2017年04月 中川克志、金子智太郎「[調査報告] 日本におけるサウンド・アートの展開 ――〈1980年代日本における音具〉をめぐるいくつかの文脈――」

日本におけるサウンド・アートの展開

――〈1980年代日本における音具〉をめぐるいくつかの文脈――

中川克志+金子智太郎

The Development of Sound Art in Japan - Some Contexts around ‘On-Gu (Sound Object) in the 1980s’

(ここで公開している論文たちには校正での訂正が反映されていない部分があり、実際の掲載稿とは若干相違があります。また図版は掲載していません。引用などの場合、必ず、公開された原文をご参照ください。)

1 はじめに

本調査報告五回目は、1987年から94年まで六本木ストライプハウス美術館(当時)で開催されたシリーズ展『Sound Garden』展(以下SG展)(調査報告第一回、第二回を参照)に、中心的メンバーとして参加した関根秀樹さんと直川礼緒さんにお話をうかがった。今回は、〈音具〉――ここでは単に「音を発するための器物」という意味で使うことにする★★★註1★★★――をめぐる当時の状況を考えるために、SG展のなかでも音具に専門的に関わっていたように思われるお二人に話をうかがった。

お二人ともSG展以降にこそ本格的にご自身の仕事を精力的に展開している。それゆえ当然、お二人からお話をうかがうなかで、SG展とは直接的には関係のない興味深いお話もたくさんうかがったのが、本調査報告では思い切ってそれらについては全て割愛させていただく。本調査報告ではあくまでも、SG展との関係でこちらが設定したテーマに関わる事項に限定することで、〈1980年代日本における音具〉をめぐるいくつかの文脈を報告したい。

本調査報告はSG展との関わりについてのみ報告者がまとめた事柄であること、また、本調査報告内で語られるすべての記述の責は報告者にあることを強調しておく。インタビュー★★★註2★★★からその後の原稿チェックに至るまでお二人のホスピタリティには感謝するしかない。ありがとうございました。以下、文中では敬称略させていただく。

2.関根秀樹の場合

2.1.関根秀樹とSG展

まず簡単に関根秀樹を紹介しておく。関根は1960年福島県に生まれ、和光大学人文学部文学科に入学し、古典文学のゼミとは別に岩城正夫★★★註3★★★の指導のもとで発火具や楽器など古代技術の復原研究を開始した★★★註4★★★。在学中には岩城の「原始技術史」関連のワークショップや秋岡芳夫たちのグループ・モノモノ関連のイベントを手伝い、1985年に、秋岡芳夫らが東北工業大学の工業意匠学科で推進しようとしていたプロジェクトの事務局長として仙台に移った。その後、1987年頃に東京に戻ってからSG展に関わるようになった。80年代後半以降の関根には古代技術や民族楽器を扱った著作が多数あり、火起こし名人としても有名である。

関根がSG展に関わるようになったきっかけは、1987年頃に東京に戻り、学生時代に最初の個展から親しんでいた松本秋則の久々の個展で、東京芸大工芸科の八杉真由美(MUSAの一員、SG2-5に参加)と知り会ったことだ。八杉と話すうちに、彼女たちの作る音具が見た目は良いが音がうまく出ないという話になった。そこで、高校では物理部だった関根は彼女たちに楽器制作のアドバイスをするようになり、SG3,4,5,6には自ら出品し、パフォーマンスも行なうようになった。

次に、SG展への出品作を説明しておく。SG3の《響天 Planetary Vibration》(1990)[★★★画像1★★★]は、和紙と竹ひごで作られた両面太鼓と「星笛」と名付けた高周波の笙のような笛。SG4の《七彩》(1991)は自然のままの細長いサヌカイトや青銅、真鍮、アルミの金属パイプなど多様な素材の棒を細い釣り糸で空中にぶら下げてわずかな風や気流のゆらぎで様々に形を変えて音を立てるモビールによるインスタレーション。SG5の《Vertigo》(1993)は古代音具うなり木を様々な樹種で復原したもの。SG6の《ふるべゆらゆら》(1994)は極細の備長炭で作った音の出るモビールで、高野昌昭の《ささやきの壁》と同様のアイデアのインスタレーション。また、関根はSG4,5,6ではパフォーマンスも行なっている。SG4ではたわめたリン青銅の板を即興で叩き、SG5とSG6では抹茶を点てて茶筅で作った笛を吹くパフォーマンスを行った[★★★画像2★★★]。

関根は自分のことを美術家とも音楽家とも考えていないが、このように、SG展では、復原した古代楽器を出品したり、観客の前でパフォーマンスを行っていた。また、関根はSG展以前から音楽や美術の文脈に関わっていた。以下、そうした文脈について記しておく。

2.2.関根秀樹の文脈

1.音具への関心

SG展に関わる以前から関根は楽器や音具を制作していた。その初めはどうやら、和光大学に進学して岩城正夫の研究室に入り浸るようになった頃のようだ。関根は、火起こし班、石器班、飛び道具班、酒作り班、糸紡ぎと機織り班、竪穴班に分かれていた原始技術史の岩城プロゼミで、新たに楽器班を立ち上げ、古代楽器や民族楽器の復原制作実験を行なっていた。岩城は「原始技術史」という学問を立ち上げ、古代技術復原実験という研究手法を提唱しており、彼の実験室には実験に使用する手づくりのモノコードや音叉、笛のようなものがたくさんあったという。そして、関根は岩城研究室と化学実験室を拠点に、古代楽器や民族楽器の復原制作実験を行なうようになった。

2.民族音楽

関根は音楽の授業は苦手だったが民族音楽や民俗芸能には親しんでいた。中学生の頃、小泉文夫のFM番組に親しみ、小泉文夫の『おたまじゃくし無用論』(1973年)や『日本音楽の再発見』(1976年)などを読んで東南アジアやアフリカなどの民族音楽の面白さを知ったという。また、インタビューでは、関根は郷土芸能や日本の様々な民俗芸能にも親しんでいたことが語られた★★★註5★★★。こうした経験から、関根は、楽譜や作曲家至上主義といった西洋近代芸術音楽に限定されない広い音楽観を育むことになったといえるかもしれない。

3.美術館における活動

関根はSG展以前から美術館という場所で活動していた。関根は、和光大学在籍中から小学生や教職員を対象に図書館や科学館や児童館など公共施設で古代技術の指導や「音のおもちゃ箱」という音具・楽器作りのワークショップを行なっており、その延長線上で、美術館でも音具作りなどのワークショップを行なうようになっていた。関根の初めての美術館ワークショップは、1986年に宮城県美術館で始まったワークショップ「音・楽(おと・たのしみ)」である。宮城県美術館教育普及担当学芸員(当時)で美術家でもあった齋正弘氏に請われて始まり、東京に移ってからも数年間行なった。他にも関根は様々な美術館で多くのワークショップを行っている。こうした経験があったからこそ、関根は、さほど躊躇せずにSG展でパフォーマンスを行うことが出来たのではないだろうか。

4.同時代の文脈

また、仙台に行く前から関根は、スタジオ200や、民族楽器も扱っていた表参道のギャラリーかんかん、六本木WAVE、青山SPIRAL等にしばしば通っていたし、松本秋則★★★註6★★★、吉村弘、高野昌昭★★★註7★★★といった同時代のアーティストや、繁下和雄(音楽教育学者)★★★註8★★★、郡司すみ(楽器学研究者)★★★註9★★★といった音楽関連の研究者と知り会っていた。こうした人的つながり、あるいはスタジオ200に代表されるような同時代的な文化との関わり★★★註10★★★を、関根とSG展との結びつきに影響を与えたであろう80年代の同時代的文脈として指摘しておきたい。

3.直川礼緒の場合

3.1.直川礼緒とSG展

次に直川礼緒の事例を検討する。直川は1959年金沢生まれ、埼玉で育ち、早稲田大学在学中の1984年に単身タンザニアに渡り親指ピアノを習得。87年にはガムラン・グループ「スカル・ジュプン」の一員としてバリ芸術祭「ペスタ・スニ」に参加し、1990年には日本口琴協会を設立。その後は口琴の研究と普及と実践のために精力的に活動しており、紛うこと無く日本口琴界の第一人者である。本調査報告では、直川にとっては日本口琴協会設立前史である、SG展とそれ以前の時期について記述する。

直川がSG展に関わるようになったのは、エレクトロニック・アート・センター(後述)(以下EAC)に出入りしているうちに、吉村弘と知り会い誘われたからである。直川はSG展全てに出品した中核メンバーのひとりで、SG1展のリーフレットや記録映像も制作していた。SG展に参加した時期の直川はまだ口琴一筋ではなかったようだが、SG3が開催された1990年には日本口琴協会を設立しており、SG5には自作の口琴を出品し、口琴演奏のパフォーマンスを披露している。

次に、SG展への出品作を説明しておく。SG1★★★註11★★★には二つ出品している。《あたまの上でちんころりん》(1987)[★★★画像3★★★[はヘルメットやカチューシャの上に、歩くと風を受けてプロペラが回転して音を発するオブジェを取り付けた音具★★★註12★★★で、《かに》(1987)は、本体に付いている糸を引っ張ると足が動いてがちゃがちゃ音を出す音具[★★★画像4★★★]である。SG2の《黴のはえるとこ》(1988)はイラスト資料しか無く詳細不明だが、本人によれば、ゆっくりとしたモーター回転による重心移動を利用したシーソー式オブジェで、傾くたびに、板の上に立てられた多数の真鍮製の棒が触れ合って音を発する音具である。SG3の《律動機械》(1990)は足踏みミシンを改造した機械仕掛けの木琴演奏装置。SG4の《芦笙 NO,1》(1991)も音具で、リーフレットには関根とともにパフォーマンスを行なう予定であることが記載されている。SG5のリーフレットには作品名の記載はなく口琴の写真が掲載されているだけだが、実はこれは、フィリピンで買ってきた古い真鍮製の匙を切り出して自作した口琴とのことである[★★★画像5★★★]。SG6の《風の声》(1994)はキネティック・スカルプチュアで、乳児が寝ているベッドのうえで回転させる大きなガラガラおもちゃのような形態で、触ると音を発する音具である★★★註13★★★。

次に、直川がSG展に関わるに際して影響があったと思われる文脈について記しておく。

3.2.直川礼緒の文脈

1.音具への関心

後に口琴一筋ともいえるほど口琴に重点を置くようになる直川を考えると当然のようにも思われるが、直川は高校時代からずっと、小さな音具に惹かれてきたという。例えば、直川は高校時代に作曲家を志して南弘明★★★註14★★★に師事していたことがあり、彼に影響されてアナログ・シンセサイザーを自作したこともあった。直川はそもそも、民族楽器でなくとも「普段考えつかないような発想で音を出すっていう仕掛け」が面白いと感じていたとのことで★★★註15★★★、そうした興味関心が発展し、「シンセみたいに『背景』を持たずに様々な音を出す『ブラックボックス』のようなものよりも、その音が出る必然性、文化的背景とか、音を発生させるためだけならば一見不必要に思われる『形』の『不合理な合理性』とか、そういうところが面白くなって」きた結果、直川は、西洋的な発想よりも意外性があるという理由から、民族楽器や創作楽器に関心を持つようになったらしい。演奏家としてではなく展示物を出品する作家として直川がSG展に関わったのは、直川が、音具の音響的側面のみならず形態的側面にも関心を持っていたからだといえるかもしれない★★★註16★★★。

2.民族音楽

上述の通り小さな音具に関心を持っていた直川は、親指ピアノの存在を知り、その形、特に中央が一番低いという音の並びの謎の手掛かりを求め、その演奏方法を習得するために、大学4年時を休学してアフリカへ留学し、その伝統奏法や調律法などを修得した★★★註17★★★。直川がSG展への出品作品を制作するようになったのは、アフリカ留学経験を経て楽器制作の専門性について考えを新たにしたことも大きいだろう。インタビューでは、誰もが楽器をつくって良いということがアフリカで分かった、と語っていた。

3.エレクトロニック・アート・センター

早稲田大学在学中から直川は、高田馬場に上原和夫★★★註18★★★が設立したEACに出入りしていた。EACは、専門的な録音スタジオではなかったが、オープン・リールのテープ・レコーダー数台とシンセサイザーのあるスタジオ兼オフィスのような場所だったらしく、直川はここで制作活動も行なっていた★★★註19★★★。先述したように、EACで直川は吉村弘と出会い、SG展に参加することになった★★★註20★★★。また直川にとってこの場所は、「バシェ(の音響彫刻)」や「サウンド・アート」といった前衛的なアートの最新動向や、同時代のアート関係者に出会う機会でもあったようだ★★★註21★★★。

4.同時代の文脈:新しい音楽学的動向との交錯

最後に、直川が1985年に「音・音楽・子どもの会」というものに参加したことに言及しておきたい。これは1980年代日本における音楽教育学やサウンドスケープ研究など複数の音楽学的動向が交錯したものだったようだが★★★註22★★★、この研究会の例会においてアフリカで集めた楽器を紹介したことは、その後直川が、「こどもの城」の音楽事業部★★★註23★★★などでワークショップを行ったり、作品を展示したりするようになったきっかけとなったらしい。この会に関する詳細な検討は今後の課題だが、直川は、この会と1980年代日本におけるサウンド・アートの動向との結びつきの一事例として言及することができる。

4.まとめにかえて

以上、〈1980年代日本における音具〉をめぐる文脈について考察するために、関根と直川の事例とその文脈をかなり恣意的に単純化して整理した。いうまでもなく、本調査報告で言及したことだけで二人の活動のすべては説明できない。例えば関根は本調査報告の草稿を確認した時に、過去の文脈についてさらに様々な事実に言及しつつ、自身の活動を「本と博物学と科学への指向がたまたま音具に結びついた」ものと形容してくれた。あるいは、直川にしても、例えば、インタビュー時にうかがった大学生時代のジャズ演奏の経験といった事項は本調査報告には組み込めなかった。今後の考察のための素材として活かしたい。

それでも本調査報告は、二人の事例を通じて、〈1980年代日本における音具〉をとりまく複数の文脈を確認したという意味で意義がある。二人に共通する文脈は、音を出す器物への関心(古代楽器の復原制作、音具や民族楽器の制作)、民族音楽への関心(伝統芸能への関心、親指ピアノや口琴演奏の実践)、同時代の文化的動向からの影響(スタジオ200に代表されるような同時代的な文化からの影響、EACや「音・音楽・子どもの会」との関わり)だとまとめられるかもしれない。あるいは、関根は文化史や民俗誌的な関心を入り口に、直川は演奏実践に対する関心を入り口に音具に接近した、といえるかもしれない。いずれにせよ、これらの文脈のさらなる調査を今後の課題としてあげることで、今回の調査報告を終えたい。

参考文献

星野圭郎 1993 『創って表現する音楽学習~音の環境教育の視点から~』 東京:音楽之友社。

岩城正夫、関根秀樹 1983 「古文献に見られる古代発火技術について--主に日本のばあい」『和光大学人文学部紀要』18:103-113。(岩城正夫 2005 『セルフメイドの世界-私が歩んできた道』 東京:群羊社。に収録)

川崎弘二 2009 「上原和夫」 川崎弘二 2009 『日本の電子音楽 増補改訂版』 東京:愛育社:590-607。

小川博司・庄野泰子・田中直子・鳥越けい子(編著) 1986 『波の記譜法』 東京:時事通信社(左記以外の著者:芦川聡、庄野進、瀬尾文彰、泉山中三、若尾裕、鈴木昭男、高野昌昭、氏家啓雄+坪谷ゆかり、松本秋則、高田みどり、江崎健次郎、吉村弘、田中宗隆、星野圭朗)。

関根秀樹 2003(1989) 『新版 民族楽器をつくる―音と楽器のミンゾク学』 東京:創和出版。

―. 2014(2002) 『縄文人になる 縄文式生活技術教本』 ヤマケイ文庫 東京:山と渓谷社。

島崎篤子 2010 「日本の音楽教育における創造的音楽学習の導入とその展開」 『文教大学教育学部紀要』44: 77-91。

直川礼緒 1994 「日本の口琴の源流」 小島美子、藤井知昭(編) 1994 『日本の音の文化』 東京:第一書房:465-484。

―. 2005 『口琴のひびく世界』 日本口琴協会。

Tadagawa, Leo. 1987a. ”The Sound Garden Exhibit in Tokyo.” Experimental Musical Instruments 3.2 (Aug.1987): 4-6.

―. 1987.b ” Tinkololin on the Head.” Experimental Musical Instruments 3.4 (Dec.1987): 18.

1

関根氏も直川氏も、本来的には「音を発するための器物=音具=楽器」と考えている。ただし、両者ともに、音具や民族楽器という言葉はしばしば、西洋芸術音楽の「楽器」ではない〈音を発するための器物〉に対して用いられており、それゆえその言葉にはある種の西洋中心主義的偏向がうかがえる、と批判的である。西洋中心主義的志向の批判と音具の文脈との関連は興味深いが、その考察は今後の課題とする。

2

関根秀樹さんには2015年6月7日(日)に町田の和光大学にて、直川礼緒さんには2015年7月12日(日)に高円寺の「円盤」にて、お忙しいところお時間を頂いて大変興味深いお話をうかがった。

3

岩城正夫は1930年生まれの技術史学者で和光大学名誉教授。古代発火法検定協会理事長。

4

早くも学部在籍中に、古代発火技術に関する論文を岩城との共著で和光大学の紀要に発表している(岩城・関根1983あるいは岩城2005)。

5

インタビューでは、小学生の頃に放送されていた「ふるさとの歌まつり」という番組が日本の伝統芸能文化に与えた影響に関する考察や、東京で民族文化映像研究所(民映研)に出入りするようになり日本の色々な音楽に関心を持った経験についても語られた。民族文化映像研究所とは、姫田忠義が(伊藤碩男、小泉修吉とともに)1976年に創立した、日本の基層文化を記録・研究する事を目指して出発した民間の研究所である。また、関根の父は地域の伝統的な三匹獅子舞や盆踊りの復元に協力した人物だったらしい――ただし、関根がそのことを知ったのは大学入学後だったとのことである――。

6

吉村弘と松本秋則については、大学入学してすぐの頃に表参道で同じ週にあった二人の個展――松本秋則の最初の個展とのこと。「サウンド・オブジェ・コンサート展」なる名称だったとのことだが詳細不明――に行った。それ以来、松本秋則の活動は継続的に見てきたとのことである。

7

高野昌昭とは友人で一緒に水琴窟を作ったこともあるとのこと。また、直川によれば、1986年7月19,20日にスタジオ200で行われた高野昌昭のコンサートの会場で、関根と直川は初めて出会ったとのことである。

8

繁下和雄は1943年生まれの音楽教育学者(元国立音楽大学副学長)。膨大な著作があり、音あそびや楽器作りを音楽教育に導入。

9

郡司すみは楽器学研究者(国立音楽大学名誉教授)。『世界楽器入門:好きな音嫌いな音』(朝日新聞社、1989年)やクルト・ザックス『楽器の精神と生成』の翻訳(2000年)がある。

10

関根自身は、セゾン文化やスタジオ200よりも、同時代のその他の様々な文化から影響を受けたと感じているようだ。同時代の文化勢力図における〈音具〉の位置に関するさらなる考察は今後の課題としたい。

11

直川はSG1の報告を『Experimental Musical Instruments』という雑誌に掲載している。1987年の8月号ではSG1の出品作品を全て紹介しており(Tadagawa1987a)、同年12月号には《あたまの上でちんころりん》を少し詳しく紹介している(Tadagawa1987b)。

この雑誌は1985年から1999年まで発行されたもので、現在はウェブ上で継続中である(http://windworld.com)。直川によれば、この雑誌は、いわゆる音楽の文脈ではなく、音楽と美術の境界上にあるものだった。SG展のために制作した音具をこのような雑誌に紹介したことは、国内/国外の美術/音楽の文脈における音具の位置について考える際の興味深いひとつの事例といえよう。

12

後に、松本秋則らによるパフォーマンス・ユニット「文殊の知恵熱」が、このアイデアを取り入れたパフォーマンスを行っているとのことである。

13

なお、直川は、塚原操ストライプハウス美術館館長や、吉村弘をはじめとするSGの出品者、音楽仲間たちの祝福を受け、この音具の下で結婚披露パーティーを行ったとのことである。

14

南弘明は1934年生まれの作曲家で東京藝術大学名誉教授。東京藝術大学などで多くの作曲家を育てながら作曲活動を行なう。1992年に日本電子音楽協会(JSEM)を設立し、1992年度から2003年度まで初代会長(現・名誉会長)。

15

小学5年生の時に訪れた大阪万博で最初に見に行ったのも、鉄鋼館のバシェ兄弟の音響彫刻だったという。

16

口琴も初めは「小さくて面白い発想の楽器」のひとつとして、大学生時代にモダンジャズ研究会の活動の一環で――直川はピアノ担当――、東北・北海道ツアーを行なった時に出合ったとのことである。

17

親指ピアノの演奏方法を学びたかった直川は、高田馬場の喫茶店にスワヒリ語留学生募集という貼り紙があるのを見つけ、その募集に応じて星野学校というスワヒリ語学校に語学留学したらしい。直川の経歴を探ると驚かされるのは直川のその旺盛な行動力である。このアフリカ留学を行なった理由も「当時は国内では誰も教えてくれそうもなかったので、親指ピアノが習えるところに行こうと思ったんです」とのことだった。

18

上原和夫は1949年生まれの作曲家で大阪芸術大学教授。日本におけるコンピュータ音楽の草分けの一人。1972年に渡米し、ニューヨークを拠点に創作活動を行う。1974年に帰国し、1974年に始めた「インターメディア・ワークショップ」を母体に、1979年にEACを立ち上げる。80年代以降も多くの作品を制作し、世界的に活動している。

19

直川はここで、テープ音楽を制作し、オランダのカセットテープ企画「Audio Child」(1983)や、関西を拠点とする中嶋鴻毅や藤本由紀夫らの「グループ・エム・スクエア」が企画した現代音楽コンサート(1982)などで、作品を発表したという。また、EAC主催の「サウンド・アート・ワークショップ」では、「音・音具」と題したレクチャーも行ったという。

20

吉村弘の環境音楽『GREEN』というLPは、EACを母体とするAIR Recordsからその第一弾として発行された。

21

EACには、CG作家の幸村真佐男、サウンドスケープ研究者の鳥越けい子、映像作家の川口真央、また、鈴木昭男や小杉武久といった一世代上の作家も出入りしていたとのこと。

22

この会は、芦川聡、片山みゆき、坪能由紀子、星野圭郎、若尾裕が発起人となって1981年11月に、日本の音楽教育に創造的音楽学習を導入するための研究会として発足・活動し、マリー・シェーファーやトレヴァー・ウィシャートらを招聘していた(星野1993、島崎2010)。また、この会に関わった人々と、1986年に出版され日本にサウンドスケープという考え方を浸透させるきっかけとなった『波の記譜法』(小川ほか1986)の著者の多くは共通しており、この会は音楽教育学あるいは教科教育という文脈にだけ回収されるものではなかったようだ。

この会への参加を直川自身がどれほど重要視しているかは分からないが――インタビュー時にひとこと言及しただけなので、あまり重要ではなかったのかもしれないが――、この会と80年代の同時代的文脈との関係についてのさらなる調査は今後の課題としたい。

23

ただし、直川が「こどもの城」に関わるようになったきっかけは、「音・音楽・子どもの会」との関係よりも、ガムラン演奏グループと知りあったことの方が大きいとのことである。「こどもの城」については調査報告第3回を参照。そこでとりあげた『音と造形』展は、音楽事業部ではなく造形事業部主催であった。

本研究ノートは、平成27年度科学研究費助成事業・基盤研究C・一般・研究課題名「日本におけるサウンド・アートの成立過程の調査」(課題番号15K02101)の成果の一部である。

画像リスト

画像1

関根秀樹《響天 Planetary Vibration》(1990)

画像2

SG展における関根秀樹のパフォーマンス

画像3

直川礼緒《あたまの上でちんころりん》(1987)

画像4

直川礼緒《かに》(1987)

画像5

SG展における直川礼緒のパフォーマンス