2015年09月 金子智太郎、中川克志「[調査報告] 日本におけるサウンド・アートの展開――スタジオ200における脱ジャンルとサウンド・アート――」

日本におけるサウンド・アートの展開

―スタジオ200における脱ジャンルとサウンド・アート―

金子智太郎+中川克志

The Development of Sound Art in Japan - The Development of Sound Art in Japan - The Post-Genre in Studio 200, and Sound Art in Japan

(ここで公開している論文たちには校正での訂正が反映されていない部分があり、実際の掲載稿とは若干相違があります。また図版は掲載していません。引用などの場合、必ず、公開された原文をご参照ください。)

0 はじめに

本調査は近年サウンド・アートと呼ばれる実践が日本においてどう展開されてきたのかを問うための資料収集とインタビューを行ない、3回の報告を発表してきた。第1回は1987年から94年まで六本木ストライプハウス美術館(当時)で開催されたシリーズ展『Sound Garden』展の概要を整理し、第2回は同展の開催経緯や同時代状況をたどった。第3回は1986、87年に青山こどもの城で開催された『造形発見展・音と造形』展、および89年に栃木県立美術館で開催された『音のある美術』展の概要を調査した。第4回となる今回は、これまでに扱ってきた展示の関係者が一様に影響を受けたと述べた、セゾングループが1979年から91年まで運営した文化施設、スタジオ200について、特に音楽と視覚芸術の接続という観点に注目しながら資料をまとめた。

今回の調査でも多くの方々にインタビューを行なった。とりわけ、元スタジオ200音楽プログラム担当の芦野(宮崎)理子氏、同身体表現プログラム担当の久野敦子氏、当時「アール・ヴィヴァン」の運営に当たっていた芦野公昭氏の三者から、スタジオ200の運営や同時代の文化的状況について貴重なお話を聴くことができた(2014年9月8日、芦野氏自宅近くにて。以下、「インタビュー」と表記)。また、セゾン文化財団森下スタジオに保管されているスタジオ200の公演パンフレットや録音テープ、ヴィデオ・テープを調査させていただいた(以下、「森下スタジオ・アーカイヴ」と表記)。記して感謝したい。

本調査報告はスタジオ200で上演されたすべてのプログラムを年代順に掲載した『スタジオ200活動誌[1979→1991]』(西武百貨店、1991年)(以下、『活動誌』と表記)に収められた論考や評論を中心資料として扱い(以下のページ数表記は、断りのない場合、本書ページ数である)、適宜「インタビュー」と「森下スタジオ・アーカイヴ」を参照しつつ、同施設の概要や同時代の芸術のあり方を理解していくことにする。まず、スタジオ200の活動概要とそこから見えてくる80年代の芸術について、さらにその音楽プログラムについて考察する。以上をふまえて次に、80年代末の音を発する作品の展示へと展開していくような、音楽と視覚芸術の接続の試みをプログラムからピックアップして紹介する。結論として、スタジオ200のプログラムから見えてくる80年代半ばの転換について議論を提起したい。

1 スタジオ200と80年代の芸術

西武百貨店池袋店8階に開設された客席数最大186席の多目的ホール、スタジオ200の活動は1979年11月30日、シリーズ「80年代映画への胎動―70年代ノン・シアター・シネマの回顧」[figure1]から始まった(26-27)。同プログラムの出品作品の選定に当たった松本俊夫は、当時西武百貨店文化事業部の紀国憲一や新井生美らとともに施設自体の構想にも関わったという。松本が語ったように、同施設には客席数が少ない、舞台裏がないといった空間的制約の他にもいくつかの制約があった。劇場興行用の商業映画を上映できないこと、それゆえプログラムは池袋コミュニティ・カレッジの実演講座、特別講座、レクチャー、体験教室といったかたちで上演されることなどである。これらの制約は結果的にスタジオ200の特徴を形づくったようだ。空間的制約は送り手と受け手が同じ目線を共有する状況を育み、講座という形式は新しい表現がそれをめぐる批評とともにあらわれる状況をもたらした。

スタジオ200の開館に先立ち、1975年に西武百貨店池袋店12階に西武美術館が開館、同時に洋美術書専門店「アール・ヴィヴァン」がそのロビーに開店した。アール・ヴィヴァンの運営には一柳慧が関わり、現代音楽のレコードや電子楽器、民族楽器などが販売された。西武美術館では展示のないクリスマスの時期に一柳が企画したコンサートが上演された。アール・ヴィヴァンとスタジオ200は別系統の組織だったが、両者の結びつきは深かった。アール・ヴィヴァン開店時からの店員で、同店の音楽部門を通じて環境音楽などの海外の動向を紹介した芦川聡は、両者の橋渡し役のひとりだった。

『活動誌』の巻頭におかれた文章「スタジオ200の12年」(以下、「12年」と表記)は、同施設の歩みを「FILM」、「VIDEO」、「MUSIC」、「DANCE」、「LECTURE」、「THEATER」、「VARIETY」、「VERBAL」というカテゴリーに分けて振り返る。その結びには、本書に1000本を越えるプログラムすべてを当時のスケジュール表の記録のままに掲載した理由を、「性急な整理や恣意的な配列を慎重に避けることで、奔放かつ多元的に展開された『雑居文化』の活力を浮き上がらせたいと考えたから」(23)とある。とはいえ、こうした部門の区分は同施設の性格を物語ってもいる。一般的な多目的ホールでは中心的プログラムのひとつになるはずの演劇は、同施設の空間的制約のためにあまり上演されなかった。スタジオ200の運営は、映像、音楽、身体表現、文芸、演芸という部門ごとに一名ずつ西武百貨店文化事業部の担当者がつき、さらにプログラムごとに制作担当者がついた。

「12年」の記述から、執筆者がスタジオ200のプログラムを通じて80年代の芸術をどうとらえていたのかがある程度見えてくる。例えば、スタジオ200の映像プログラムは、60年代に開拓され、70年代に多様化した「ノン・シアター・シネマ」、すなわち実験映画、ドキュメンタリー、アニメーションなどを集約し、結びつけた。また、配給・興行形態の見直しという制度をめぐる実践や、モニターの立体構成などの環境をめぐる実践があった。身体表現においても、80年代前半のスタジオ200にはモダン・ダンス、ポストモダン・ダンス、舞踏の交流があり、さらに「パフォーマンス」という身体表現を包括するような概念も開花した。身体表現については、80年代後半にこうしたジャンルの集約から新しい局面があらわれたとある。勅使川原三郎ら、既存のジャンルとは距離を取りながら、それらの要素を取捨選択していく作家の出現である[figure2]。次節で見る音楽プログラムについての記述にも、こうした変化が指摘されている。

つまり、「12年」には60年代に発展し、70年代に多様化した芸術が、80年代前半に総合され、後半には選択できるようになるという歴史観が提示されている(8-11)。制度や環境の再構築もこうした流れのなかで探求された。この歴史観にしたがえば、スタジオ200という施設はたしかに80年代の芸術の展開を支え、促進するための特徴を備えていたと言えよう。芦野公昭はインタビューのなかで、アール・ヴィヴァンの企画に当たって20世紀が残り四半世紀となることを意識し、20世紀の文化を編集する作業という発想があったと述べていた。この言葉はスタジオ200の活動にもあてはまるように思われる。

2 スタジオ200の音楽部門

「12年」の音楽部門に関する記述は、80年代の芸術に生じた変化についてさらに踏みこんだ議論を展開する。同部門は1980年、一柳、磯崎新、高橋悠治によるシンポジウム「音楽の展望」から始まり、次いでツトム・ヤマシタのプロデュースによるシリーズ「20世紀の音色と音波」が続いた[figure3]。80年代前半の音楽部門には3つの大きなジャンル――現代音楽、ロック、ジャズ――があった(8)。それぞれを代表するシリーズは、三枝成彰がプロデュースした現代音楽レクチャー・コンサート・シリーズ『EXPERIMENT』(80-82年/全9回)、清水寛らによる『通俗-異端-音楽実験室』(81-84年/全27回)、福島輝人らによる『インスピレーション&パワー 爆発するジャズ実験室』(83-85年/全12回)だった。「12年」によれば、これら80年代前半のシリーズ関係者が口を揃えて語ったキーワードが「脱ジャンル」だった(10)。この言葉は音楽の三つのジャンルの交流だけでなく、映像や身体表現といった別の部門の芸術との組み合わせも意味していた。

80年代後半になると、音楽部門にも新しい展開があらわれたと「12年」は指摘する。その象徴は1986年に大挙して来日したニューヨークのインプロヴァイザー、フレッド・フリス、ジョン・ゾーン、エリオット・シャープ、クリスチャン・マークレイらである[figure4]。彼らがもたらした変化についての説明を引用しよう。

ジャズに限定されず都市のノイズさえも取り込んでいくヴァイタリティーと戦略に満ち、例えば異質な音楽をスピーディーにコラージュしていくような演奏スタイルは、脱ジャンルの試みが飽和状態を呈し多様な音楽のカタログ化が進んだこの時期に向けて、ひとつの鮮やかな方法論を示し衝撃をもって迎えられた。音楽家も聞き手も多様な音楽を同列のものとして呼吸する現代においては、様々な境界の“破壊”はもはや実効力をもたず、無数の可能性の中で何を選択し、どのように個の中で統合していくか、という新たな多様化の位相が立ち現れている(10)。

身体表現に起きた変化と同様の、「脱ジャンル」および「カタログ化」からの「選択」という展開である。

「12年」はこうした展開と平行するかたちで、ジャンルの外側に置かれた2つのテーマ、「音」と「環境」の探求があったと論じる。具体的には環境音楽や音響デザインといった発想、非表現的な音響のプロセスを展示するミニマル・ミュージックやパーソナル・コンピュータを導入したポスト・ミニマル、創作楽器、音具、電子音装置の制作などがこれに当たる。その源流には「音楽を固定化された耳の対象物としてではなく生活の中のトータルな体験として捉え、聴取のありかたそのものを問題にしてきた」アメリカ実験音楽があるとされた。

『活動誌』には、同施設を通して80年代の音楽を振り返るコメントが多数寄せられた。そのなかには先に肯定的に語られた変化を批判的に見るものも少なくない。例えば、近藤譲はパーソナル・コンピュータが芸術を「社会化」するとともに「歴史意識の喪失」を引き起こしたと指摘する。「電子メディアの普及によって、あらゆる時代の音楽をいつでも手元に置いておくことが可能になり、それによって、歴史は現代生活の単なる環境の一部に過ぎないものとなる」(41)。近藤はこうした変化を通じて芸術の力が失われ、回顧と郷愁が支配していると批判しながら、松平頼暁らとともに再度モダニズムの音楽と向きあおうとした。高橋悠治はニューヨークの音楽シーンについて「多様な人種や文化がたえず衝突し変化するなかで、個のパターンを通そうとする神経症的な音楽」と評し、コンピュータの導入については「微細構造を見つけるのを妨げる落ち着きのないフリー・ミュージックへのこちらの共感が薄れてしまった」と書いている(94)。

3 スタジオ200におけるサウンド・アートへの展開

これまで、スタジオ200およびその部門ごとの概略を論じてきた。最後に、本節では2つの論点について考えたい。ひとつは、部門内でのジャンルの交流が進むなかで、部門どうしの交流のあり方はどうだったのか。また、本調査報告第1回で紹介した吉村弘によるサウンド・アートの説明につながるようなプログラムにはどんなものがあったのか。

先に述べたように、スタジオ200における音楽と映像、身体表現の間にはさまざまな交流があった。例えば、1983年から84年にかけて5回開催された、服部達朗によるシリーズ「LIVE PIECES」は明らかにこうした交流に意識的であり、第1回「ヒグマ春夫 ビデオパフォーマンス」(1983年4月22-23日)にはヴィデオ・アーティストのヒグマ春夫、舞踏家の岩名雅記、そして音楽家の服部が出演した[figure5]。これ以前には小杉武久や鈴木昭男のプログラムを制作していた服部は『活動誌』に寄せた文章で、このシリーズには「パフォーマンスとは何か」を問い直そうとする意図があったと語っている(110)。

彼によれば、国内でも70年代から一部の作家が用いていたパフォーマンスという概念は、80年代に入ると急速に商業的になり、記号として消費された。「アール・ヴィヴァン選書」からローズリー・ゴールドバーグの『パフォーマンス―未来派から現代まで』(中原佑介訳、リブロポート)の翻訳が出版されたのが82年である。84年にはニュース番組で「パフォーマンス」が流行の文化として取りあげられ、スタジオ200や中野プランBなどでの如月小春、田中泯らの上演が紹介された。服部は当時スタジオ200にも多くのパフォーマンス企画が持ちこまれたと書いている。彼の「LIVE PIECES」はこうした動向を反省しようとするものだった。その第5回「行為の系譜」(1984年5月3-4日)は赤瀬川原平らを招いたシンポジウムなどを通じて、日本におけるいわばパフォーマンスの原型を1920年代のダダからたどろうとした。

「LIVE PIECES」以後、新たな音楽、映像、身体表現の交流を試みとしてあらわれたシリーズには、例えば、1986年から90年まで3回開催された「彩色音楽」があった[figure6]。吉村やWAYも参加した第1回「VIDEO ARTISTS + COMPOSERS」(1986年5月21-22日)は講師に山口勝弘を招き、多数のモニターを配置した会場で音楽家と舞踏家がパフォーマンスを展開するというものだった。これ以外にも、89年のプログラム「Hybrid Music Performance コンピュータ、音楽、映像のインターゾーン」(12月21日)では、コンピュータ音楽の中村滋延、ヴィデオ・インスタレーションの氏家啓雄らが共演した。90年にはとうじ魔とうじ(特殊音楽家)、松本秋則(不思議美術家)、村田青朔(舞踏演芸家)のユニット「文殊の知恵熱」が出演した(1990年6月22-23日、1991年5月10-12日にも出演)。

第2の論点に移ろう。吉村が「サウンド・アート」の構成要素として列挙していた、サウンド・インスタレーションやサウンド・オブジェ、創作楽器といった実践は、スタジオ200の初期から音楽プログラムに登場していた。1982年9月から12月にかけて、エレクトロニック・アート・センター東京とグループ・エム・スクェアー大阪の主催による「インターナショナル・オールタナティヴ・ミュージック・プロジェクト――もう一つの音楽・より根源へ」がスタジオ200を含む数会場で開催された[figure7]。このときは若尾裕が中心となり、来日したマックス・ニューハウスのサウンド・インスタレーション(9月10日)や、レイモンド・マリー・シェーファーのサウンドスケープ・プロジェクトが紹介され(10月20日)(76-77)、鈴木昭男と吉村弘のパフォーマンスも行われた(10月19日)。83年の「音・音楽・子供の会 Vo.2」(5月14-15日)では、芦川聡、秋山邦晴、鳥越けい子らが音具、音響彫刻、創作楽器を紹介した[figure8]。こうしたプログラムはいわば、海外の動向に精通した研究者や、それまでに長く実践を続けてきた音楽家らによって担われたものと言えよう。

音楽プログラムに新たな展開が見られるのは、例えば、舞台音響を長く務めた後、78年に水滴の音を収録したレコード「しずくたち」を発表した高野昌昭による、86年のプログラム「音の個展~音楽がはじまる前の音あそび~」(1986年7月19-20日)[figure9]や、舞台音楽を手がけていた矢吹誠の同年のプログラム「始原聲聞 創作楽器の饗宴」(1986年7月26-27日)などだろう。両者はともに演劇出身である点が興味深い。88年の石黒敦彦による「振動の人間学」(11月27-28日)では、脳科学による音の感覚の研究やハンス・ジェニーのサイマティクスなどが紹介された。90年には、美音子グリマーによる音響彫刻とパフォーマンスを組み合わせた「竹と石と氷の音響彫刻展〈Audible Sculpture〉」(10月6-8日)(森下スタジオ・アーカイヴ所蔵のビデオも参照)が上演された[figure10]。

こうして2つの論点からスタジオ200におけるサウンド・アートの動向を見ていくと、80年代において音と造形を結びつける芸術がどのような経緯をたどったのかが、おおよそ見えてくる。それは先に論じた各部門の展開と軌を一にしている。つまり、スタジオ200の前期、80年代前半にはそれまでの動向を振り返り、整理するような取り組みがあり、80年代後半、スタジオ200の後期になると先の反省のなかから新たな試みがあらわれるという展開である。音楽部門の転換期とされた86年は「サウンド・ガーデン」第1回が開催された年でもある。

結びに代えて

本調査報告はあくまでスタジオ200のプログラム記録と記録資料を元に議論を構成したため、80年代半ばにひとつの変化があったのではないかという提案も、上演の詳細な内容を考慮しているわけではない。80年代後半に登場したプログラムがそれまでの流れをいかに展開させたのかを理解するには、各プログラムごとに考察する必要があるだろう。しかし、新たな取り組みを送りだしたスタジオ200という施設とそこに通った鑑賞者は、この展開をひとつの流れとして受け止めたと考えられる。

本調査報告で扱った題材は、サウンド・アートというジャンルを大きく越えて、日本の80年代文化にとって重要な意義をもつものであり、今回の議論はそのごく一面を取りあげたものにすぎない。それでも、さらなる考察が必要な課題はいくつも残っている。個々のプログラムの詳細はもとより、先にふれた民族音楽の受容について、加えて西武美術館との連携についても興味深い。スタジオ200では西武美術館で開催された企画展の関連プログラムが定期的に上演された。そうしたプログラムと他の部門の連携はどうだったのか。これらについても調査を継続したい。

1 インタビューによれば、映画や演劇を適法に行うことができる「興行権」がなかったとのことである。

2 芦川聡(1953-1983)はアール・ヴィヴァンの開店時からの店員のひとりで、同店の音楽コーナーを担当して環境音楽など同時代の海外の音楽動向を紹介したり、六本木ストライプハウスギャラリーに吉村弘を紹介するなど多くの人物を結びつけたり、この時期、ある意味で最先端の音楽動向のハブとして機能していた人物である。芦川自身も秀逸な音楽作品『Still Way』(1982年)をリリースしたり、「音と空間とのかかわりをデザイン」するサウンド・プロセス・デザイン社を設立したり(1982年)、重要な足跡を残している(永江2010:51-52)。彼の追悼コンサートもstudio200で行われた(弔辞は芦野公昭氏)。彼についてはいずれ本調査で取りあげる予定である。

3 このような意味での「パフォーマンス」という言葉は遅くとも1981年までには使われていたようだ。例えば、1981年7月24-26日には「5人のコレオグラファーによる菊池純子パフォーマンス」という名前のプログラムが行われている。また、後述の「LIVE PIECES」に関する記述も参照。

4 正確には、80年代を通じて一貫して取りあげられた柱のひとつに、日本の伝統音楽および世界の民族音楽があった(8)。80年代前半にはチベット仏教の聲明やアジア、中近東、アフリカ各地の古典音楽あるいは地域の生活や文化に根ざした音楽が継続的に紹介された。また、87年以降はエスニック・ポップのプログラムが組まれ、韓国ポップスを特集したシリーズ(87年)、中国ロッカーの来日公演(89年)、ソヴィエト・アヴァンギャルド・ロックの紹介(89年)など、商業ベースに乗りにくい音楽が積極的に取りあげられた。

こうした動向については、音楽と視覚芸術の接続の試みではないと判断し、今回の調査報告では言及しない。とはいえ、「民族音楽」や「ワールド・ミュージック」が音を用いる芸術に何らかの影響を与えたことは確かだと思われる(例えば、松本秋則の竹を使う作品はこの文脈との影響関係を考察すべきだと思われる:中川2015)が、そうした影響関係は複雑であり、今後の課題とする。

5 スタジオ200でも90年に「ポストモダン・エイジにみるモダニズム??ーの音楽。思想としての前衛音楽」(6月29日)が開催された。

6 本調査報告第二回(金子・中川2013)を参照

参考資料

金子智太郎(東京芸術大学助手)+中川克志(横浜国立大学准教授) 2013 「[調査報告] 日本におけるサウンド・アートの展開――『Sound Garden』展(1987-94)の成り立ちをたどる」 『京都国立近代美術館研究論集 CROSS SECTIONS』5(2013年3月):44-52。

永江朗 2010 『セゾン文化は何を夢みた』 東京:朝日新聞出版。

中川克志 2015 「松本秋則作品分類試論――「松本秋則~Bamboo Phonon Garden~」をめぐって――」 横浜国立大学都市イノベーション研究院(編)『常盤台人間文化論叢』1: 92-102。

スタジオ200編 1991 『スタジオ 200 活動誌[1979-1991]』 東京:西武百貨店。