2019年03月サウンド・アートの系譜学 :台湾におけるサウンド・アート研究序論その2

サウンド・アートの系譜学

台湾におけるサウンド・アート研究序論その2

中川克志

(ここで公開している論文たちには校正での訂正が反映されていない部分があり、実際の掲載稿とは若干相違があります。また図版は掲載していません。引用などの場合、必ず、公開された原文をご参照ください。)

1. はじめに

本稿は現在継続中の台湾におけるサウンド・アート研究の中間報告である。本研究は資料調査と複数回のインタビュー調査を組み合わせた工程を予定しており、本稿は2017年8月に行ったインタビュー調査と史料調査に基づく研究ノートである。前回の中間報告(中川2018)に引き続き本中間報告も、現段階で報告できることを整理してアウトプットしておくことで、基本的な問題意識を再確認し、今後の調査の焦点を鋭角化させることを目指す。本稿では、2017年8月に行ったアートスペース立方計劃空間(TheCube Project Space)の運営者である羅悅全(Jeph Lo)さんと鄭慧華(Amy Cheng)さんへのインタビューを中心に、羅悅全(Jeph Lo)さんのテキストを参照しつつ、1990年代の台湾におけるサウンド・アートの歴史の概要を描く。

本研究は、サウンド・アートをめぐる日本とアジアの状況を比較考察することで、「サウンド・アート」なる概念、ターム、レッテルが、いかなる機能を持ち得るかを考察しようとしている。台湾におけるサウンド・アートは、欧米日のサウンド・アートとは異なる歴史と文脈のなかで発展してきたもので、比較対象として興味深い。なぜなら、単純化した言い方だが、欧米日の「サウンド・アート」という言葉は美術の文脈で使われることが多いように思われるのに対し、台湾における「サウンド・アート」という言葉の指示対象は実験音楽やジャンルとしてのノイズが中心的であるように思われるからである(もちろん、台湾の美術の文脈でも「サウンド・アート」という言葉は使われるし、欧米日の音楽の文脈でも「サウンド・アート」という言葉は使われる。あくまでも程度問題である)。こうした事例は、例えば「taiwan “sound art”」といったフレーズ検索を行うだけですぐにたくさん見つかる。検索結果には確かに美術館やギャラリーで展示されるタイプの「サウンド・アート」も出てくるが、多くは、欧米日ならば「実験音楽」や「ノイズ」と呼ばれるものではないだろうか。台湾と欧米日の「サウンド・アート」という言葉と実態の違いはあくまでも程度問題でしかないかもしれないが、程度問題にせよ、その偏差に注目し、台湾におけるサウンド・アートと日本におけるサウンド・アートを比較することで「サウンド・アート」なる概念、ターム、レッテルの機能を明らかにできるだろう。これが本研究の出発点となる基本的な作業仮説である。

また、本研究は、90年代以降の日本と台湾に注目し、サウンド・アートが輸入されて定着していくあり方に注目することで、アジア諸国間に見いだせる西洋文化輸入の偏差や相互影響関係を明らかにして、アジア諸国間の文化的差異と独自性のより深い理解に貢献できるのではないか、と考えている。本研究は、より広い文脈においては、アジア諸国間の文化的力学の解明に貢献することを目指しており、どの程度貢献できるかは未だ不明ではあるが、少なくとも問題関心の根っこにおいては、例えば、90年代以降の日本文化がアジア諸国と取り結ぶ関係について詳細に分析してみせた岩渕功一『トランスナショナル・ジャパン』(岩波現代文庫、2016年)などに触発されている。

以上のような問題意識のもと、私は、台湾のアーティストや研究者あるいはギャラリストたち自身が「サウンド・アート」をどう理解しているか、を知るためにインタビュー調査を行っている[1]。インタビューイ自身の文章や過去のインタビューなどから、彼らの活動の多くを知ることはできるが、私は、彼らが「サウンド・アート」という言葉と対象をどのようなものとして理解しているのかを知りたかった。彼らはジャンルとしてのノイズや実験音楽とサウンド・アートとを区別しているのかどうか、「サウンド・アート」という言葉と対象はいつ頃どこから出現して使われるようになったのか、それは欧米日やアジア諸国内外とはどのような関係にあると考えているのか、といったことである。そういったことを知るために、私は、アーティストたちがどのような歴史的パースペクティヴを持っているのか、どのようなアーティストから影響を受けたのか、どのような歴史や理論を知っているのか――「実験音楽」、ケージ『サイレンス』、小杉武久、鈴木昭男、アルヴィン・ルシエ等々を知った時と場所など――、といったことを質問した。実際のインタビュー調査では会話の流れの赴くままに1,2時間ほど自由に話をしていたので、半構造化インタビューというほどにも構造化されたものではなかったが、それでも、「台湾におけるサウンド・アート」という問題圏の一端は理解しつつあると考えている。

当然ではあるが、台湾におけるサウンド・アートもノイズもインディーズも、それ自体は狭いかもしれないが歴史的にも社会的にも複雑に構造化された領域である。本研究の目的は、あくまでも、比較考察事例として台湾におけるサウンド・アートをとりあげようとするものであり、本稿はその準備作業である。

断っておかなければいけないことがある。私がここで「サウンド・アート」と記述しているものは、漢字で「聲音藝術」、英語で「sound art」と記述されるものだということである。私は英語で調査したので、以下の記述で言及される「サウンド・アート」は正確には「sound art」のことである。おそらく、「サウンド・アート」と「聲音藝術」と「sound art(欧米で使用される場合/日本で使用される場合/アジア諸国で使用される場合)」は、すべて意味内包が少しずつ異なる。しかし、それぞれに意味が異なることは承知のうえで、また、最終的にはそれらの意味の差異を明確にすることも本研究の目的であるが、本稿ではそれらは今後の課題として問題とせず、一括して「サウンド・アート」と記述する。

表記について。本文中の人名表記は、基本的には、初出時には「漢字名(英語表記)」と記すが、それ以降は既述簡略化のために適宜通称を用いた。ただしdinoなどアルファベット表記が通称として通用している場合はそれを尊重した。また、以下、敬称略させていただく。また、本文中で参照するurlへのアクセス最終日は、すべて、2019年1月15日である。

2. インタビューとテキストについて

台湾におけるサウンド・アートの概要を描くために私が参照するのは、羅悅全(Jeph Lo;以下、ジェフと呼称)と鄭慧華(Amy Cheng;以下、エイミー)に行ったインタビューとジェフのテキスト(LO2011、LO2018)である。両者について説明しておく。

インタビューについて。私は2017年2月と8月に、台北市南部の公館夜市近くにあるふたりが運営しているアートスペース立方計劃空間(TheCube Project Space;以下、キューブ)で、ジェフとエイミーにインタビューを行った。インディペンデント・キュレイターであるエイミーは、2011年の第54回ヴェネティア・ビエンナーレの台湾館のための「The Heard & The Unheard: Soundscape Taiwan」という展示や、2014年に台北市(と後に高雄市)で開催された『造音翻土:戰後台灣聲響文化的探索(ALTERing NATIVism: Sound Cultures in Post-War Taiwan)』展などを企画している。ジェフは音楽批評家で、それらの展覧会の企画や図録作成にも関わっているし、台湾のサウンド・アートについてもたくさんの文章を発表している。キューブは、サウンド・アートに限らず現代アート全般の調査、制作、展示のためのアートスペースとして2010年に設立され、それ以来、多くの同時代の現代美術を紹介したり、フォーラムを企画したり、出版物を制作したりしてきた場所である。

そもそも私は、2015年の夏に、高雄市に巡回していた展覧会『造音翻土:戰後台灣聲響文化的探索』を見たことで(また、事前にFacebookで知り合っていた林其蔚(LIN Chi-Wei;以下、リン・チーウェイ)[2]と台北で会って話したことで)、1990年代以降の台湾における音響的アヴァンギャルドの動向に関心を持つようになった。前回の中間報告(中川2018)でも述べたが、展覧会では、1987年に戒厳令が解除された後の台湾では様々な種類の音楽が爆発的に登場したことが紹介されていた。台湾では90年代以降にインディーズのロックやノイズやレイヴが登場し、00年代以降はさらに新しい動向も生じていることが紹介されており、私は、同じアジアでありながら日本とは似て非なるその西洋化と近代化のあり方と濃縮度に関心を持ち、欧米日と台湾における「サウンド・アート」という用語と実態の相違を比較することに関心を持ったのだった。

そこで私は、2人からは、台湾におけるサウンド・アートの概観を中心に話を聞いた。2人は、1980年代、90年代、00年代の台湾におけるサウンド・アートの展開といくつかのキーとなる出来事について話してくれた。

テキストについて。私は、90-00年代の台湾におけるサウンド・アートの動向を知るうえで、ジェフの2つのテキスト(主としてLO2011、補足的にLO2018)を大いに参照した。ジェフは台湾におけるサウンド・アートについて折に触れ書いている。彼の歴史的パースペクティヴに私が初めて触れたのは、展覧会『造音翻土:戰後台灣聲響文化的探索』とその会場で配布されていたリーフレットだった。これはジェフとエイミーと、輔仁大学(Fu-jen University)の何東洪(HO Tunghung)がキュレーションしたもので、台湾における20世紀初頭から21世紀初頭までの聴覚文化の歴史を5つの領域に区分して紹介する展示だった。展示構成やリーフレット解説におけるこの三人の役割分担は不明だが、ジェフの歴史的パースペクティブは他のテキストでも発表されている。私が参照したのは、エイミーが2011年の第54回ヴェネティア・ビエンナーレのために企画した展示のためのテキスト(LO2011)と、2018年9月に発表されたテキスト(LO2018)である。後者は、台湾の「サウンド・アーティスト」を紹介する書籍『噪集:灣聲響藝術家選集(Noise Assembly: A Selection of Taiwanese Sound Artists.)』(Noise Assembly 2018)に収録されているもので、この本は、大友良英とdj sniffとユエン・チー・ワイ(Yuen Chee Wai)のAsian Meeting Festivalが臺北藝術節(Taipei Art Festival)のプログラムとして台北市で開催した「噪集(Noise Assembly)」というコンサートに際して出版された書籍である[3]

ジェフのテキストは、1987年に戒厳令が解除された後、90年代から2000年代に生じた台湾の音響的なアヴァンギャルド――ジェフは「台灣聲音解放運動(あるいは聲響解放運動)(The Taiwanese Sound Liberation Movement)」と呼ぶ――の活動をたどり、その活動を同時代の台湾の社会的文化的背景に関連付けて記述している。ジェフの歴史の主役はあくまでも「台灣聲音解放運動」であり「台湾のサウンド・アート」ではないかもしれないが、その主な登場人物にはリン・チーウェイや後述の王福瑞(WANG Fujui;以下、ワン・フーレイ)がおり、「台湾におけるサウンド・アートの歴史」として参照できる。台湾の状況に集中するジェフの歴史は、リン・チーウェイの『超越聲音藝術:前衛主義、聲音機器、聽覺現代性』とは異なる。後者は、リン・チーウェイが2003年に留学先のフランスから帰国した時にサウンド・アートをめぐる歴史や知識が台湾では欠けていることを知り、それを補うために書かれたもので(Noise Assembly 2018: 91-92)、西洋の事象に関する記述だからである。また、ジェフの歴史は、同じく台湾におけるサウンド・アートを題材とする陳芯宜(CHEN Singing)の制作中のドキュメンタリー映画『如果耳朵有開關(Ears Switched Off and On)』とも異なる。後者は個人に焦点を当て、ワン・フーレイ、dino、リン・チーウェイという三人に90年代の動向を代表させることで、台湾に生じた音響的アヴァンギャルドに光を当てようとするのに対し、ジェフの歴史はイベントを結節点として台湾における音響的アヴァンギャルドの概要を90年代から00年代まで理解しようとするものだからである。台湾におけるサウンド・アートの概要を考えるにはジェフのテキストの方が応用範囲が広く適している。

3. 90-00年代の台湾におけるサウンド・アートへのパースペクティヴ

ジェフの歴史的パースペクティヴは、台湾におけるサウンド・アートは90年代前半に起源があり、95年前後に重要なフェスティヴァルが開催され、95年以降に少しフェーズが変化した後、00年以降には新しい文化的布置のもとで新しい世代が登場した、というものである。以下、インタビュー調査の成果とテキストの内容を簡単にまとめておく。

80年代

2人によれば、台湾にも1986年以降には「underground music」という言葉があった。ただし、それは輸入されたNYの音楽を意味する言葉で、NYのアンダーグラウンド・ミュージックでさえなかったらしい。また80年代にはすでに、何穎怡(HO Ying-yi)[4]ら音楽批評家たちがそうした英米圏のポピュラー音楽について語っていたし、彼らはインダストリアル・ミュージックやワールド・ミュージックを輸入していた。80-90年代には音楽批評家たちはこれらの音楽を「new music」と呼んでいたらしい。戒厳令解除以前の台湾におけるこうした大衆文化の諸相は、サウンド・アートへの直接的・間接的影響という観点からも大変興味があるが、残念ながら私はよく知らない。台湾におけるサウンド・アートの歴史にとって重要なのは、ジェフが「sound liberation movement(聲音解放運動)」と呼ぶ90年代以降の動向である。ジェフによればこれは彼の造語で、何穎怡(HO Ying-yi)らが輸入していたポピュラー音楽とは異なり、ワン・フーレイが初めて台湾に紹介したノイズや、リン・チーウェイがやっていたグループZ.S.L.O. (Zero & Sound Liberation Organization、零與聲音解放組織)などの活動を指す言葉である。つまり、これは何らかの運動というよりも、既存のクラシック音楽やポピュラー音楽の枠組みを動揺させるような音響的アヴァンギャルドを指す言葉だと言えよう。ジェフによれば「聲音解放運動がサウンド・アートである(sound [liberation] movement is sound art)」し、そこには「[80年代の台湾における]アンダーグラウンド・ミュージックも電子音楽もノイズも含まれる」とのことである。「サウンド・アート」という言葉が主として実験音楽やジャンルとしてのノイズを意味する言葉として使われている事例といえよう。

90年代以降のジェフのパースペクティヴ

ともあれ、ジェフとエイミーが自身の学生時代を振り返りつつ語ってくれたところによれば、台湾では、1990年代にすべてが同時に花開いたとのことである。1987年に戒厳令が解除された後の台湾には、容易に想像できることではあるが、様々な種類の音楽がほぼ同時に流入し、あるいは、台湾で制作されるようになったらしい。正確にはそれ以前から戒厳令下においても欧米日の文化は流入していたし人的交流もあったようだが、2人にとっては、戒厳令が解除されて検閲がなくなり、また、インターネット環境が整備されつつあった90年代には「すべてがゼロから始ま」り、「すべてが一緒になって台湾のサウンド・アートになった」かのように感じられたらしい。

具体的には、90年代前半には、ワン・フーレイが「Noise」(1993年設立)を始めた。これは台湾に初めてノイズを輸入した雑誌かつレーベルで、ワン・フーレイは、これ以降、台湾サウンド・アート界のパイオニアかつ現在にまで至る重要人物の一人である。また、1994年に吳中煒(Chung-wei Wu)なる人物が台北破爛生活節(Broken Life Festival)を主催し、翌1995年には吳とリン・チーウェイが台北國際後工業藝術祭(Taipei Post-industrial Arts Festival)(あるいは第二次台北破爛生活節(the 2nd Taipei Broken Life Festival))を開催した。これらについては後述する。この時期の動向をジェフは第一次聲音解放運動と呼んでいる。90年代後半には、ジェフが第二次聲音解放運動と呼ぶレイヴ文化などが登場し、00年代以降にはワン・フーレイとその学生を中心とする新たな展開が始まる。概括的に述べればこれがジェフのパースペクティヴである。

このあたりの事情をLO2011も参照しつつ整理しておこう。

90年代前半:戒厳令〜学生運動〜ふたつのフェスティヴァル

蒋介石政権下の1949(民国38)年5月19日に布告され、五一九緑色運動の高まりを受けて蒋経国総統が1987年7月15日に解除した世界最長の戒厳令の後、台湾では民主化が進行していった。台湾の民主化を主導したのは当時の政権与党である国民党の李登輝総統だが、1990年3月16-22日に発生した三月学生運動(台北学生運動あるいは野百合学生運動)に代表される学生運動も、一般大衆に民主化の意識を喚起して李登輝の政治闘争を後押しするなど、「下からの改革」に貢献した(篠原2014、篠原2015など)。

個々のアーティストがどの程度そうした学生運動や民主化の動向に関連していたのかは今はまだ不明である。ジェフによれば90年代前半には、台湾で作られた雑誌や輸入された雑誌が、合衆国とUKのパンクやインダストリアル・ノイズの情報を伝えていたらしいので、そうした外部からの情報にも影響を受けたはずだが、ジェフは、台湾の音響的なアヴァンギャルドの登場の背景にこの民主化という劇的な社会変革もあったと考えている[5]。ジェフは、この時期の台湾における音響的アヴァンギャルドの背景には「統治に裂け目があった時期に古いものから新しいものへと社会秩序が移行して完全に改革されたこと」(LO2018:21)があり、また、この時期のノイズは、特定少数のアーティストによって主導されたものではなく「戒厳令解除後のカウンターカルチュアの共同創作物だった」(LO2018: 43)と指摘している[6]

とはいえ、ジェフは初期の個々のミュージシャンあるいはアーティストにも言及している。マンダリンあるいは台湾語で歌うロックバンド濁水溪公社(Loh Tsui Kweh Commune (LTK Commune))、リン・チーウェイらによる3人組のノイズバンドZero and Sound Liberation Organization (Z.S.L.O.)(零與聲音解放組織)、ワン・フーレイと彼が1993年に設立した雑誌かつレコード・レーベルの「Noise」である。「Noise」は、US、UK、日本、香港のノイズ・アーティストを台湾に紹介し、台湾で初めてノイズのCD(Z.S.L.O.のアルバム)を流通させたレーベルである。

なかでもZ.S.L.O.は、90年代のノイズ・ムーヴメントを結集した重要なフェスティヴァルに関わっている。1994年の台北破爛生活節(Broken Life Festival)と1995年9月の台北國際後工業藝術祭(Taipei Post-industrial Arts Festival)(あるいは第二次台北破爛生活節(the 2nd Taipei Broken Life Festival))である。前者は吳中煒(WU Chung-wei)なる人物が、後者は吳とリン・チーウェイが主催したフェスティヴァルで、台湾国内外からミュージシャンを招き、閉鎖が決定した廃工場で行われたイベントである[7]。後者は日本の植民地時代に作られたタバコ工場で3日間に渡り開催されたもので、リン・チーウェイは、自分はアーティストあるいはリサーチャーとしてよりもこのイベントの企画者として知られている、と述べていた。いずれにせよ、このふたつのイベントは90年代後半以降の台湾におけるサウンド・アートの展開を画期するものだと言えよう[8]

90年代後半:ET@A、Atau Tanaka shock、レイヴの流れ

また、ジェフ(LO2011)によれば、90年代後半には文化的状況が落ち着き始め、様々なイベントの行われる場所も変化し、廃工場などではなく台湾にも作られるようになってきたアート・スペースでもイベントが行われるようになった。この時期の台湾におけるサウンド・アートにとって重要な動向として言及されるのは、1995年の在地實驗(ET@Tlab)の設立と後述の1998年の「Atau Tanaka shock」である。ET@T(http://www.etat.com)は黃文浩(Huang Wen-Hao)が1995年に設立した現代美術の団体で、台湾のデジタル・アートや現代美術を現在に至るまで20年以上に渡りオンライン上で紹介したりアーカイヴしたりしてきた団体であり、現在の台湾におけるアートに対するその貢献は計り知れない。

また、ジェフ(とインタビュー時にエイミーも)が強調していたことだが、95年の夏には、台湾で初めてのレイヴ・パーティーが新北市の二重疏洪道(the Erchong Floodway)で行われた。その後、多くのレイヴが野外でたいていは法的な許可を得ずに行われるようになったが、2002年以降、政府の監視が強まり、野外で行われるレイヴは減少していったらしい。

ジェフによれば、こうしたレイヴの動向は台湾における次なる台灣聲音解放運動の先駆けであり、その後、90年代のノイズ・ムーヴメントと野外のレイヴ・パーティーをミックスしたものが登場することになった。ジェフが言及するのは、元々はエレクトロニカのDJだったが実験的な音楽にも関心を持ち始めたNoise Steveが、月に一度ヘアサロンなどで開催した、エレクトロニカや実験音楽やビデオ・アートなどが一緒に提示されるHer Party(2003-2007)というパーティー[9]と、実験的な音楽や映像のためのフェスティバルである腦天氣精采照片(Weather in My Brain Sound-Visual Art Festival)(2003-2005?)[10]である。こうしたレイヴ以降の流れが台湾の90年代以降の聴覚文化におけるどの領域にどの程度影響を与えたのかはまだ私には分からない。今後の課題としておく。

2000年代以降:ワン・フーレイの活躍

ジェフ(LO2011)によれば、00年代半ば以降、台湾におけるサウンド・アートは徐々に組織化され制度化され、アカデミックな研究対象として浮上してきた。大学教育の内側に位置づけられ、定期的にパフォーマンスが行われるようになり、頻繁に新しい作品が制作されることで、90年代よりも形式的に整備されてきた。テクノロジーが進歩してラップトップが音を用いる創造活動にとって必須のツールになったことも、台湾の新しい世代のアーティストに大きな影響を与えた。

この時期の台湾におけるサウンド・アートの中心的存在となっていったのはワン・フーレイだった。彼は1993年に「Noise」という雑誌兼レーベルを始め、台湾にノイズ・ミュージックを導入し、1995-1997年にはカリフォルニアに滞在し、2000年にET@Tに参加した後、サウンド・アート(聲音藝術)」という言葉を台湾で初めて用いた“BIAS”International Sound Art Exhibition(國際「異響BIAS」聲音藝術展)(後述)を2003年に開催した。それ以降、彼は多くのフェスティバルを台湾で開催している。また、2003年以降彼は國立臺灣藝術大學で教育に従事するようにもなった。ワン・フーレイの活動は多岐にわたるが、ジェフは、2008年以降毎年開催された”TranSonic” Sound Art Festival(「超響」聲音藝術節)(後述)に言及し、こうしたフェスティバルが、次世代のアーティストのための作品発表の場を提供したことを指摘している。LO2011では次世代の動向として、i/O Labと失聲祭(Lacking Sound Fest.;以下、失聲祭)が言及されるが、個々のアーティストはまだ言及されない(Noise Assembly 2018では言及される)。失聲祭は2007年に始まった台湾におけるサウンド・アートのためのイベントで、ほぼ毎月イベントを開催していたが、私が台湾調査を始めた頃から不定期開催のイベントとなっていた。

以上、LO2011に基づくジェフのパースペクティヴの簡単な要約を終える。これは今後もジェフ自身によって更新され修正されていくだろう。とりあえずは、台湾におけるサウンド・アートについて考察するための足場として、今後の何かの参考の一助となれば幸いである。

4. 「台湾におけるサウンド・アート」という問題圏

次に、以上のパースペクティヴから、「台湾におけるサウンド・アート」という問題圏を考えるうえで重要だと私が考える何点かを記述しておく。

影響:ジョン・ケージとAtau Tanaka

90年代の台湾におけるサウンド・アートに影響を与えた存在は何だったのか。ふたりによれば、90年代には、多くの情報は日本からもたらされたらしいが、合衆国に留学した姚大鈞(YAO Dajuin)やワン・フーレイや、Z.S.L.O.の活動の後にフランスに留学したリン・チーウェイからの影響も大きかったとのことである。私には少し驚きだったのが、ジョン・ケージはアートの文脈では知られていたが、音楽の文脈ではあまり知られていなかった、という証言だった。エイミーによれば、90年代にはまだケージは美術史やクラシック音楽関連の芸術家だと考えられていたので、美術史を勉強した学生は知っていたが、サウンド・アートの文脈ではあまり知られていなかった、とのことである。ジェフによれば台湾にはケージの著書『サイレンス』の翻訳はないらしい。また、エイミーによれば、ワン・フーレイの学生の姚仲涵(YAO Chung-Han)は〈ケージの文脈ではない場所から出発して芸術学校で教え始めたワン・フーレイの文脈〉から出発したのでありケージの文脈は関係ない、つまり、「台湾のサウンド・アートはジョン・ケージの文脈ではない」とのことであった[11]

台湾におけるサウンド・アートへの影響という観点からもうひとつ驚きだったのは、ケージの代わりにというのは言い過ぎかもしれないが、1998年に「Atau Tanaka shock」とでも呼べそうなものがあった、というエピソードであった。これは私がそう呼んでいるだけで、台湾でこの事件がこう呼ばれているわけではない。これは、1998年に、ワン・フーレイが加入する前のET@T(とリン・チーウェイ)が招聘したAtau Tanakaのパフォーマンス[12]が行われ、当時それを見た台湾のサウンド・アーティストたち(音楽家たち)がみんな衝撃を受けてコンピュータ・プログラミングを勉強し始めた、というエピソードである。二人によれば、コンサートには音楽や美術をバックグラウンドとして持つ100人程度の聴衆――多くは大学生――がおり、台湾におけるサウンド・アートにも大きな影響を与え、リン・チーウェイやZ.S.L.O.でさえmacboookを入手してプログラミングの勉強を始めたが、みんな失敗したとのことである。私は、海外からの実験的な音楽家が大きな影響を与えたというこのエピソードを聞いて、規模は違うのかもしれないが、1962年のケージ来日時の「ケージ・ショック」のようだ、と感じた。ちなみに、Atau Tanaka自身は自分が台湾に大きな影響を与えたことを知らないらしい(ので、実は、このエピソードはインタビュー時の話の流れで私が大きな反応を示したのでジェフとエイミーが少し大げさに話してくれただけで、実はAtau Tanakaが台湾におけるサウンド・アートに決定的に大きな影響を与えたということはないのかもしれない)。

「sound art(聲音藝術、サウンド・アート)」という言葉

ジェフとエイミーに、サウンド・アートという言葉をいつから使い始めたかを質問したところ、「私たちはこの言葉を2003年に使い始めた」という答えを得た。こうした言葉の初出が明確に意識されていることはあまりないと思っていたのでこれは予想外だったが、台湾におけるサウンド・アートの歴史が浅いことを考えると不思議ではないのかもしれない。ともあれ、二人によると、サウンド・アートという言葉が台湾で初めて使われたのは、ワン・フーレイが2000年にET@Tというグループに参加した後の2003年に“BIAS” International Sound Art Exhibition(國際「異響BIAS」聲音藝術展)(とSound Art Prize for the Digital Art Awards Taipei(「台北數位藝術節」聲音藝術類別))を始めたのが最初らしい。エイミーによれば、台湾で芸術形式のひとつとしての音に注意を向けたのは、合衆国で博士号を取得したアーティストの姚大鈞(YAO Dajuin)だったらしい[13]。現在はPRC(中華人民共和国)で働いている彼は、一年間だけ台北で教員として働いていた2004年に、台北聲納(Sounding Taipei)というフェスティバルを主催し、これこそが、台湾でも音を芸術として認知させたらしい。とはいえ、継続的に台湾でサウンド・アートのためのフェスティバルを開催し、次世代のアーティストを育成してきたのはワン・フーレイである。彼はその後、2007年から2009年まではDigital Art Festival Taipei(台北數位藝術節)の、2008年、2009年、2010年、2012年には”TranSonic” Sound Art Festival(「超響」聲音藝術節)のためのキュレーションを行っている。ここからも、サウンド・アートという言葉が、視覚美術の文脈ではなく、主として、実験音楽やノイズといった音楽の文脈で使用されていることが明らかだろう。エイミーによれば、それまでノイズや実験音楽と呼ばれていたものが、2003年以降サウンド・アートと呼ばれるようになっていったのではないかとのことだった。

台湾におけるサウンド・アートの概要?

現段階では私にはまだ、台湾におけるサウンド・アートの歴史的展開の概要もこの言葉の意味内包もうまく把捉できていない。ジェフとエイミーは、サウンド・アートという言葉はmusicとnon-musicとを区別するために使われているのではないか、という説明をしてくれた。また同時に、2003年以降サウンド・アートという言葉は新しいタイプの視覚美術にも接近していった、とも説明してくれた――おそらく00年代にワン・フーレイが発表し始めた、ギャラリーで展示可能な音響オブジェ作品などを念頭に置いているのだろう――。また、サウンド・アートという言葉は、2003年までノイズや実験音楽と呼ばれていたものの総称となった、とも説明してくれた。こうした説明は、台湾におけるサウンド・アートという言葉が、伝統的な既存の音楽ではない音楽の総称であることを示しているのかもしれないし、あるいは、視覚美術をも包含した言葉として使うことも可能であることを示しているのかもしれない。つまり、台湾におけるサウンド・アートはイズや実験音楽であるだけでなく、欧米日と同じように、音を使う視覚美術でもあるのかもしれない。ただし、台湾の他のアーティストたちとの会話からは、後者のようなサウンド・アート理解は台湾においてはあまり一般的ではないようにも感じられる。こうしたジャンル概念の偏差のようなものこそが私の関心事である。今後の課題である。

また、ジェフとエイミーは、90年代に活動を開始したワン・フーレイやリン・チーウェイといったパイオニアたちが第一世代で、ワン・フーレイの学生である姚仲涵(YAO Chung-Han)ら失聲祭を主催していた世代は第二世代で、張惠笙(Alice Hui-Sheng Chang)らオーストラリアなどの海外でPhDを取得してきた世代を第三世代と見ることも可能かもしれない、という見立ても話してくれたが、これは、その時本人たちもすぐに述べたように、それぞれの世代の差が小さすぎるのでパースペクティヴとしてどれほど有用なのか不明である。今はまだ、00年代後半以降の歴史的パースペクティヴの概観を得ることも今後の課題とさせていただく。

5. 次報に向けて

LO2011の最後に言及されたi/O Labと失聲祭を主導していたのは、LO2011ではまだ言及されていないがNoise Assembly 2018では台灣を代表するサウンド・アーティストのひとりとして取り上げられた姚仲涵(YAO Chung-Han)である。彼はまた、ワン・フーレイの学生であった。つまり、台湾におけるサウンド・アートという領域は活発で、ワン・フーレイらパイオニアたちの次世代以降が活躍しつつあり、その世代に対するワン・フーレイの影響力はかなり大きい。それゆえ、2010年代後半の今、台湾におけるサウンド・アートの動向を考えるためには、ワン・フーレイの活動に注目することが肝要と思われる。1969年生まれで未だ40代後半の彼について何らかの包括的な意見を述べることは時期尚早でしかないが、台湾におけるサウンド・アートの動向について考えるとき、彼の活動を抜きにして考えることはできない。ワン・フーレイの活動の詳細については機会を改めて報告する予定である。本稿では最後に、この時期の彼の活動について私が関心を抱いている点をひとつあげておく。

それは、彼が2007年にサウンド・インスタレーションを制作し始めたこと、それもまたサウンド・アートと呼ばれること、である。ワン・フーレイによれば、2004年に姚大鈞(YAO Dajuin)が開催した台北聲納(Sounding Taipei)のために来台したSFベイエリアのアーティストから、台北のアーティストたちについて「海外でも台湾でも大した違いはない(it’s not so big difference.)」と言われて、音について考え込むことになり、2006年には全く何も制作せず、2007年になってようやく《Beyond 0-20Hz》(2007)を制作発表できたらしい。この作品は、数個のスピーカーが床に置かれ、可聴域外の0-20hzの信号がスピーカーから再生されたときにアナログ部位が振動して音を発する、というサウンド・インスタレーション作品である[14]

このエピソードは、海外のアーティストに「海外でも台湾でも大した違いはない」と言われた「台湾のアーティスト」のアイデンティティに関わる問題であり、これはこれで重要な問題だが、私が考えてみたいのは、〈「サウンド・アート」とも呼ばれるノイズ〉を制作していたワン・フーレイが、音について考え込んだ後、〈欧米日の文脈において通常使われる意味での視覚芸術としての「サウンド・アート」〉を制作したこと、そして、これ以降、台湾でも、音を用いる視覚芸術も「サウンド・アート」と呼ぶことは珍しくなくなりつつあるかもしれないこと、である。

この事例の考察は今後の検討課題である。「サウンド・アート」という言葉が、欧米日とは異なるプロセスで受容されたにもかかわらず、欧米日と同様の意味を獲得するに至ったプロセスである、と考えられるようにも思う。もしそうならば、アジア諸国間に見いだせる西洋文化輸入の偏差やアジア諸国間の相互影響関係を明らかにする一端となるのではないかとも思うが、私の完全な思い込みに過ぎない可能性も高い。今後の考察のヒントとしてのみ、ここに記しておく。

以上、今後の課題として残したものは多いが、本研究ノートは、現段階で報告できることを整理したことで終えることにする。(次報に続く)

参考文献

Bossetti, Alessandro. 2018. "An interview with Chi-wei Lin” (Noise Assembly 2018: 47-93

造音翻土2015 = 羅悅全(Jeph LO)、鄭慧華(Amy Hueihua CHENG)、何東洪(HO Tunghung)(編著) 2015 『造音翻土:戰後台灣聲響文化的探索(ALTERing NATIVism: Sound Cultures in Post-War Taiwan)』 展覧会図録 新北市:遠足文化(Walkers Cultural Enterprise)、台北市:立方計劃空間(TheCube Cultural)。

羅悅全(Jeph LO) 2011. “The Taiwanese Sound Liberation Movement.” in: The Heard & the Unheard: Soundscape Taiwan. Curated by 鄭慧華(Amy Hueihua CHENG). Taipei: Taipei Fine Arts Museum of Taiwan: 76-81.

—-. 2018 "The Rise of Taiwan’s Sound Liberation Movement in the Gap of Governance.” (Noise Assembly 2018: 15-45).

中川克志 2018 「サウンド・アートの系譜学:台湾におけるサウンド・アート研究序論」 横浜国立大学都市イノベーション研究院(編)『常盤台人間文化論叢』4: 115-126。

Noise Assembly 2018 = 鄧富權(編) 2018 『噪集:灣聲響藝術家選集』 台北:書林出版有限公司。(=Tang, Fu Kuen. 2018. Noise Assembly: A Selection of Taiwanese Sound Artists. Taipei: Bookman Books Co., Ltd.)

○台湾の近現代史について参照したもの

呉密察(監修)、遠流台湾館(編著) 2010 『台湾史小事典 増補改訂版』 横澤泰夫(編訳) 福岡:中国書店。

伊藤潔 1993 『台湾―四百年の歴史と展望』 中公新書 東京:中央公論社。

野嶋剛 2016 『台湾とは何か』 ちくま新書 東京:筑摩書房。

篠原清昭 2014 「台湾における学生運動と第二の民主化 : 太陽花学運の戦略・戦術と思想」 『岐阜大学教育学部研究報告. 人文科学』63.1(2014-10):115-135。

—. 2015 「台湾の民主化と学生運動 : 「野百合学連」(1990年)を中心として」 『岐阜大学教育学部研究報告. 人文科学』63.2(2015-03): 121-139。

周婉窈 2013 『増補版 図説 台湾の歴史』 濱島敦俊(監修、翻訳)・石川豪・中西美貴・中村平(訳) 東京:平凡社。

[1] 本稿は主として2017年8月のインタビューに基づく。

2017年8月には他にも、台北駅近くの明星咖啡館(Cafge Astoria)で、90年代以降現在に至るまで台湾におけるサウンド・アートにおける重要人物の一人である王福瑞(WANG Fujui)さん(とそのアシスタントの盧藝(YI Lu)さん)にもインタビューを行った。王福瑞(WANG Fujui)さんの興味深い活動についてはさらなる補足調査を加えて、2019年度に機会を改めて報告する予定である。また私は、王福瑞(WANG Fujui)さんの学生でもあり、次世代の重要なサウンド・アーティストでもある姚仲涵(YAO Chung-Han)さんにも、彼が何人かのアーティストと共同で台北市から借りている藝響空間(SonoLab)というスタジオでインタビュー調査を行った。彼の事例は台湾におけるサウンド・アートという領域の(世代的な)広がりを教えてくれるものだが、まだ30代の彼の活動について考察するのは機会を改めることにする。また、2017年8月には他にも、先行一車 黑膠倉庫(Senko Issha Records)という小さなインディーズ・レコード・ショップ(地下ではしばしばライブも行われるようなスペース)で、数年間の日本滞在経験があるノイズ・ミュージシャンの黃大旺(Dawang Yingfan Huang)さんからもお話をうかがうことができた。この時は互いに自己紹介する程度の話しかできなかったが、友川かずきの曲名から店名をとった「先行一車」というスペースの存在を知り、台湾インディーズ・シーンの活況について話を聞くことができた。その後、前回の中間報告でも言及した山本佳奈子のOffshoreで、2018年5月3日に公開されたインタビュー―― 「黃大旺(ファン・ダワン)インタビュー:黑狼那卡西、民国百年、勸世阿伯、冰島三郎、翻訳家などとして活動する黃大旺への質問」(https://offshore-mcc.net/interview/669/)――や、黃大旺(Dawang Yingfan Huang)さんのFacebookなどを通じて、私は、ノイズ、奇妙なアイドルユニットの活動、カラオケといった様々な形態を通じたパフォーマンス等々、なかなか簡単にまとめることのできない彼の活動の幅広さを知り、また、台湾における音を扱う活動の幅広さも感じることができた――彼の日常生活を追ったドキュメンタリー『台北抽搐(Taipei Tics)』(2015)というものもある。この映画は2016年に東京藝術大学で開催された学術会議Cultural Typhoonでも上映され、2017年にはDVD化もされている。

[2] 前回の研究ノートでも報告したように、台湾におけるサウンド・アートの重要人物の一人である。1971年生まれの彼は、90年代に台湾で活動した後、2000年にフランスに留学し、2003年に帰国している。彼の活動については本人ウェブサイトも参照(http://www.linchiwei.com/)。

[3] Noise Assembly 2018で紹介されている「台湾のサウンド・アーティスト」のほとんどは、欧米日の言い方では「ノイズ・ミュージシャン」あるいは「実験的な音楽家」である。この概観的な書物の導入テキスト――2009年から台湾で発行されている雑誌『White Fungus』の編集長Mark Hansonのテキストとジェフのテキスト(LO2018)――が言及しているのも、台湾における実験的な音楽実践のことである。紹介されるアーティストは、順番に、林其蔚(LIN Chi-Wei)、王福瑞(WANG Fujui)、王虹凱(WANG Hong-kai)、黃大旺(Dawang Yingfan Huang)、鄭宜蘋(Betty Apple)、HH(姚仲涵(YAO Chung-Han)と葉廷皓(YEH Ting-Hao)とのユニット)である。

興味深いのは、ここで、2013年にNYのMoMAで開催された『Soundings: A Contemporary Score』にも参加している王虹凱(WANG Hong-kai)も、sound artistとして紹介されていることである。1971年に台湾に生まれ、1998年にNYに留学してメディア・スタディーズを学んだ彼女は、今でも台湾を拠点に活動している。彼女は、オーディオ・ドキュメンタリーのような形態の、聴衆参加型芸術あるいはソーシャル・エンゲージド・アートとでも呼べそうな作品を制作しており、美術館で作品を展示するいわゆる(欧米日的な意味での)「サウンド・アーティスト」だといえよう。欧米日の文脈では、他のアーティストたちを「音楽家」と呼ぶことは十分可能だが、彼女を「音楽家」とは呼ぶまい(「音楽家」と呼ぶならば、「音楽」概念を広く解釈することに関する長い注釈が必要だろう)。

これはどう考えることができるだろう。

「台湾におけるサウンド・アート」がすべて「実験音楽やノイズ」の別称でしかない、のならば話は単純である。台湾で「サウンド・アート」という言葉が使われたらそれをすべて「実験音楽あるいはノイズ」と変換すれば良いだけである。しかし、台湾にも、ギャラリーや美術館で展示される音を用いる美術作品――欧米日におけるいわゆる「サウンド・アート」――も存在する。そして、それらもまた、欧米日の流儀に従ってかどうかは分からないが、「サウンド・アート」と呼ばれる。

台湾的な意味でのサウンド・アーティストと、欧米日的な意味でのサウンド・アーティストは同じ名称で呼ばれるがゆえに、同じように紹介されているという事態は、どう考えるべきだろうか。「今後は明確に区別して理解すべき案件」なのか、「違う文化においては異なる文脈が融合して新しい文化的事象が誕生するかもしれない可能性を秘めた案件」なのか。どう考えるべきか私はまだ判断を保留している。今後の課題とさせていただく。

[4] Crystal Recordsというレコード会社を作ったことでも有名らしい。

[5] リン・チーウェイは、この時期の台湾における様々な音響的アヴァンギャルドの流れに言及しつつ、「すべてが実際に関連しあっていたわけではないことは知っておかなければならない。つまり、新しい世代は西洋世界と同時代のファッションに触発されたのであって、台湾ローカルや台湾の伝統的な事象に触発されたのではない」と述べている(Bossetti2018: 81)。つまり、台湾内部での自律的な歴史記述だけでは不十分であるという認識を示している。こうしたポストコロニアルな状況認識に基づくパースペクティヴはもちろん必要である。ただし、台湾におけるサウンド・アートの概要を知る必要のある現段階ではまだ、ポストコロニアルな視点を導入することは必要最小限に留めておきたい。

[6] 2015年に台北で会った時、リン・チーウェイは、自分は90年の学生運動において、座り込みしているときに初めてパフォーマンスを始めた、と述べていた。私は、2014年夏の香港反政府デモ(雨傘革命)の最中に作られたアート作品のことを思い出した(https://en.wikipedia.org/wiki/Art_of_the_Umbrella_Movement)。香港のアート団体であるsoundpocketはこの運動に関連して、この時期の香港の音をフィールドレコーディングして集めた『DAY AFTER 翌日 [2014. 9.29 - 12.12]』をリリースしているが、他に、運動の最中に行われたサウンド・パフォーマンスもあったのだろうか。

[7] 参加ミュージシャンは以下のとおりである:moslar(台湾)、c.c.c.c.(日本)、schimpfluch(スイス)、Endaxan, Arlene, Kirk, and Frederic giving their performance combining dance, multimedia, and prepared noise(台湾在住の西洋人?)、killer bug(日本)、LSK(台湾)、con-dom(イギリス)、Z.S.L.O.(台湾)、club chain saw(日本)。

このイベントについては記録映像が「Post-Industrial Arts Festival / 後工業藝術祭 / 黃明川 / 1995」というタイトルでYoutubeにアップロードされている(https://www.youtube.com/playlist?list=PLELUjl2CAOX_dgfDukjOEGjPurKz070nj)。

[8] ちなみに、とはいえただし、陳芯宜(CHEN Singing)が自身のドキュメンタリー映画『如果耳朵有開關(Ears Switched Off and On)』でとりあげている台湾サウンド・アートのパイオニアのもうひとりであるdinoは、このイベントの後に活動を始めたようだ。

[9] パーティーの様子の一端がYouTubeにもアップロードされている(http://www.whitefungus.com/files/noise-steve-live-performance)。

[10] このイベントの記録ブログでは、2003, 2004, 2005年に開催されたことが確認できる(http://weatherinmybrain-e.blogspot.com/)。

[11] とはいえ、フーレイ自身に聞いたことだが、サン・フランシスコへの留学経験のあるワン・フーレイは、ジョン・ケージやアルヴィン・ルシエの存在や作品のことを知っていた。

[12] Atau Tanakaはロンドンのゴールドスミス大学所属のアーティスト/研究者、筋電位センサーなどを用いて身体情報や生理情報をセンシングする楽器製作者あるいはパフォーマーとして有名。ウェブサイト:http://www.ataut.net/。

ちなみに、このパフォーマンスはET@TのアーカイヴとしてYouTubeにアップロードされている。タイトルは「[Etat Archive] 在地新聞-98 E.M.P.電子實習演出,1998.07.12,知新廣場」である(https://www.youtube.com/watch?v=dMU-UPt1yFA)。キャプションによれば、ClippersとZ.S.L.O.とdinoとAtau Takanaが出演した。20年後の目から見て、これらのパフォーマンスが当時の台湾においてどのように衝撃的だったのか、私にはまだいまいち理解できない。今後の課題である。

[13] 姚大鈞(YAO Dajuin)は「sound art(聲音藝術、サウンド・アート)」という言葉を使わず、アートにおける芸術形式の一つとしての音響について教えていたとのことである。

[14] 彼の活動の概要は彼と盧藝(YI Lu)のユニットのウェブサイトSoundwatch(http://soundwatch.net/)に掲載されている。ここには作品解説も掲載されている。