2002年06月 音響生成手段としての聴取 _ラ・モンテ・ヤングのワード・ピースをめぐって_

音響生成手段としての聴取 _ラ・モンテ・ヤングのワード・ピースをめぐって_

中川克志

中川克志 2002 「音響生成手段としての聴取 ―ラ・モンテ・ヤングのワード・ピースをめぐって―」『美学』53巻2号:66-78。

(ここで公開している論文たちには校正での訂正が反映されていない部分があり、実際の掲載稿とは若干相違があります。引用などの場合、必ず、公開された原文をご参照ください。)

はじめに

一九六〇年代初頭の音楽 家が到達した地平とはいかなるものであったのか。既にあらゆる音響が音楽的素材として認められ、「無音」の音楽さえも「音楽」として提示することが可能と なった状況下で、それでも音楽の「革新」を目指した音楽家たちはいかなる戦略を採用することになったのか。本論では、ジョン・ケージ(John Cage, 一九一二-)が1950年代初頭に到達した「実験音楽」のその後の展開の可能性の一つを示すものとして、アメリカの音楽家ラ・モンテ・ヤング(La Monte Young、一九三五-)の一九六〇年代初頭の活動を取り上げ、この時期の彼の音楽実践における音響と聴取行為の位置付けの問題に関して考察していきたい[1]

ヤングは一九六〇年から 一九六二年にかけて集中的に、「ワード・ピース」(あるいは「ワード・スコア」)と呼ばれる短い数センテンスの文章に基づくパフォーマンスを行っている。 それらは基本的には一つの単純な行為を行うよう指示したものであり、例えばバタフライ・ピースとして有名な彼の『Composition 1960 #5 コンポジション1960年第五番』(以下この「コンポジション1960年」シリーズは番号で言及する)は次のようなものである。

『一匹(あるいは任意の 数)の蝶を演奏会場に放ちなさい。/作品が終わる時、蝶が外に飛んで行けるようにしておきなさい。/作品はどのような長さでも良いが、もし無限に時間が使 えるなら、蝶が放たれる前にドアと窓を開けておき、蝶が出て行った時に作品が終わったと考えることも可能である。』

セリエリズムの書法で習作を書いていたヤングは、一九五九年にダルムシュタット国際現代音楽セミナーで初めてケージの作品に触れ、こうしたパフォーマンスを開始することになる(TM:233)。ヤングは六十年代初頭には、同様のパフォーマンス、あるいは「イベント」を行っていたフルクサスの芸術家たちと深い関係を保っており[2]、ケージを対抗すべき先行世代として捉える同時代的コンテクストを共有していた。ケージを越えるために彼らが採用した戦略は、ケージが西洋芸術音楽を革新するために採用した戦略を更に推し進めるというものであり[3]、 ヤング、そしてフルクサスら六十年代初頭の「ポスト・ケージ・アーチスト」たちによってパフォーマンス、あるいは「イベント」形式で提出された「音楽」 は、従来の西洋芸術音楽の領域において、音楽作品が作られ、演奏され、聴かれてきた、音楽実践のコンテクストを再編しようとするケージの「音楽実践のコン テクストの再編」という戦略を受け継ぎ、それらを更に『一歩先に』推し進めようとする試みであったと理解することができる[4]

しかし本論で我々が特にヤングに注目するのは、決して「音楽」に固執するわけではないフルクサスの芸術家たちとは異なり[5]、彼がケージから「音楽的素材の拡大」という戦略をも受け継ぎ、あくまでも「純粋に聴覚的な質」に拘ろうとした数少ない存在であるように思われるからである。ケージはその活動の初期から作曲家を『音の全領域に向かい合う』(S:4) 存在として規定しており、その音楽実践の発展は、あらゆる音響を音楽的素材の領域に導入しようとした結果として捉えることが可能である。ケージは 『1951年の技術で可能な限り静かな無響室』に入った時、それでも『二つの意図せずに人が発している音響(神経系統の作用、血液の循環)』を発見した結 果、完全な無音状態など存在せず、沈黙とは無音状態ではなく、意図されずに発せられていた音響なのだ、と沈黙を再定義する(S:13-14)。ケージはこ の再定義された沈黙を音楽的素材として音楽に導入するために、作曲家による音と音との関係性の設定を拒否し、作曲技法としての偶然性の技法を取り入れるこ とになる。またケージは『4’33’’』等において、人間が生成させるのではない、既にそこに存在している音響としての「環境音」をも音楽 的素材として音楽に導入する。こうしてケージの実験音楽では、音楽的素材の領域が聴覚的に知覚可能な全ての音響にまで拡大される。この音楽的素材の領域に ヤングが新たに導入しようとするのが、「バタフライ・ピース」を含む幾つかのワード・ピースにおいて彼が追求した「聴こえない音」という新しい音響素材で ある。ヤングはそのために音響概念と聴取行為が持つ創造的機能とをケージとは異なるものとして設定し、その結果ヤングの音楽は、フルクサスとは異なるあり 方でケージ以降の実験音楽における新しい展開を示しているように思われる。以下では、ヤングが「聴こえない音」を音楽的素材として導入する際にどのような 制作論理を作動させることになったのかを検証していきたい。

一 聴こえない音

ヤングは『ピアノ・ピース・フォー・デヴィッド・チュードア第二番』という作品で、演奏者に次のような指示を与えている。

『鍵盤の蓋を開きなさい。 その操作で、あなたに聴こえるいかなる音響も発さないように。好きなだけ何度も試みなさい。作品は、あなたが成功するか、試みるのを止めると決めた時に終 わる。聴衆に説明する必要はない。ただあなたがすることを行い、作品が終われば普通のやり方でそのことを知らせなさい。』

ここで演奏者に要求される行動は、明らかに、ただピアノの前に座り、楽章の区切りを示すためにピアノの蓋を開閉しただけであった『4'33''』の初演におけるチュードアの行動を想起させる。どちらの作品でも聴衆は演奏者が提供するのではない「環境音」を聴くことにはなる。しかしチュードア・ヴァージョンの『4'33''』と異なり、ヤングはここでは徹底して演奏者にさえ音が聴こえない状況を作り出そうとすることに注目したい。

ケージは五〇年代以降、音響発生を目的としない行為を演奏者に求め、音楽実践における視覚的要素に注目する作品さえも「音楽」として提出し始める。ケージはしばしばそうした作品を『目と耳を両方使う芸術』として規定される「シアター」という言葉で言及することになる(TDRJC:51等)。ケージの音楽実践における視覚的要素に対する関心は、一九五二年の有名なブラックマウンテン・カレッジでの「ハプニング」や、同年の『Water Music』 にまで遡ることができる。後者では演奏者はプリペアド・ピアノを演奏するだけではなく、「水を注ぐ」あるいは「片方の容器からもう片方の容器に水を注ぐ」 といった「行為」を行うよう指示され、何らかの形で水と関係のある音響を発生させ、聴衆はそうした行動を注意深く見守ることを求められる[6]。 また一九六〇年の『シアター・ピース』では、演奏者は自分で用意した幾つかの名詞と動詞をカードに書き、スコアから読み取った数字に基づきそれらを組み合 わせ、そうして決定された行動を行う。それは時には「各自の作品を演奏する」というものであったり、ただ「公園を走る」というものであったりし、必ずしも 音響を発生させない行動も許される。こうした直接音響が発生されない行為を「音楽」として提出することを可能とする意識は、『シアター・ピース』に対する ケージの次の言葉に良く現れている。

『演奏者は自分の行なうことを行なう。しかし音を出さずに行為することは出来ない。』(FB:166)

何か行為が行われるならそこでは必然的に何らかの音響が生じている。従って、『シアター・ピース』のように例え音響発生を目的としない行為に視覚的に注目する時でさえ、そこでは音響が発生しているのだからそれは「音楽」となり得る。

このように、環境音のみ ならず行動に不可避的に付随せざるを得ないような音響でさえも音楽的素材として認知する共通了解が既に成立していた状況下で、ヤングは逆に、本来ピアノの 蓋の開閉動作に必然的に伴うはずの音響を聴こえなくさせようとするのである。そこでは音が発生しているはずなのに聴こえない。そうした聴覚的には知覚不可 能な音を指して、我々は「聴こえない音」と呼んでいる。冒頭で言及したバタフライ・ピースも、こうした「聴こえない音」にまつわる作品である。彼はこの作 品に関して次のように述べている。

『私は次にように言いまし た。私は蝶が音を発していると確かに感じる。蝶は羽ばたくことによってだけではなく、身体が機能することによって音を発しているのだ。そして、音がどの程 度大きいとか柔らかいとかを、音が音楽の領域に導入される前に決めようとするのでない限り、バタフライ・ピースは・・・音楽なのだ、と。・・・誰か、ある いは何かが音を聴く必要があるべきだということは、自分には全く必要でないように思えるし、音は音自身のために存在するだけで十分だ、と私は述べまし た。』(Lecture 1960:74)

このように、バタフライ・ ピースにおいてヤングが提出しようとする「聴こえない音」とは、蝶が動作している(あるいは単に生きている)が故に発する音響、つまり「行為に付随する音 響」ではあるが、それは発されていると感じられるに過ぎず、また、人間に聴こえる必要はない、とされる音響である。

ここで注目すべきは、ヤ ングが、「聴こえない音」の聴覚的な知覚可能性がない時でさえその存在は確かに感じることができる、とする点である。これは、同様に「聴こえない音」を追 求し、しかしその知覚可能性をあくまでも聴覚的に確保しようとするケージとは対照的である。既に述べたように、ケージにとって聴こえない音、つまり「沈 黙」とは、意図されずに発せられていた音響のことであった。ケージは、そうした意図されずに発されていた音響(の一つ)である環境音について、次のような 言葉を残している。

『この灰皿をみなさい。こ れは振動状態にあります。・・・しかし私たちはその振動を聴くことは出来ない。無響室に入った時、私は自分自身(の発する音響)を聴くことが出来ました。 だから今度は、自分自身(の発する音響)を聴く代わりに、この灰皿を聴いてみたい。しかし私は、打楽器を叩くように灰皿を叩くわけではありません。私は灰 皿に内在する生を聴こうとするのです。そのために私は、そのために設計されたのではないでしょうが、適当なテクノロジーの助けを借りるのです。』(FB:220-221:括弧内は引用者の補足)

恐らくここでケージが言及 する「灰皿の振動」とは、分子レベルでのブラウン運動など、ミクロの世界で起こる振動のことである。ケージにとって世界のあらゆる事物は振動し、それ故音 を発している。現実にこのようなミクロなレベルの振動が聴覚的に知覚可能な音響を発することはないが、ケージにとってはこうした振動こそが環境音の存在を 保証する。そして彼は、そうした環境音を「聴き取る」ために「テクノロジーの助けを借り」、マイクロフォンなどで増幅し、そうして環境音を音楽的素材とし て音楽に導入しようとする。ケージは「聴こえないくらい小さな音」を、その知覚可能性をあくまでも聴覚的に確保することにより、音楽的素材として音楽に導 入するのでする。

対してヤングは、「聴こえない音」の聴覚的な知覚可能性を確保することなく、そのまま提示しようとする。しかしヤングは、「聴こえない音」は知覚可能であると考える。それはなぜか?ヤングはバタフライ・ピースに関して、更に次のように語る。

『(この作品に関して)もう一つ重要なポイントは、人は普通にただ見るものを聴く、あるいは、普通にただ聴くものを見る、ということでした。』(TMM: 192:括弧内は引用者の補足)

恐らく、人は見る対象を聴 くのだ、というこの意識こそが、ヤングに「聴こえない音」の知覚可能性を確保している。聴衆は、ピアノの開閉動作や蝶々の動きを見ることにより、そこに 「行為に付随する何らかの音」があることを知る。「聴こえない音」とは実は、そうして、せいぜいその存在が想定されるに過ぎない音響として知覚されるに過 ぎない。そして、聴覚的には知覚不可能でせいぜいその存在が想像されるに過ぎない音響を、音楽的素材として音楽に導入するためにヤングが採用する手続き が、音は必ずしも人間に聴覚的に知覚される必要はないとする宣言であり、その音が音量の大小や音色などに関して聴覚的に判断されるべきではない、とする留 保である。『音は音自身のために存在する』とする言葉は、それだけでは音に作曲家の表現を担わせることを拒否するケージの身振りとほぼ同じものだが、ヤン グはここでは音が人間に聴覚的に知覚される必要性に対して異議表明しているのであり、それは聴覚的には知覚不可能な音を音楽的素材として提示するための手 続きだと考えることができる[7]

こ うしてヤングは、「聴こえないくらい音量の小さい音」を、ケージのようにその音量を増幅して提示するのではなく、その音響発生主体を見ることによりその存 在がせいぜい想定されるに過ぎず、音量や音色に関する聴覚的な判断を拒否するような音響として、しかし、確かに聴こえない音であるというその性格を保持さ せたまま、新しい音楽的素材として音楽に導入する。これはケージ由来の音楽的素材の拡大という戦略を受け継ぎ、ケージを更に一歩先に進めようとした成果と して捉えることができるだろう。とはいえしかし、更に我々が問うべきは、何がヤングに、聴覚的に知覚されない音さえも音楽的素材として(視覚的に)知覚可 能であり、音響は必ずしも聴覚的に知覚される必要はない、と宣言させるのかということである。結論を先取りするならばそれは、本論で検討するワード・ピー スの時期に限らずヤングが初期から一貫して扱ってきた「持続音」の探求を通じ、彼が音響概念そのものを変化させ、ケージ以上に聴取に創造的な機能を認める ことになったからである。次にヤングの「持続音」の探求をめぐって考察していきたい。

二 持続音

この時期のヤングのワード・スコアの中で持続音を扱っている作品は、B とF#という完全五度の音程関係にある二つの音を楽譜に示し、その下にただ『長時間伸ばせ』という指示だけが書かれている『第七番』や、単に長方形の紙片 に直線が描かれているだけだが、ヤングがその直線を「演奏」する一つの手段として一音の持続音で演奏したことがあると語る『第九番』などである (TMM:195)。

ヤングは、数時間に渡り主題も展開も変奏もコントラストもなくひたすら持続される音を聴く時生じる経験を『音の内側に入り込む』経験と形容し、次のように語る。

『・・・音が非常に長けれ ば、音の中に入り込むことは容易となります。・・・私は音の部分や動きを感じ始めました。そして私は、個々の音がそれ自体世界であり、その世界と私たちの 世界は、私たちがそれを私たちの身体を通して経験するという点で、つまり私たちの見方で経験するという点で似ていることを理解し始めました。私は、音や世 界中のその他のあらゆるものは人間と同じくらい重要で、もし私たちがある程度それらに、つまり音やその他のものに身を委ねるなら、私たちは新しい何かを学 ぶ可能性を楽しむだろう、という事が分かりました。』(Lecture 1960: 79)

ある一音がその始まりも終 わりも分からなくなるくらい長時間持続される時、人はその音に長時間集中し、その一音の微細な部分構造や微細な動きに敏感になることが可能となるだろう。 そうした『音の部分や動き』とは、例えばヴィオラの音色を構成する倍音構造や、演奏会場の温度や聴衆の人数が変化した結果もたらされるちょっとした音色の 変化といった、一音としての持続音の同一性を揺るがさない程度の些細な変化かもしれないが、それでも一瞬前に聞こえていたものとは異なる、一音としての持 続音が新たに垣間見せる『新しい何か』である。また、ヤングが持続音を聴く経験を「音の内側に入り込む」経験と形容するのは、人が持続音という「一つの 音」を客観的に聴くからではなく、むしろ主観的に自らがその中に入り込んでしまうような「世界」として経験するからである。この時音はいわば聴者を取り囲 む「世界」として機能し始め、持続音は「一つの音」であるがゆえに人がその中で集中できる状況を確保すると同時に人がその中に入り込むほど集中する「世 界」として経験されるが故に、まさに人が世界を様々に解釈するように、聴者により様々な『新しい何か』を見出されることになる。その結果持続音は、一つの 音であると同時に実は複雑な音響構造を持つ音の複合体でもあることが発見される。ヤングにとって持続音とは、常に「多数の音」を現象させ続け変化し続ける 「一つの音」として存在している。こうした「顕微鏡的聴取」[8]とでもいうべき、同一物の中に多様なものを聴き出す聴取経験がヤングが持続音において追求していたものであり、音の内側に入り込み音を世界として経験する時に生じる経験であると考えることが出来よう。

この時興味深いのが、ヤングとケージのそれぞれの音響観と耳の創造的な機能に対する見解の相違である。

ケー ジにとって音とは、あくまでも一つの独立した個体として存在している。既に言及したように、非意図的に発せられた音響さえも音楽的素材として利用しようと するケージにとって、音は作曲家と完全に断絶したものとして規定され、いわば、自律的に活動する「存在者」として把握されることになる。ケージは実験音楽 における音響のあり方を次のように形容する。

『音は自らを思考だとか、 あるべきもの、自らの解明のために他の音を必要とするものだ、などと考えない。音には考えている時間はない_音は自らの特性を実現することにかかりっきり になっている。消えてしまう前に、その周波数、音量、長さ、倍音構造、さらにこうした特性や音そのものの正確な形態を、完全に厳密なものにしておかなくて はならない。』(S:14)

こうした音の自律的性格が確保されるためには、音と音との関係性が予め関係付けられることは避けられねばならない。そして音と音とを関係付ける仕事は、作曲家にではなく聴者に委ねられることになる。ケージは例えば次のように述べる。

『(前略)この新しい音楽 は、それがテープ作品であれ器楽作品であれ、スピーカーや演奏家達が近くにまとまっているより、空間内で引き離されている方がはっきり聴こえる。というの は、これは一般的に理解されているような和声と関わっているのではないからだ。和声の特徴は、幾つかの要素を混ぜ合わせることから得られる。(対して)こ の音楽で我々が関わっているのは、異なるものの共存であり、融合が起こる中心点は数多い。聴者がどこにいようと、その耳が中心点となる。』(S:12)

このようにケージはしばし ば、音響はそれぞれ空間内で引き離され独立性を保つことが必要であると述べる。この音の独立性の要請は、音の自律的性格と「非意図的な側面」を維持するた めの要請として理解することができる。初めから作曲家によってある音階と音階の組み合わせとして関係付けられた和音は、音響の非意図的な側面が否定される ため、避けるべき音響として言及される。そして各々の音響の独立性が確保されその自律性が確保される時、音を聴くこととは、各々独立したまま自律的に活動 する音響を観察し、聴者の耳を中心点としてそれらの音響を融合させる行為であるとされる。音響は個々の聴者により関係付けられ個々の耳の中で融合させられ るからこそ、個々の聴者が受け取る音響結果は個々の聴者の数だけ存在し、各々の聴者が自発的に音と音とを関係付ける聴取の可能性が確保されるのである。

対してヤングにとって、個々の音響は「存在者」ではなく「世界」として存在する。ケージが、例えば『4’33’’』 のコンサート会場の雑踏のように、多くの個々の音響が自律して活動する状態に興味を惹かれるのに対し、ヤングは持続音という「一つの音」に注目し、一つの 音でさえ世界として経験することが可能であり、「一つの音」でさえも実は複雑な内部構造物を持ち、多様な音を現象させてくれることを発見する[9]

そ して、この音響概念の変化が、ヤングにとっての聴取行為が持つ創造的な意味合いをケージとは異なるものにする。ケージにとって聴取行為とは、自律的に活動 する個々の音響を自由に関係付ける行為である。しかしヤングにとって聴取行為とは、一つの音を顕微鏡を通して物を見るように分析的に聴くことにより、その 中に別の「新しい何か」を聴き出そうとする行為、である。恐らくヤングもケージのように、聴取行為がある一つの音とそこで新たに見出されたその音響の別の 側面とを自由に関係付ける行為となることを否定するわけではない。しかしここで注目すべきは、ヤングの場合聴取行為が、ただ音と音とを関係付けるだけでは なく、一つの音の中にその音が潜在的に垣間見せるであろう「新しい何か」を発見する、という意味での創造的な働きを持つことである。一つの音はそうして新 しい側面が聴き出されることにより、別の新しい音として聴かれる。ヤングの場合聴取行為は、一つの音の中に新しい音響を発見することによりその音を変容さ せる、という意味で、創造的な行為となるのである。

三 音響生成手段としての聴取

こ の、聴取行為が音響を変容させるという発見は、後に、必ずしも聴覚的な外界刺激の直接的な結果としてのみ音響知覚が存在するわけではない、とする意識につ ながることになる。ヤングは持続音に拘る理由を問われ、聴取という知覚の構造と音響が本来構造化されているあり方に関連付け、一九六六年に次のように述べ ている。

『私が興味を持っている和 声的に関連のある周波数というものは、私たちが聴く方法とほとんどの音響が構造化されている方法とに深く関わっています。両者の一般的な特徴は互いに強め 合うのです。アラン・ダニエロは、サイケデリック・レヴュー誌第七号の音に関する論文の中で、心理的機構が私たちに分析し理解することを可能とするのは和 声的に関連のある音程関係だけであるように思う、と指摘しています。これが私がもっと仕事をしようと計画している領域です。私は音が運んでくる情報が耳の 受容段階を過ぎた後に何が起こるのか、ということについて仕事をしようと計画しています。』(TMM:197)

ヤングの言葉を補っておこ う。この『私たちが聴く方法』と『音響が構造化されている方法』と深い関係を持つ『和声的に関連のある周波数』とは、恐らく音の倍音構造のことである。ヤ ングは、大抵の音が必ず何らかの倍音を含むものとして構造化されていることに注意を促し、また、心理的機構が聴き取り理解できるのはそうした和声的に関連 のある倍音構造だけだと指摘する音響心理学の文献を引用することにより、耳とはそもそも、そのように和声的に関連のある音響構造を聴き出すのに適合的な器 官なのだ、と主張する。そして、自分が興味があるのは、耳という受容器官によって音という外界刺激が受容された後起こる事態である、と述べる。

この時、音を聴くことは、もはや単に外界刺激としての音の情報をそのまま直接脳内に伝えることではない。例えばピアノのC 音も、実は多くの(和声的に関連のある)倍音構造を持つものであり、それがC音と判定される前に、ピアノのC音が持つ複数の倍音の音高を無視する、といっ た何らかの情報操作が行われているはずである。この時音を聴くという行為は、ピアノのC音が持っているはずの様々な音高の中からC音を選別する、という創 造的な性格を帯びる。これが『私たちが聴く方法』であり、『音が運んでくる情報が耳の受容段階を過ぎた後』に起こることである。持続音は、確かに、外界刺 激としての音が耳の受容段階を過ぎた後は大抵無視され、あまり深く注意を払われない倍音構造に改めて注意を払う、顕微鏡的聴取を可能とする音響であろう。 ヤングは、持続音を、音が本来構造化されているあり方、耳が音を聴くやり方を批判的に検討するのに最適な音である、と考えているのだ。

そしてこの時注目すべきは、ヤングが、耳はもともと音を形成している倍音構造を聴き出すのに適合的な器官である、と考える点である。ヤングは、人工的に作り出され実際は全く倍音を持たないサイン波にさえ倍音を聴き出してしまう、という経験について語る[10]。 そのような事態が生じるのは、サイン波を聴く時でさえ耳は和声的に関連のある音程関係に基づきサイン波に対して情報処理を施してしまうからであり、耳はそ の結果、本当は存在しないはずのサイン波の倍音さえ聴きだしてしまうほど、和声的に関連のある倍音構造を聴くのに適した器官だからである。こうした耳とい う感覚器官に対する聴覚心理学的な理解が正しいか否かはここでは問わないが、この時耳が、聴こえるはずのない音響さえも聞き出してしまう器官として位置付 けられることに注目したい。この時耳は、持続音の倍音構造を発見していく、という意味で創造的行為を遂行するだけではなく、いわば(潜在的には)音響をゼ ロから生成する機能さえ持つことになる。この時聴取行為は、一つの音響の中に新たな音響を発見し音響を変容させるだけではなく、音響を新たに生成させさえ するのである。

恐らく、後に音響生成機 能さえも聴取行為に担わせることになるこうした意識こそが、聴覚的には知覚不可能な音響を音楽に導入することを可能にしたと考えることができるだろう。聴 取という知覚行為が音響に変化をもたらし一音の中に多様性を見出させる、という発見は、必ずしも聴覚的な外界刺激の直接的な結果としてのみ音響知覚が存在 するわけではない、という意識につながる。音響知覚は『音が運んでくる情報が耳の受容段階を過ぎた後』達成されるのであり、耳はサイン波の倍音という本来 存在しないはずの音さえも聞きだしてしまう器官である。ならば、通常は受容器官としての耳が運んでくる音の情報を、聴覚的知覚以外の手段で、情報操作を行 う耳に伝えることができるなら、聴覚的知覚手段を使用しない音響知覚というものが可能となるだろう。おそらくそのように考えるからこそ、音が人間に聴覚的 に知覚される必要はない、とするヤングの宣言は可能となるのであり、彼の「聴こえない音」を扱う音楽は可能となる。ヤングの聴覚的に知覚不可能な「聴こえ ない音」の知覚可能性は、聴取行為に音響生成機能が担わされることにより確保されるのである。

おわりに_ケージ以後の「音楽」

今 までワード・ピースの時期のヤングの音楽制作理念について検討してきた。ヤングは、同時代のフルクサスのアーチストたちと同様にケージの「音楽実践のコン テクストの再編」という戦略を受け継ぎつつも、彼らとは異なりケージの「音楽的素材の拡大」という戦略をも受け継ぐことにより、新たな音楽的素材として聴 覚的には知覚不可能な「聴こえない音」を導入する。この聴覚的に知覚不可能な音響の知覚可能性は、音響は聴覚的に知覚される必要はない、とする宣言によっ て確保され、この宣言は、ヤングが「持続音」に取り組む過程でケージとは異なるものとして設定することになった音響概念と聴取行為の創造的機能によって確 保される。我々は、ヤングが「持続音」という多様な音響を現象させる「一つの音」に取り組むことにより、聴取行為が音と音とを関係付けるという意味でだけ でなく、新しい音響を発見するという意味でも創造的な機能を持ちうるうことを発見し、最終的には聴取行為にゼロから音響を生成させる機能を担わせることに なったことを確認してきた。こうしたヤングの実践に我々は、ケージが到達した地平を乗り越えるためにケージの戦略と欲望を共有しつつも、それらを読み替え ていくことにより自らの音楽実践を実験音楽の文脈の中に組込もうとした一九六〇年代初頭の音楽家の姿を見出すことができるだろう。

聴取行為に音響生成機能 を担わせ、聴覚的に知覚不可能な音響を知覚可能なものとして提示することにより、ヤングはケージから決定的な離脱を果たしているように思われる。そもそも 二十世紀初頭以降の西洋芸術音楽の進展は、不協和音に始まり、微分音、電子音や騒音などの非楽音の導入など、音楽的素材の拡大をその発展の指標として捉え ることが可能である。そうした西洋芸術音楽における音楽的素材の拡大の一つの極点として、あらゆる聴覚的に知覚可能な音響を音楽的素材として導入したケー ジが存在する。ヤングは、ケージが拡張した音楽的素材の領域に、更に「想定されるに過ぎない」聴こえない音を付け加え、そうした音響の知覚可能性を聴取行 為の創造的機能に基づき確保することにより、理論的にはまさに、人間が想定することのできる全ての音響を音楽的素材として使用する可能性を切り開いた、と 言えるのではないだろうか。聴こえない音に対する欲望とは、音の対立物として規定されてきた沈黙を聴こうとする欲望であり、あらゆる音響を聴き取ろうとす る作曲家の欲望のことである。ケージは、あらゆる音響に対する欲望を実現するために、「沈黙」を意図されずに発せられた極めて小さい音として再定義し、西 洋芸術音楽の文脈の中に「沈黙」を聴き取る可能性を持ち込む。しかしケージの場合、「沈黙」が聴覚的に知覚されるためにはアンプで増幅する必要があった。 従ってその際、「沈黙」は何らかのレベルでの変化を被ることになるだろう。対してヤングは、ケージから「沈黙」に対する欲望を受け継ぎ、「沈黙」が持つ聴 覚的な知覚不可能性という性格を保持したままで、知覚可能な対象として音楽に導入する。そしてその結果、聴取行為に音響生成機能を担わせることにより、ヤ ングは、想定可能な全ての音響を音楽的素材として使用する可能性を切り開くことになる。

恐 らくヤング以降、聴取行為に音響変容機能、音響生成機能を担わせる立場は、スティーヴ・ライヒらのミニマル・ミュージック、あるいはサウンド・アート等に 受け継がれていくことになるだろう。そこでは聴取行為が音響変容機能を持つこと、聴取行為が何らかの媒介作用を介在させざるを得ない知覚行為であることが 自明のこととして意識され、ケージ的な自律的に活動するニュートラルな音響に対する様々な批判が登場することになるだろう。そうした事態は恐らく、ケージ が聴取の媒介作用を無視せざるを得なかった状況にいたことをも逆照射しているはずである。しかしそうした問題に関しては、いずれまた改めて論じてみたいと 思う。

[1] 本稿ではケージとヤングに関する以下の引用文献は、略号の後にページ番号を付けて示した。

John Cage, Silence, University Press of New England, Hanover, 1961 (=S)

John Cage, For the Birds, Marion Boyars Publishers, 1981(=FB)

"An Interview with John Cage" in: Mariellen R. Sandford (ed.), Happening and Other Arts, Routledge, 1995, pp.51-71(=TDRJC)

Richard Kostelanetz, The Theatre of Mixed-Means, RK Editions, 1980(1968) (=TMM)

Richar Kostelanetz, Conversing with Cage, Limelight Editions, NY, 1994(1987), 4th ed. (=CWC)

La Monte Young, “Lecture 1960” in: Mariellen R. Sandford (ed.), Happening and Other Arts, pp.72-81(=Lecture 1960)

[2] ヤングはオノ・ヨーコのロフトやジョージ・マチューナスのA/Gギャラリーでコンサートを主催したり、ジャクソン・マクロウ、マチューナスらと共に『アンソロジー』(La Monte Young & Jackson MacLow (ed.), An Anthology, Heiner Friedrich, 1963)の編集を行っている。『アンソロジー』にはヤングのワード・ピースが14個収録されている。当時のフルクサスとヤングとの関係に関しては、Henry Flynt, "La Monte Young in New York, 1960-62," in: William Duckworth and Richard Fleming (ed.), Sound and Light: La Monte Young Marian Zazeela, Bucknell University Press, 1996, pp.44-97; Ken Friedman (ed.), The Fluxus Reader, ACADEMY EDITIONS, 1998, pp.12-15を参照。

[3] Douglas Kahn, Noise, Water, Meat: A History of Sound in the Arts, MIT Press, October 1999, pp.225-226

[4] ヤングはケージから受けた影響として、偶然性の使用に加え、『伝統的に非音楽的なイベント、あるいは音楽に準ずるイベントとみなされてきたものをクラシッ クのコンサート的状況の中で提示する』という方法を挙げ、しかし同時に『私は、自分がそうしたアイデアを一歩先に推し進めているのだ、と感じていまし た。』と述べる(TMM:194)。この時期のヤングのワード・ピースの幾つか(『第三番』『第四番』『第六番』『第十三番』『第十五番』『ピアノ・ピー ス・フォー・デヴィッド・チュードア第一番』『ピアノ・ピース・フォー・デヴィッド・チュードア第三番』『ピアノ・ピース・フォー・テリー・ライリー第一 番』全て1960年)、そして多くのフルクサスの「イベント」を、ケージの「音楽実践のコンテクストの再編」という戦略を徹底的に推し進めた結果として解 釈することは可能だろう。この問題に関してはまた改めて論じたい。

[5] パイクは『音楽の存在論的形式』の革新を訴え、ブレクトは一九五八-五九年のニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチでケージのクラスに出席した後、必ずしも『聴覚的な質』に関わるものではない「イベント」の創出に向かう(Nam Jun Paik, “Postmusic The Monthly review of the University for Avant-garde Hinduism edited by N.J.Paik FLUXUS a. publication - an essay for the new ontology of music –“; Gerge Brecht, “THE ORIGIN OF EVENTS”; 共にHappening &Fluxus: materialien zusammengestellt von Hanns Sohm und Harald Szeeman, Koelnischer Kunstverein, 1970所収。ブレクトに関しては、Michael Nyman, “George Brecht: Interview,” Studio International vol.192, no.984, November-December 1976も参照)。とはいえブレクトを始めとする多くのフルクサスの芸術家たちが語るように、フルクサスが多種多様な偏差を孕んだ流動的な集合体であり、 フルクサスに対する解釈が必然的に多種多様な偏差を含んだものとならざるを得ない以上、本論で扱うヤングの「ワード・ピース」やその他の多様なフルクサス の「音楽」作品を、例えばマイケル・ナイマンやダグラス・カーンが示唆するように(そしてパイクが主張したように)セクシュアリティや暴力といった「文学 的」な要素を音楽に持ち込もうとした試みとして解釈することは可能であろう(”GEORGE BRECHT: SOMETHING ABOUT FLUXUS, MAY 1964”, in: Happening &Fluxus; Michael Nyman, Experimental Music : Cage and beyond, New York, Cambridge University Press, second edition, 1999(1974); Douglas Kahn, "The Latest: Fluxus and Music," in: Elizabeth Armstrong and Joan Rothfuss (ed.), In the Spirit of Fluxus, the Walker Art Center, Minneapolis, 1993)。本論における幾分図式的なヤングとフルクサスの対立関係の素描は、ケージの「音楽的素材の拡大」の戦略の帰結を探ろうとする我々の問題意識を 反映したものであることをお断りしておく。

[6] James Pritchett, The music of John Cage, Cambridge UP, 1993, p89参照

[7] Mitchell Clark も、ヤングのバタフライ・ピースで注目すべきは音量の聴覚的知覚可能性が確保されないことであることを指摘する。しかし彼は、この『第五番』の本質は『知 覚(perception)と想像力とが出会う境界』における緊張関係にある、と指摘するに留まる(Mitchell Clark, “Zephyrs: Some Correspondences between Bai Juyi’s Qin and La Monte Young’s Composition 1960 #5” in: William Duckworth and Richard Fleming (ed.), Sound and Light , pp.141-142)。

[8] 後で確認するように両者の聴取概念は異なるにも関わらず、ケージは正当にも一九六一年に、ヤングの作品における聴取経験を顕微鏡を使用した時の視覚経験に喩えている(CWC:203)。

[9] こうしたヤングの「一つの音」の追求の独自性は、ヤングとケージの「反復音」に対するスタンスの違いからも明らかである(Douglas Kahn前掲書, p107参照)。ヤングの『Arabic Numeral (any Integer) to H.F』(1960)ではひたすら同じ音が反復され、時にはただピアノが五六六回に渡り二の腕で叩きつけられる。その時、反復音が持続音と同等の機能を持つことは明らかであろう。確かにケージも、十三小節のフレーズを八四〇回反復するサティの『Vexation』 演奏の経験から、「反復の効用」とでもいうべきものを知っている。しかし同時にケージは、サティの作品の興味深さはビートではなくフレーズのレベルでこそ 生じる、と述べる(CWC:47)。我々はここに、一音が潜在的に持つ多様な音響的側面の開示にではなく、あくまでも音と音との関係性の多様な現われに興 味を持つケージを確認することが可能だろう。

[10] サイン波に倍音を聴きだす経験について。ヤングは次のように語っている。『第二の要因は、ノンリニア(非直線的)な 受容器官であり音の伝送装置であるという耳の特徴には、加算や減算だけでなく乗法計算も行うということが含まれている、というものです。そうして耳は、基 音の整数乗算の結果算出される数値に対応する倍音を生み出すのです。それは本来倍音を持たないサイン波を聴いた時でさえそうです。また耳は、少なくとも二 つの周波数がある時、どちらも十分大きな音量で示されるならば、それらの和と差の組み合わせを生み出します。』(TMM:200)ヤ ングはここで、弦楽器奏者が純正律で演奏する傾向に向かう理由として、弦楽器が元々純正律で調律されていることに加え、耳とは本来音の倍音構造が整数計算 に基づき構造化されているのと同様に整数計算に基づき音を聴く器官であるという理由を挙げる。この時耳という器官は、もともと整数計算に基づき音を聞くよ うに構造化されているため、サイン波に本来存在しないはずの倍音さえも聴き出してしまうとされる。

恐 らくヤングがここで念頭に置いているのは、ワード・ピースの時期以降に彼が関心を示すことになる音の倍音構造と純正律の問題である。彼は六十年代以降、イ ンド音楽やジャズの影響を受け、声、サックス、弦楽器などによる持続音を主体とした長時間に渡る即興を開始する。彼が平均律を批判し純正律を用いるのは、 彼が、耳と音は本来純正律に基づき構造化されていると考えるからである。従って、聴取行為の創造的機能の発見は結果的に聴取の規範性(音響知覚が平均律等 の規範に沿った、自動的で非創造的な知覚行為となる危険性)に対する批判意識につながった、とする解釈も成立するだろう。しかし本論では、慣習的な規範と しての平均律に対する批判は聴取行為の創造的側面に気付くからこそ可能になることを考慮に入れ、それらに関しては言及していない。