2010年03月 雑誌『音楽芸術』における電子音楽をめぐる二つのレトロ・フューチャー

雑誌『音楽芸術』における電子音楽をめぐる二つのレトロ・フューチャー

‐電子音楽とコンピュータ音楽輸入時の進歩史観の変質?

Two Retro-Futurismus around Electronic Music in the 1954 and 1967 in the Magazine "Ongaku Geijutsu"

- The Progressive View of History about Contemporary Music has changed ? Between the 1950s when Electronic Music was imported, and the 1960s when Computer Music was imported.

(ここで公開している論文たちには校正での訂正が反映されていない部分があり、実際の掲載稿とは若干相違があります。引用などの場合、必ず、公開された原文をご参照ください。)

はじめに

本論は、雑誌『音楽芸術』に掲載された、電子音楽をめぐる二つのレトロ・フューチャー(過去に想像された未来)を比較することを目的とする。この二つのレトロ・フューチャーは、日本に電子音楽あるいは「コンピュータ音楽」が輸入されはじめた時期に、数名の音楽家あるいは評論家によって、20年以上後の「音楽の未来」を想像して書かれたものだ。私は本論で、1954年と1967年に書かれた二つのレトロ・フューチャーでは「音楽の未来」に対する意識が変化していることに注意を促し、すでに60年代には、日本で「現代音楽」を受容する層の間で現代音楽史をめぐる進歩史観が変化していたのではないか、と主張しておきたい。

70年代以降に現代音楽は変質し、いわゆる「前衛の終焉」あるいは「多様式の時代」を迎えることになった、つまり、一つの支配的な音楽様式が次々と入れ替わることで進歩していくという進歩史観的な音楽史は崩壊し、様々な音楽的語法が同時に複数並存するようになった。これは、70年代当時から現在にまで至る、現代音楽史を語る際のクリシェの一つだ(刀根1970;Morgan1991; 日本戦後音楽史研究会 (編)2007a; bなどを参照。)。現代音楽史における進歩史観は、70年代には明確に廃棄され始めたと考えられるだろう。本論で私が主張しておきたいことは、そうした兆しはすでに60年代には見出せる、ということである。本論の枠組みは超えるが、私は、「前衛の終焉」が唱えられ始めた状況が70年代以降に出現したプロセスを精査したいと考えている。本論はそのための準備作業である。

以下では、第一章で電子音楽の、第二章で「コンピュータ音楽」の輸入と定着ついてまとめ、第三章で、その二つの新しい音楽に反応して書かれたレトロ・フューチャーを比較し、最後に第四章で全体を要約する。

本論では50-60年代の日本の「現代音楽」をめぐる状況を網羅的に精査しているわけではない。しかし、雑誌『音楽芸術』に掲載された二つのレトロ・フューチャーは、当時の日本でシリアスな現代音楽を受容していた層の意見をかなりの程度まで協約的に示すものと考えることが出来よう。それゆえ本論では、二つのレトロ・フューチャーを検討することで、50-60年代の日本の「現代音楽」をめぐる傾向の一つを抽出できるのではないかと考える。『音楽芸術』以外の場所における「現代音楽」の検討や、「コンピュータ音楽」以後の状況に関する考察は今後の課題である。

用語について。次章で説明するが、本論では、1950年代前半のドイツを中心として制作された狭義の「電子音楽」に言及する時には、カギ括弧をつけて「電子音楽」と表記する。また、1950年代前半の「電子音楽」と「具体音楽」の双方に言及する時には、括弧をつけずに電子音楽と表記する。さらに、テルミンやエレキギターといった電子楽器・電気楽器を用いる音楽も含め、電子的・電気的手段で制作された音楽一般に言及したい時には、電子音響音楽と表記する。

1.電子音楽の輸入と位置づけ

1.1.電子音楽と具体音楽

日本に電子音楽が輸入された経緯をまとめる前に、「具体音楽」と「電子音楽」について簡単に説明しておく。狭義の「電子音楽」(次に説明する「電子音楽」)、電子音楽(「具体音楽」と「電子音楽」)、電子音響音楽(電子的・電気的手段で制作された音楽一般)は、それぞれ、意味する音楽領域が異なる(順に広い範囲の音楽を指す)。

「具体音楽(ミュジック・コンクレート)」とは、フランス中心で制作された、録音された音を用いて制作された音楽のことである。第二次世界大戦中に、ラジオ局の技師だったピエール・シェフェール(Pierre Schaeffer 1910-1995)が創始し、そこに1949年にピエール・アンリ(Pierre Henri)が参加し、1951年にGRMC (Groupe de Recherche de Musique Concrete)が設立され、活発に展開していったものだ。

対して「(狭義の)電子音楽(エレクトロニッシェ・ムジーク)」とは、西ドイツ中心で制作された、電子的に生成された音響を用いて制作された音楽のことである。1951年にヘルベルト・アイメルト(Herbert Eimert 1897-1972)がケルンの西ドイツ放送局(WDR)に「電子音楽」スタジオを設立し、作品制作を委嘱された作曲家のカールハインツ・シュトックハウゼン(Karlheinz Stockhausen 1928-2007)が、最初の「電子音楽」作品である《習作I》(1953)や《習作II》(1954)を制作した。以後、ケルンをはじめ、50年代を通じて世界各国に設立されていった「電子音楽」スタジオで、多くの作曲家が「電子音楽」作品を制作することになった。

登場当初、(用いる音楽的素材や音楽的理想像の違いから)両者は理念的に対立するものとして区別されていたが、「具体音」と「電子音」の両方を用いたシュトックハウゼン《少年の歌》(1956)以降、理念的な対立あるいは区別はなし崩し的に解消し、両者あわせて(広義の)電子音楽(もしくは電子音響音楽)と呼ばれるようになっていく(詳細はChadabe 1997; Holmes 2002; Manning 2004; 川崎2006; 田中2001等を参照)。

1.2.『音楽芸術』への電子音楽の輸入

では、それらはどのように日本に輸入されたか?

日本で最初に「具体音楽」を制作したのは黛俊郎である。黛は51年にフランスに留学した際に「ミュージック・コンクレート」に遭遇して衝撃を受け、帰国直後、日本文化放送(現文化放送)のスタジオ設備を用いて《ミュージック・コンクレートのための作品 XYZ》(1953)を制作した。これは11月27日に放送された。この放送の後、『音楽芸術』誌上で、「具体音楽」に関する最初のまとまった小特集が組まれた1。1954年3月号の小特集「具象音楽をめぐって」である(土田1954:12.3:90-92;塚谷1954:12.3:92-94;木村1954:12.3:94-95)。とはいえここでは具体的な作例や制作手法はほとんど言及されず、「演奏者の解釈」が介入しない音楽について抽象的な意見が述べられるに過ぎない。多少なりとも「具体音楽」制作の実際(テープの逆回転や早回し等によって音響を加工編集すること)に言及しつつ解説する記事は、1954年8月号に掲載された松本太郎「ピエール・シェッフェルとミュジック・コンクレート」(松本1954: 12.8(8月号):36-39)が最初だろう。典拠が不明で幾つかの事実誤認も見受けられるが、「具体音楽」の「効用」として「演奏者の解釈から起こる問題を排除して、唯一無二の解釈、いわば決定盤を造る可能性」(39)があることが述べられている。

また、日本に初めて本格的に「電子音楽」を紹介したのは諸井誠である。諸井は『音楽芸術』1954年6月号に、ドイツの雑誌『Melos』に書かれた「電子音楽」関連の論文(ロベルト・バイヤーとヘルベルト・アイメルトが書いた論文)を参照しつつ「電子音楽の世界」という記事を執筆している(諸井1954:12.6:40-45)。また、11月号の作曲家紹介の欄で黛俊郎が「具体音楽」について語り(黛・富樫1954:12.11:93-95)、翌1955年1月号では諸井が「電子音楽」について語っている(諸井・富樫1955:13.1:92-95)2。この年に諸井は、日本人として初めて西ドイツ放送局の「電子音楽」スタジオを訪問してシュトックハウゼンらと接触し、帰国後、NHKの「電子音楽」本格第一作とされる《7のヴァリエーション》(1956)を制作した(1956年11月27日放送)3。この作品をめぐり、1957年には「電子音楽」論争(諸井・別宮論争)なるものも生じている。この論争自体は、諸井の《7のヴァリエーション》における数学的な計算方法の間違いを指摘する別宮と、諸井と、そこに巻き込まれた形の平島による、枝葉末節にこだわった感情的な論争で不毛なものだったが、論争が生じる程度には「電子音楽」の存在が認知されていたと考えることができよう4。また、諸井がドイツから帰国する前に、『音楽芸術』1956年4月号(1956:14.4)で「特集 音楽の前衛」が組まれ、「電子音楽」と「具体音楽」に関してかなり詳しい紹介がなされた。『音楽芸術』誌上での「電子音楽」と「具体音楽」の輸入はこの時点で終了したと考えられよう。同年内には、シュトックハウゼン《習作II》の楽譜販売の広告も掲載されるようになった(11月号などに掲載)。制作する側も聴く側もまだその詳細を知らない電子音楽の、日本における黎明期には多くの興味深いトピックがあるが、詳細は川崎2006;田中2001という二つの詳細なモノグラフに譲る。ここでは、遅くとも1956年が終わるまでには、「電子音楽」や「具体音楽」という新しい音楽の存在は日本では認知されていただろうことを確認するに留めておきたい。

1.3.『音楽芸術』における電子音楽の位置づけ

では、当時の日本では、電子音楽はどのような音楽として受容されたのか?本論は、基本的には電子音楽について考察しようとするものである。しかし、日本における電子音楽受容のほとんどは、「具体音楽」ではなく「電子音楽」の受容を通じてなされたと考えることができる(「具体音楽」に関する美的考察はほとんどないからである)。電子音楽は、たいていは「電子音楽」として理解されたのだ。なので、以下、諸井と黛の「電子音楽」理解を検討しておこう。

諸井誠「電子音楽の世界」(諸井1954:12.6:40-45)によれば、「電子音楽」は、音楽の技術的側面においても美学的側面においても「音楽史上の産業革命と呼ばれるにふさわしい転換」(41)であった。

技術的側面における革命とは、20世紀前半の各種電子楽器や電気楽器(テルミン、オンド・マルトノ、トラウトニウム、エレキギター等)の発展に加え、第二次世界大戦後に磁気テープが登場し、テープに録音した音響を操作編集加工できるようになったことを指す。その結果、「電子音楽」においては、「『楽譜 - 再現者 - 音』という三区分をもつ伝統音楽の手工業的生産形態は『電気音響学的記録 – 音』という二区分による電子音楽の機械的生産形態に変わる」(諸井1954:12.6:42:諸井によるバイヤーの引用)。「具体音楽」と「電子音楽」は登場当初から、演奏家が不要な音楽として位置づけられてきた。(「具体音楽」「電子音楽」に言及するほぼ全ての記事で指摘される。)「電子音楽の素材的基礎を従来の音楽から区別する決定的契機は…人間の手を媒介とした音生産方法の制限から音響を解放したこと」(42)にあるのだ。いわゆる「演奏家不要論」である。言い換えると、「電子音楽」は何よりもまず、作曲家の音楽として理解されたのだ。

また、「電子音楽」が美学的側面における革命なのは、「電子音楽」は「歴史的必然性をもつた音楽的発展の新たな担い手」(諸井1954:12.6:44)として位置づけられるからだ。諸井によれば、ワーグナー以降の調性の崩壊、無調音楽や十二音技法の登場といった「音楽上の合理主義的傾向」(43)が推し進められた結果、「既存の音組織が今日限界に達しており、この限界をのり超えるためには組織の根本的変革が果されなければならないことは今や明瞭である。」(44)そして、音組織の根本的変革を行うためには「音組織に固有の音響学的基礎の変革」が必要であり、それを可能とするのが「電子音楽」である。諸井によれば「十二音音楽の考え方を徹底させていくと電子音楽の考え方に行きつく」(43)。しかし「電子音楽」の場合、音と音との関係性だけではなく音素材そのものをゼロから制作することができる。「電子音楽」は、十二音音楽よりも徹底的に、既存の音素材の全面的で徹底的な組織化することが可能な音楽として位置づけられる。それゆえ「電子音楽」は、 徹頭徹尾、「その出現が音楽史の上での歴史的必然性をもつている」(41:同じフレーズが諸井1955:13.1:94にもある)ものとして位置づけられるのである。

1956年4月号「特集 音楽の前衛」でも「電子音楽」は同じ構造下で理解される。黛敏郎「電子音楽の原理」(黛1956:14.4:18-29)では、冒頭から、「電子音楽」が歴史的必然性を伴って登場してきたことが強調される。黛によれば、「電子音楽」とは、まず第一に、音組織を離脱して伝統的形式を離脱しようとした十二音音楽やセリーの原則を継承・発展するもので、音楽構造のみならず楽音構造を構築するところから音楽を創造することを可能とするものだし、第二に、1906年のリー・ド・フォレストによる真空管の発明以降、様々な電子楽器や電子音が登場してきた状況下における「電気音響学的な新らしい生産形態」(19)に相応した音楽である。「電子音楽は、…美学的及び技術的な両側面による時代の要求に従い、充分な歴史的必然性を伴って登場して来たわけなのだ」(19)。

まとめると、電子音楽(「電子音楽」)は、1)演奏家という「媒介者」が不要になる作曲家のための音楽として、2)音楽構造のみならず音構造さえもゼロから制作できるがゆえに合理主義的な傾向を満足させる音楽として、3)それゆえ歴史的必然性の帰結として登場した音楽として 位置づけられたと言えよう。電子音楽(「電子音楽」)はあくまでも「作曲家の音楽」として、特にその形式的な音響操作の可能性に価値を見出されて、受容されたのだ5

2.「コンピュータ音楽」の輸入と位置づけ

2.1.「コンピュータ音楽」

60年代半ばに輸入され、電子音楽(「電子音楽」)を引き継ぐものとしてこの進歩史観の中に位置づけられようとしたのが「コンピュータ音楽」だったと言えよう。日本にコンピュータ音楽が輸入された経緯を確認する前に、輸入された当時の「コンピュータ音楽」について簡単に概観しておきたい。

まず、本論で「コンピュータ音楽」という言葉で念頭に置いているものについて説明しておこう。それは、大型で高価な汎用型メインフレーム・コンピュータを利用して50-60年代に制作された音楽のことである。この時期には、「コンピュータ音楽」を制作するためには、情報を入出力するためにバッチ処理プロセス(パンチカードを用いた入出力)を経由する必要があった。それゆえ、即時的あるいは直接的にコンピュータを操作してインタラクティヴな関係性を築くことは不可能だった。このような意味での「コンピュータ音楽」は、コンピュータを、1)作曲のために必要な計算を行う作曲補助ツールとして、あるいは 2)(部分的であっても)自動的に作曲させる自動作曲ツールとして、そして 3)音響生成の段階からコンピュータに行わせる音響生成加工ツール(そして作り出した音響を構造化する、音楽構造構築ツール)として、用いる音楽だと整理できよう。つまり演奏段階にリアルタイムに関与することは不可能だった。この時期の「コンピュータ音楽」に言及するときには、カギ括弧をつけて「コンピュータ音楽」と表記する。

最初に「コンピュータ音楽」を制作したのは、作曲家のクセナキス(Iannis Xenakis 1922-2001)である。彼は《メタスタシス》(1954)におけるグリッサンドの速度変化を計算するために、作曲補助ツールとしてコンピュータを利用した。また、最初に自動作曲ツールとしてコンピュータを利用したのは、イリノイ大学のレジャーレン・ヒラー(Lejaren Hiller 1924-1994)(とレオナルド・アイザックソン(Leonard Isaacson))である。彼らは、イリノイ大学のコンピュータ、イリアックI(ILLIAC I)というコンピュータを作曲のための計算処理に用いて、そのデータを再構成して《弦楽四重奏のためのイリアック組曲》(1957)を制作した。データの再構成にどの程度人為的な選択が関与したかは不明だし、最終的には人間が演奏する楽曲だが、初めてコンピュータを自動作曲ツールとして用いた成果である(徳丸1966:24.11:20-23)。

そして1957年に初めて、ベル研究所のマックス・マシューズ(とジョン・ピアース)が、プログラミング言語Music Iを用いて、コンピュータによる音響合成に成功した6。その後、60年代半ばまで、「コンピュータ音楽」の歴史はベル研究所を中心に展開していった。マシューズは、多くの人々に利用された、音響合成や音楽制作のためのプログラミング言語(MusicNシリーズ)を発表した。また、ジェイムズ・テニー(James Tenny 1934-2006)やジャン・クロード・リセ(Jean-Claude Risset 1938-)といった、後のコンピュータ音楽において重要な音楽家たちの多くが、ベル研究所に滞在して「コンピュータ音楽」を制作することになった。(コンピュータ音楽黎明期についてはDunn 1992/1996; Chadabe 1997; Holmes 2002; Manning2004; 松平1995などを参照)7

2.2.『音楽芸術』における「コンピュータ音楽」の輸入と位置づけ

さて、日本で「コンピュータ音楽」が制作され始めるのは、1967年以降である(日本戦後現代音楽史研究会2007a:493)。クセナキスに師事した後に66年にアメリカに居を移して活動していた高橋悠治や、60年代後半にコンピュータ音楽について積極的に発言していた江崎健次郎などを待たねばならない。しかし電子音楽とは違って「コンピュータ音楽」では、実作品より先にその名称や概念が輸入された。「コンピュータ音楽」に関するある程度まとまった解説が『音楽芸術』に最初に現れたのは、1966年11月号「特集 最近の世界の作曲界」(24.11)である8

この特集は、同時代の「現代音楽」の概観(柴田南雄)と、幾つかの技法の定着と発展の解説-十二音音楽とセリエリズム(戸田邦雄)、「電子音楽」(諸井誠)、不確定性の音楽(一柳慧)、そして「コンピュータ音楽」(徳丸吉彦)-があり、最後にもう一度、同時代の「現代音楽」を展望する記事(篠原真)が置かれている9。「コンピュータ音楽」に言及する、柴田と徳丸と篠原の記事を見ておこう。

柴田南雄「現代音楽の展望」(柴田1966:24.11:6-9)で、柴田は、かつて自分は、精緻な感覚の表現は「電子音楽」において、演奏の喜びは即興性において、展開されていくと考えていたと述べている(おそらくは紙幅が理由だろうが、詳しい説明はない)。そして柴田は、その精緻な感覚の表現は「今日では電子音楽より可能性の大きいコンピューター」(7)においてなされるようになったと考えている。というのも、作曲補助ツールとしてであれ、音響生成加工ツールとしてであれ、コンピュータを用いた作曲は「作曲家が漠然と予感しているイメージ、あるいは従来の技法による様式化によって歪曲を余儀なくされる楽想といったものが、これ[コンピュータ]によってより的確に把握される可能性が開けるのではなかろうか」(9)と期待されるからだ。

また徳丸吉彦「コンピューターの音楽」(徳丸1966:24.11:20-23)では、まず初めに、「コンピュータ音楽」が「電子計算機を用いて作曲した音楽の総称」(20)と定義される。ここでは「コンピュータ音楽」は、最初は作曲の補助ツールとして用いられていたので機械的な発音装置を用いる「電子音楽」とは区別されていたが「しかし、今日ではこの区別は事実上消滅して、むしろ両者を結びつける努力が積極的に行われている」(20)と説明される。この記事では、リズムと音量変化を確率的に変化させたり、(調性がどの程度維持されるべきか等々の決定のために)乱数に基づいて音高を調整したりするために、電子計算機の計算能力を利用する作品を紹介している。つまり、基本的に、コンピュータを作曲補助ツールとして用いる「コンピュータ音楽」だけが紹介されている。「コンピュータ音楽」は、あくまでも作曲家のための音楽として位置づけられるのだ。それゆえ、20世紀前半のテルミンやオンド・マルトノなどの電子楽器や、磁気テープ上に録音する音楽、あるいはRCAシンセサイザーを用いるコロンビア大学のミルトン・バビットの音楽10は「予備段階」に過ぎないとされる。

また、篠原真「新音楽の諸傾向」(篠原1966:24.11:24-27)では、「コンピュータ音楽」は、「電子音楽」よりも徹底的にセリエリズム的な思考を革新するものとして期待されている。というのも「コンピューターを使用するためにはプログラムがコンピューターの論理によって完全に正しく書かれていなければならず、したがって、作曲の過程そのものがいっそう徹底的に客観化合理化されなければならないからである。」(24)コンピュータを「楽器音楽の作曲におけるパラメーターの構成計算に用い」ることで、「既知、未知の、あらゆる音の現象を合成するという未来への方向」(24)が開かれることが期待されるのだ。篠原は、徹頭徹尾(多少の誤解と偏向を含みながら)、現代音楽をトータル・セリエリズムとその展開として捉えている。例えば、篠原によれば「最近の新音楽はセリエルと不確定の二極端とその間の種々の程度の総合の上に成り立っている」(25)。とはいえ、篠原によれば、セリエル音楽と正反対のものとして浸透してきたケージ的な不確定性の音楽も「セリエルの影響で少しずつ組織化されてゆく傾向があるように思われる」(25)。少なくとも篠原は、「コンピュータ音楽」を、作曲家の音楽として、そして、十二音音楽、トータル・セリエリズム、電子音楽に続く、合理主義的な思考に基づくセリエル音楽の最先端の動向として理解しているのだ。

まとめておこう。

1950年代から60年代にかけて、「コンピュータ音楽」とは、1.作曲補助ツール 2.自動作曲ツール 3.音響生成加工ツール(そして、作り出した音響を構造化する音楽構造構築ツール) としてコンピュータを用いる音楽だった。「コンピュータ音楽」が日本(『音楽芸術』)に輸入された当初は、特にその1番目の機能が強調されたと言えるだろう。コンピュータは、あくまでも作曲家が作曲するための補助ツールであり、「コンピュータ音楽」は、十二音音楽、トータル・セリエリズム、電子音楽へと発展的に進化する合理主義的な作曲技法の進歩史観の中で最先端の動向として位置づけられたのだ。

このような位置づけが行われた理由の一つは、当時は、コンピュータを利用して音楽を制作する際、合成される音響構造や音楽構造を予め詳細に決定しておくことができたからだけではなく、予め詳細に決定して「おかねばならなかったから」でもあるのではないだろうか?つまり、「コンピュータ音楽」は、音響のあらゆるパラメーターをコントロールするというセリエリズムの理想を可能とするだけではなく、現実に必要な作業として正当化してくれるものだったからではないだろうか?さらに言えば、初期の「コンピュータ音楽」と合理主義的な作曲技法の進歩史観は、お互いの正当性を担保しあう関係にあったのではないか?詳しい検証は今後の課題である。とはいえ、この推測の是非に関わらず、「コンピュータ音楽」を進歩史観の中で最先端に位置づけようとする傾向があったことは確かである。

3.二つのレトロ・フューチャー:演奏家不要論から作曲家不要論へ

以上のように、電子音楽も「コンピュータ音楽」も、登場当初は進歩史観に基づく現代音楽史の「歴史的必然性」の帰結として位置づけられたと言えよう。以下では、この二つの新しい音楽に対する同時代の反応の一つとして、それぞれ1954年と1967年11に『音楽芸術』に掲載された、二つのレトロ・フューチャーを比較する。二つは、必ずしも互いに呼応するものとして企画されたわけではないし、電子音楽あるいは「コンピュータ音楽」が輸入された時期とそれぞれのレトロ・フューチャーが書かれた時期との、時間的間隔も異なる。私が二つを比較するのは、これらは新音楽に対する当時の反応の一傾向を示していると考えるからである。二つを比較することで、私は、遅くとも「コンピュータ音楽」が輸入された頃には、現代音楽史を駆動していた進歩史観は変質しつつあったのではないか、と主張したい。

3.1.1954年:電子音楽の「未来」

電子音楽に反応して夢見られた「未来」は、1954年に30年後を想像したものである12。それらは共通して「演奏家を必要としない音楽」(中島1954:12.12:11)や「演奏者を前提としない音楽」(戸田1954:12.12.:19)の登場を予想する。それは、(テレビ・ラジオ・レコード等が浸透した)マスメディア社会や音響メディア(音楽制作に関わる電子音響機器)が進化した帰結として登場すると予測される。このとき、「具体音楽」や「電子音楽」は、来たるべきメディア社会の前兆もしくは端緒として言及される。しかしそれらは、演奏者が不要な音楽を予期しつつも、(具体的な詳細は不明な場合が多いが)ある種の人間的なものに対する信頼感を表明するという共通点を持っているように思われる。

例えば中島健蔵「三十年後の芸術」(中島1954: 12.12: 8-13)では、「楽器の革命」(11)が音楽のあり方を変化させると想像される。中島は、どうやら今日の鍵盤付シンセサイザーとシーケンサーを合わせたような楽器(演奏を自動的に記録し、記録された演奏に後から自由自在に様々なニュアンスを付加できる「自動ピアノ」の進化版のような装置)が登場することで、作曲や演奏の理論的な訓練なしに音楽作品を作れるようになる状況を予想している。「…どんな楽器の音でも、進歩した電気楽器によつて、音を作り、音を記録し、音を再生することができ、それを組み合わせることができるようになる。当然、これまでの楽器では出せなかつたような音も出せる。しかも、その録音は、再生機によつて、どんな範囲にでも伝えることができるのである」(12)。「具体音楽」のように音を組み合わせることで音楽を作り、「電子音楽」のようにどんな音でもゼロから作り出すという作業を、面倒な磁気テープ編集作業ではなく「楽器」を演奏するという簡便な作業で実現し、しかもそれらを後から簡単に編集できる音楽。これが中島の未来予想図の中では最も極端に変化する音楽の姿である。音楽の主流はそれほど変わらないと予想される。中島の未来予想図は、最後に、技術の進化に伴い音楽芸術は多様化することを主張して終わる。とはいえ、詳細や根拠は述べられていないが「動かしがたいのは、「人間」の感受性」であり、「感覚その[もの]である」(12)。最終的に中島は、音楽が多様化して変化するとしても、その根底にはある種の人間的なものに対する信頼を告白して、そのレトロ・フューチャーを終える。

また、戸田邦雄「一九八四年の音楽 - 作家論を中心に - 」(戸田1954: 12.12: 14-25)にも同様の構造が見出される。これは、1985年5月にブラジルの作曲家カルロ・デ・ウソニーニ氏が行った講演の記録という設定だが、副題は内容とは無関係で作家論は皆無である。ウソニーニ氏によれば、過去三十年の間に、マスメディア社会の成熟のせいで自ら音楽を演奏したり演奏会で生演奏を楽しむといった「従来の意味での音楽の根源」(17)が枯渇するという危機が生じた。しかし自動ピアノの原理を応用した「ソノロ(フォーン)」という音響メディア(音楽制作に関わる電子音響機器)がその危機を解消した13。「ソノロ」とは、方眼紙の目盛りに点や線を記入することで一切のニュアンスを作曲家の意のままに指定し機械的に実現できる音楽制作システムのことである。「ソノロ」は、第一に、テクノロジーと人間主体との乖離を考える必要がないほど簡単に扱えるテクノロジーだったし、また第二に、「ソノロ」のおかげであらゆる演奏を機械的に実現できるようになったおかげで、逆に、(楽器演奏について機械と競争する負担がなくなったので)人は楽器を伸び伸びと演奏して楽しめるようになった。戸田によれば、「音楽の本質」とは「時間の中に自らを棄投(アツブヴェルフェン)し・形成(アウスビルデン)してゆく営み」(20)である。戸田は、演奏に音楽の哲学的本質を見出す音楽美学的思考についてほとんど説明していないが、演奏とは時間の流れの中で音を発していく行動であり、それゆえ「人生あるいは人間の生き方そのものの抽象化・客観化」(20)であり、それゆえ、演奏とは人間活動にとって必須の本質的な行為である、と解釈しているようだ。戸田のレトロ・フューチャーも、結局は、演奏という「原始時代からもっていた本源的な喜び」(20-21)の復活が祝われているのである。戸田の主張の是非はともかく、ここでも、演奏家が不要な音楽の到来は予期されつつ、ある種の人間的なもの(ここでは「演奏」)に対する信頼感が表明されていることが確認できよう14

3.2.1967年:「コンピュータ音楽」の「未来」

「コンピュータ音楽」に反応して夢見られた「未来」は、1967年に20年後を想像したものである。それらに共通する特徴は、ある種の危機感を表明していることではないかと思う。それらは、いわば希望溢れる未来観ではなく終末観を伴う悲観的な未来観を語っており、「電子音楽」の「未来」で述べられていたような無邪気な人間賛歌は姿を消している。二つの事例に言及しておきたい。一つは『音楽芸術』1967年8月号に掲載された江崎健次郎「Music by elec. computer & brain 1987」(江崎1967:25.8:54-57)で、これは、1987年の未来から20年前(=1967年)のことを回想するレトロ・フューチャーである。もう一つは、『音楽芸術』1967年12月号「特集 音楽の未来」の記事の一つ、石井真木「怪獣コムピューターとの対決」(石井1967:25.12:14-17)である。

前者は、1968年夏に突如失踪した音楽界の寵児としてもてはやされていた音楽家スミス氏が、1987年に再び人前に姿を現した時に見た音楽界を描くという設定である。

スミス氏が失踪した後の世界では、コンピュータが進化して電子頭脳(「ブレイン Electronic Brain」)が作る作曲と演奏が発達していた。コンピュータは人間の演奏家以上の能力で完璧に演奏できたので、この世界で「人間に残された唯一の特権」は、人間の演奏家の「ミステイク」だけだと新聞記事に書かれるくらい、人間の演奏は珍しいものとなっていた15。また、コンピュータは人間以上の能力で作曲できた。テレビ番組のBGMや効果音なら、コンピュータは、視聴者の希望や批判や脳波といったデータを検討することで、自動的に、既存の音楽から最適のものを選択したりゼロから制作できた。また、コンピュータはシンフォニー音楽も作曲できた。「音楽のハートの問題」は「人間のハートを扱う脳細胞と同等以上の質・量を具えたコンパクト・タイプの記憶装置」が発明されたので解決され、「音楽の個性とは癖であると断定」されたので、好みの個性を入力すれば、コンピュータは個性的な作曲ができるようになっていたからだ(江崎1967:25.8:56)。

コンピュータは「作曲・演奏ともに人間の能力が及ばないもの」(江崎1967:25.8:56)を実現したので、70年代後半には「コンピューター恐慌」が起こり人間の作曲家と演奏家は失業した。スミス氏の描写は、スミス氏が失踪直前に「コンピュータ音楽」を知り、ベル研究所のマッソー博士(マックス・マシューズか?)にインタヴューを行った時の回想で終わっている。スミス氏は、インタヴュー前の予想以上に「コンピュータ音楽」が人間の演奏能力に近づいていること(スミス氏は、コンピュータ合成と人間が演奏したトランペット音を区別できなかった。)に驚いたが、まだ数十年は人間の演奏にとって代わるものではなかろうと推測していた。最後に江崎は、このフィクションが実現されるかどうかは断定できないが「コンピュータの進歩の速度は予想の二倍速いという事実」(57)を述べて、このエッセイを結んでいる。

また後者の石井の文章は、ブル事務計算器(フランス)技術顧問、IBM研究所顧問、ケンブリッジ大学数学研究所長の見解を参考にした20年後の予想図で、単なる空想ではないと断られているが、(現在の視点からは空想的な)未来予想図ではあるし、根拠や典拠を示してあるアカデミックな文章ではなく、かなり推測が入り混じったものである。

ここでは、コンピュータの小型化、高性能化、インターフェースの改善(音声、図形、文字によるコンピュータの操作・対話)、知能の獲得、等々が予想され、過去の全ての種類の音楽が簡単に作れるようになること、それらの変奏、変形、さらには未知の音楽の創造も可能になることが予想されている。その結果、石井の予測では、1987年には「ショッキングな怪獣」としての「コムピューター」が暴れまわっており、「それまでの伝統的遺産をすべて飲み尽くし、多くの作曲家、演奏家を餌食にしてつぎつぎと失業者の群に追いこんでいく」(石井1967:25.12:14-15)。石井の考えでは、電子音楽が登場した頃に騒がれた「演奏家不用論」は、「コンピュータ音楽」にこそあてはまるものだ。

とはいえ石井は、いくら「知能を持った」計算機とはいえ「本当の意味での創造性、精神性」を持つことは不可能だから、その観点から考えれば、将来的にも、人間が作るという意味での「真の(音楽)芸術作品は永遠」(石井1967:25.12:15)だと述べる。石井は、江崎とは違違い、コンピュータは人間が作る「真の(音楽)芸術作品」(15)は作れないと考えているようだ(その理由は述べられていないが)。

しかし、である。石井は、「真の(音楽)芸術作品は永遠」(石井1967:25.12:17)かもしれないが、それは「あくまでも音楽芸術そのものの存在が前提」(17)だと述べる。石井が懸念することは、コンピュータが社会そのものを大きく変化させてしまうような環境下では「「音楽芸術」そのものが危機の対象」(17)になることである。石井は、コンピュータを介した音楽が氾濫することで、制作者も消費者も音楽が大量に氾濫する一種の混乱状態の中で、芸術作品に対する鑑賞眼を低下させてしまうだろうと予想している。最後に石井は「音楽が現代的、創造的な意味において芸術であり得るか」(17)どうかという疑念を提出して、この短いエッセイを終えている。

3.3.「信頼感」から「危機感」の表明へ

「コンピュータ音楽」をめぐるレトロ・フューチャーは、いずれも、コンピュータを過大評価した未来予想である16、。しかしこのレトロ・フューチャーは、60年代後半にコンピュータ音楽に対して抱かれていたファンタジーの一傾向を示唆するものだろう。

これらに共通するのは、「コンピュータ音楽」が、電子音楽以上に徹底的に、人間(作曲家と演奏家)の役割を大幅に削減(ないしは削除)するという予想である。いずれも、コンピュータは過去のあらゆる種類の音楽も未知の新しい音楽を作ることも可能になると予想している17。つまり、演奏家のみならず作曲家が不要となる事態が予測される。電子音楽の「未来」では、演奏家が失業することは予想されても、作曲家まで失業することは全く予測されていなかったのとは対照的だ。

また、コンピュータ音楽をめぐるレトロ・フューチャーのもう一つの共通点は、いずれも「危機感」を表明していることだろう。江崎は、コンピュータが人間の作曲家と演奏家に取って代わるかもしれないという危機感を表明している。石井は、人間が作る「真の(音楽)芸術作品」(石井1967:25.12:15)はコンピュータには作れないと(理由は不明ながら)断言するが、しかし、「コンピュータ音楽」が増えても音楽芸術そのものが存続し続けるか否かは不明だという危機感を表明している。これは、電子音楽をめぐるレトロ・フューチャーでは、(その内実は不明ながらも)ある種の人間的なものに対する信頼感が表明されていたのとは対照的である。60年代後半に「コンピュータ音楽」に対して抱かれていたファンタジーからは、50年代には表明されていた無邪気な人間賛歌が姿を消し、希望溢れる未来観が終末観を伴う悲観的なものに変わっているのだ。

4.おわりにかえて:進歩史観の変質?

ここまでの考察を簡単にまとめておく。

電子音楽も「コンピュータ音楽」も、登場当初は、西洋芸術音楽史における合理主義的な作曲技法の歴史的な展開の必然的な帰結として、その進歩史観の最先端に位置づけられた。というのも、それらは、音楽構造のみならず音響構造さえも、ゼロから論理的に構築できる音楽だったからだ。

だからこそ電子音楽に関しては演奏家不要論が唱えられた。演奏家は演奏時に独自の解釈を盛り込む音楽家だとすれば、作曲家にとって演奏家とは、自分が思い描く理想の音を捻じ曲げて聴き手に届ける邪魔者である。したがって、作曲家の思い描く音を機械的に忠実に聴き手に届けることができる電子音楽は、作曲家の理想を実現する音楽だったのだ。電子音楽とは、演奏家は不要になるかもしれないが、作曲家にとっては、表現活動を展開していく新しい夢の場所に見えたはずである(あるいは、過度に専門的な演奏能力は不要になるのだから、より直裁に演奏活動そのものに集中できるがゆえに、「音楽の本質」のようなものに接近できる可能性を与えてくれるものだった)。

「コンピュータ音楽」についても同じ構造を見出すことができる。「コンピュータ音楽」は、あくまでも作曲家のための音楽だった。しかし、1967年に想像されたレトロ・フューチャーに見られるように、「コンピュータ音楽」は、同時代の人々に対してある種の危機感を感じさせていたことも指摘できるだろう。

それは、演奏家のみならず作曲家さえも不要になるかもしれないという危機感であり、さらには、音楽芸術の存続をも危ぶむ危機感である。「コンピュータ音楽」が登場した当初に表明されたレトロ・フューチャーには、電子音楽が登場した時に表明されていたような無邪気な人間賛歌は影を潜めている。十二音音楽→トータル・セリエリズム→電子音楽→「コンピュータ音楽」と展開してきた進歩史観は、コンピュータ音楽が登場するに至り、自らが終焉するかもしれない、という危機感を表明するに至ったのだと言えよう。

私は、この危機感の表明の中に、現代音楽史における進歩史観の変質を読み取れるのではないかと考えている。「コンピュータ音楽」が輸入された時期、進歩史観は変質しつつあったのではないか。傍証として、60年代半ばの日本では、セリエリズムに対する熱狂的/盲目的信仰が冷却化しつつあったこと18をあげることもできよう。あるいは、「電子音楽」を輸入した第一人者の諸井誠も、60年代半ばから、セリエリズムや「電子音楽」から距離を取り始めていたことをあげることもできよう19。とはいえ、本論では狭い領域を検討できたに過ぎない。私は、『音楽芸術』における電子音楽と「コンピュータ音楽」の受容プロセスを概観し、それぞれが導入された時期に想像されたレトロ・フューチャーを比較できたに過ぎない。『音楽芸術』以外の場所での受容状況や、それぞれが導入された直後だけではなくある程度一般化した後の状況を調査する必要もある。でなければ進歩史観の変質という事態を示すことはできまい。しかしそれらは今後の課題である(この課題への応答のひとつが中川2010である)。

最終的に本論で明確に主張できることは次のことである。1954年と1967年のレトロ・フューチャーの比較から、「コンピュータ音楽」が導入された時期に、一方向的に進化し続ける進歩史観は何らかの点で変質しつつあったことが見出されるのではないか、ということである。現代音楽史をめぐる進歩史観が変質した時期を分節すること、これは、70年代以降に「前衛の終焉」が唱えられ始めた状況が出現するプロセスを精査するためには必要な道程である。その意味で、本論は、今後の調査に必要な予備調査としての役割を十分達成した。考察すべき事柄は多いが、現代音楽史の展開における一つの変節点を見出したことを成果として、本論はここで終えておきたい。

参考文献

雑誌『音楽芸術』の記事

著者姓_年代:巻号(x月号):ページ数

と記す。例えば

一柳慧「ライヴ・エレクトロニック・ミュージックの可能性」 『音楽芸術 特集 現代音楽とエレクトロニクス』 28.13(1970年12月号):38-41。

一柳1970:23.13(12月号):38-41

を指す。

その他

Chadabe, Joel. 1997. Electric Sound: the Past and Promise of Electronic Music. New Jersey: Prentice-Hall, Inc.

Dunn, David. 1992/1996. "A History of Electronic Music Pioneers." Reprinted in: Kostelanetz, Richard, Joseph Darby, and Matthew Santa, eds. 1996. Classic Essays On Twentieth-Century Music: a continuing symposium. New York: Schirmer Books: 87-123.

Holmes, Thomas B. 2002. Electronic and Experimental Music. 2nd editioin. New York: Routledge.

川崎弘二 2006 『日本の電子音楽』大谷能生(協力) 東京:愛育社。

Manning, Peter. 2004. Electronic and Computer Music. Revised and Expanded Edition. New York: Oxford University Press.

Morgan, Robert P. 1991. Twentieth-century music: a history of musical style in modern Europe and America. New York: W.W.Norton & Company, Inc.

松平頼暁 1995 『現代音楽のパサージュ―20・5世紀の音楽(増補版)』 東京:青土社。(松平頼暁 1982 『20・5世紀の音楽』 東京:青土社の改訂版)

中川克志 2010 「雑誌『音楽芸術』における電子音楽の複数化―「ライヴ・エレクトロニクス」受容をめぐって」 京都造形芸術大学『GENESIS』14(2010年10月刊行予定)。

日本戦後音楽史研究会 (編) 2007a 『日本戦後音楽史 上 1945-1973 戦後から前衛の時代へ』 東京:平凡社。

---. 2007b 『日本戦後音楽史 下 1973-2000 前衛の終焉から21世紀の響きへ』 東京:平凡社。

田中雄二 2001 『電子音楽in JAPAN』 東京:アスペクト出版社。

刀根康尚 1970 『現代芸術の位相 芸術は思想たりうるか』 東京:田畑書店。

1ちなみに、「具体音楽」という言葉が初めて『音楽芸術』に紹介されたのは、おそらく、『音楽芸術』1953年11月号における松本太郎「現代フランス楽壇と作曲家」(松本1953:11.11:12-15)という記事においてである。「ミュジック・コンクレット」という「録音された幾つかの音」を磁気テープ上で組み合わせて録音する作曲方法が言及されている。しかしそれ以上の詳しい説明はない。

21955年には他にあまり電子音楽関連の記事はない。3月号に「[現代音楽の潮流] ケルン放送局における電子音楽の近況」(S1955: 13.3: 88-89)なるニュースがあるのが散見される程度である。

3正確には、NHKで制作された最初の日本の電子音楽は、諸井の在欧中、1954年に、諸井が準備を進めていたNHKで、黛敏郎が制作した《素数の比系列による正弦波の音楽》《素数の比系列による変調波の音楽》《鋸歯状波と矩形波によるインヴェンション》である。これらの作品は12月27日に放送された。日本初の電子音楽の放送である。

4電子音楽論争(《7のヴァリエーション》論争、諸井・別宮論争)について。

『音楽芸術』15.7-11(1957年)で行われた論争。半ば感情的で枝葉末節にこだわった論争で、実りあるものだっとは言い難いが、「電子音楽」の認知状況(是非はともかく)を示すものではあろう。以下、データとして、書誌情報のみ記しておく。

電子音楽論争

平島正郎 1957 「演奏会評」 『音楽芸術』 15.7:118-126。

諸井誠 1957 「電子音楽 ”7のヴァリエーション”を中心に」 『音楽芸術』 15.8:91-111。

別宮貞夫 1957 「電子音楽についての疑問」 『音楽芸術』 15.9:70-73。

諸井誠 1957 「そして それから また -「七のヴァリエーション」をめぐって-」 『音楽芸術』 15.10:109-115。

別宮貞夫 1957 「続・電子音楽についての疑問」 『音楽芸術』 15.11:67-71。

平島正郎 1957 「あげあしとりとは、とんでもない」 『音楽芸術』 15.11:72-75。

電子音楽論争回顧

吉田秀和 1960 「電子音楽論争」 『芸術新潮』11.10(1960年10月号):120-124。

諸井誠 1964 「電子音楽 NHK電子音楽スタジオの問題を中心に」 『音楽芸術』22.2(1964年1月臨時増刊): 252-256。

丹波正明 1964 「戦後楽壇論争史2-3 《七のヴァリエーション》論争1-2」 『音楽芸術』22.7;22.8:34-37; 26-29。

あるいは

田中雄二 2001 『電子音楽in JAPAN』 東京:アスペクト出版社:77。

川崎弘二 2006 『日本の電子音楽』大谷能生(協力) 東京:愛育社:322-323。

5これは、日本では、「具体音楽」ではなく「電子音楽」を通じて電子音楽が受容された原因の一つだろう。「具体音楽」は、音構造をゼロから制作せず音楽構造を論理的に組織化できず、合理主義的な傾向が徹底できないので、「電子音楽」よりも低く評価されたのだ。

62008年6月17日付けのイギリスBBCNewsオンライン版の記事によると、1951年にマンチェスター大学のコンピュータが演奏した「最古のコンピュータ音楽」が存在するらしい。詳細も典拠も不明なので検証できない。例えこの記事が事実だとしても、このマンチェスター大学のコンピュータ音楽の系譜(その有無も不明だが)が同時代的な影響力は持っていなかったことは確かである。

(http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/7458479.stm)(2010年2月9日確認)

7当時のコンピュータ音楽はどのようなものだったのか?例えば、テニーがベル研究所で最初に制作した作品《アナログ第一番》(1961)は、風音のようなノイズが、無限音階のように際限なくその音高を上昇させ続け、そして音量を下げていく作品である。これはテニーが、ホランド・トンネル(Holland Tunnel)を通ってNYのマンハッタンからニュー・ジャージーに通勤していた時に、トンネル内部の車の音や空気の音を聴いている時に思いついた作品である。テニーは、《アナログ第一番》(1961)のために細部だけを微分的に集中して聴き続けられるような「ノイズ」を作った。そのために彼は、まずノイズを生成するプログラムを作り、次に作品全体の形式を設計し、そして乱数表を用いて音響や音楽構造の細部を決定する必要があった。そして初めて、実際に音響を合成するようコンピュータにパンチカードで指示できたのだ(Chadabe1997: 109-110)。

8『音楽芸術』誌上における「コンピュータ音楽」に言及する記事の初出は、おそらく1963年9月号「海外の批評から」欄である。ここで植村耕三は、1963年のダルムシュタット現代音楽講習会でイリノイ大学のレジャーレン・ヒラーが<情報理論と音楽><計算機音楽の最近の進歩>について講演を行ったというニュースを報告している(植村1963:21.9):34-35, 74)。そこでは「とくに計算機の補助によつてのみ作曲できるような音楽」(35)について語られたとあるが、あまり詳しい説明はない。

また、調査できた限りでは、1965年に「コンピュータ音楽」に言及した記事は一つしかなかった。1965年9月号「松下真一氏のヨーロッパ便り」である。松下は、当時ストックホルムにいた高橋悠治と会話し、高橋が「computer music」についてペーパーを書いて近日中に講演発表を行うというニュースを報告しているが、具体的な説明は全くない(松下1965:23.9:54-55)。

9以下の6つの記事である。

柴田南雄「現代音楽の展望」(柴田1966:24.11:6-9)

戸田邦雄「十二音とセリー」(戸田1966:24.11:10-13)

諸井誠「電子音楽 技法の定着と発展」(諸井1966:24.11:14-16)

一柳慧「不確定性の音楽 技法の定着と発展」(一柳1966:24.11:17-19)

徳丸吉彦「コンピューターの音楽」(徳丸1966:24.11:20-23)

篠原真「新音楽の諸傾向」(篠原1966:24.11:24-27)

10正確には、ミルトン・バビットが用いたRCAシンセサイザーにはまだ鍵盤がつけられていないので、音響を合成して音楽構造を構築するためにはパンチカードで指示する必要があった。それゆえ、アメリカのトータル・セリエリスト、バビットのシンセサイザー音楽を、コンピュータ音楽の予備段階もしくは「電子楽器」を用いて演奏した音楽として理解するのは誤りだろう。

111954年は、諸井誠が「電子音楽」を初めて紹介してまだ半年程度で、『音楽芸術』1956年4月号(1956:14.4)(「特集 音楽の前衛」)で詳しい紹介がなされる前に書かれたものである。それゆえ1954年のレトロ・フューチャーでは、電子的な音響生産テクノロジーを用いた音楽として言及される電子音楽は、「電子音楽」よりも「具体音楽」が多い(が、「電子音楽」として理解=誤解されている)。

また、1967年は、「コンピュータ音楽」に関するある程度まとまった解説が『音楽芸術』1966年11月号(1966:24.11)(「特集 最近の世界の作曲界」)でなされた後である。ただし、1967年の時点では、具体的なコンピュータ音楽に関する分析はほとんどない。

12次の四つの記事である。

中島健蔵「三十年後の芸術」(中島1954: 12.12: 8-13)

戸田邦雄「一九八四年の音楽 - 作家論を中心に - 」(戸田1954: 12.12: 14-25)

新俊介「パンドラの箱 - 一九五四年から一九八四年の音楽 - 」(新1954: 12.12: 25-31)

ドナルド・リチー「今日から観た未来の音楽 - 一九八五年に於ける音楽の状態 - 」(リチー1955: 13.1: 35-46)

リチー1955:13.1のみ1955年1月号に掲載されているが、記事内容から判断して、他の三篇と同じ1954年12月号に掲載されるべきだったものが一号遅れて掲載された、と判断した。

13「ソノロが一番重要なことは、作者と聴者とを直結することにより、ソノロが音楽をヴィルテュオーゾの曲芸的技術主義および作曲家の秘教的技術主義から解放し、再び音楽精神の根源・時間のための造形的表現意図の直接の発露たることを可能にした」(戸田1954: 12.12:19)。

14『音楽芸術』1956年4月号(1956: 14.4)のアンケートへの回答の多くでも、「人間」や「作曲家」の役割の大きさが強調され、電子的手段はあくまでも「手段」に過ぎないことが強調されている(中田喜直・清水脩・鈴木共子・林光・松本太郎1956: 14.4: 51(「アンケート”前衛音楽”をどう思うか」))

15スミス氏が読んだNYタイムズの芸術欄の記事「演奏ミスはHUMAN WORKへの回帰か?」では、ピアニストがミス・タッチすると聴衆が「電光に射られたように目覚め、つぎのミスを切望し…ついには感涙にむせ」び、演奏終了後も「しばらく拍手を忘れるほどの驚きと興奮が渦巻」(江崎1967:25.8:54)いていた様子が記述されていた。

16「コンピュータ音楽」に対する反応の多くがコンピュータに対する過大評価と過度に「人間性」に重きを置く錯誤が原因であることが、『音楽芸術』で初めて「コンピュータ音楽」が紹介された時の徳丸吉彦「コンピュータの音楽」(徳丸1966:24.11:20-23)で指摘されている。徳丸によれば、コンピュータ音楽への反響として「まず、機械が芸術家の真似をすることの怒りであり、音楽まで機械化されたかという嘆きであろう。そして、やがては作曲家が不要になるのではないかという恐れなどである」。そしてそのような意見の原因は「この種の発言のよってくるところを考えると、計算機に対する過度の評価(期待)と作曲も含めての人間の行動をすべて神秘的で非合理的なものだとする誤りとの二つに要約できるだろう」(20)。

17いずれも未来の音楽界の諸傾向を予想しているが、「その他」にあたるだろう傾向を「ハプニング」(の変形したもの、将来的な姿)と呼んでいる。ケージをはじめとするアメリカ実験音楽がある種の異端として理解されていたことをうかがわせるが、ケージ的な実験音楽の日本における受容について考察することは本論の課題ではない。

18例えば、1966年に植村耕三は「セリエルな方法は今や色褪せた。」と述べている(植村1966:24.3:73=植村耕三「海外音楽の動向 ドイツ/オーストリア」)。また1967年には、三浦淳史は海外音楽動向欄で、最近は、50年代後半から60年代初頭の「電子音楽」に対する熱狂が冷めて、安定した定着期に入りつつあると報告している(三浦1967:25.7:73-74)。また同年9月号の海外音楽の動向欄で、ピエール・ブーレーズが最近は電子音楽には関心がないと述べている(ブーレーズ・植村1967:25.9:81-82)。また1969年には、武田明倫はレコード評の中で、60年代を通じてセリー・アンテグラルが退潮になったと書いてる(武田1969:27.10(9月号):76-78)。

19例えば、諸井は、初めてある程度まとまった形でコンピュータ音楽が日本に紹介された、『音楽芸術』1966年11月号「特集 最近の世界の作曲界」において、自らの「電子音楽」への熱狂が冷却化していることを表明している。彼は、「電子音楽」という文章の中で、「電子音楽」は一般に定着はしたものの低迷の感は免れない、という見解を表明し、自分や自分の周囲では「電子音楽」への熱狂が冷めてきている、と述べている。だからといって、この時点では、諸井は、「電子音楽」の未来をコンピュータ音楽に見出したわけではなく、日本で「電子音楽」が制作演奏される状況が改善されることを期待しているようである(諸井1966:24.11:14-16)。諸井は60年代中頃から「電子音楽」とトータル・セリエリズムから距離を取り始めたようだ。例えば、翌1967年の吉田秀和との対談で、諸井は、「電子音楽」は「演奏に対する不満」から始めたものだったが、結局は「永遠に人に満足を与えない」のではないかと感じ、今は演奏の問題を深く考え始めていると述べている。「電子音楽」に飽きたからといって、諸井の関心はコンピュータ音楽に移ったわけではない(諸井・吉田:1967:25.8:36-41)。

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