2011年03月 音楽家クリスチャン・マークレイ試論―ケージとの距離

(ここで公開している論文たちには校正での訂正が反映されていない部分があり、実際の掲載稿とは若干相違があります。また図版は掲載していません。引用などの場合、必ず、公開された原文をご参照ください。)

(また、図は掲載していません。)

(Christian Marclayは、2010年頃から「クリスチャン・マークレー」と表記されることも増えた。)

音楽家クリスチャン・マークレイ試論―ケージとの距離

中川克志

英文タイトル:An Attempt at Interpretation of Christian Marclay as a Musician - Compared with John Cage.

1.はじめに

クリスチャン・マークレイ(Christian Marclay 1955-)は、レコードを演奏するミュージシャンであり、音や音楽に関わる事物をテーマに作品を制作するサウンド・アーティストである。本論は、基本的にはマークレイの音楽活動に焦点をあてた作家研究だが、将来的には、ケージ的な実験音楽の系譜とは異なる音響芸術としての「サウンド・アート」論の中にケーススタディの一つとして位置づけたいと考えている。本論は、マークレイの活動とケージ的な実験音楽の系譜との差異を明らかにすることで、ケージ的な実験音楽と「サウンド・アート」との関係について考察するための端緒を探るものである。

マークレイは、1955年にアメリカ合衆国カリフォルニア州サン・ラファエルでアメリカ人の母親とスイス人の父親の間に生まれ、子供の頃にスイスに移住し、そこで視覚芸術高等学校を卒業した後、1977年にボストンのマサチューセッツ美術大学に入学した。1978年に交換学生制度を利用してニュー・ヨークのクーパー・ユニオンの学生となり、一年間ニュー・ヨークに滞在した。その時に当時のNYのクラブ・シーンを知り、ギターの弾けないギタリスト、アート・リンゼイのDNAなど、いわゆるNo Waveのバンドたちに刺激を受けて音楽活動を始めた。翌年ボストンに戻ったマークレイは、ヒップホップDJたちとは違う文脈でレコードを楽器として用いて人前で演奏するようになり、やがてジョン・ゾーン(John Zorn 1953-)周辺のいわゆる「実験的ポップ・ミュージック」の即興演奏家たちと一緒に演奏するようになり、元祖ターンテーブリストとして有名になった。マークレイは、日本の大友良英を初めとする世界中の多くのターンテーブリストたちに影響を与え、現在も世界各地で演奏活動を行っている(画像1、2)。とはいえマークレイは音楽家であると同時に美術家でもある。マークレイは視覚芸術作品を80年代初頭から制作しており、80年代後半以降は音と音楽に関わるサウンド・アーティストとして有名になった。特に90年代以降は、世界的にはおそらく、ミュージシャンとしてよりも「サウンド・アーティスト」として有名なのではないだろうか1

本論では、音楽家としてのマークレイに焦点をあてる。以下、まず第一章で、音楽家としてのマークレイの活動を分析する。「楽器」としてのレコードの使用と、コラージュと即興という手法について論じる。マークレイは、1.創作対象の物質性を強調し、2.コラージュと即興という手法を用いて 3.ステレオタイプの抽出と提示 を行うアーティストである。次に第二章で、マークレイと同じように音響再生メディア(ただしCD)を音響生成装置として用いる、刀根康尚とマークレイの活動と比較することで、マークレイの独自性を確認しておきたい。音響メディアの歴史性・社会性を重視する点で、マークレイは、刀根康尚やジョン・ケージとは異なる問題圏で活動している。マークレイと「実験音楽」との間の距離を測定することがこの章の目的となる。

先行研究の多く2は、音楽家あるいは美術家としての側面のどちらかに焦点を置いてマークレイを論じるものが多い。本論もマークレイの音楽活動に焦点を当てるもので、美術家としてのマークレイ像の検討は別稿に譲る(中川2010)。しかしあくまでも、本論はその別稿とともに、音楽家並びに美術家としてのマークレイを統一的に解釈し、できるだけシンプルなマークレイ解釈を提示する試みの一貫であることをお断りしておく。

2.音楽家としてのマークレイ

2.1.The Bachelors, Evenまで

マークレイはレコードを演奏する音楽家として知られるようになった。しかし、しばしば彼は自分のことを、音楽家というよりもアーティストとみなしている。彼は時には「自分がしていることを音楽だと考えたことはない」とさえ述べる(Licht 2003: 91)。他の場所でマークレイは頻繁に自分の音楽について語るのだからこれは言い過ぎだとしても、マークレイが自分を生粋の音楽家と考えていないことは確かだ。というのも、彼は、ポピュラー・ミュージックや現代音楽の歴史や伝統から外れた場所から、音楽活動を開始したからだ。

彼は、あまり音楽―特にポピュラー音楽―や楽器演奏に親しまずに成長してきた(Marclay and Kahn 2003: 17-18)。マークレイがヒップホップ文化を知ったのは80年代以降である―70年代後半ヒップホップの創始者の一人であるグランドマスター・フラッシュを初めて知ったのは1981年だ(Marclay 2005a: 110)―。つまり彼は「音楽家」としては自己形成していないのだ。また、マークレイ以前にレコードを自分の音楽やパフォーマンスや芸術に用いた音楽家/視覚芸術家としては、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、 ミラン・ニザなどの名をあげることができるが、マークレイは、レコードを演奏し始めた時は彼らの存在は意識していなかったと述べている(Marclay and Kahn 2003: 20)。マークレイにとってレコードの使用は、少なくとも当初は、現代音楽や、レコードを素材として用いる視覚芸術3のコンテクストにおける「先駆者」に駆動されたものでもなかったようだ。

マークレイが音楽活動を開始するきっかけとなったのは、70年代末のNYのクラブ・シーンに触れたことだ。彼がそこで見出したものは、現代音楽やポピュラー・ミュージックではなく、パンク・イデオロギーと、当時のポストモダンなアート・シーンにおける美術と音楽との混交だった。当時の彼は、美術館やギャラリーよりもクラブ・シーンに関心を持った。というのも、当時のクラブでは「音楽とパフォーマンス・シーンがとても活発で、アートと音楽との間にはたくさんのクロスオーヴァーがあった」(Marclay 2005a: 108)ように感じられたからだ。

つまりマークレイは、ディスコやヒップホップといった70年代のダンス・ミュージックに連なるべく音楽活動を開始したのではないし、ジョン・ケージの実験音楽やピエール・シェッフェルの具体音楽といった名前に代表される「シリアスな現代音楽」に連なるべく音楽活動を開始したのでもない。そうではなく、マークレイは、楽器を練習したことがない人間でも音響を作り出せる装置としてレコード・プレイヤーを用いることで、ある種のパフォーマンス・アートのようなものとして、バンド活動を始めたのだ(Licht 2003: 91, 96)4。「音楽家としてのマークレイ」とは、「(心の中ではヴィジュアル・アーティストだが、表向きは)音楽家としてのマークレイ」なのである。

2.2.「レコードの音」とプランダーフォニックス

マークレイは、ターンテーブルでレコードを再生=演奏して音を発する。ある一曲全体を再生するのではなく、その一部を再生=演奏する。他に楽器は演奏しない。大雑把にまとめれば、マークレイの即興演奏は、レコードから幾つかのフレーズを取り出してそれらを反復させつつ音の「層」を重ね合わせ、そこに「レコードの音」を挟み込んだり時には全く違うフレーズ(=プランダーフォニックス)を挿入することで、音の展開を全く転換させてしまうことで、展開していくものである。そこで使われるレコードの多くは彼がガラクタ市などで買い求めたレコードで、決して名盤や珍盤ではない。彼はレコード・フェチだがレコード・マニアではないのだ。そうして彼は、「レコードの音」とプランダーフォニックスという二種類の音を、即興とコラージュという二つの形態で用いるのだ。

1)「レコードの音」

「レコードの音」とは、音響再生メディアとしてのレコードが記録して再生産する音―元々録音されていた音楽―ではなく、物質としてのレコードが生産する音響のことである。例えば、レコードの表面ノイズ、ひっかき傷の音、あるいは物質的に変形したレコードの再生音などである。物質的に変形したレコードとは、例えば中央ではない場所に穴をあけたものやいくつかのレコードを分割して1つに貼り合せたレコードのことで、時にはレコードを模した丸いダンボール用紙が演奏=再生されることもある(画像3)。この「レコードの音」は、メディアとしてのレコードの機能である、記録した音を再生産するという「参照機能」を消去することで、逆に、聴き手に、記録された音・音楽を経験するために慣習的には無視されるべきレコード・メディアの物質性―レコード・メディアといえどもそれ自身が音を発する物質であるという事実―を意識させる音である。

「レコード」の音を使って創作対象の物質性を強調すること―そうしてメディアの媒介的な性質を意識させること―は、マークレイの特徴の1つである。例えばマークレイは、「レコードの音」について次のように語っている。

「…レコードがスキップしたりちょっと飛んだり、あるいは表面ノイズが聞こえたりすると、私たちは、そういうことはなかったと思い込もうとすることで、音楽的な流れを中断させないようにする。私は、そういうキズ(imperfectipon)に気づかせてそれらを音楽と認めさせようとしてるんだ。音楽はある種の幻想だが、レコードのひっかき傷はリアルなものだ。…」(Marclay 2005a: 116)

普通、レコードなどのメディアに記録された音楽を聴く時、人々は、メディアの「キズ(imperfectipon)」を意識的・無意識的に無視する。それは記録された音楽にとっては余計な邪魔者でしか無いからだ。しかしマークレイは「キズ(imperfectipon)」(すなわち「レコードの音」)に注意を向けるのだ。というのもおそらく、レコードに記録された音楽は、レコード・プレイヤーで再生されることで初めて音響化されるに過ぎないという約束事を踏まえた上で成立するある種の幻想だが、「レコードの音」は「リアル」なものだからだ。マークレイは、レコードというメディアの「リアル」なあり方、つまり、レコードとは何よりもまず物質的存在であるという事実、を知覚させようとするのである。

2) プランダーフォニックス

またマークレイは「プランダーフォニックス」を用いる。「プランダーフォニックス」とは、他者が制作した音響を、著作権法に縛られずに勝手に用いて制作した音楽―あるいはそのために用いる音響―である(カトラー1996;オズワルド1998)5。しかしここでこの言葉を用いるのは、マークレイが著作権法と芸術的な論理との齟齬を問題にするからではなく、「他者が制作した音(楽)」が聴き手の記憶に作用するというマークレイの音楽の受容構造が、「プランダーフォニックス」の音楽の受容構造に似ているからである。「プランダーフォニックス」とは、他者が制作・録音して既にどこかで再生され公開されたことがあるので、演奏=再生することで聴き手の記憶を刺激する音である。マークレイが使うのは、聴き手の記憶に働きかける音なのだ。

例えば、非常に有名な曲なら、その一部を再生するだけでそれが誰の何という曲か分かるだろうし、その曲を聴いた時間や場所にまつわる思い出を聴き手が想起することもあるだろう―マイケル・ジャクソンのBadを聴いて学生時代を思い出す、など―。あるいは固有名詞は分からなくても、いかにもそれらしいシンバルのレガートを再生するだけで、聴き手の過去の音楽的記憶を刺激して、「ジャズ」の雰囲気を醸し出すことは可能だろう。聴き手の記憶を刺激することで、マークレイは、音(楽)の(ある種の)意味参照機能を利用しているといえるだろう。マークレイにとって重要なのは、(それが具体的にどのようなものかはともかく)プランダーフォニックスが聴き手の記憶に働きかけることである。それは、音と記憶に関するマークレイの次のような発言にうかがえる。

「…聴衆が[演奏=再生されたレコードの]音源を特定したがるというのは興味深いことだ。関係のない音源が組み合わされると、そこには(かつて聴いた)曲に関する記憶の引金を引く力が生まれる。私は記憶の引金を引く音楽を意識的に作ろうとするわけではないが、それらは自然に発生する。音楽はそんな、集合的あるいは個人的な記憶の引金を引く力を持っている。私が意識的に行なおうとするのは、最大限のヴァラエティを持った音楽を使おうとすることだ。それらのレコードはしばしば、人によって異なる参照作用を持つ。なぜなら、大抵の記憶は個人的で主観的なものだからだ。彼らの頭の中で起こることを私はコントロール出来ない。私は、彼らが私が行なっていることをどう判断するかコントロール出来ない。それはまるで、静かに聴衆が参加してくるような状況なんだ。」(Marclay 1998:下線中川)

マークレイが目指すことは、多くの人々に訴求するために様々な種類の音楽あるいはフレーズ(=プランダーフォニックス)を用いることで、人々の集合的あるいは個人的な記憶を(具体的にどのようにかはコントロールできないにしても)刺激すること、といえよう。そのために使われるのがプランダーフォニックスなのだ。

2.3.即興とコラージュ

では具体的に、マークレイの「音楽」はどのようなものか? それは二系統に分類できよう。個人もしくは他の音楽家との共演時に採用される「即興」と、ソロ作品で採用される「コラージュ」である。

1)即興

音楽活動を始めた当初、マークレイは常に、時間をかけた入念なリハーサルを行っていたらしい。大体の展開を念頭に置き、どのレコードのどの部分をどのタイミングで演奏するかを決めておき、そのためにレコードに頭出しの印をつけておく必要があった。そのために彼は、レコードに「頭出しのために断片の始まりがどこか表示したり、ディスクの表面にテープを張って、そこんとこで針が止まるよう」な準備を行なうこともあった(マークレイ1995:73下)(画像4)。こうしたやり方を辞めたわけではないようだが、ジョン・ゾーンやその周辺の音楽家たちと共演することで、マークレイは、予め演奏計画をたてることなしに、その場でレコードを即興演奏することを学んだ(Licht 2003: 96; Marclay 2005a: 112)。

例えば、今、私の手元にある、ギュンター・ミラーと2人で行なっている即興演奏の場合(Christian Marclay×Günter Mülier Live improvisation. = Marclay and Mülier 1999)。マークレイには「ターンテーブルとレコード」、ミュラーには「ドラムスとエレクトロニクス」というクレジットがつけられている。ミュラーは主にドラムを電気的に変換した音響を出していると思われるが、マークレイがドラムを録音したレコードを演奏(=再生)する場合、あるいはミュラーがパーカッシヴな音響以外の音を出す場合は、ほとんど区別できない。例えば2曲目(《Dea Ex Machina》)の途中(2'00''以降)では、マークレイが演奏するレコードから生じるトランペット(のような)音と、それを伴奏しているかのようなギュンター・ミラーのパーカッシヴな演奏が聞こえる。私はこれらに、いわゆる「フリー・ジャズ」の音楽が与える印象―「熱狂的」とか「求道的」など―を感じた。あるいは3曲目では、冒頭から流れている陽気な音楽は、30秒を過ぎた辺りで突然停止し、その後のギュンター・ミュラーとマークレイの多少ヒステリックな音響の混合と、強烈な対照をなす。つまりここには、フリー・ジャズの熱狂を「演じる」マークレイ、あるいは、曲の後半部分のヒステリックさを引き立てる為に「陽気な音楽」を演奏するマークレイがいる。また、全編を通じ、たった2人で全ての音が同時に作られているとは思えないほど、CDには多種多様の音響結果が生まれている。つまりここでは、多くの「レコードの音」と「プランダーフォニックス―フリー・ジャズや陽気な音楽を想起させる音―」が用いられることで、即興演奏の進行に意外な展開や転換がもたらされているわけだ6

アラン・リクトによれば、マークレイは、注意深く共演者の演奏を聴いて全体の演奏を驚きと興奮に満ちたものにするし、たくさんのレコードを使うことで全体の演奏を面白い方向に方向転換もできる演奏家である(Licht 2003: 97)。またマークレイ自身は、自分が「限りない音のパレットを提供し」、「音楽に折衷的な色を与えることが出来た」(マークレイ1996:26下)点が、ジョン・ゾーンたちを惹きつけた、と考えている。マークレイは、即興演奏に様々な種類・様式の音響を提供することで、即興演奏に意外な展開や転換を与える音楽家として有能なのだといえるだろう。

2)コラージュ:ソロ作品の場合

またマークレイの音楽のもう一つの系統は、入念に構成されたコラージュ作品である。ここでは、彼の即興演奏以上に「プランダーフォニックス」が用いられる。彼の『More Encores』(1988)というアルバムに収録されている曲は、全て、曲名となっている有名な音楽家‐ジョン・ケージ、マリア・カラス、ルイ・アームストロングなど‐の録音物を編集してコラージュすることで制作されている7。例えば「John Cage」というタイトルの曲はジョン・ケージの音源だけを用いて構成されたものだし、自分の音源を「編集」して構成された「Christian Marclay」という曲もある。

これらの曲では、”いかにもその音楽家らしい特徴”が、反復されたり再生速度が変化されて誇張され、印象づけられる。つまり、そうした有名な音楽家たちの特徴がよく現れていると私たちが感じるだろうフレーズや演奏が抽出される。例えば、サッチモの「パラリラ、パラリラ」と歌うスキャットとそのスキャットと同じメロディのコルネット演奏が反復されることで、私たちは、”いかにもサッチモらしい特徴”―“けだるさ”あるいは“陽気さ”など―を改めて意識する。またあるいは、マリア・カラスの高音アリアの最高音だけが延々と反復されることで―おそらくは二枚のレコードで交互に連続して高音部分だけを再生することで―、“いかにもマリア・カラスが歌うアリアらしい部分”―人間業とは思えないほど伸びる高音の独唱=最も印象的な部分―を改めて意識する。マークレイが『More Encores』で行っていることは、有名な音楽家たちの”いかにもその音楽家らしい特徴”、すなわちステレオタイプの抽出と提示だ。改めてステレオタイプが提示されることで、私たちは、自分たちがある種のステレオタイプに染まっていることを意識する。これがこの作品の「効用」だといえよう。

またこの作品は、レコードというメディアが持つアーカイヴ機能に気づかせてくれるものでもある8。というのも、ステレオタイプとはある音楽家の制作物が「アーカイヴ」の中に貯蔵されることで人々が抱くある種の集団的な記憶あるいは共同幻想に基づいて抽出されるものだが、そうした「アーカイヴ」を担保するのは、レコードが何万枚と大量複製されて流通することで、世界中に散在する形で仮想的に形成されるレコード・アーカイヴだからだ。要するにステレオタイプとは、レコードがヴァーチャル・アーカイヴとして機能することで初めて形成されるものだからだ。この作品は、レコードというメディアはアーカイヴとして機能するメディアであることを利用し、改めて意識させる作品だといえるだろう。

2.4.音楽家としてのマークレイについて

以上、簡単に音楽家としてのマークレイを概観してきた。整理しておこう。マークレイは、レコード(・プレイヤー)を楽器(=音響生産装置)として用いる。それゆえ彼は、1.「レコードの音=物質としてのレコードが生産する音」 と 2.プランダーフォニックス の二種類の音を用いて、即興演奏とコラージュの二系統の音楽活動に従事する。つまり音楽家としてのマークレイの特徴は

1.創作対象の物質性を強調し、

2.コラージュと即興という手法を用いて、

3.ステレオタイプの抽出と提示を行う

とまとめられるだろう。

次に、音楽家としてのマークレイの独自性を指摘するために、マークレイと同じように音響再生メディア(CD)を演奏=再生する音楽家、刀根康尚と比較してみたい。

3.刀根康尚との比較:音響メディアとの距離

3.1.刀根康尚のCDパフォーマンス、CD作品

刀根康尚(TONE, Yasunao 1935-)は、60年代日本で「グループ音楽」の一員としてあるいはフルクサスの音楽家として、イベント作品やハプニングやサウンド・インスタレーションを発表し、1972年に渡米した後は、マース・カニンガム・ダンス・カンパニーのための作品制作をはじめとして、世界各地でコンサート活動を行い精力的に活躍している音楽家・批評家である。本論で刀根に注目するのは、刀根が、80年代以降、音響再生メディアであるCDを演奏=再生する音響パフォーマンスを行っているからだ。また、彼が「メディアとしてのCDだけが生み出しうる何か」(刀根2001:119)としてCD作品を制作しているからだ。以下、刀根のCDパフォーマンスとCD作品を、マークレイと比較していきたい。

刀根がCDを演奏=再生するパフォーマンスを思いついたのは1984年だ(TONE and Obrist 2007: 73)。彼は、CDテクノロジーを誤作動させて「ノイズ」を生成するというアイデアを思いつき、翌年から、CDの裏面にテープを貼り付けてCDの「正常な」読み取りを阻害することで「ノイズ」を生成させる音響パフォーマンスを始めた(画像5)。そして1986年に《Music for 2 CD Players》という「CDテクノロジーを誤作動させる音響パフォーマンス」が初演された。このパフォーマンスでは、CDプレイヤーの正誤補正メカニズムの許容量を超えてCDの読み取りが阻害されるので、結果的に、演奏=再生される度に、毎回、予測不可能で多様な相貌を持つデジタル・ノイズが生成される。刀根は当時、「デジタル録音に関する技術的な知識を探していたところ、デジタル録音はバイナリ・コードからできていることに気づいた。だから、バイナリ・コードを変化させれば、全く違う音、未知の音が生じる。対してアナログ録音をスクラッチすれば、どんな音が生じるか予測できる。しかし、デジタル録音なら予測できない」(73)ことに思い至った。そうして考案されたこの作品では、一秒後の音の行方さえも予測できない―どのような高さでどのようなリズムのデジタル・ノイズが算出されるかは誰にも予測できない―ほどの多様な相貌を持つ音が生産される。

ここで注意したいのは、刀根が「CDを誤作動させるCDパフォーマンスのCD作品」を制作するロジックである。刀根によれば、刀根はCDリリースのオファーを受けたが「私の曲はどれも録音には向いていなかった」ので、「ライブ演奏がまったくなく、メディアとしてのCDだけが生み出しうる何かをつくらなくてはならなかった」(刀根2001:119)。だから《Musica Iconologos》(1992)(CDリリースは1993)が考案された。これは、古代中国の詩テクストを構成する個々の古代の漢字をスキャンして画像化し、そのデジタルデータを音声データとして読み取り、CDに音声として記録したものである。「CDテクノロジーを誤作動させるCDパフォーマンス」とは異なり、この作品は「CDのマスタリングをして初めて曲が存在」する「ライブ演奏がまったくない」(119)作品とされる(この作品については、他にMarulanda 2007も参照)。

では、なぜ刀根は、自分の他の作品は録音には不向きで、《Musica Iconologos》(1992)はライブ演奏されるものではない、と考えたのか?

おそらくそれは、まず第一に、刀根が言うように「曲の形態上の諸側面ー音の空間的な動き、アコースティックな音と増幅した音の対比、視覚的な要素の使用」(刀根2001:119)といったポイントが再現できないからだ。しかし第二におそらくそれ以上に、刀根が、ケージと同じく、不確定性という要素を必要とするからだといえるだろう。

3.2.刀根康尚の前提:録音の否定と不確定性

刀根はその「録音」理解において、ケージと問題意識を共有している。

刀根2001はケージとレコード(=録音)の関係を整理して考察したもので、そこではケージが録音を否定した理由が詳細に検討されている。刀根によれば、確かにケージは ナマの音楽の代用としてのレコードという考え方には反対していたが、レコードの意義(自作の流通、記録など)を全否定したわけではない。ケージは自作を流通してくれるレコード会社の人間には喜んで会ったし、レコーディング・アーティストへの協力も惜しまなかった。また、放送局で使用する試験放送用の周波数レコードを音源として用いる《想像上の風景第一番》(1939)のように「ケージはレコードを使って音楽をつくることは拒まなかった」(刀根2001:118)し、「録音を研究素材という積極的な意味でライブ演奏の代用だと考えていた」(120)。

刀根によれば、ケージが録音やレコードに反感を抱いていたのは「ケージのほとんどの作品は録音という実践によって損なわれ」(刀根2001:120)るからである。つまり録音は、ケージの音楽にとって重要なコンセプトである不確定性を損なうのだ。ケージにとって、不確定性とは、ある曲が演奏されるたびに音響結果が不確定で毎回異なるものになる性質のことである。これは、図形楽譜等を用いることで、シニフィアンとしての楽譜上の音符と、その音譜が指示するはずのシニフィエとしての音響との関係を聴覚的に断絶させることで獲得される性質だといえる。ケージにとってこの性質の確保は重要だった(ケージの不確定性については中川2008bも参照)。というのも、ケージにとっては、音響は作曲家の意図や感情を表象(=再現前)するための媒体となるのではなく、“それ自身のために存在すること”が何よりも重要だからだ。しかし録音は、音響を確定してしまうことで「不確定性」というコンセプトを崩壊させ、音を「表象(=再現前)システム」に従属させてしまう。なのでケージは、録音が「現前の反復、あるいは再現前としての複製」(刀根2001:123)となることを否定したのだ。

刀根もまたケージ的な不確定性を要求する。それは予測不可能な音響の実現を目指す刀根のCDパフォーマンスから明らかだ(Marulanda 2007: 89)。また、刀根によれば、ケージは自分のCDパフォーマンスを認めてくれたが、それは刀根の推測では 、刀根のCDパフォーマンスでは「[CDが歪められているので]まったく予期しない音が生まれただけでなく、コントロール機能が乱されて、CDの進行も予測できなくなった」(刀根2001: 118)からである。刀根のCDパフォーマンスは、「表象(=再現前)システム」に従属しない音響を生産することで不確定性を確保するものだったからこそケージに賞賛されたのだ。

二人の更なる比較考察は別の機会に譲る9。ここではマークレイと刀根の比較のために次のことを確認するに留めておきたい。つまり、刀根の音響作品ではケージ的な不確定性の要求の正当性は自明で必要不可欠な前提として要請されており、それゆえ刀根の活動は「ケージ以降」という文脈の中で解釈されるべき活動だ、ということである。刀根もケージも、レコードをはじめとする音響テクノロジーが、音響を表象(=再現前)として現前させてしまうがゆえに―これはほとんどの音楽消費者にとっては複製テクノロジーを介した音楽経験の基盤だが―否定せねばならないというロジックを共有しているのだ。

3.3.刀根康尚とマークレイの比較:音響メディアとの距離

さて、それゆえ、刀根とマークレイは、音響メディアに対するスタンスにおいて決定的に異なる。ケージや刀根にとって重要なのは音響記録再生テクノロジーの超歴史的機能なのに対して、マークレイにとって重要なのは音響メディアの持つ社会的受容とその歴史性なのだ。

ケージや刀根にとって、音響メディアの歴史性はそれほど重要ではないようだ。そもそも音響記録複製テクノロジーとは、音波振動を、アナログの波形情報あるいは0と1の羅列としてのデジタル情報を、何らかの物質的媒体(蝋管やビニールや磁気テープ、あるいはCDなど光ディスク)に記録し、その記録を解読して音響として(再)生産するテクノロジーである。つまり、元の音(=「原音」)と再現される音(=「複製音」)との間には、決して、本質的で必然的な同一性などはなく、まるで同一であるかのように感じられることはあっても、「原音」と「複製音」が完全に同一のものとなることはない。それゆえ蓄音機が発明された当初は、「複製音」は、蓄音機という機械が新たに生産する音として理解されることもあった―だから蓄音機はReproducing Machineではなく、Talking Machineという、ある種の楽器に類した名前で呼ばれたのだ―。要するに、「原音≒複製音」という理解や、音響を「表象=再現前」させるシステムという「録音」観は、音響記録複製テクノロジーの「本質」に基づくものではなく、歴史的に形成された言説である(Sterne 2003など、近年の音響メディア論や聴覚文化研究の成果を参照)。しかし刀根やケージにとって反対すべき対象として重要なのは、超歴史的に措定された、「録音」の「表象=再現前」という機能なのだ。

対してマークレイにとっては、音響メディアの歴史性、音響テクノロジーの社会的定着プロセスは重要である。というのも、彼にとって重要なのは、社会的に受容されて文化の一項目として登録されたものとしての音響テクノロジー―さらには、その再生音とそれらが人々の知覚に与えた影響―だからだ。マークレイにとって重要なのは、音響テクノロジーやそれが生み出す「複製音」の社会的な受容なのだ。マークレイは、「レコードの音」のみならずプランダーフォニックスを用いてステレオタイプを抽出して提示する音楽家なのだ。

確かにマークレイは、レコードを楽器として用いたりレコードの物質性を強調することで―つまり「レコードの音」を用いることで―、音響メディアの物質的・媒介的性格を前景化する。これは「表象=再現前としての録音」という理解を相対化しようとするものだから、この点では刀根やケージと問題意識を共有している。しかしマークレイは、プランダーフォニックスを用いてステレオタイプの抽出と提示を志向することで、音楽と音響テクノロジーが現実に社会的に受容され流通している現状に働きかけようとする音楽家だった。プランダーフォニックスは聴き手の集合的あるいは個人的な記憶に働きかけるための音響だし、ステレオタイプの抽出と提示とは、人々の集合的記憶が持つ共通傾向の抽出と提示だ。つまりマークレイにとって重要なのは、音響テクノロジーの超歴史的機能よりも、人々の集合的な記憶の内部における音響テクノロジーと音楽の受容状況なのだ。

このように刀根とマークレイでは、音響メディアとの距離が異なる。刀根は、「音響テクノロジーの超歴史的な機能の相対化」を自分の芸術活動の出発点に置いている。対してマークレイは、「レコード・テクノロジーが現実に社会に流通してきたという事実」に基づき、音響メディアの社会的受容状況に関わりながら芸術活動を行う10

またそれゆえ刀根とマークレイでは、ケージに対する距離も異なるといえよう。基本的にはケージの問題圏の内側で活動する刀根に対して、マークレイは、ケージ的な問題圏から切断された領域で活動している。マークレイとケージの親近性は様々に指摘できる。いずれも「再生メディア」を「音響生成メディア」として利用する音楽家だし―ケージ《想像上の風景第一番》(1939)はレコードを音源として利用した最初期の例である(細川1990など)―、ケージ《4'33''》(1952)とマークレイ《Record Without a Cover》(1985 )(画像6)の両作品が典型的にそうであるように、いずれも通常の音楽聴取を支える枠組みに注意を促すことで「聴取」や「音楽」経験の変質を志向する音楽家だし11、また、マークレイの視覚美術作品にケージの影響を観察することも可能だ12。しかし両者は、音響メディアに超歴史的機能を措定するか否か、そして音響メディアの社会的受容状況や歴史性を重視するか否か、という点で、決定的に異なる、といえるのではないだろうか。それゆえ、マークレイとケージの差異は、ケージ的な実験音楽の射程を測定し、「(ケージ的な実験)音楽」と「サウンド・アート」との差異を考察するための軸の一つとして役立つのではないだろうか。この仮説を提示することで、本研究を、現在構想中の「サウンド・アート」論の一部として位置づけておきたい。音響メディアに超歴史的機能を措定するか否かは、音楽とサウンド・アートを区別する基準の一つとして有効なのではないだろうか。

4.まとめにかえて

以上、音楽家としてのマークレイについて概観してきた。音楽家としてのマークレイは、レコード・プレイヤーを演奏=再生して「レコードの音」とプランダーフォニックスを用いることで、1.創作対象の物質性を強調し、2.コラージュと即興という手法を用いて 3.ステレオタイプの抽出と提示を行う 音楽家だ、と整理できよう。また本論では、マークレイと同じように音響再生メディア(CD)を音響生成装置として用いる刀根康尚をとりあげ、マークレイと比較することで、マークレイの独自性を音響メディアの歴史性・社会性を重視する点に求めた。私は、音響メディアの歴史性に対するスタンスの違いは「(ケージ的な実験)音楽」と「サウンド・アート」との境界線を規定するのではないか、という仮説を提出した。

シンプルなマークレイ解釈を提示し、「音楽」と「サウンド・アート」の差異を考察する軸に関する示唆を得たことで、本論の目的は達成できた。「サウンド・アート」研究の中に本研究をケース・スタディの一つとして位置づけ、音楽とサウンド・アートに関する更なる考察を今後の課題として提出することで、本論を終えることとしたい。

参照文献

Block, Ursula, and Michael Glasmeier. 1989. Broken Music: Artists' Recordworks. Exhibition Catalogue. Berlin: DAAD and gelbe Musik.

Criqui, Jean-Pierre, ed. 2007. Christian Marclay: Replay. Zurich: JRP/Ringer.

クリス・カトラー 1996 『ファイル・アンダー・ポピュラー』 小林善美(訳) 東京:水声社(原著:1985)。

Ferguson, Russel. 2003. “The Variety of Din.” Marclay et al. 2003: 19-58.

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Marotti, William A. 2007. “Sounding the Everyday: the Music group and Yasunao Tone's early work.” TONE 2007: 13-33.

Marulanda, Federico. 2007. “From Logogram to Noise.” TONE 2007: 79-92.

中川克志 2008 「『ただの音』とは何か?-ジョン・ケージの不確定性の音楽作品の受容構造をめぐって」 京都市立芸術大学美術学部(編)『研究紀要』第52号(2008年3月):35-45。

---. 2010 「クリスチャン・マークレイ試論-見ることによって聴く」 『京都国立近代美術館研究論集 CROSS SECTIONS』 Vol. 3 (2010) 2010年12月刊行予定。

ジョン・オズワルド 1998 「プルンダーフォニックス あるいは作曲特権としての音響海賊行為」 小林善美(訳) 『ユリイカ 特集:解体する[音楽]』30.4(1998年3月): 180-193。

Sterne, Jonathan. 2003. The Audible Past: Cultural Origins of Sound Reproduction. Durham: Duke University Press.

刀根康尚 2001 「ジョン・ケージとレコード」 柿沼敏江(訳) 『インターコミュニケーション 特集21世紀のための音/音楽ガイド』第35号:116-125 (Tone, Yasunao. 2003. “John Cage and Recording.” Leonardo Music Journal, 13: 11-15.)。

TONE, Yasunao. 2007. Noise Media Language. Critical Ear series Vol.4. Canada: Errant Bodies Press.

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180年代にも多くの展覧会にグループ展で出品しているが、国際的な評価を得たのは90年代以降だろう。2003年にはthe UCLA Hammer Museumで大規模な個展が開かれ(Marclay et al. 2003)、2005年にはPhaidonからマークレイだけを扱った本(González et al. 2005)も出版された。

2先行研究について。

音楽と美術の双方の領域で、マークレイのライブや展覧会に関するレビューは無数にある。ある程度まとまった考察が展開されている論考は、Marclay 1994; Marclay et al. 2003; 『Parkett,』誌の第70号(May, 2004); González et al. 2005などである。現段階ではマークレイに関する考察は、Marclay et al. 2003とGonzález et al. 2005の二冊に集約されているといえよう。本論でも、以下、基本的なデータについてはこの二冊を参照する。とはいえ、いずれも美術家あるいは音楽家としてのマークレイ像に偏っているように思われる。

また、その他に重要な一次文献としてCriqui 2007があるが、これは、90年代後半以降の彼の映像作品に的を絞った展覧会のためのカタログである。本論ではマークレイの映像作品には言及しない。

3レコードを素材として用いる視覚芸術の系譜については、『Broken Music』(Block and Glasmeier1989)を参照。とはいえこの系譜は、まだ十分調査されていない。今後の私の研究課題としてあげておきたい。

4マークレイがレコードを使い始めた別の理由として。

しばしばマークレイは、自分が成長したスイスとその後の生活の場となったアメリカとの文化的差異に言及する。マークレイによれば、スイスでは貴重品だったレコードがアメリカでは時にはガラクタとして乱暴に扱われていることに衝撃を受けて、レコードをモノとして扱うアイデアを思いついた。

なので、ヒップホップ文化とマークレイにとっての「楽器としてのレコード」の差異は、レコードが各々の生活環境の中で占めていた差異に求めることも可能だろう(Marclay and Kahn 2003は、特に、スイスとアメリカの文化的相違という観点からマークレイのインタビューを構成したものであり、興味深い)。また、ヒップホップのDJたちとマークレイの最大の違いは、マークレイが、レコードの物質性を強調しつつ、最終的にはレコード・メディアの媒介的性格を浮き彫りにするまでに至る点であると評価することもできよう。

5「プランダーフォニックス」を直訳すると「剽窃音 plunderphonics」となる。そもそもジョン・オズワルドはこの言葉を、他人が制作・録音した音(音楽)を、著作権法に縛られずに勝手に使って制作された音楽を指す言葉として考案した。資本主義的な論理に基づく著作権法は芸術制作において作動する論理と齟齬をきたすこと―他者の制作した音響とその聴き手への作用力の使用は、著作権法的には禁止されるが、芸術制作の方法論としては採用されるものだ―例えば、マイケル・ジャクソンという大いなるポップ・アイコンの特徴的なシャウトの利用・パロディ・誇張等々―という問題提起をするために、逆説的に「剽窃」という言葉を採用したのが「プランダーフォニックス」だといえよう。

とはいえ、この観点から芸術家としてのマークレイを探求してもあまり実りはない。マークレイはあまり著作権に関する問題意識は持っていない(例えばMarclay 2005a: 124-125では、マークレイは「私はミリオンセラーのアルバムは作らないから、誰も気にしない。」としか、述べない)。

6即興演奏に対するマークレイのスタンスついて。

1999年にマークレイが京都に来た時、私は彼に、即興演奏をする時の指針はあるのか、と尋ねた。彼は“It’s just like, jumping off into somewhere, somewhere you don’t know.”と答えてくれた。マークレイが、即興演奏の限界-結局のところ何らかの無意識的記憶に依存した繰り返しに過ぎない、といったよくある即興演奏批判-を、どのように考えているかは分からない。もしかしたらマークレイにとって重要なのは、即興演奏という音楽活動よりもむしろ、何よりもまず「レコード」を用いた芸術活動(=音楽活動)なのかもしれない。いずれにせよ、マークレイが行う即興演奏は、別に、何らかの特定の美的議論を踏まえたものではないことは指摘しておこう。

7以下の12曲が収録されている。

1. Johann Strauss / 2. John Zorn / 3. Martin Denny / 4. Frederic Chopin / 5. Fred Frith / 6. Louis Armstrong / 7. Arthur Ferrante and Louis Teicher / 8. John Cage / 9. Maria Callas / 10. Jimi Hendrix / 11. Jane Birkin and Serge Gainsbourg / 12. Christian Marclay

8レコード・メディアが持つアーカイヴとしての機能に関連するものという作品解釈は、ジェニファー・ゴンザレスの指摘を参照した。彼女はこれ以上議論を展開するわけではないが、このアルバムでは「その時には単一の音楽的出来事として過ぎ去っていくものを永遠に留めようとする、アーカイヴとしてのメディアの重要性」(González 2005: 33)に注意が促されている、と言及する。

9本論ではこれ以上考察は展開しないが、マーランダーによるケージと刀根の不確定性の比較(Marulanda 2007: 88-90)は出発点として参考になろう。

10とはいえ、マークレイは、1980年代半ばに起こった音響メディアの変化ーレコードからCDへーには、あまり反応していない。マークレイは、音楽のためのメディアがレコードからCDやMP3に変化したという事実には言及するが、では、80年代以降のレコード・メディアがいかなる存在か、といったことには言及しない(Marclay 2005a: 125-126)。マークレイは、新しいDJ文化―新しいターンテーブリズム、自分のようにヒップホップとは異なる文脈でレコードを楽器として使う音楽家たち―と新しいターンテーブリストの登場には言及するが、例えば、なぜCDを楽器として使わないか、といったことには触れない(González 2005: 32)。

11ケージ《4'33''》(1952)は、舞台上で演奏家が四分三十三秒間何も演奏しないことで、逆に、聴衆に、その場に存在する環境音に注意を促す「沈黙の不在」を宣言する作品だった。

また、マークレイ《Record Without a Cover》(1985)も単純な仕掛けで多様な効果をもたらすシンプルで力強いコンセプチュアルな作品である。詳細は中川2010を参照。

このレコードには、他のレコードのスクラッチ・ノイズやスキップ・ノイズが録音されており、また、このレコードにはジャケットやスリーブがないので、レコードそのものが傷ついてノイズを発するようになることが意図されている。それゆえこのレコードを再生すると、もともと録音されていたノイズと、そのレコード自身が被った傷によって発せられるノイズが同時に再生される。つまりこの作品では、メディアとしてのレコードが再生産するノイズ(=元々録音されてきたノイズ)と、物質としてのレコードが生産するノイズ(=傷つけられて発することになるノイズ)が、等置されるのだ。それゆえこの作品は、通常は「録音」の背景に退いている「レコードの音」を提示する作品であり、音楽聴取の「背景」に常に存在する環境音に注意を促す《4'33''》(1952)の「録音作品」として位置づけられる(刀根2001: 125;あるいはFerugson 2003: 41-42)。両者ともに、「普通の音楽聴取」においては「地」となるもの(環境音あるいは「レコードの音」)に注意を促すのだ。

12例えばゴンザレスは、美術家/音楽家としてのマークレイに対する作曲家としてのケージの与えた影響として簡単に三点指摘している(González 2005: 26)。ゴンザレスによれば、ケージはマークレイに、1. 楽器としてのレコードの利用というアイデア(26)、2. 映像作品における音と映像の同期方法(カニンガム・ダンス・カンパニーの音楽のように、同期しないというアイデアを与えた存在として)(61)、3. マークレイの電話作品の一つであるCage, 1993(吊るされた鳥かごの中にダイアル式の電話が入っている、という電話作品)という作品の参照対象として(74)、ヒントを与えた存在である。とはいえ、ゴンザレスは簡単に言及するだけで、それ以上の考察はない。

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