの制作とパフォーマンス」)、「サウンド・スケープ[ママ]研究の成果をふまえて現代社会における「音」を考える」鳥越けい子によるサウンドスケープに関するレクチャーなどが開催された。

2.3.2.考察

この展覧会は、1980年代に海外で流行しはじめていたサウンド・アートの展覧会を輸入したものであるかのようにも思われるし、実際、この展覧会の図録に収録された庄野進と恩地元子の文章は、サウンド・インスタレーションの代名詞ともいえるマックス・ニューハウスの《タイムズ・スクウェア》(1977-92)やこの種の展覧会の最初期の事例である『眼と耳のために』展(1980年)など海外の潮流に言及しつつ、国内における同様の試みとしてこの展覧会を位置づけている。

しかし、この展覧会を企画した担当学芸員である杉村氏へのインタビューから、この展覧会は、海外の動向の輸入という意図とは異なる意図に基づいて企画されたことが明らかになった。彼によれば、この展覧会は、1972年の創設以来、栃木県立美術館が取り組んできた美術館教育という目的に即して、夏休みに来館したこどもたちが実際に作品に触れることができる展覧会として企画されたという。そもそも、『音のある美術』展以前から、栃木県立美術館では毎年、夏休みには美術館教育を趣旨とする展覧会を開催していた。同館に就職したばかりの杉村は「夏休みに親子で楽しめる、体験型の現代美術の展覧会」として、触覚ではなく聴覚、音をテーマとする展覧会を開催することを思いついたのだという。つまり、「『音のある美術』展とは、そもそも美術教育の必要性から生まれた企画であり、サウンド・アート展のパイオニアたらんとする意志も、同時代の音を使った美術作品の状況を総括しようといった意図もなく、「普及教育的な展覧会だからこそ許される自由」を感じながら比較的自由に企画されたものだった」(中川・金子2014:72)のだ。

それゆえ、子どもたちが実際に触って音を出せる音具が多く集められ、また、子どもたちを対象とするワークショップが企画されたのだと言えよう。

2.3.3.まとめ

以上から、私はこの展覧会について、『音と造形』展と同様の特徴を指摘しておきたい。『音のある美術』展は、『音と造形』展と同様に、教育的意図に基づき企画された(3)。それゆえ、鑑賞者=子どもたちが触れて音を出すための音具が展示された(1)し、美術家による子どもたちを対象とするワークショップ(2)や、美術家や研究者によるレクチャー(3)が企画された。

ここでは明確な形で、音楽における西洋中心主義を相対化しようとする志向は観察できない。とはいえ、鳥越けい子によるサウンドスケープの思想に関するレクチャーが企画されたことから、この展覧会が西洋近代芸術音楽を単純に崇拝しているのではない、ということは推測できるのではないか。あるいは、そもそも、1や2といった特徴があることから、(西洋中心主義を相対化しようとしているというのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも)近代的な西洋芸術音楽中心主義を相対化しようとしている、ということは言えるのではないだろうか。とはいえ、こうした考察を急ぐ前に、次はSG展を検討しよう。

2.4.『サウンド・ガーデン』展(六本木ストライプハウス美術館、1987-1994年)

2.4.1.概要

SG展は、音楽家の吉村弘の企画・プロデュースにより六本木ストライプハウス美術館で1987年から1994年にかけて約一年半に一度ずつ、計6回行われた展覧会である。SG展は豊富なアーカイヴが残されており事例として近づきやすいし、参加作家の人数や継続性という観点から、代表的な事例といえよう。詳細は中川・金子2012を参照していただきたい。また、SG展開催に至る前史については金子・中川2013を参照していただきたい。

SG展各回には15から25個の作品が展示された。出品作家は合計53名で、出品作品は合計115作品である。すでに作家活動を行っていないものも多く出品作家全員の経歴は明らかではないが、半数以上が東京芸術大学出身のようだ。なかでも美術学部、特に工芸科と彫刻科出身の作家が目立つ。SG1-6を通じて、全体的に、他動式の音響彫刻が多くサウンド・インスタレーションが少ない[★8★]、といった指摘は可能かもしれない。しかし、SG6では自動式の音響彫刻やサウンド・インスタレーションの方が多い[出品作品分類表参照]。つまり、SG展全体に共通する作品傾向として確実に言えることは、すべての作品が何らかのレベルで音を用いているという程度のことしかないように思われる。

写真や動画が比較的多く残っているSG5の出品作を用いて、諸傾向を紹介しておこう。例えば、渡辺林太郎《Chirr chips》は自動式の音響彫刻の事例である。この弦楽器のような音具は、共鳴体の胴部分に取り付けられているモーターが回転し、弦を弾くことで音を発している。また、鈴木瑛倫子《斬新楽器 ムーンライト》は他動式の音響彫刻の事例である。作者本人がこの音具の弦を指揮棒のようなもので弾きながらホーミーで発声しているパフォーマンス動画が残されている。また、吉村弘《Pond 音ケ池》はサウンド・インスタレーションの事例である。吉村弘のトレードマークのひとつ「サウンド・チューブ」[★9★]という音具を用いている。その音具に触れて重量を加えるとスピーカーのコーン部分に信号が伝達されて振動が発生するが、コーン部分には水が溜められているので、音響が発生するのではなく溜められた水が振動する、という仕組みのようだ。

2.4.2.考察

本論では、今後の議論の出発点を準備するという目的のために、SG展の全容を丹念に分析する作業は今後の課題とする。本論では、この展覧会については、美術家たちが毎回、自作の音響彫刻を用いてパフォーマンスを行っていたことに注目したい。SG3以降の図録には毎回、出品作家が自分の出品作を用いてパフォーマンスを行ったことが記録(予告)されている。また、SG4以外の各回の記録映像には、出品作家が自分の出品作を用いて人前でパフォーマンスを行なった様子が残されている。分かりやすいのは、『音と造形』展にも『音のある美術』展にも参加し、SG展にもSG4を除いて全て参加した金沢健一の《音のかけら》を用いたパフォーマンス[★10★]である。彼の鉄の彫刻[★画像★と同じ作品]は床一面に並べられた鉄の破片であり、それらをマレットで叩くことで、通常の西洋音階とは異なる調律の、あるいは調律のされていない、鉄琴のような楽器として演奏できる。作家本人が演奏する場合も、西洋打楽器の演奏家が演奏した場合もあったようだ。とはいえ、もちろん、この作品は通常のヴィブラフォンのように打面が整然と並んでいるわけではないし、メロディや和音を発するのに便利な音階で調律されているわけではない。なので、そのパフォーマンスは、既存の西洋芸術音楽の基準で考えれば、単に、マレットで手近な鉄のかけらを叩いているだけのつまらない素人演奏でしかない。しかし、ということは逆に言えば、このパフォーマンスは、既存の西洋芸術音楽の基準を絶対視しないことで西洋芸術音楽を相対化させようとする試みとして位置付けられる、と考えられないだろうか。すなわち、職業的な音楽家ではない美術家という非音楽家が、既存の西洋芸術音楽の基準を斥けて別の基準に従って音楽を提示するという行為は、音楽における西洋中心主義を相対化しようとする志向として解釈できるのではないだろうか。

2.4.3.まとめ

以上から、私はこの展覧会について、先述の二つの展覧会と同様の特徴を指摘しておきたい。SG展には教育的意図は見受けられない。しかし、作家が音を発するパフォーマンスが毎回行われた(2)し、それは、他動式の音響彫刻など鑑賞者が触れる音具が多く作られることで可能となったと考えられよう(1)。私はこのパフォーマンスを、音楽における西洋中心主義を相対化しようとする活動として解釈した(4)。

2.5.まとめ

以上、〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉の事例として三つの展覧会を検討してきた。ここから私は、乱暴を承知で、しかし今後の議論の出発点となる仮説を提出するために、〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉の特徴を整理してみたい。

〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉の特徴は、

1.鑑賞者が触れる音具(音響彫刻、創作楽器、音具、民族楽器)が多いこと

2.非音楽家(作家あるいは鑑賞者)による音楽の提示があること

にある。1についてはさらに、他動式の音響彫刻が比較的多いこと、を付け加えても良いかもしれない。2については、これは、作家によるパフォーマンスが行われるという事態だけではなく、(鑑賞者が音具に触れて音響を生成させることで)作家のみならず鑑賞者もまた音楽制作の主体となり得る状況が提示されるという事態を指している。

また、

3. 教育的意図と交錯していること

もあげておきたい。教育的意図との交錯という特徴はSG展には見いだせないが、次章でこの文脈を検討することで、直接的でないとしても間接的にはSG展も音楽教育学的な文脈と問題関心を共有していることが明らかになるだろう。

そして全体的な傾向として、

4. 音楽における西洋中心主義の相対化を志向していること

があげられるだろう。三節で少し言及したように、これは要するに、〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉は、非音楽家による音具の制作やパフォーマンス(1, 2)に顕著にうかがえるように既存の西洋芸術音楽の基準を斥けて別の基準を採用するがゆえに、音楽における西洋中心主義を相対化しようとする志向を持つ、という解釈である。非常に単純化された議論ではあるが、本章で検討した三つの展覧会をゆるやかに繋げる解釈として提示しておく。次章では、こうした諸特徴を生み出すに至った背景について考察してみたい。

3.文脈:民族音楽学、サウンドスケープの思想と音楽教育学

以下では〈民族音楽学〉と〈サウンドスケープの思想と音楽教育学〉という文脈を検討する。これらは、三つの展覧会を調査検討する過程で、〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉と直接的あるいは間接的な関係を持つ文脈として見出されたものだ。

3.1.民族音楽学

3.1.1.民族音楽(学)からの影響[★11★]

本論の第2章第2節で「音のしくみ」という小文を取りあげた。そこではヨーロッパの民族音楽に過ぎない西洋(芸術)音楽が日本では長らく大文字の「音楽」として理解されてきたことが批判され、「民族音楽」が一般に普及することで非西洋音楽や民族楽器が身近なものとなってきた、と述べられていた。ここから、音楽における西洋中心主義を相対化しようとするきっかけのひとつに、民族音楽(学)の普及があったと考えられるだろう。

同様に、〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉のいくつかの事例においても、民族音楽(学)や民族楽器が重要な契機として存在している事例を観察できる。

例えば、SG3-6に参加した関根秀樹氏は、小泉文夫のラジオ番組や著作から東南アジアやアフリカの民族音楽の面白さを学んだとのことである。また、彼は、1960年代に翻訳されたクルト・ザックス[★12★]『楽器の歴史』などを愛読したからこそ、子供の頃からうなり木や蟲笛の復原制作を行い、また、1989年には『民族楽器を作る』(後に新版2003)という本を出版するまでになったとのことである。関根は実はアーティストではないので、彼を〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉の代表例として位置づけることは適切ではないかもしれないが、関根の事例を、〈民族音楽学から、西洋芸術音楽中心主義を相対化する視線と、音響彫刻を制作する刺激とを得た事例〉としてあげておきたい。

あるいは、SG1-6に参加した直川礼緒氏は、小泉文夫のことは知らなかったらしいが、親指ピアノを学ぶために単身アフリカに留学したり、親指ピアノの演奏家として活動したりしていた。彼は1987年頃に、ガムラン演奏グループの一員としてバリに演奏旅行にでかけた際にバリでも口琴を見つけたことで、口琴を活動の中心に据えるようになった。1990年には日本口琴協会を設立し、今も精力的に活動を継続している(直川2005など)。直川は、民族音楽とかかわるなかで口琴と出会ったわけである。卒業論文の制作時に民族音楽研究者の小島美子氏の知己を得たことも、その後の口琴研究につながっているようだ(直川1994など)。SGの出品作の多くは――自作の口琴を出品したSG4をのぞき――独自の音響彫刻あるいは創作楽器だが(Tadagawa 1987a, 1987b)、90年代以降の直川の活動の中心は口琴の研究と普及にある。具体的にどのようなプロセスとメカニズムで影響を受けたかは不明だが、民族音楽(学)が直川の活動に大きな影響を与えたことは確かだろう。

また、『音と造形』展とSG1-2に参加した松本秋則氏は、1992年にある財団から助成を得て東南アジアを歴訪したり、それ以外にも自費で東南アジアや中国の少数民族を訪れたりしたことが、自作の大きなヒントとなったとしばしば語っている。松本作品のほとんどは竹で作られているが、竹は東南アジアの民族楽器に特徴的な材料であり、松本作品のいくつかは東南アジアの民族楽器の発音原理を参照している(中川2015)。また、松本が作家活動を開始したのは80年代以降だが、それ以前の1970年代後半に『竹の響き』という記録映像が制作されていたことを指摘しておきたい[★13★]。これは、小泉文夫が世界中の「竹」を用いた民族楽器をとりあげ、その音や演奏方法や仕組みを紹介する記録映画である。実際に松本がこれを見たかどうかは確認できていないが、竹を音具に用いることに対する理解が70年代後半の日本に民族音楽学経由で存在していたこと、を指摘しておきたい。松本が「竹」という素材にこだわっていることを、〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉に対する民族音楽(学)の影響事例として、あげておきたい。

以上のような個別事例から、私は、〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉の文脈として、〈民族音楽(学)〉の普及について検討する必要があると判断した。

3.1.2.民族音楽学による音楽教育批判

日本に民族音楽(学)を普及させた第一人者は小泉文夫(1927-1983)である。60年代から70年代にかけて小泉文夫が、多くの著作、テレビやラジオへの出演、コンサートやシンポジウム企画などの社会活動を通じて、民族音楽(学)を一般社会に紹介していた。また、60年代以降クルト・ザックスやいくつかの重要文献が邦訳されており、1978年に邦訳されたジョン・ブラッキング『人間の音楽性』の訳者解説(徳丸1978)は、民族音楽学の学史として明快で優れたものだった。つまり、民族音楽(学)は80年代までに一般社会においてその存在を認知されていたし、学問的にも十分な理解を伴って日本に定着していたと考えられるだろう。

そもそも民族音楽学の出自は西洋芸術音楽以外の音楽文化に対する関心にある。それゆえ、民族音楽学の普及が音楽における西洋中心主義を相対化する効果を持ったというのは当然である。その際、西洋楽器以外の民族楽器が一般に知られ、西洋芸術音楽特有の芸術家中心主義的観点ではない、作曲家と演奏家と聴衆が分断されていないような音楽観の存在が意識されたことも言うまでもなかろう。つまり、前章で抽出した〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉の特徴のうち、民族音楽(学)が4と1と2を間接的に[傍点:間接的に]生み出したということは、改めて説明する必要はなかろう。ここでは、私は、民族音楽学が他の経路から〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉に影響を与えた可能性について提起したい。この経路は、〈3.教育的意図との交錯〉という特徴にもつながったのではないだろうか。

ここでとりあげておきたいのは、民族音楽学者による音楽教育批判である。小泉文夫『おたまじゃくし無用論』(小泉1973)をとりあげておこう。小泉文夫の履歴を確認すると、1960年に東京藝術大学に着任した後、わらべ歌研究に着手したことがそれ以降の小泉の活動に大きな影響を与えたことが分かる(岡田1995)。小泉は、わらべ歌の採集研究を行なうことで、民族音楽研究の方法論に示唆を得た――ある文化の基底を示すものとしてこどものうたを調査するという方法を考案した――だけではなく、音楽教育のあり方に対しても独自の主張を持つことになったからである。以降しばしば小泉は、〈子どもの自発的な音楽性に立ち戻る音楽教育の重要性〉を訴えることになった。こうした小泉の著作活動は、マスメディアへの頻繁な出演とコンサート企画などの社会活動とともに、1970-80年代の日本の音楽文化――1951年生まれの松本秋則や1960年生まれの関根秀樹と直川礼緒など――に大きな影響を及ぼしたといえよう。

この本は1973年に出版された時には大きな反響を呼び、1980年には増補改訂版が出版された。これは、小泉が、わらべ歌研究の経験に基づき、日本における西洋芸術音楽中心主義を批判し、子どもの創造性を開拓するために、西洋音楽以外の音楽を教えるなど音楽教育に対して提言する本である。例えば、小泉によれば、「西洋音楽一辺倒のゆがんだ音楽教育」(小泉1973:30)のせいで日本の「子どもは音楽を楽しむということを知らない」(32)であるとか、「素人のやる音楽のほうが、音楽の本質に迫っていることが多いとさえ言えます」(101)といった、今ではある種のクリシェとしか思えない文言があふれている。こうした思考の系譜の追跡は日本における〈音楽〉概念の変遷を理解するうえで興味深い発見をもたらしてくれそうだが、本論の任務ではない。ここでは、この本を、日本における民族音楽学が音楽教育のあり方の再考を通じて音楽における西洋中心主義を批判する事例、としてとりあげるに留めたい。民族音楽学が音楽教育再考を経由して、音楽における西洋中心主義を相対化させるという理路は、他にも徳丸吉彦『親と子の音楽再入門』(1979)や小島美子『日本の音楽を考える』(1976)や『歌をなくした日本人』(1981)などにも見出だせる。それゆえ私は、民族音楽学は(間接的にせよ)〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉の〈3.教育的意図との交錯〉という特徴を生み出すことに貢献した、という仮説を提起しておきたい。

3.2.サウンドスケープの思想と音楽教育学

3.2.1.サウンドスケープの思想

第二章第三節で、『音のある展覧会』において、鳥越けい子氏によるサウンドスケープ研究をふまえたレクチャーが行われたことに言及した。そもそも1980年代は、マリー・シェーファーのサウンドスケープの思想[★14★]が日本に本格的に紹介されるようになった時期であり、音や音楽に関わるイベントに、日本におけるサウンドスケープの思想の第一人者を招いてレクチャーが企画されたことは不思議ではない。

環境音に改めて注意をうながし環境の意味論的側面を再考させるサウンドスケープの思想あるいは実践は、土木や都市計画といった工学系の環境研究者や、現代音楽の新しい潮流として理解した作曲家や、環境音の設計という新しい領域を開拓しようとするサウンド・デザイナーや、様々な文化的事象を音響的側面から理解しようとする人文学者など、様々な領域に大きな影響を与えた。そもそもは現代音楽の作曲家として出発したシェーファーは、音環境を音楽作品になぞらえるアナロジーをきっかけに音環境の問題に取り組み、単なる新しい音楽芸術ではなく、サウンドスケープという、思想と実践の理念でも方法でもあるような領域を生み出した。サウンドスケープという思想(本論ではこう形容する)が各方面に与えた影響のあり方を詳細に検討することは本論の目的ではないが、少なくとも、作品概念や音楽概念を変容解体することで〈4.音楽における西洋中心主義の相対化〉する志向を持っていたことは自明だろう。

ここでは私はさらに、サウンドスケープの思想が他の経路から〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉に影響を与えた可能性について提起したい。それは、サウンドスケープの思想が音楽教育の文脈と結びつくことで生じた可能性であり、その結果、1, 2, 3といった特徴を生み出す文脈として機能した、という仮説を提起したい。

3.2.2.サウンドスケープの思想と音楽教育の文脈との関連

そもそも、サウンドスケープの思想はしばしば音楽教育的な実践を必要とする。というのも、サウンドスケープの思想は、世界の音環境を音楽作品のようなものとして新鮮なやり方で聴き直すことで世界に対する私たちの認識を改めさせようとするので、しばしば、私たちに対して啓蒙的な実践を行なうからである。世界に対する認識を改めるためには、これまでとは異なるやり方で聴覚を働かせ、知覚を組み立てねばならない。そのようなやり方を身に付けるために、サウンドスケープの思想は、しばしば、「イヤー・クリーニング」という実践を提唱する。これは例えば、一分間集中して耳を澄ましてその間に聴こえてきた音を全て書き出してみるとか、一時間程度の散歩の間に聴こえてきた音を地図に記すことでサウンド・マップを作成する、といった、聴覚の使い方を再教育しようとする啓蒙的な実践である。

それゆえ、日本へのサウンドスケープの輸入プロセスが、しばしば音楽教育の文脈と交錯していることは不思議ではない。シェーファーのサウンドスケープの思想は、1970年代に初めて、高橋悠治によって日本に紹介され、その後80年代になって、カナダから帰国した鳥越けい子らによってさらに詳しく紹介されるようになった(辻本2009)[★15★]。しかし、初めて邦訳されたシェーファーの単行本は、サウンドスケープ概念に直接関わるものではなく、音楽教育に多くの提言を行う『教室の犀』だった(高橋悠治が1980年に邦訳した)。そもそも、シェーファーは、音環境に人々の注意をうながすために、音楽教育のあり方に強い関心をいだき、多くの提言を行っていた。こうした関心は、シェーファー1992やシェーファー1996にも継続している。

また、サウンドスケープの輸入史のメルクマールは、『波の記譜法』(小川ほか1986)の出版(1986年3月)と『世界の調律』の邦訳出版(1986年12月)だろう。前者の主要編著者(小川博司、庄野泰子、田中直子、鳥越けい子)は、後者の共訳者(鳥越けい子、小川博司、庄野泰子、田中直子、若尾裕)と重なっている。また、『波の記譜法』の主要編著者以外の寄稿者は、芦川聡、庄野進、瀬尾文彰、泉山中三、若尾裕であり、さらに「実践者の立場からの発言者」として、鈴木昭男、高野昌昭、氏家啓雄+坪谷ゆかり、松本秋則、高田みどり、江崎健次郎、吉村弘、田中宗隆、星野圭朗が寄稿している。ここで注目したいのは、サウンドスケープの思想を初めて本格的に紹介した『波の記譜法』に、鈴木昭男、氏家啓雄+坪谷ゆかり、松本秋則、吉村弘といった、本章でとりあげた展覧会に参加している作家が関わっていること、つまり、〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉とサウンドスケープの思想に関連があることである。そしてもうひとつ、ここに創造的音楽学習の日本における主導者の一人、星野圭朗が関わっていることである。つまり、〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉と当時の日本における音楽教育学の新しい流れに関連があるように思われることである。そこで次に、創造的音楽学習(creative music making)という動向について確認しておきたい。

3.2.3.創造的音楽学習からの影響

創造的音楽学習とは「自分たちで音楽を作り出す学習」(松本・山本1985:13)である。要するに、誰か専門家が制作した音楽を歌ったり聴いたりするだけではなく、子どもに自分たちで音楽を創作させる音楽教育の方法論である。1970年代に何人かの先駆者によって試みられ、80年代には日本でも知られるようになった。創造的音楽学習を推進する立場からは、西洋近代芸術音楽あるいは(西洋音楽的な)ポピュラー音楽が音楽の全てではなく、「一口に音楽といっても、いろいろな音楽が存在している」(松本・山本1985:14)。つまり、1980年以降に日本に導入されたこの音楽教育学の方法は、同時期に輸入されたサウンドスケープの思想とともに〈4.音楽における西洋中心主義の相対化〉を志向していた。また、私は、この方法は、子どもたちに音楽を創作させる方法論として、音楽教育学や教科音楽以外の領域にも影響を与えたと考えている。

島崎2010は日本の音楽教育における創造的音楽学習の導入とその展開について整理している(島崎2010)。それによれば、日本において創造的音楽学習が導入されることになった契機は、M.シェーファー『教室の犀』(高橋悠治訳)が1980年に、ジョン・ペインター、ピーター・アストン『音楽の語るもの』が1982年に、邦訳出版されたことにある。シェーファー1980はシェーファーが音楽教育に積極的に提言する著作である。日本における創造的音楽学習がサウンドスケープの思想と結びついていた事例といえよう。『音楽の語るもの』の特徴は、教材として現代音楽や即興演奏を多用することにある。その「影響から、導入期のCMMには現代音楽の手法による音楽づくりが多かった」(島崎2010:80)らしい[★16★]。創造的音楽学習が、子どもたちに音楽を創作させる方法論だったことを示す事例といえよう。

また同様に重要なものとして、島崎2010は、1981年11月に「音・音楽・子どもの会」が発足したことに触れている。この会は、芦川聡、片山みゆき、坪能由紀子、星野圭郎、若尾裕が発起人となって発足した研究会で、1987年まで会報が発刊された(星野1993、島崎2010)。この研究会は、基本的には、日本の音楽教育に創造的音楽学習を導入するための研究会として活動していたようにも思われるが(星野1993)、この会は1993年設立の日本サウンドスケープ協会に受け継がれた(島崎2010:81)という評価もある。詳細な調査は今後の課題だが、この会に関わった人々と、先述の『波の記譜法』(小川ほか1986)の著者の多くが共通していることからも、この会は「音楽教育学」あるいは教科教育という領域の内側でだけ活動していたのではなく、80年代の同時代的文脈に大きな影響を与えただろうことは確かに思われる。これもまた、日本における創造的音楽学習がサウンドスケープの思想と結びついていたことを示しているといえよう。

島崎によれば、日本における創造的音楽学習の最初の本格的な実践家は星野圭郎で、最初に理論化と啓蒙を行ったのは山本文茂と坪能由紀子である。星野はあくまでも実践家だが、その主著『創って表現する音楽学習~音の環境教育の視点から~』(1993)から、日本における創造的音楽学習がどのような背景から生まれて何を狙っていたかを確認できる。星野1993によれば、1960年代からずっと音楽教育に従事してきた星野の課題は、1970年代から社会的に意識されてきた騒音問題など「音の環境問題」に対し、音楽教育の立場から対処することだった。そのために星野は、「わが国の文化と伝統、そして民族の本質に根差した音楽教育」と「いかなる音・音響をも音楽として組織できる能力を持たせる音楽教育」という二つの柱を掲げて、音楽の原点あるいは子どもたちの感性、個性、独創性、創造性等を求める音楽教育を試行錯誤してきた。それゆえ星野は「創造的な音楽教育」や「環境教育としての音楽教育」を目指したという(星野1993:22)。環境音を重視するという点でサウンドスケープの思想との共通性は明らかだろう。星野の活動は、日本における創造的音楽学習とサウンドスケープの思想が結びついていたことを示す好例である。また、山本は、松本恒敏との共著『創造的音楽学習の試み~この音でいいかな?~』(1985)を公刊した。これは創造的音楽学習の実践者にとってのバイブル的存在として80年代の創造的音楽学習の実践を支えた。この本の前半では創造的音楽学習とはいかなるものであるかという思想が平易な言葉で語られ、後半では実際に24個の指導事例が掲載されていた。また、坪能は文部省学習指導要領準拠の『鑑賞指導の手引』や『教育音楽』などに大量に寄稿し、音楽教師を啓蒙するワークショップ活動を盛んに行った。創造的音楽学習が、子どもたちに音楽を創作させる方法論として通用したことを示す事例といえよう。

以上、日本における創造的音楽学習がその導入時にサウンドスケープの思想と結びついていたこと、また、創造的音楽学習が子どもたちに音楽を創作させる方法論だったことを示してきた。私には創造的音楽学習の成果を総括する能力はないし、音楽教育における創造的音楽学習の効果も判断できない。ここでは私は、次のことを指摘しておきたい。つまり、音楽教育における創造的音楽学習という方法論は、〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉に対して、〈4.音楽における西洋中心主義の相対化〉を志向させるという影響を与えたのみならず、子どもたちが主体的に音楽を創作するワークショップの方法論を提供したのではないか、ということである。そうすることで、創造的音楽学習という方法論は、〈3.教育的意図との交錯〉という特徴をもたらすのは当然のこととして、それ以外にも、様々なレベルで〈2.非音楽家(作家あるいは鑑賞者)による音楽の提示(作家あるいは観客が触って音を出せる音具の展示のみならず、作家によるパフォーマンス)〉を促すことになったのではないだろうか。例えば、山本・松本1985で紹介されている「学習課題 9廃物で楽器を作ろう」や「20アンサンブルを手作り楽器で」は、ジュースの空き缶や鉄釘のチャイムなどの手作り楽器を制作し、五線譜ではなく図形楽譜でその楽器のための演奏楽譜を制作することで、子どもたちに音楽作品を制作して演奏させようとする指導事例あるいはワークショップである。このように指導事例のなかに音具の制作が含まれる場合などは、創造的音楽学習は、〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉に対して、〈1.鑑賞者が触れる音具(音響彫刻、創作楽器、音具、民族楽器)が多いこと〉という特徴を生み出す文脈として機能したとも考えられるだろう[★17★]。

4. まとめ:仮説の提示と今後の課題

以上から私は、〈民族音楽学〉と〈サウンドスケープの思想と音楽教育学〉という文脈がそれぞれのやり方で〈4.音楽における西洋中心主義を相対化〉することで〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉を直接的あるいは間接的に準備した、という仮説を提示したい。改めて断っておくが、これは、〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉の全てとその文脈の全てを検討して導き出した仮説ではないし、文脈からの影響も直接的というよりも間接的なものである。

その意味ではこの仮説は今後に多くの課題を残す不十分なものだが、しかし、それでも意義がある。というのも、とりあえずは仮説を提起することは、今後のさらなる充実した調査の土台となり得るはずだし、また、今後の調査を改善していくための問題提起をとなり得るはずだからである。

では、本論を通じて何が言えるだろうか。ここから、例えば、〈日本におけるサウンド・アート〉は、いかにそれが視覚芸術の文脈から生じたかに見えようとも、音楽における西洋中心主義を相対化しようとする動きの中から生じたものであり、やはり「音楽」というジャンルとの関係性を無視することはできない、という示唆が得られるかもしれない。あるいは例えば、〈日本におけるサウンド・アート〉という主題は、「美術」と「音楽」とのジャンルの混交という文脈と、アジアにおける反西洋近代の動向の文脈とのなかで考察することで、より実りある成果を得られるかもしれない、という示唆が得られるかもしれない。

現段階では、こうした示唆がどの程度の精度で今後の研究を補正し得るかといったことは、研究調査を継続するなかで見極めていくしか無い。私は、「サウンド・アート」なる表象が歴史的に(とりわけ日本とアジアにおいて)どのような機能を果たしてきたのか、という問題に関心がある[★18★]。とはいえ、こうした問題のさらなる検討は今後の課題である。今言えることは、本論で提出した仮説のさらなる精緻化をはかるべきであることと、同時に、あるいはより優先事項として、〈日本におけるサウンド・アート〉の基礎資料のさらなる充実を図らねばならないということだろう。私たちは、本論でとりあげた三つの展覧会以外の〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉の事例も考察対象として取りあげるべきだし、その文脈についてもより多くの文脈を考察すべきだろう。今後、本論よりも更に精緻な調査研究を誘発できたならば、本論の意義はあったというべきである。ともあれ今は、1980年代後半の日本におけるサウンド・アートの文脈として二つの領域を提案したことと、今後の課題を提出したこととを成果として、本論を終えることとしたい。

1 サウンド・アートの歴史と美学に関する研究は、Lander and Lexier 1990やKahn 1999以降、急速に増えてきた。サウンド・アート(研究)の概要を把握するためには、Cox2004、リクト2010、Kane2013、Cobussen, Meelberg, and Truax 2017などが役に立つ。サウンド・アートの歴史研究として特筆すべきはCluett2013とMaes2013である。これらの博士論文には、音を用いる展覧会の歴史を辿った年表が参照資料として付属する。それぞれ漏れがあるが、展覧会の歴史を探る作業の主発点として有用である。これらを参照すると、音をテーマとする展覧会の数は80年代以降に増え始め、90年代に急増したことが明らかである(Maes2013: 188など)。

2 日本で「サウンド・アート」という言葉が一般化するきっかけのひとつとして、雑誌『MUSIC TODAY』の第19号(1993)のサウンド・アート特集をあげられるだろう。

ただし、80年代から、京都国際現代音楽フォーラムがロルフ・ユリウスやビル・フォンタナやアルヴィン・ルシエを日本に招聘していたし、80年代当時のことを当時のアーティストにインタビューすると、当時から「サウンド・アート」という語を使っていたというものも多い。「サウンド・アート」という言葉の日本における受容史は今後の課題である。

3 〈日本におけるサウンド・アート〉研究の先行研究としては、管見の限りでは、2012年以降に中川克志と金子智太郎が京都国立近代美術館の研究誌『Cross Sections』に掲載している仕事と、未公開の北條知子の修士論文(北條2015)しか知らない。本研究はこの共同調査の成果を大いに利用するが、最終的な本論の責は中川にあることを確認しておく。

4 このような議論の進め方を採用するに際して、私は、ジョナサン・スターン『聞こえくる過去』(スターン2015)を参考にしている。スターンは18世紀から19世紀にかけて生じた聴覚の技法の変化を、医療における間接聴診の技法と、電信技術における聴取の技法とに見出し、その「形態学的類似」を指摘し、ふたつの領域で並行的に生じた聴取の技法の変化を総合的に勘案して、18世紀から19世紀にかけて生じた聴取の技法の変化として記述する(214-216)。実は、間接聴診の技法と電信技術における聴衆の技法との間には直接的な影響関係は示されていない。あくまでも、「形態学的類似」が指摘できるが、そこにあるのは潜在的な類似関係であり、それに過ぎないのである。

5 これらの展覧会の基本的な情報については、中川・金子2012と中川・金子2014という共同調査報告の成果を参照する。中川・金子2012を作成するためにこれらの調査報告を作成する際、吉村洋子氏(音楽家吉村弘氏の妻)には、SG展関連の資料を大量にお貸しいただいた。また、中川・金子2014を作成する際に、『音と造形』展について、こどもの城センター事業運営部課長の有福一昭氏(肩書はインタビュー時)に、『音のある美術』展について、栃木県立美術館学芸課特別研究員の杉村浩哉氏(肩書はインタビュー時)にインタビューさせていただいた。また、金子智太郎氏には、この共同調査の成果の利用を快諾していただいた。記して感謝の念に替えたい。

6 鈴木昭男、WAY、金沢健一、吉村弘は何らかの形で、本論で取りあげる三つの展覧会すべてに参加している。松本秋則とMUSAは『音と造形』展とSG展に参加している。横尾哲生は『音と造形』展と『音のある美術』展に参加している。また、藤本由紀夫と松村要二は『音のある美術』展とSG展のふたつに関わった。

7 自動式の音響彫刻の下位分類として、〈人間の操作の介在なしに音響を発するが、人間が操作を加えることもできる音響彫刻〉を想定する場合、12個のうち藤本由紀夫の6作品が該当する。今回取り上げるサウンド・アート作品の中でこのカテゴリーに分類できるのは藤本由紀夫作品だけである。この時期からその独創性は明らかだったというべきか。

8 サウンド・インスタレーションはSG4以外には毎回出品されているが、SG展に5-6回出品している中核作家のなかでは、SG5の吉村弘しか制作していない。

9 吉村弘作成のレインスティックに似た音具。空き缶に水を入れて繋げたもの。片端を下に下げると重力で水が落ち、その際ポコポコポコという音を発する音具。神奈川県立近代美術館で入手可能。

10 これらのパフォーマンスについては、1980年代に日本に輸入された「パフォーマンス」というジャンルの影響を考えるべきかも可能かもしれないが、本論では検討できていない。今後の課題とさせていただきたい。

11 関根氏と直川氏に関する記述は、近刊予定の中川・金子2017に依拠している。

12 クルト・ザックスの『楽器の歴史』が1965年に、『比較音楽学』が1966年に、『音楽の起源』が1969年に、『音楽の源泉』が1970年に邦訳され、また、ジョン・ブラッキング『人間の音楽性』が1978年に、アラン・P・メリアム『音楽人類学』が1980年に邦訳された。

13 これは、1976年3-4月に民族音楽学者の小泉文夫と徳丸吉彦と山口修が主導して行なった国際交流基金のプロジェクト「第一回アジア伝統芸能の交流」の産物である。このプロジェクトはその翌1977年に、『Asian Musics in an Asian Perspective』という英文報告書と、ビクターより『日本音楽の源流を訪ねて』というレコード集と、『竹の響き』その他数本の記録フィルムを制作した。

14 シェーファーのサウンドスケープの思想については、その主著『世界の調律』(シェーファー1986)や鳥越けい子による紹介(鳥越1989や鳥越1997)を参照のこと。

15 実際の輸入経路は単線ではなく複線だったようだ。

例えば、1976年に高橋悠治が雑誌『トランソニック』にシェーファーの「環境の音楽」なる文章(シェイファー1976a, シェイファー1976b)を翻訳紹介する前に、1976年『トランソニック』6号にすでに、一柳慧が「バンクーバー・サウンドスケープ」なる文章を寄稿している。この号には他にも一柳慧 「<バック・グラウンド音楽>と<環境音楽>」、真壁智治「<パルコ>の都市戦略」、鈴木昭男「レポート・一九七六・三・十八」、林光「生活の中の音・考ー1」といった記事が掲載されている。ここでは、「サウンドスケープ」なる概念は、ある種の新しい音楽としても受容されようとしていた可能性もある。

また、1980年代前半には鳥越けい子がいくつかの雑誌でサウンドスケープを紹介していた。例えば1984年7月号の『音楽芸術』には鳥越けい子「文化デザインの地平を切り開いて--「マリー・シェイファー/サウンドスケープの詩学」をきいて」なる文章が掲載されているが、『音楽芸術』には、1984年5月号から4回に渡り、武田明倫がマリー・シェイファーを紹介する記事を連載している。つまり、鳥越けい子以外の人物もシェーファーを紹介していた可能性がある。

平松ら2013では、平松幸三が1993年の日本サウンドスケープ協会設立に至るまでの流れを関西を中心に回顧しており、土木学会関西支部、阪神高速道路公団の研究会、音響学会関西支部の音環境談話会、「日常生活と音楽研究会」(の関西支部)といった集団の名前が挙げられているし、サウンドスケープ概念を紹介した人物として、高橋悠治以外に柴田南雄や細川周平の名前も挙げられている。

シェーファーやサウンドスケープの輸入プロセスの詳細は興味深い主題だが、日本におけるサウンドスケープの思想の受容を調べることは本論の任務ではない。

16 同書(『音楽の語るもの』)では、音楽教育の実践家に向けて、36個のプロジェクトが提案されている。この本がすぐに授業計画となるわけではなく、これらのプロジェクトをもとに学習計画を自ら工夫して欲しい、とのことである(9)。最初の1-24のプロジェクトでは、20世紀の芸術音楽の発想をヒントに、授業で使う素材が選ばれている(「沈黙」や「テープ音楽」や「偶然性」がテーマになる)。また、本書の創作活動の土台は「いろいろな楽器や音楽的アイディアなどの素材にいきなり立ち向かい、即興演奏による実験をくりかえしながら音楽作品をつくりあげていくというやり方」(12)であるとのことである。こうした方法を著者たちは「経験創作」と呼ぶ。

ただし、本書には、後で言及する星野圭朗などとは違い、音楽における西洋中心主義を相対化しようとする志向やサウンドスケープの思想からの影響はない。

17 創造的音楽学習の動向と〈1980年代後半の日本におけるサウンド・アート〉のアーティストたちとの直接的な影響関係は、今のところあまり見つけられていない。現段階で私があげられる事例は、関根秀樹が和光小学校のキャンプ合宿が縁で国立音大の繁下和雄(1943年生まれの音楽教育学者。元国立音楽大学副学長。膨大な著作があり、音あそびや楽器作りを音楽教育に導入。)に出会ったこと、直川礼緒が1985,86年に「音・音楽・子どもの会」に参加したこと、だけである。改めて述べておくが、私がここで指摘しているのは、潜在的で間接的な影響関係である。

18 こうした関心を展開させた第一歩が、NAKAGAWA and KANEKO 2016である。

参考文献

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アラン・リクト 2010 『SOUND ART ──音楽の向こう側、耳と目の間』 ジム・オルーク(序文)、恩田晃(日本語版特別寄稿) 荏開津広、西原尚(訳) 木幡和枝(監訳) 東京:フィルムアート社。

Maes, Laura. 2013. Sounding sound art: a study of its definition, origin, context and techniques. Ph.D diss. Ghent, Belgium: Ghent University.

松本恒敏、山本文茂 1985 『創造的音楽学習の試み~この音でいいかな?~』 東京:音楽之友社。

小川博司・庄野泰子・田中直子・鳥越けい子(編著) 1986 『波の記譜法』 東京:時事通信社。

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金子智太郎、中川克志 2013 「[調査報告] 日本におけるサウンド・アートの展開――『Sound Garden』展(1987-94)の成り立ちをたどる」 『京都国立近代美術館研究論集 CROSS SECTIONS』5(2013年3月):44-52。

中川克志、金子智太郎 2014 「[調査報告] 日本におけるサウンド・アートの展開――80年代後半の「サウンド・アート」の展覧会をめぐって――」 『京都国立近代美術館研究論集 CROSS SECTIONS』6(2014年3月): 66-73。

金子智太郎、中川克志 2017(予定) 「[調査報告] 日本におけるサウンド・アートの展開――〈1980年代日本における音具〉をめぐるいくつかの文脈――」 『京都国立近代美術館研究論集 CROSS SECTIONS』8(2017年予定)。

NAKAGAWA, Katsushi and KANEKO, Tomotaro. 2016. “Research on the Development of Sound Art in Asian Countries ― Interview with Ms. Yeung, Yang (楊陽, founder and executive director of soundpocket in Hong Kong).” Faculty of Urban Innovation (Yokohama National University) ed. Tokiwadai Journal of Human Sciences, 2: 80-91.