2020年03月サウンド・インスタレーション試論――4つの比較軸の提案―― 1/2と2/2

サウンド・インスタレーション試論

4つの比較軸の提案

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(このページは、中川2020aと中川2020bのふたつに分割して公表したものを一括したページです。引用などの場合は、必ず、公開された原文をご参照ください。)

はじめに

一弦琴やバンブー風鈴を抱いた竹細工の鳥や、輪飾りやデンデン太鼓を載せた飛行船が飛び回り、床では時おりパンフルートや風笛の音が鳴り、本棚のそばでは、風車と連動して動く竹のバチが木琴を微かに叩き鳴らす。松本秋則《オトノフウケイ》(2019年ヴァージョン)だ[★★★画像1★★★]。竹の音には共鳴成分が多く、全体的に「幽玄な雰囲気」である。数十個の不思議な音具たちが奏でる音は室内で乱反射し、その時に近くで行われていたパフォーマンスの音とも混ざりあい、コンクリート打ちっぱなしの空間を柔らかく居心地の良い居場所に変えていた。新高島駅の一角に新居地を移した横浜Bankartが、2019年3月1-24日に開催した展覧会「雨ニモマケズ(singing in the rain)」における松本秋則のサウンド・インスタレーションを見た印象である。松本は、80年代から自らの音を発する視覚的造形作品を「サウンド・オブジェ」と称し、ある時期から自身の作品群を集めて「オトノフウケイ/音の風景」というタイトルで展示するようになった[1]

では、ところで、「サウンド・インスタレーション」とは何か。字義通り考えるならば、サウンド・インスタレーションとは、音を設置した(すなわちインストールした)芸術作品であり、音を構成要素として用いるインスタレーション作品であり、音響的要素だけで完結する(とされる)「音楽」とは異なり、空間あるいは環境に音を設置した状態で、空間あるいは環境も含めて鑑賞される作品だ、といえよう。もう少し詳しく説明すれば〈60年代辺りから現代美術において(「ミニマル・アート」など台座のない彫刻の増加も一因となり)増えてきた(既存の「作品」や「オブジェ」とは異なり)作者の制作物と空間あるいは環境との関係性を鑑賞する「インスタレーション」〉のヴァリエーションであり、そこに音が加えられたもの、と説明できるだろう。音響的要素が主体となる場合も付属的に付加される場合もある。暫定的な定義として、音楽やサウンド・スカルプチュアーー今は、音を発する視覚的造形作品、という程度の意味で使うーーとの区別を念頭に、サウンド・インスタレーションとは〈時間ではなく空間に規定される、音を使う芸術。室内や屋外に音を設置し、その空間や場所・環境を体験させる表現形態をとる作品〉と説明しておこう。これは、artscapeという現代美術関連情報のポータルサイトが制作した事典のために、2012年に私が書いた説明[2]を整理したものである。その辞典の定義では、私はさらに、音を(1)ある特定の閉鎖空間の内部に置く場合と(2)開かれた環境のなかに置く場合に分類し、両者の代表的な古典的事例として、アルヴィン・ルシエ(Alvin Lucier)《細く長い針金の上の音楽(Music on a Long Thin Wire)》(1977)とマックス・ニューハウス(Max Neuhaus)《タイムズ・スクウェア(Times Square)》(1977-92、2002-)に言及した。両作品については後述する。

これは今でも簡潔な説明だと思うが、現代音楽の文脈を重視し、現代美術の文脈はあまり考慮していない定義だし、作品の設置状況ーー空間か環境かーーという比較軸しかとりあげていないという点で、不十分である。本論はこの説明をさらに補完するものである。そのために、サウンド・インスタレーションというジャンルあるいは作品形態にはどのような比較軸があり得るか、ということを提案したい。そうした比較軸は、ある個別具体的なサウンド・インスタレーション作品について考えるとき、他の作品と比較する際にどのような点に注目するとその作品の特徴を析出できるか、を見極めることに役立つだろう。また、比較軸を提案することは、個別具体的な作品に留まらず、広く「サウンド・インスタレーション」なるジャンルあるいは作品形態に関する理解を深めることにもなるだろう。

本論は、別論文「サウンド・インスタレーション試論――音響芸術における歴史的かつ理論的背景――」(中川2020c)の姉妹論文として制作されており、サウンド・インスタレーションに関する歴史的かつ理論的な検討はこちらで行っている。簡単にまとめておけば、サウンド・インスタレーションなるジャンルは、ジョン・ケージ以降の現代音楽(あるいは実験音楽)における楽音から環境音への志向と、現代美術における環境への志向ーー三次元的な造形オブジェから空間あるいは環境との関係性への志向ーーとの接合点に出現し、〈音と空間との関係性にどのようにアプローチするかという問題意識〉がその中心にある。中川2020cではこうしたことを整理している。

本論では、サウンド・インスタレーションを検討する姉妹論文のそうした歴史的かつ理論的な検討を相互補完するために、サウンド・インスタレーションをめぐる4つの比較軸を以下のように提案する。

1 作品の設置状況

1.1 閉鎖空間の場合

1.2 開かれた環境の場合:サイト・スペシフィティの有無

2 音響的側面:音源の数/音響の機能

2.1 音響的側面:音源の数

2.1.1 単数(あるいは少数)の場合

2.1.2 多音源サウンド・インスタレーションの場合

2.2 音響的側面:音響の機能

2.2.1 音響と聴覚が重要な機能を果たさない場合

2.2.2 音響と聴覚が重要な機能を果たす場合 [さらに下位分類を提案する]

3 視覚的側面

3.1 画像を使う場合

3.2 オブジェを使う場合

3.3 映像を使う場合

4 聴衆との関係

4.1 インタラクティヴな要素の有る場合

4.2 インタラクティヴな要素の無い場合

これらは〈「サウンド・インスタレーション」である/と呼ばれるための必要条件や十分条件〉ではなく〈個別具体的なサウンド・インスタレーション作品について考察する際にこの観点に注目して作品を観察することで、作品同士を鮮明に対照させて考察できるだろう比較軸〉として提案している。この4軸に注目すれば、あるサウンド・インスタレーション作品AとBを(いわば効率的に)比較できるだろう。この4軸は、何らかの先行研究に基づいて見出したわけではなく、(さしあたり参考にできる先行研究がないので)私のこれまでの作品経験に基づいて提案するものである。サウンド・インスタレーションの歴史的展開に関する先行研究にはOuzounian 2015があるが、そうした美的あるいは歴史的文脈の考察は姉妹論文である中川2020cにまかせて、本論は個々の作品記述に貢献することを目的とする。これらはもちろん決して網羅的なものでも厳密なものでもないし、これ以外の比較軸もすぐに思いつくかもしれないが、さしあたりとにかく、今後の思考のたたき台として比較軸を提案してみることが本論文の目的である。サウンド・インスタレーション作品を鑑賞する際に、あるいは個々の作品同士を比較する際に、ここで提示した比較軸に注目するとその作品特徴の抽出に役立つのではないか、と考えている。読者諸兄姉からの改善修正案のご提案を切に期待している。

ところで、本論は「サウンド・インスタレーション」試論であり、「サウンド・アート」[3]試論ではない。これは、私がサウンド・アートとサウンド・インスタレーションを厳密に区別して論じたいからではなく、私が、今後計画しているサウンド・アート論の予備作業として、このサウンド・インスタレーション試論を作成しているからである。サウンド・インスタレーションもサウンド・アートも何らかの個別具体的な主義主張を訴えた歴史的動向などではなく、音のある美術あるいはアヴァンギャルドな音響芸術につけられるレッテルないしはジャンル名であり、そのようなものである以上、厳密な定義などない。とはいえ、ある種のジャンルや作品群について考えるための枠組みを枠組みとして考察することは可能だし、枠組みは枠組みとして私たちの認識の枷にも助けにもなる。また、サウンド・アートもサウンド・インスタレーションも何らかの物質的基盤な存在基盤を持つ作品を指す以上――音響だけで構成される音響作品にも、音を発生させる器具や音を記録する媒体など、何らかの物質的な基盤は存在する――、いずれも空間あるいは環境に設置されるものであり、サウンド・インスタレーションとサウンド・アートとを厳密に区分することは難しく、本論でも、究極的にはその区分を厳密に検討することは避ける。とはいえ、おそらく、サウンド・インスタレーションよりもサウンド・アートのほうがその言葉が包含する領域は広いので、本論は、サウンド・アートについて考えるための予備作業であると位置づけている。本論は、Cox 2018やLicht 2019といった最新の研究成果を踏まえたうえで来たるべきサウンド・アート論の一部として構想されており、そのために、私は、何らかの実効力を持つ概念としてのサウンド・インスタレーションというジャンルについて考察するために4つの比較軸を提案するのである。

1. 作品の設置状況

これは、音あるいは作品をある特定の閉鎖空間の内部に置く場合と、開かれた環境のなかに置く場合に分類するという比較軸である。美術館のホワイトキューブの空間の中に設置されるものは前者(1.1.)だし、外部の社会空間に設置されるものは後者(1.2.)である。先に言及したartscapeのオンライン事典のために書いた説明と同じである。

両者の代表的な古典的事例として、1.1.の事例としてアルヴィン・ルシエ《細く長い針金の上の音楽》(1977)[★★★画像2★★★]と1.2.の事例としてマックス・ニューハウス《タイムズ・スクウェア》(1977-92、2002-)がある。ルシエは1.1.の事例であるこの作品で、広い部屋に20メートル以上の長さのワイヤーを張り渡し、磁石と電動オシレーターをワイヤーの片端に取り付け、電磁波をワイヤーに流してワイヤーを振動させ、その振動を音響としてピックアップした。針金に人が近づくだけで生じるちょっとした空気の流れや、金属の疲労度や気温の変化などのおかげで、ワイヤーから生じる持続音は微妙に変化し続けた(リクト2010、Lucier 1980, Kahn 2013など)。この作品は、ある閉鎖空間内部における音響の微妙な振る舞いを探求するだけで十分面白い音響作品が生成されること、を教えてくれる。と同時に、この作品は、音響知覚と空間知覚とが不可分であることも明確に教えてくれる。その意味で、この作品は、音響的要素だけであっても成立するとみなされがちな「音楽作品」の概念/可能性を拡大するサウンド・インスタレーションの好例だ、ともいえよう。

また、マックス・ニューハウス《タイムズ・スクウェア》(1977-92、2002-)[★★★画像3★★★]は1.2の代表的事例であり、さらには、「サウンド・インスタレーション」の最初期の作例のひとつであり、最も有名なもののひとつである。マックス・ニューハウスは、音楽作品を作曲する以外のやり方で環境の音に注意を向けた。彼は、NYの地下鉄各線のハブであるタイムズ・スクウェア駅に降りていく階段のひとつに、微弱なサイン波の持続音を発生させる発振器を取り付けたのである。これは1977年に設置されて1992年に一旦取り外された後、2002年に再設置された(そして現在に至る)。Youtubeにあげられているいくつかの動画からも判別できる通り、ここに設置された音は、音そのものには特段の特徴はなく、低音域から高音域に至る複数の人工的な音が複合した持続音であり、その音色や音響変化で人の注意力を集めようとするものではない。むしろその逆に、あまり人の注意力を惹かない音であり、タイムズ・スクウェアの雑踏ーー人と車の通行音、地下鉄の通行音などーーに紛れ込んであまり聞こえない音である。通行人がその音に気づくことはあまりなく、たいていは気づかれずに無視される。ただし、幸運にもその音に気づいた通行人だけはその音に耳を傾け、そのことをきっかけに、しかしその音そのものは聞いていても大して面白くないものであるがゆえに、その音ではなくタイムズ・スクウェアの音環境に耳を傾ける、という仕掛けである。周囲の騒音にかき消されるほど小さな音が実際に何人程度の通行人の耳を捉えるのかはわからないが、この作品が、環境の音響的側面(=サウンドスケープ)を捉え直すきっかけとなることを目論んでいるのは確かだろう。この種のサウンド・インスタレーションは、音楽における環境への関心の系譜ーーサティ、ケージ、アンビエント・ミュージックーーや、70年代に普及したサウンドスケープの思想と、問題意識を共有するものが多いーーサウンド・インスタレーションに関する歴史的かつ理論的な検討は中川2020cで行っているーー。つまり環境音の意味論的側面に注目することで、聴覚的な側面から世界を捉え直そうとするのである。1.2.は、いわば、世界を経験するオルタナティヴな方法を提示するものだといえるかもしれない。いずれにせよ、ここでは、目立たずに継続して存在する街角の持続音をきっかけに、世界の音環境に改めて注意を向ける、というサウンドデザインが施されたわけだ(リクト2010、中川真1998、中川真2006、中川真2007、庄野1986、庄野1991など)。これがニューハウスの最初の常設のサウンド・インスタレーションであり、世界的にも最初期の古典的なサウンド・インスタレーションである[4]

私は1.2.の比較軸の下位分類として、サイト・スペシフィティの有無という比較軸を提案しておきたい。多くの場合、作品の設置される場所が「空間」ならばサイト・スペシフィティはなく、「環境」ならばサイト・スペシフィティはある。ただし、サイト・スペシフィティのない「環境に設置されたサウンド・インスタレーション」もあると思うので、1.2.の下位分類として、サイト・スペシフィシティの有無という比較軸を提案しておく。

開かれた環境に設置されるがサイト・スペシフィティのない作例として私が念頭に置いているのは、例えば、藤本由紀夫《Ears of the Rooftop》(1990)[★★★画像4★★★]である。これは、直径数センチで全長2,3メートルの何の仕掛けもないパイプが、椅子に座った人物のちょうど耳のあたりにその開口部が来るように設置されている作品で、椅子に座ってパイプに耳に当てると、環境の音がパイプ内部を反響して耳まで届くことで、高音域や低音域が強調されてディジリドゥの音のように変容して聞こえてくる、という作品である。そこに存在する環境音が何の仕掛けもないパイプを通じるだけで奇妙な音響に聞こえてくるこの作品は、そのメカニズムのシンプルさと音響が被る変化の大きさとの対比が、環境音に改めて耳を傾けさせる効果を持つ作品である。

特定の都市の環境音とその変容に焦点が置かれるならば、この作品にもサイト・スペシフィティがあるともいえよう。例えば、藤本の作品を収録した映像(2005年の展覧会のカタログに付随していた『Here and There』というDVDに収録されている1990年の映像)(藤本2005)では、この作品は大阪の児玉画廊が入居するビルの屋上に設置されている。そこで聞こえてくる音が大阪という都会の雑踏であることが重要なのだと考える場合には、この作品にはサイト・スペシフィシティがあるといえるだろう。とはいえ、基本的には、この作品はどこに設置されても効果を発するし面白い。美術館の室内に設置された時のこの作品は、都会の雑踏ではなく美術館内部の観賞者の話し声や足音を変容させ、聴取体験を幻惑させる作品となる。

そもそも美術館に展示されるサウンド・インスタレーションの多くは、閉鎖空間に展示されるのであり、「開かれた環境」に設置される作品は少ない。美術館で展示されるものは、「空間」という特定の閉鎖空間に設置されるサウンド・インスタレーションか、あるいは〈開かれた環境のなかに設置されるサウンド・インスタレーションの記録〉の展示だ、といえるかもしれない[5]。ともあれ、サウンド・インスタレーション作品について考察する際に、そのサイト・スペシフィティの有無を比較軸として提案しておく。

2. 音響的側面:音源の数/音響の機能

サウンド・インスタレーションの音響的側面に着目するとき、音源の数が単数か複数かという比較軸と、そこで用いられる音響の機能という比較軸がある。

2.1. 音響的側面:音源の数

まず、サウンド・インスタレーションで用いられる音源の数が単数(あるいは少数)(2.1.1.)か多数(2.1.2.)かという比較軸を提案したい。というのも、音源が(かなり)多数である場合、「2.1.2.多音源サウンド・インスタレーション」というカテゴリーを提唱できると考えるからである。

2.1.1 単数(あるいは少数)の場合

なにが「ひとつの音」かというのは重要な問題である。例えば、持続音は一瞬前の音と今この時点での音とが常に異なる音として知覚することも可能であるがゆえに、「ひとつの音」であると同時に「たくさんの音」でもある。ただし、「ひとつの音」と「たくさんの音」との相互不可分性を問うような作品は、ケージ以降の実験音楽の文脈においてはある程度の作品数が認められるが、やはりそれなりに特殊である。

2.1.2 多音源サウンド・インスタレーションの場合

ここで提唱してみたいのは、すぐにはその個数を把握できないくらい音源の数が多く、個々の音源に耳を傾けることも集合体としての複数の音源に耳を傾けることも可能なサウンド・インスタレーションである。そうした多音源サウンド・インスタレーションの特徴として、受容者の立ち位置によって聴こえてくる音が異なること、つまり歩き回りながら聴覚経験を楽しめること、それから、現実のサウンドスケープの「モデル」あるいは「サンプル」として経験できること、を指摘できるだろう。また、それゆえ、多音源サウンド・インスタレーションは、「世界」の疑似体験を理知的に抑制する作品として解釈できるだろうと私は考えている。

まずは、思いつくままに想定事例をあげる。

最初に言及した松本秋則《オトノフウケイ》、藤本由紀夫の《Stars》(1990)、ジャネット・カーディフ(Janet Cardiff)《40声のモテット(The Forty Part Motet)》(2001)――40本のスピーカーで賛美歌を再生、観賞者はその間を歩き回る、後述――、藤本由紀夫《+/-》(2007)――壁一面のスピーカーからビートルズの曲を数百曲同時に再生、国立国際美術館で展示――、トリスタン・ペリッチ(Tristan Perich)の《Microtonal Wall》(2011)――壁一面の1500個の小さなスピーカーから持続音を再生、「Soundings」展(MoMA, NY、2013年)で展示、後述――、刀根康尚《雨が降る(Il Pleut)》(2011)――室内に張り渡された複数の棒に30-40個のスピーカーが取り付けられ、それぞれがそれぞれの周期で、詩人ギョーム・アポリネールの視覚詩のひとつ「雨が降る(Il Pleut)」の断片が日英仏語で朗読された。2017年の札幌国際芸術祭で展示――、セレスト・ブルシエ=ムジュノ(Céleste Boursier-Mougenot)《クリナメン(Clinamen)》(2012)――プールのなかに陶器や磁器の椀やコップを浮かべ水流を起こして動かすことで、椀やコップ同士がコツコツと音をたてる、2012年に東京都現代美術館で展示、2019年にポーラ美術館で展示――、The SINE WAVE ORCHESTRA《stay》(2017)[6]――サイン波を発する小さなデバイスが会場内で会期中に徐々に増幅――、大城真《Cycles》(2017)――継電器(relay)を多数接続し、それぞれが複数の周期で音を発するインスタレーション、Gallery Out of Placeで展示――、ポール・デマリニス(Paul DeMarinis)《Tympanic Alley》(2015)――手のひら程度の大きさで簡単な仕掛けのデバイス数十個が天井から吊るされ、音を発するインスタレーション――、The SINE WAVE ORCHESTRAのメンバーの一人である古館健が2019年第22回文化庁メディア芸術祭でアート部門大賞を受賞した《Pulses/Grains/Phase/Moiré》(2019)[7]――300個以上のスピーカーとLEDライトが暗闇のなかでそれぞれの周期で音を発しながら明滅――、ブノワ・モーブリー(Benoît Maubrey)《Temple》(2012)――2012年にドイツのZKMで開催された画期的なサウンド・アート展の会場入り口で、3000台以上のスピーカーを組み合わせてデルポイの遺跡を模した(Weidel 2019: 336-337)[8]――などなど。

こうした多音源サウンド・インスタレーションの起源として、ケージの《Variations》シリーズやデヴィッド・チュードア《Rainforest》シリーズ――後述――、あるいはホセ・マセダ(José Maceda)《カセット100(Cassettes 100)》(1971)のような作品を位置づけられるだろう。いずれも、あくまでも作曲家による音楽作品あるいは作曲作品だが、音楽における音響の空間的配置という問題意識を追及した帰結の一つとして、ある空間内部で、音響再生産技術に媒介された音響を多数配置する作品である。

ここにさらに、斉田一樹+三原聡一郎《moids 2.2.1——創発する音響構造》(2009/12年)――無数の継電器(relay)が観賞者の呼吸やそれぞれの音に反応して音を発することで〈相互作用する関係性の擬似世界〉を構成するインスタレーション作品、ICCの無響室内部に設置――、斉田一樹+三原聡一郎《moids ∞》(2018)――反応すると火花を発する無数の小型デバイスが、環境音や互いの火花に反応する〈相互作用する関係性の疑似世界〉を構成するインスタレーション作品、フェリックス・ヘスや大城真も展示し鈴木昭男と宮北裕美がパフォーマンスを行った展覧会「空白を感得する」で展示[9]――、菅野創《Lasermice》――音源かつ光源である自走式の小型ロボットが柵の中で有機的に動き回る[10]――、なども加えられるかもしれない。これらは「音」は中心的主題とするわけではないが、後述する、「多音源サウンド・インスタレーション」に特徴的だと私が考える作品経験に類似した経験が可能だからである。

次に、個別作品の言及しつつ、「多音源サウンド・インスタレーション」の概要を描いておきたい[11]

まず、藤本由紀夫《Stars》(1990)[★★★画像6★★★]に言及するところから多音源サウンド・インスタレーションについて論じ始めたい。私はこの作品を2017年12月12日に東京のギャラリーShugoArtsで鑑賞した。夕方5時前に行ったところ幸い誰もいなかったので、しばらくの間、私はこの作品を独り占めして楽しむことが出来た。この作品は20-30本のオルゴール箱たちで構成されている。オルゴール箱は2mほどの高さの幅狭の本棚みたいな木製の箱に三つのオルゴールがはめ込まれているもので、鑑賞者は自由にネジを回してオルゴールの音を発させることができる。このギャラリーの二部屋にオルゴール箱が20-30本置かれていた。この箱に取り付けられたオルゴールの歯はほとんど外されていて、1,2音しか発せられない。しかし、この部屋を訪れた鑑賞者は、好きなタイミングで好きな場所のオルゴール箱のオルゴールのネジを、好きな回数だけ回すことができる。すると、部屋全体で、ランダムな場所にある音源が毎回ランダムなタイミングで発せられ、毎回ランダムな音の羅列が生成され毎回ランダムな時間経過に応じて減衰していくわけである。鑑賞者は、部屋の中の好きな位置でその音に耳を傾けても良いし、部屋の中を歩き回っても良いし、部屋から出て行っても構わない。つまり、これは、多音源サウンド・インスタレーションでもあるし、後述するインタラクティヴな要素の有るサウンド・インスタレーションでもある。

私にとってこうした多音源サウンド・インスタレーション作品のポイントは2点ある。この作品では受容者の立ち位置によって聴こえてくる音が異なること、つまり歩き回りながら聴覚経験を楽しめること。また、この作品は、現実のサウンドスケープの「モデル」あるいは「サンプル」として経験できること。この2点である。

立ち位置によって聴覚経験が異なるという快感を追及した作品として、ジャネット・カーディフ《40声のモテット》(2001)[★★★画像7★★★]に言及しておこう。これは16世紀に作られたトマス・タリス《我、汝の他に望みなし》(1570頃)という40もの声部をもつ合唱曲を、40人の聖歌隊それぞれの声を録音し、40個のスピーカーでそれぞれを再生した作品である。スピーカーから声が再生されている間、私たちはスピーカーの間を動き回ることができる。それゆえ、私たちは〈合唱中の聖歌隊の中を自由自在に動き回っている感覚〉を得ることができる。受容者の立ち位置によって聴こえてくる音は異なるわけだ。また、受容者は〈合唱中の聖歌隊のなかで得られる聴体験〉を得るわけだが、そのような聴体験が可能な存在は実はありえない――合唱隊の一員でさえそのような聴体験を得ることはできない――という意味で、これは超現実的な聴体験だといえよう。

現実のサウンドスケープの「サンプル」の経験であるというのは、例えば、盆踊りや宴会場などの雑踏や賑わいがもたらす音響のことを思い浮かべてもらいたい。そうした機会には、近くにいれば個人の話し声や足音など個々の音を聞き分けることができるが、少し離れると、それらは「雑踏」という「ひとつの音」に聞こえる。「雑踏」や「賑わい」とは、そうした〈たくさんの「ひとつの音」の複合体〉としての「ひとつの音」である。つまり私は、多音源サウンド・インスタレーションの作品経験はそうした現実世界の雑踏の経験に似ている、と言いたいのである。これらの多音源サウンド・インスタレーション作品は、こうした雑踏の音をある程度コントロールして「世界のサンプル」を提示することで、世界の疑似体験を理知的にコントロールするモデルと理解できるのではないか。これが私の解釈である――私のこの解釈は、サロメ・フォーゲリン(Salomé Voegelin)がサウンド・インスタレーションの諸作品を世界に対する聴覚的アプローチの帰結のひとつとして扱うアプローチに似ているといえよう(Voegelin2014: 9-14)。フォーゲリンの立場については稿を改めて検討したい――。私はこうした多音源サウンド・インスタレーションを経験するたびに、世界のカオスを理性的に制御して経験することがもたらす快楽を感じてしまう。例えば、NYのMoMAで2013年に開催された「Soundings」展で展示されていたトリスタン・ペリッチ《Microtonal Wall》(2011)[★★★画像8★★★]は、壁一面に1500個の小さなスピーカーが設置され、そこから、低音域から高音域に至る様々な音高の持続音が再生される作品である。この作品では、近付くと個々の音響を確かめることができるが、数十センチも離れるともう個々の音響を他の音と区別して聴くことは出来ず、複数の音が複合して「ひとつの音」に聞こえる。この作品は、壁一面に貼り付けられたスピーカーの整然とした視覚的印象と、複合的な音響の雑然とした印象とがあいまって、この後様々な音の作品が展開していることを予告するかのようにも感じられた。その意味で、少人数のグループ展ながらもサウンド・アートというジャンルの作品の多様性を簡潔に提示するMoMAの「Soundings」展の入り口に設置されるにふさわしい作品であったように、私には思われた。

こうした作品が制作可能になった背景として、ケージのVariationsシリーズ(あるいはもちろん彼の「ミュージサーカス」シリーズ)やデヴィッド・チュードアの《Rainforest》シリーズ[★★★画像9★★★]のような作品の存在を指摘できるだろう。つまり、世界各地から採集してきたり、小さな電子機器を大量に用いたりすることで、ある空間内部で、音響再生産技術に媒介された音響を多数用いる音楽作品である。これらの作品はケージたちにとっては、(乱暴に単純化すれば)音源を遠隔地から持ってくるそのやり方において、音響通信技術の発展を取り込もうとする意図のもとで作られた作品でもあった(Pritchett 1993など)。つまり、多音源サウンド・インスタレーションが可能になった背景として、作品を可能とする電子機器が非専門家でも利用可能な程度に一般化したこと、を指摘できるだろう。あるいは、ビル・フォンタナ(Bill Fontana)やクリス・ワトソン(Chris Watson)のように録音技師として活動していた経歴を持つアーティストが活躍し始めているように、フィールド・レコーディングを活用しようとする聴覚的な感受性が一般化した、という事態もあげられるだろう。つまり〈世界の音に耳を澄ませるという感受性が、単なる観念的なレベルではなく技術的なレベルでも、十分に探求すべき領域であると意識されるようになったこと〉もこうした作品の背景として指摘できるだろう。こうした多音源サウンド・インスタレーションが出現してきた背景に、技術的な条件の進化という事態があることを指摘しておこう。

以上のように、サウンド・インスタレーション作品について考察する際に音響的側面に着目することで、「多音源サウンド・インスタレーション」というカテゴリーを提起できるのではないか、と提唱しておきたい。このカテゴリーについてはその歴史的・美的展開についてさらなる議論と検証が必要である。その際には、こうした作品の美的受容のあり方を単なる〈周囲から音響を浴びる経験〉に還元してしまわないような議論も必要だろう。今後の課題は多いが、本論では、まずは「多音源サウンド・インスタレーション」というカテゴリーを提案するに留めておきたい。

2.2. 音響的側面:音響と聴覚の機能

また、サウンド・インスタレーション作品において用いられる音響について、2.2.1.音響と聴覚が重要な機能を果たさない場合 と 2.2.2.(どちらかといえば)音響と聴覚が主要な機能を果たす場合 という比較軸を提起しておきたい。インスタレーション作品は五感で体験するものである以上、音響だけが美的要素として存在し、聴覚だけがその作品を受容する知覚であるということはあまりないが、音響的要素や聴覚がその他の(視覚的)要素や(視覚などの)知覚より相対的に重要だったり重要でなかったりする場合はある。

2.2.1.音響と聴覚が重要な機能を果たさない場合

これは、いわゆるインスタレーション作品にたまたま付随的に音があるだけの場合が多いかもしれない。例えば、日本における最初のサウンド・インスタレーションともされる田中敦子《ベル》(1955)[★★★画像10★★★]は、観客がスイッチを押すと壁際の床に置かれた20個のベルが順次鳴る、というインタラクティヴな作品で、第一回具体美術展に出展され、その後も何度か再制作されてきた(北條2017、鷲田2007)。展覧会場の中を音響が空間的に移動するという面白さを評価するならば、この作品はサウンド・インスタレーションとして評価されるべきかもしれないが、その音響的側面が面白いというよりもむしろ、展覧会場を騒然とさせる効果を狙ったものだったように思われる。この作品の主たる目的は〈音響が移動する面白さ〉というよりも〈静かであるべき美術館において騒然とした雰囲気が醸成されること〉であり、いかにも具体美術らしいハプニングの一事例であると理解すべきだろう。

こうした作品について考える際には、そもそも、音響や聴覚が重要ではない作品を「サウンド・インスタレーション」と呼ぶ必要性があるのかどうか、ということを考えるべきだろう(そしておそらく、多くの場合、そう呼ぶ必要はないだろう)。ただし、これは今考えるべき問題ではないので、今は問わない。

2.2.2.音響と聴覚が重要な機能を果たす場合

ここで想定しているのは、前者(2.2.1.)と異なり、音響あるいは聴覚が相対的に重要な作品である。そのような作品として、〈(1)音響だけでも美的鑑賞の対象となることが可能な場合〉と〈(2)自覚的に聴覚を活用する場合〉と〈(3)極端な場合〉という3つの類型を提案したい。また〈(3)極端な場合〉の下位分類としてさらに3つの類型を提案しておきたい。すなわち、〈(3)-1. 音響あるいは聴覚的要素に対して極端に強い焦点が置かれているために、それ以外の要素と知覚がほとんど抑圧されている場合〉、〈(3)-2. 音響はないが可聴域外の振動が焦点化されている場合〉、〈(3)-3. 物理的な音響がなく、コンセプチュアルサウンドを使う場合〉である。

これは、音響と聴覚が重要な機能を果たす作品群を整理するために考案した比較軸だが、この比較軸(と2.2.2.3.の下位分類)の分類基準は経験的なものでしかなく、体型的でも自明でもない。これは解決しなければいけない課題であり、今後のアップデートが必須である。とりあえず現段階では、以下のような比較軸を提案しておきたい。

(1)音響だけでも美的鑑賞の対象となることが可能な場合

(2)自覚的に聴覚を活用する場合

(3)極端な場合

(3)-1. 音響あるいは聴覚的要素に対して極端に強い焦点が置かれているために、それ以外の要素と知覚がほとんど抑圧されている場合

(3)-2. 音響はないが可聴域外の振動が焦点化されている場合

(3)-3. 物理的な音響がなく、コンセプチュアルサウンドを使う場合

暫定的な比較軸ではあるが、以下、簡単に説明しておく。

2.2.2.1.

〈(1)音響だけでも美的鑑賞の対象となることが可能な場合〉ということで想定しているのは、〈音響だけを美的鑑賞の対象として提示する作品〉ではなく、視覚的な要素も構成要素として提示されているが、音響的要素だけでも美的鑑賞の対象となり得る作品、である。つまり、作品の公開時には視覚的要素を伴って公開されたりサウンド・インスタレーションとして公開されたりしたものだが、音響だけが録音されて(CDなりMP3なりの形で)流通することが可能な作品、を念頭に置いている。

典型的な事例として、〈ビル・フォンタナのCD〉を念頭に置いている。ビル・フォンタナは、ある場所で採集した音と別の場所で採集した音とをリアルタイムに混ぜ合わせ、それぞれの場所でリアルタイムで放送することで、環境音の文脈を再配置し、環境音の潜在的な意味に改めて注意を促す、という環境設置型のサウンド・インスタレーション「サウンド・ブリッジ」で有名である。その中のひとつは1987年にケルンとサン・フランシスコとを結んだもので、ケルンとサン・フランシスコという二つの都市から18個ずつの音響を採集してリアルタイムで重ね合わせた作品である(以下、中川2010aを参照)。ここでは、二つの都市を特色付ける音響が選ばれており、ケルン大聖堂の鐘の音やケルン中央駅やライン川で採集される音、あるいは霧笛や波の音といったゴールデン・ゲート・ブリッジで聴こえる音、サン・フランシスコの鳥獣保護区の鳥の声などが用いられた。これらが衛星通信を通じて重ねあわされ、ケルンのルードヴィッヒ美術館とサン・フランシスコのコンテンポラリー美術館に設置されたラウドスピーカーから再生されると共に、北米とヨーロッパの50以上のラジオ放送局から放送された。そして、その放送された音響がCD[12]として販売された[★★★画像11★★★]。

つまり、このCDに録音されたレコード音楽は、〈そもそもは屋外型のサウンド・インスタレーションとして構想されたものだが、ラジオ放送やCDを通じて、音響だけが美的鑑賞の対象になったもの〉である。サウンド・インスタレーションのみならずこのレコード音楽もまた、その音響的側面だけを聴く聴取者に対して、普段は同時には聴かれない環境音を併置することで、普段は気付かれない音響的性格――音響同士の意外な類似性――を開示する。例えば、霧笛と教会の鐘の音、鳥の鳴き声とマンホールの裏で録音された足音やゴールデン・ゲート・ブリッジがきしむ音、あるいは波音と雑踏。こうした、普段は気付かない環境音同士の音響的性格の意外な類似性が開示されることで、このレコード音楽は、聴き手がそれら意外な類似性を持つ環境音たちを注意深く聴き直すきっかけになったと想像される。また、このレコード音楽を、ある種のクライマックスを持つ音楽として聴くことも可能である。例えば、CDの14分頃から続く霧笛と列車の到着音と教会の鐘の音の混合部分は、教会の鐘の音は、複数録音されているし複数のマイクで録音されているので、ディレイ効果が付加されており、それまでの「退屈」な音響テクスチュアと比べてある種のクライマックスであるかのように聴こえ、とても盛り上がる「美しい」部分である。フォンタナ自身が自らのサウンド・インスタレーション作品とCDとして流通するレコード音楽とをどのように区別しているかは不明だが――〈CDとして流通しているレコード音楽は単なる記録であり自分の「作品」ではない〉と考えているのではないかとも想像されるが――、私はこのCDを、音響だけで楽しめる良いレコード音楽として享受した。

同様の事例として、例えば、先述のアルヴィン・ルシエ《細く長い針金の上の音楽》の録音CD(数ヴァージョン存在する)や、ポール・デマリニスがメディア考古学的視点からレコード・メディアを扱った《The Edison Effect》シリーズ(1989-1993)の付属作品として構想されたCD『The Edison Effect: A Listener's Companion』(Apollo Records, ACD 039514, 1995)や、鈴木昭男による聴取作品である《点音》の録音CD(点音の場所で聴かれた音のサンプルの録音)(『Klangkunst - Die Klangdokumentation Zu Sonambiente - Festival Fur Horen Und Sehen Berlin 1996』所収)などをあげられる。こうした事例は枚挙にいとまがない。

さらには、この系統には、〈そもそもは音響だけでも美的鑑賞の対象となり得るとは考えられていなかったが、しかし、音響記録だけが流通したことで――ある種の物好きが録音物だけを美的に享受するようになったことで――、音響だけでも美的鑑賞の対象となり得ることが判明した作品〉というケースも考えられる。例えば、クリスチャン・マークレイ(Christian Marclay)《ギター・ドラッグ(Guitar Drag)》(2000)[★★★画像12★★★]は、1998年にヘイトクライムの犠牲となり殺されたジェームズ・バード・ジュニアを想起させるサウンド・インスタレーションあるいはヴィデオ・インスタレーション作品である。この作品を十全に体験するためには、アンプに接続したギターがトラックに引きずられていくプロセスを見せるヴィデオ映像とギターの音響とを、周囲から隔絶した空間内部で体験するためのブースが必須である(Marclay, Ferguson, and Kwon 2003など)[13]。しかし、この作品の録音抜粋がCDとしてリリースされている。そのCDは2002年のホイットニー・ヴィエンナーレのドキュメント記録(Rinder 2002)の付属CDに過ぎないが、CDとしてリリースする以上、それをレコード音楽として受容することは十分可能である。その場合、低音域から高音域まであらゆる音域から構成されるギターのフィードバック音は、シューゲイザーが奏でる幻惑的で魅惑的な音としてリスナーを陶酔させるかもしれない。少なくとも、音響だけでジェームズ・バード・ジュニアという固有名に思い至る可能性はまずあるまい。こうした事例とフォンタナ作品のようにある程度は作者がコントロールしているだろう事例との区別は明確にはつけ難い。音響記録が十全たる美的鑑賞の対象となるか否か、作者がそれを許すか否か、は、個別事例において判断するしかなく、一般的な分水嶺の設定は曖昧なままにせざるを得ないだろう。

2.2.2.2.

〈(2)自覚的に聴覚を活用する場合〉として想定しているのは、例えばマックス・ニューハウス《タイムズ・スクウェア》[★★★画像1★★★]である。というのも、このインスタレーション作品でも作者が音響を設置しているし、このサウンド・インスタレーション作品を経験するには、まずはその音響に気づかれなければいけないが、作者の狙いとしては、そこで発せられている音響それ自身が美的な鑑賞対象の主役となることは望まれていないからである。この作品では、音響はきっかけでしかなく、音響そのものが主役なのではなく、音響をきっかけとすることで人々の聴覚を活性化させること、が目指されていると考えるべきだからである。

また、同じように、聴覚を最大限活用させる作品として、鈴木昭男《日向ぼっこの空間(A Place in the Sun)》(1988)[★★★画像13★★★]に言及しておきたい。《日向ぼっこの空間》とは1988年に鈴木昭男が行った、オーディエンスのいないパフォーマンス(を行った場所)である。鈴木昭男は、ある時、一日かけて山の中で耳を澄ましていたいと思いつき、一年の準備期間をかけて、レンガを焼いて山頂に運び、自分が耳を澄ませるための床と壁を作り上げ、ある日、朝から晩まで一日中網野の山中の音を聴いたという(詳細は中川真2007など)。これは今では伝説的なパフォーマンスとして、世界中で鈴木昭男が評価される起点のひとつとなっている作品だが、少し考えるとすぐ分かるように、「パフォーマンス」と呼ぶには少し特異なパフォーマンスである。というのも、この「環境音を聴取する」というパフォーマンスは、観衆や聴衆のいない場所で行われたので目撃者はいないし、また、聴取行為も鈴木本人しか行っていないのである。私たちが知っているのは、レンガ造りのプロセスや後から鈴木から聞いたインタビューなどのドキュメントだけであり、私たちが、日向ぼっこの空間で何らかの聴取経験を得たわけではない[14]。私たちは〈この作品を通じて聴覚を使う〉のではなく、〈この作品を通じて聴覚を使うことを学ぶ〉のだと考えるべきなのだろう。つまり、鈴木昭男のパフォーマンスは、〈環境音を聴取するパフォーマンス〉であるというよりはむしろ〈環境音を聴取する行為の重大さ/面白さを他者に伝えるパフォーマンス〉だというべきなのだろう。詳細はまた別の機会に論じるが、この作品は、聴取行為を重要なものとして位置づけ、(マックス・ニューハウスや鈴木自身の後年の点音のように)聴取行為のための機会や状況を提示するのではなく、聴くという行為そのものを芸術作品として提示した最初期の作品として位置づけられるだろう、と私は考えている。

2.2.2.3.

極端な事例(3)の〈(3)-1. 音響あるいは聴覚的要素に対して極端に強い焦点が置かれているために、それ以外の要素と知覚がほとんど抑圧されている場合〉として想定しているのは、音響に焦点を置くあまり、聴覚的要素以外の要素や知覚を抑圧するような事例である。あるいは、サウンド・インスタレーション作品として、五感で経験可能だと思われる状況下で提示されているのに、視覚などを抑圧することで聴覚に極端に強い焦点を置くような事例、である。

例えばフランシスコ・ロペス(Francisco Lopez)のような事例を想定している[★★★画像14★★★]。私は2001年3月28日に大阪市立創造芸術館で行われたフランシスコ・ロペスのコンサートに参加したことがある[15]。彼のコンサートの特徴的な点は、そのプレゼンテーション・スタイル、あるいはその参加方法である。コンサート会場には明かりがなく、その中央には黒いテント(このなかでロペスは音響を操作する)があり、その周辺にはテントの外側を向いて椅子が並べられていた。我々観客(あるいは受容者)は目隠しを渡され、暗闇の中で外側を向き、黒テントの中にいるロペスが操作する電子音響を集中して聴く。電子音響は様々な方向から様々な音量でやってくる。分かりやすいメロディやリズムはなく、緩やかに、時にドラマティックに変化する。受容者は、目隠しされて聴覚に集中せざるを得ないが故に非常に集中し、その微細な変化に注意を向けるようになる――まさにアクースマティックな聴取を要請されるのだ――。

あるいは、「Soundings」展(MoMA, NY、2013年)に展示されていたスーザン・フィリップス(Susan Philipsz)《Study for Strings》(2012)[★★★画像15★★★]とジャナ・ウィンダレン(Jana Winderen)《Ultrafield》(2013)[★★★画像16★★★]も同系統の作品である(Soundings 2013)。いずれも、暗闇の中で、録音された音響に耳を傾ける作品である。スーザン・フィリップスの作品では、暗い部屋の壁にスピーカーが8つ設置されている。〈そこから聞こえてくる音楽には必要な楽器が不在なので、ナチスに迫害されたオーケストラのあり方が示唆される〉というコンセプトである(が、正直なところ、楽器の不在がさして特徴的なものとして響いてこなかったので、この作品のコンセプトが成功しているようには私には聞こえなかった[16])。ジャナ・ウィンダレンの作品では、暗い部屋の中にクッションが用意され、そこに寝そべりながら何かの音に耳を澄ませる。その場所は、コウモリが聞いているはずの超音波を可聴音域に変化させることで、コウモリが聴いている音場を「再現」した場所である、という見立てである。つまり、可聴域外の「音」を可聴音域に変化させた作品である。私は、この作品に対して〈豊穣な世界〉だという印象を持ち、〈通常の知覚では気づくことのできない、普段は気づかない自然〉に耳を傾ける経験であると同時に〈人工的に構成された自然〉の経験でもある、と感じた。この系統の作品は、聴覚以外の知覚を抑圧することで聴覚の能動性を活性化させる、といえよう。

この系統の作品は、その受容において聴覚だけを使っても構わない(しそうすることを逍遥されているようにも感じる)という点で、レコード音楽と同じ受容様態が要請されているとも考えられる[17]。ただし、同時に、作品受容において聴覚を重視するという目的のためにあえて〈視覚も使える状況下で視覚を抑圧するという方法〉を採用する点で、この系統の作品はレコード音楽とは異なる、ともいえるだろう。いずれにせよ〈(1)音響だけでも美的鑑賞の対象となることが可能な作品〉と同じく、この系統の作品は〈音の組織体としての音楽〉と〈音楽ではない音響作品〉とはどのように区別することができるか(あるいは、できないか)という問題を浮上させるだろう。私個人は、「音楽」も「音楽ではない音響作品」も所詮は名前の問題に過ぎないし、さほど有効な問題意識ではない、と思うが、この系統の作品が「音と音楽の境界線はどこか」という問題を考えるための格好のサンプルであることは確かだろう。

〈(3)-2. 音響はないが可聴域外の振動が焦点化されている場合〉として想定しているのは、例えば、小杉武久とカールステン・ニコライ(Carsten Nicolai)の諸作品である。この系統の作品は、小杉武久の「扇風機」[★★★画像17★★★]しかり、カールステン・ニコライの水の波紋しかり、〈知覚困難な「波」を知覚化させるという構造を持つ作品〉として類型化できるようにも思う。知覚困難な「波」を知覚したいという欲望は、実は、〈そのままでは知覚不可能だけれども遍在している「沈黙」を聴き取ろうとする「実験音楽」の伝統〉に近いし、〈「知覚不可能な遍在物の現象化」という実験音楽の欲望〉をそのまま継承しているかのようだと考えることが可能である(この構造については、マークレイの活動について分析する際に論じたことがある:中川2010b)[18]。こうした事例は、多音源サウンド・インスタレーションのように、成熟してひとつのジャンルを形成しているようにも思われる。この分析は今後の課題とする。

「Soundings」展(MoMA, NY、2013年)で展示されていたカールステン・ニコライ《Wellenwanne Ifo》(2012)[★★★画像18★★★]という事例を紹介しておこう(Soundings 2013)。この作品では、天井に取り付けられた蛍光灯が明滅し、内側に反射鏡を仕込んだこの台の上面に設置された銀色の鉄棒のようなものに光を当てる。この鉄棒のようなものにはチューブがつながっていて、どうやらそのチューブを通じて、空気振動か何かの振動が送られているらしい。そのことは、その鉄棒を見るだけでは分からない。しかし、台の内側に仕込まれた反射鏡を通じてこの鉄棒が台の前面に影を映し出すと、その振動が見えるのである。なぜなら、この鉄棒の先端部分から波紋のようなものが広がっているのが見えるからである。空気振動か何かの振動が、天井に取り付けられた蛍光灯の明滅と、反射鏡を使うことによって、可視化されている。つまり、そのままでは知覚不可能な(遍在している)「波」が現象化させられている、というわけだ[19]

こうした〈可聴域外の振動を主題化した作品〉を「サウンド・インスタレーション」と呼ぶ必要があるのかどうか、ということは考える必要があるだろう。ただし、これは今考えるべき問題ではないので、今は問わない。

最後に、〈(3)-3. 物理的な音響がなく、コンセプチュアルサウンドを使う場合〉として想定しているのは、マークレイのサウンド・インスタレーション作品や、その系譜の起源に位置づけられるかもしれないフルクサスのアーティストによるいくつかの作品である。具体的には、ケージが自作の《シアター・ピース(Theatre Piece)》(1960)について述べた「演奏者は自分の行なうことを行なう。しかし音を出さずに行為することは出来ない」という発言を理論的前提に作られたフルクサスのアーティストによるコンセプチュアル・サウンドを用いた諸作品を念頭に置いている。

例えば、ジョージ・ブレクト(George Brecht)《インシデンタル・ミュージック(Incidental Music)》(1961)では、音が、せいぜい〈付随的に発生するもの=the incidental(付随的なもの)〉として位置づけられた。また、ラ・モンテ・ヤング(La Monte Young)のワード・スコアを用いたイベント作品では「蝶の羽ばたき」の音が用いられたし(中川2002)、オノ・ヨーコのワード・スコアは〈部屋が呼吸する音〉を録音するよう求めるし、ヴォルフ・ボステル(Wolf Vostell)《40台の電気掃除機のためのフルクサス・シンフォニー(Fluxus Symphony for 40 Vacuum Cleaners)》(1966/95)では、40台の掃除機が展示されており実際に音は発せられていない(が「音楽」に言及していることは明らかである)。あるいは、ジョージ・マチューナス(George Maciunas)《ピアノ・ピース第13番(カーペンターズ・ピース)(Piano Piece #13 (Carpenter's Piece))》(1962)、フィリップ・コーナー(Philip Corner)《ピアノ・アクティビティズ(Piano Activities)》(1962)、ナム・ジュン・パイク(Nam June Paik)《ピアノ・インテグラル(Klavier Intégral)》(1958)、ナム・ジュン・パイク《ワン・フォー・ヴァイオリン・ソロ(One for Violin Solo)》(1962)などは、「楽器の破壊音」を用いることで、「最後の音」というメタファーを利用していることは明らかである(Kahn 1993)。これらのほとんどはフルクサスらしい「イベント」というパフォーマンス作品だが、こうしたコンセプチュアル・サウンドを(直接的にではないが)継承した存在として、クリスチャン・マークレイがいる。マークレイについて論ずべきことは多いのだが、ここで指摘すべきこととして、何と言っても、マークレイのサウンド・アートは実際には音を発さないという特徴がある。すなわち、マークレイの視覚造形作品のほとんどはコンセプチュアル・サウンドを用いている(中川のマークレイ論は中川2010bと中川2011を参照)[★★★画像19★★★]。

ところで、こちらは〈(3)-2. 音響はないが可聴域外の振動が焦点化されている場合〉とは異なり、「サウンド・インスタレーション」と呼ぶことに意義がある。というのも、物理的な振動はなくとも、鑑賞者の頭のなかでのみ鳴り響くのだとしても、コンセプチュアル・「サウンド」を使っているという点で、この系統の作品を「音の作品」と呼ぶことには何らかの意義があるからである。とはいえ、この系統の作品のさらなる考察もまた今後である[20]

3. 視覚的側面

また、すでに述べたように、サウンド・インスタレーションとはインスタレーション作品である以上、五感を用いて経験する作品であり、それゆえ、そこで用いられる視覚的要素に注目すべきである。画像を使う場合、オブジェを使う場合、映像を使う場合、という比較軸を提案しておきたい。

3.1.画像を使う場合

念頭に置いているのは、ひとつは楽譜をモチーフに制作された画像作品のことであり、もう一つは、二次元の視覚イメージを用いて音響を想像させる画像作品のことである。ただし、これらを「サウンド・インスタレーション」と呼ぶ必然性はあまりないかもしれない。多くの場合、これらはインスタレーション作品というよりも、単なる二次元の視覚イメージ作品と考えられるだろう。

楽譜をモチーフに制作された画像作品の事例として、「Soundings」展(MoMA, NY、2013年)で展示されたマルコ・フシナート(Marco Fusinato)《Mass Black Implosion (Shaar, Iannis Xenakis)》(2012)[★★★画像20★★★]とクリスティン・スン・キム(Christine Sun Kim)の諸作品[★★★画像21★★★]があげられる(Soundings 2013)。前者は、何らかの音楽作品の楽譜上のある一点をすべての音符と直線で結んだものであり、楽譜の中心から各音符に集中線が描かれる。〈音楽における視覚的要素の主題化〉の事例といえよう[21]。また後者は、生まれつき聾のサウンド・アーティストとして有名な作家の作品であり、彼女の想像するオーケストラの音を絵画化したものである。これは〈音楽における視覚的要素の主題化〉というよりは〈音響知覚を(ほとんど)持たない人間が、音響知覚に想像を巡らせる作品〉なので、〈聴覚の拡大という主題〉の事例といえるかもしれない。いずれにせよ、彼女の他の作品と並べて鑑賞する機会があればそのコンセプトの面白さも十分伝わると思われるが、この視覚作品単体がグループ展(Soundings 2013)で展示されているだけでは、私にはその面白さはあまり分からなかった。

こうした作品は、現代音楽における図形楽譜の帰結のひとつといえよう。たとえば、ケージ的な不確定性の音楽作品ではしばしば図形楽譜が用いられるが、そこでは、楽譜の機能が〈演奏されるべき音響〉を指示する機能から〈音響を産出する行為〉を指示する機能に変化している。それゆえ、ケージ的な図形楽譜においては、楽譜と(毎回同じ結果を期待される)音響結果との乖離が生じ、音響結果の非同一性、音楽作品の聴覚的な同一性の喪失、といった特徴が生み出された。こうした楽譜の変化ーー記号の脱厳密化とでもいうべき事態ーーの帰結のひとつとして〈西洋芸術音楽における伝統的な五線譜をモチーフとする絵画〉が制作されるようになった。本節で念頭に置いている作品の系譜は、そうした、二次元の視覚的イメージが先行する作品群のことである(ケージにおける楽譜の機能の変化については、中川2008b、Pritchett 1993などを参照)。

また、二次元の視覚イメージを用いて音響を想像させる画像作品として想定しているのは、要するに、画像を見ることで音を想像させる作品である。前述の「2.音響的側面>2.2. 音響的側面:音響と聴覚の機能>2.2.2.音響と聴覚が重要な機能を果たす場合>〈(3)-3. 物理的な音響がなく、コンセプチュアルサウンドを使う場合〉」のような作品群である。ここでは、2000年代以降のクリスチャン・マークレイのある種の作品を事例にあげておこう。

マークレイの(映像作品以外の)視覚造形作品は、先ほど述べたとおり、すべて実際には音を発さない。つまりコンセプチュアル・サウンドを用いている。マークレイは、レコードという物質を素材として三次元の立体オブジェを制作したり、実際には演奏できないデフォルメされた楽器[★★★画像22★★★]を制作したり、レコードジャケット画像を組み合わせて二次元の視覚イメージを制作したりしてきた。これらマークレイの視覚作品は、見ることによって〈聞こえない音〉を聴かせようとしている、とまとめることができる。そもそもターンテーブルを楽器として用いるミュージシャンとして出発したマークレイの活動は、〈鑑賞者が知覚する音を生成する手段〉を〈楽器としてのレコードの使用〉から〈見ること、見せること、音を想像させること〉へと変化させてきた。音楽と美術の領域にまたがるマークレイの活動は、2000年頃までは〈鑑賞者に知覚させる音を生成する手段〉が変化していく過程として整理できる。私たちはマークレイの作品を見ることによって聴くのである(中川2010bと中川2011を参照)。

2000年以降のマークレイは、映像作家として世界的に認知されるようになる。また同時に彼は写真作品も多く制作している。2000年以降のマークレイの展開について論じるのは今後の課題とせざるを得ないが、ここではその中から、2007年の《Shuffle》という作品(?)[★★★画像23★★★]に言及しておきたい。これは75枚のカード一組で販売されたもの(Marclay2007)で、それぞれは、日常生活の事物――服、ランプシェード、看板、壁紙、ショーウィンドウ、マグカップなど――にデザインとして書かれた/描かれた楽譜の写真であり、ファウンド・イメージとして収集された写真イメージである。このカードの使い方として次のような指示がある。

「このカード一組は楽譜として使う

カードをシャッフルして自分のカードを引く

好きなだけたくさん、あるいは少しだけカードを使って、順番に並べる

一人あるいは他の人と演奏する

規則は自分で決める

音を生み出す、あるいは単に想像する」

この作品からは、この指示にどの程度の実用上の機能を期待できるのかといった〈楽譜の機能〉や〈コンセプチュアル・サウンドの位置付け〉をめぐる興味深い論点を抽出することも可能だが、ここでは単に、これが〈画像を見ることで音(あるいは音符)を想像させる作品であること〉だけを確認しておきたい。例えばこの作品を、私は、二次元の視覚イメージを用いて音響を想像させる画像作品の事例として想定している。

とはいえ、実は、このように、画像を見ることによって音を想像させる記号体系は、マークレイの専売特許ではないし珍しいものでもない。マンガの描き文字や、そもそも文字が、音を記録し再生産するための視覚的なメディアである。ただし、もちろん、それらを芸術作品と呼べるか否か、呼ぶことに意味があるか否かは別の問題である。

3.2.オブジェを使う場合

念頭に置いているのは、空間との関係性のなかで経験されることによって、その面白さが増す〈音を発する三次元のオブジェ〉のことである。ただし、これも「サウンド・インスタレーション」と呼ぶ必然性はあまりないかもしれない。多くの場合、音を発する作品は、空間との関係性の中で経験されることによってこそ、その面白さが理解されるのだから、わざわざそれを「インスタレーション」と呼ぶ必然性はなく、多くは単に「サウンド・オブジェ」と呼ばれることの方が多いかもしれない。

こうした事例として、私は、例えば小杉武久《五十四音点在(Interspersino for 54 sounds)》(1980)[★★★画像24★★★]を念頭に置いている。これは小杉が初めて制作したインスタレーション作品で、小さな発振器54個を18個づつ3つの箱に分けて入れて、それぞれの箱に砂、塩、砂糖を入れて発音体の上に被せたものである。それぞれの発音体はキュッキュッという音をそれぞれの周期で発する――後のこのシリーズの作品では明滅もし始める――。それぞれの箱から発せられる音は、砂糖や塩に吸音されることで、少しずつ異なる。素材の違いから異なるフィルター効果が音響に与えられるので、音響が空間内部に「点在」するわけである。小杉武久の言葉を借りれば、「そういったデリケートな音の違いを、それも箱の中に空間的にアレンジしてありますから、「チッ、チッ」が時間的な点在だけじゃなくて、空間的にも違った場所から出てくる訳です。ということは、音の作品が単に時間的なものだけじゃなくて、空間化されてるということなんです」というわけであるし、また、砂、塩、砂糖という素材はそれぞれ視覚的にも異なる表情を持っているため「それと音との絡み合いで全体が出来上がってて、まあオーディオ・ヴィジュアルな作品になる」という構造の作品である(小杉1996:24)。

とはいえ、この系統の作品群はかなり多い。「Soundings」展(MoMA, NY、2013年)にも、この系統の作品が最も多かった――カミーユ・ノーメント(Camille Norment)《Triplight》(2008)[★★★画像25★★★]、リチャード・ガレット(Richard Garet)《Before Me》(2012)[★★★画像26★★★]、フロリアン・ヘッカー(Florian Hecker)《Affordance》(2013)[★★★画像27★★★]など――。その理由はもちろん、これらは「サウンド・インスタレーション」として考察するよりも「サウンド・オブジェ、サウンド・スカルプチュア、音響彫刻、音オブジェ、音のある美術」といった枠組みの中で考察すべきだからだろう。とはいえ、今は、(さらなる下位分類を提案するといった)さらなる考察は今後の課題としておく。

3.3.映像を使う場合

これも多くの場合「サウンド・インスタレーション」と呼ぶ必然性はないかもしれない。その多くは〈美術館で展示される映像作品〉であり、それゆえ「実験映画」や「実験映像」や「ヴィデオ・インスタレーション」と呼ばれるだろうからである。1920年代のトーキー登場以降、映像を使うこととは多くの場合音響をも使うことであり、(「芸術」が何を意味するにせよ)芸術作品として作られる映像作品の多くは、遅くとも、民生用ポータブル・ヴィデオ・カメラが一般化する1970年頃までには、音響を伴う作品として制作されるようになった(伊奈2008、リーズ2010など)。つまり、映像に音響が付随している芸術作品は珍しくはないので、映像作品を「サウンド…」と呼ぶ必然性はあまりない。また、3.2.と同じ理由から、美術館に設置されている映像作品をわざわざ「インスタレーション」と呼ぶ必要はないだろう[22]

しかし、〈視覚的要素よりも、あるいは、視覚的要素と同時に、聴覚的要素も重要な映像作品〉という事例はあるし、また、わざわざ「インスタレーション」と呼ぶ意義のある事例もある。例えば、2.2.2.1.で言及したクリスチャン・マークレイ《ギター・ドラッグ》(2000)はその好例だろう。周囲から隔絶したブースの内部でヴィデオ映像とギターの音響とを視聴する経験は強烈だった。この作品は視覚的側面には還元できないし、音と映像を〈美術館において、しかもさらなる隔絶した内部空間で〉経験することこそが視聴覚経験の強烈さを担保していた。

また、例えば、「Soundings」展(MoMA, NY、2013年)に展示されていたヤコブ・キルケゴール(Jacob Kirkegaard)《AION》(2006)[★★★画像28★★★]は、それを「インスタレーション」と呼ぶ必然性には議論の余地があるが、音響と映像との相乗効果を探求した作例であり、〈視覚的要素と同時に聴覚的要素も重要な映像作品〉である。これは、アルヴィン・ルシエの古典的作品《私はある部屋に座っている(I Am Sitting in a Room)》(1969)のシステムーー〈1分ほどの話し言葉の録音をある空間で再生録音する〉というループを数十回繰り返す作品ーーを継承発展し、チェルノブイリ近辺の廃屋の様子を録画録音したものである。つまり、この作品は、〈廃屋の環境音を再生録音する10分ほどのループ〉を廃屋で数回繰り返すことで、また、チェルノブイリの廃屋4軒の映像を様々なやり方で編集加工することで、廃屋の環境音と映像が徐々に変化していくプロセスを提示する作品だった。すなわち〈視覚的要素と同時に聴覚的要素も重要な映像作品〉である。ただし、この作品をサウンド・アートとかサウンド・インスタレーションとか呼ばなければいけない必然性はどの程度あるのだろうか[23][24]

4. 聴衆との関係

最後に、聴衆との関係に注目し、インタラクティヴな要素の有無という比較軸を提案しておきたい。

4.1.インタラクティヴな要素の無い場合:インタラクティヴィティについて

インタラクティヴィティとは相互に影響し合うことであり、インタラクティヴな要素ということで念頭に置いているのは〈作品から受容者に働きかけるだけではなく、受容者も作品のあり方に働きかけるという要素〉である。なので、たとえば、マックス・ニューハウス《タイムズ・スクウェア》には聴衆から設置された音に働きかける手段はない――設置された音響のあり方は変わらない――ので、インタラクティヴな要素はないといえる。が、ニューハウスの設置した音響を聴くことで受容者が周囲の音環境に対して積極的に耳を傾けた結果、〈受容者の脳内で知覚された音環境〉すなわち「聴覚的に記号化された風景」(庄野1996)が変化し、その変化した〈受容者の脳内で知覚される音環境〉や、そのような変化を生じさせる関係性も含めて作品と呼ぶならば、マックス・ニューハウス《タイムズ・スクウェア》にはインタラクティヴな要素があるともいえる。もちろん、これはどのような芸術作品についても述べることのできる一般論である。〈対象を受容することで変化した受容者の認識〉やそのような変化を生じさせる関係性をも含めて作品と呼ぶならば、あらゆる作品は、受容者の受容のあり方に影響されるという意味で、インタラクティヴ・アートである[25]

本論で「インタラクティヴィティとは何か」という芸術論について考察するのはここまでとする。以下、私は、個別具体的なサウンド・インスタレーション作品について考察するための比較軸を抽出したい。そこで本論では、インタラクティヴ・アートとは〈観客が何らかの方法で具体的に身体を参加させることで完成する作品〉だと考える。これも完璧な定義というには程遠いが、少なくとも、マイケル・フリードのいう「演劇的な」ミニマル・アートが(その作品を面白いものとして受容するためには受容者が能動的にその作品を知覚する必要があるという意味で)観者参加型だ、という場合とは区別できるだろう(Fried 1995)。つまり、(相対的にしか設定できない)能動的/受動的な知覚という区別にインタラクティヴィティの有無を見出すのではなく、より明示的に、「実際に身体を参加させること」を条件として算入しておきたい。また、この条件を算入することで、いわゆる社会包摂型のソーシャリー・エンゲージド・アートやハプニングとも区別しておきたい。いずれにせよ私は〈サウンド・インスタレーション作品のなかには、受容者が実際に手足を使って身体的に参加する場合と、しない場合がある〉という比較軸に注意を促したいのである。

4.2.インタラクティヴな要素の有る場合

〈観客が何らかの方法で具体的に身体を参加させることで完成する形態の作品〉として想定しているのは[26]、古典的作品としてのローリー・アンダーソン(Laurie Anderson)《ハンドフォン・テーブル(Handphone Table)》(1978)[★★★画像29★★★]、あるいはすでにとりあげた藤本由紀夫の《Ears of the Rooftop》(1990)や《Stars》(1990)、あるいは金沢21世紀美術館の庭に展示されていたフロリアン・クラール(Florian Claar)《アリーナのためのクランクフェルト・ナンバー3(Klangfeld Nr.3 für Alina)》(2004)[★★★画像30★★★]である[27]。ローリー・アンダーソン《ハンドフォン・テーブル》(1978)は〈木製の机と椅子ふたつがあり、受容者は椅子に座ることができるので、椅子に座ってテーブルに向かう。すると机の上になんとなく窪んだ箇所がふたつあることに気づく。ちょうど良い距離なので、そこにヒジをついて両手で頭を抱え込む姿勢を取る。すると、耳を覆う掌に振動が伝わってくる。骨伝導で耳に振動が伝わり、音響知覚が生じる〉という作品である。聞こえてくる音は17世紀の詩人の詩をローリー・アンダーソンが朗読したものらしいが、2012年にカールスルーエのZKMで行われた「Sound Art. Klang als Medium der Kunst(Sound Art. Sound as a Medium of Art)」展で私が体験したときには、聞こえてくる音の詳細はよく分からなかった。ただし、〈空気振動は生じていないので、机に触れないでいると音響知覚は生じないのに、インスタレーション作品に自分の身体を設置すると音響知覚が生じる〉という体験は、通常の音響知覚/聴覚経験とは異なる経験であり、面白いものだった[28]

また、金沢21世紀美術館の庭に展示されていたフロリアン・クラール《アリーナのためのクランクフェルト・ナンバー3》(2004)はインタラクティヴな要素を持ち、かつ、美術館に設置されているけれども屋外型のサウンド・インスタレーションである。これは潜水艦の伝声管を美術館の庭の地下に這わせた作品で、庭で遊ぶ人々が伝声管に向かって何か話すと、その声が、庭の何処かから出現している伝声管のもう片方から聞こえてくる、という作品である[29]

以上、サウンド・インスタレーションの個々の作品の比較軸として、〈受容者が実際に手足を使って身体的に参加する場合と、しない場合がある〉という比較軸を提案しておく。

まとめにかえて

ここまで、個別具体的なサウンド・インスタレーション作品について考察する際にいくつかの比較軸を提案してきた。提案したのは以下のような比較軸である。2.2.2.のみ、序章より詳細に記した。

1 作品の設置状況

1.1 閉鎖空間の場合

1.2 開かれた環境の場合:サイト・スペシフィティの有無

2 音響的側面

2.1 音響的側面:音源の数

2.1.1 単数(あるいは少数)の場合

2.1.2 多音源サウンド・インスタレーションの場合

2.2 音響的側面:音響と聴覚の機能

2.2.1 音響と聴覚が重要な機能を果たさない場合

2.2.2 音響と聴覚が重要な機能を果たす場合

2.2.2.1 (1)音響だけでも美的鑑賞の対象となることが可能な場合〉

2.2.2.2 (2)自覚的に聴覚を活用する場合

2.2.2.3 (3)極端な場合

2.2.2.3.1 (3)-1音響あるいは聴覚的要素に対して極端に強い焦点が置かれているために、それ以外の要素と知覚がほとんど抑圧されている場合

2.2.2.3.2 (3)-2音響はないが可聴域外の振動が焦点化されている場合

2.2.2.3.3 (3)-3物理的な音響がなく、コンセプチュアルサウンドを使う場合

3 視覚的側面

3.1 画像を使う場合

3.2 オブジェを使う場合

3.3 映像を使う場合

4 聴衆との関係

4.1 インタラクティヴな要素の無い場合

4.2 インタラクティヴな要素の有る場合

こうした比較軸を提案したのは、この比較軸に注目しつつ作品を観察することで、作品をより深く理解できるだろうと考えるからである。本文中でできるだけ多くの作品記述を行ったのは、そのことを実際に示すためでもあった。この比較軸の提案が、何よりもまず個別具体的な作品理解のために、さらには広く「サウンド・インスタレーション」なるジャンルあるいは作品形態に関する理解に貢献することを望む。

今後の課題も多い。本文中にすでに述べた通り、「2.1.2.多音源サウンド・インスタレーション」については今後のさらなる検証を行いたい。また、「2.2.2.音響と聴覚が重要な機能を果たす場合」の下位分類は経験的なものでしか無いし、「3.視覚的側面」をサウンド・インスタレーションと呼ぶ必然性の有無については再考すべきだろうし、3.2.に含まれる対象のさらなる考察(あるいは下位分類の提案)が必要だし、〈(3)-2. 音響はないが可聴域外の振動が焦点化されている場合〉や〈(3)-3. 物理的な音響がなく、コンセプチュアルサウンドを使う場合〉については参照する文脈を増やしてさらに深く論じることが可能だし、また、3.1.の節で少し触れたとおり、クリスチャン・マークレイというアーティストの重要性を考えると、2000年以降のクリスチャン・マークレイについて改めて論じる必要がある。その他にも多くの課題はある。今後の自らの研究の深化を決意すると同時に、読者諸兄姉からのご指導ご鞭撻も切に期待している。

何よりもまず、私は、この論文と姉妹論文(中川2020c)を、私が今後計画しているサウンド・アート論の予備作業として作成した。近年中に「サウンド・アート論」を完成させることを、私にとっての最も重要な今後の課題であると宣言することで、この試論を終える。

参考文献

本論で参照したurlへのアクセス最終日はすべて2019年10月25日である。

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[1] 松本秋則(http://www.matsumotoakinori.com/Site/matsumoto_akinori.html)は1980年代前半のキャリアの開始時あるいはその直後くらいから、こうした竹細工の鳥や飛行船を作り始めた。しかし、そうした個々の作品を同じ展示空間の中にたくさん展示し始めたのがいつからかは不明である。私は松本のこうした音具とそのインスタレーションに魅せられて、2014年8-10月に横浜市庁舎のメインホールに設置された30個以上の音具を用いたサウンド・インスタレーションを題材に、作品分類試論を提案したことがある(中川2015)。

[2] Artscape制作の「Artwords(現代美術用語辞典ver.2.0)」のために2012年に私が書いた説明(http://artscape.jp/artword/index.php/サウンド・インスタレーション

[3] Artscape制作の「Artwords(現代美術用語辞典ver.2.0)」のために2012年に私が書いた説明を参照(http://artscape.jp/artword/index.php/サウンド・アート

[4] 何が最初のサウンド・アートであり、最初のサウンド・インスタレーションであるかは問わない。Gál 2017によれば、「sound installation」という言葉の最も古い用例は1973年らしいが、芸術における音研究に先鞭をつけたダグラス・カーン(Douglas Kahn)によれば、60年代からアルヴィン・ルシエは自作をsound artと呼んでいたし、その他にも多くの芸術家が自作を「sound art」や「sound installation」と呼んでいたらしい(2006年1月21日のダグラス・カーンとの会話より)。おそらく「より古いサウンド・アート/サウンド・インスタレーション」はまだしばらくは再発見され続けるのではないか。最古の…発見競争に参加することは今は避けておくが、いくつかの事例を列挙しておこう。

2014年8月号の『The Wire』誌に掲載されたバーニー・クラウス(Bernie Krause)へのインタビュー(“Invisible Jukebox.” p.23)で、彼は、最初のサウンド・インスタレーションは1951年にサンフランシスコで行われた、と述べている(が、誰の何という作品かは述べていない)。ただし、その作品の作家が自分の作品をサウンド・インスタレーション「として」認識していたのかどうかは不明だし、それをサウンド・インスタレーション「として」解釈することにどの程度の意味があるのかも不明である。

1955年に展示された田中敦子《ベル》(1955)は、美術館内でベルを鳴り響かせるインスタレーションなので、日本で最初のサウンド・インスタレーションである(詳細は本文中で説明)。

あるいは、戦後日本文化研究者のウィリアム・マロッティ(William Marotti)によれば、読売アンデパンダン展で初めて「音」を組み込んだ作品を作ったのは、1962年に最後に行われた第五回における刀根康尚である(Marotti 2013: 188)。

あるいはGrubbs2014によれば、最初のサウンド・インスタレーションはブルース・ナウマン(Bruce Nauman)《Six Sound Problems for Konrad Fischer》(1968)である(47)。 等々

[5] 興味深い事例として、NYのMoMAで2013年に開催された「Soundings」展で展示されたステファン・ヴィティエロ(Stephen Vitiello)《A Bell for Every Minute》(2010)がある(Soundings 2013)[★★★画像5★★★]。これは、美術館に設置されるけれども「開かれた環境」に設置されたサウンド・インスタレーションである。

この作品が展示された場所は、MoMAの一階の半公共スペースである彫刻公園(Museum of Modern Art Interior and Sculpture Garden)である。ここは、毎週MoMAの入場料金が無料となる金曜夜だけでなく、MOMAの開館前の時間はいつも一般に無料開放しているスペースで、噴水や椅子がありNY市民がのんびりくつろげるスペースである。

この作品は、NY市内各所で鐘の音を録音し、その録音を、壁に並べて設置された5本のスピーカーから、一分毎に鳴らす、という作品だった。教会の鐘の音や自転車のベルの音などが鳴らされていた。音量は、公園の噴水のほうが大きいくらいで、公園で人々が寛いでいるとその雑踏の音で聞こえないくらいである。これは、基本的には、マックス・ニューハウス《タイムズ・スクエア》と同様に、周囲の音環境に少しの違和感を混入させることで、周囲の音環境に対して改めて注意を促すサウンド・インスタレーションだ、といえよう。またこの作品は、ニュー・ヨーク市内ではどこにどのような鐘の音があるかを調べてその調査成果を発表するリサーチ・ベースド・アートであった。

私はこの作品を2013年にMoMAで体験したが、この作品は、2010年に東京都現代美術館で開催された「アートと音楽」にも出品された(東京都現代美術館2012)。

[6] この作品は2019年にArs Electronicaのhonorary mentionを受賞した(https://calls.ars.electronica.art/prix2019/prixwinner/33663/)。

[7] この作品は2019年に第22回文化庁メディア芸術祭アート部門の大賞に選ばれた(http://festival.j-mediaarts.jp/works/art/pulsesgrainsphasemoire/)。

[8] その制作が予告されてから5年以上、近刊予定の状態が続いていたこの展覧会の図録は、本論脱稿後、ようやく筆者の手元に届けられた。800ページ近くの大部のこの図録は今後のサウンド・アート研究における必須文献の一つとなろう。

[9] 京都の瑞雲庵で行われたこの展覧会については、松井茂のこの展評(「剥き出しの技術(テクノロジー)のアクチュアリティ。松井茂評「空白より感得する」展」(2018年11月14日掲載(https://bijutsutecho.com/magazine/review/18740)が参考になる。展覧会の記録もいくつかの媒体で刊行予定である(http://mhrs.jp/blanks/)。

[10] 前述の古館健の作品と同じく、2019年第22回文化庁メディア芸術祭で、アート部門優秀賞を受賞した(http://festival.j-mediaarts.jp/works/art/lasermice/)。

[11] なお、私はかつて、「多音源サウンド・インスタレーション」という観点からThe SINE WAVE ORCHESTRA《stay》(2017)とポール・デマリニス《Tympanic Alley》(2015)@難波CASについて小論を書いたことがある。作品記述の事例として参照していただきたい。「2017年2月21日火曜日 作文:サイン波は世界を幻惑する(かもしれない)」(http://after34.blogspot.com/2017/02/blog-post_21.html)と「2018年1月19日金曜日 作文:多音源サウンド・インスタレーションについて:Paul DeMarinis《Tympanic Alley》(2015)@難波CAS」(http://after34.blogspot.com/2018/01/paul-demarinistympanic-alley2015cas.html)である。

[12] Bill Fontana『Satellite sound bridge Cologne-San Francisco (Ohrbruecke / Soundbridge Koeln - San Francisco)』(CD, Wergo, WER 6302-2, 1994年)

[13] 私は2012年9月に、ドイツのカールスルーエで開催されていた「Sound Art. Klang als Medium der Kunst(Sound Art. Sound as a Medium of Art)」展でこの作品を体験し、その強烈さに圧倒された。

また、その関連性について明言している証言を見つけられてはいないためまだ推測に過ぎないが、このヴィデオ・インスタレーションは、おそらく、ナム・ジュン・パイクがしばしば行っていた〈ヴァイオリンを足に紐でくくりつけて歩いて引きずるパフォーマンス〉をふまえたものだと思われる。パイクのこのパフォーマンスについては、1975年に行われた「Violin Dragging, Brooklyn, New York, 1975」というタイトルの記録映像が残っている。

[14] ちなみに、2017年11月に、《日向ぼっこの空間》が行われたこの場所が30周年記念を目前に取り壊された、というニュースが届けられた(参照:The Wire誌のウェブサイトの2017年11月23日のニュース”Akio Suzuki's Space In The Sun has been demolished”より)(https://www.thewire.co.uk/news/49047/akio-suzuki-s-space-in-the-sun-has-been-demolished)。近年崩壊しつつあったこのレンガ造りの《日向ぼっこの空間》のくぼみに、この周辺で放牧されていた牛が足を取られて死ぬという事故が起きたため、怒った牛の管理人が《日向ぼっこの空間》を取り壊してしまったとのことである。その是非はともあれ、聴く行為としてのサウンド・アートの代表的作品(の痕跡)が取り壊されてしまったことは、本人にとってもかなり悲しかったことらしく、鈴木昭男はしばらく力を落としていたようだ(中川2018も参照)。とりもなおさず、私たちが日向ぼっこの空間で何らかの聴取経験を得ることは、決して叶わなくなったわけである。

[15] インターネット上にはほとんど情報が残されていないが、当時大阪市立創造芸術館にいた甲斐賢治の企画だった。「響 hibiki / field for Electro-Acoustic music」というシリーズで、他に竹村延和+アキツユコが出演していた。

[16] 余談だが、〈当然そこにあるべき音響の不在〉という主題あるいは手法を用いた作品としては、2019年にアルス・エレクトロニカのDigital Musics & Sound Art部門で優秀賞(award of distinction)を受賞したサムソン・ヤング(Samson Young)の《Muted Situation #22: Muted Tchaikovsky’s 5th》(2018)が秀逸である(https://calls.ars.electronica.art/prix2019/prixwinner/33399/)(https://www.thismusicisfalse.com/muted-tchaikovsky/)。

[17] いずれもアクースマティックな聴取が理想化されていると考えられるからである。ただし、レコード音楽においては常にアクースマティックな聴取が理想化されているわけではない、つまり、散漫な聴取もまたレコード音楽にとって最適な聴取様態である。レコード音楽においては理想的な聴取モードが一様に決定されているわけではない、ということもまた、この系統の作品とレコード音楽との大きな違いのひとつだろう。

[18] 私は2007年に京都大学に提出した博士論文で、実験音楽におけるこうした欲望の伝統について考察した(中川2008)。また小杉武久については、2001年に千葉の幕張で開催された国際美学会で発表した(NAKAGAWA 2003)。

[19] 日常に潜む事物のゆらぎとでもいえそうなものをとりあげた作品として、同じく2013年の「Soundings」展に出品されていたルーク・ファウラーと角田俊也(Luke Fowler and Toshiya Tsunoda)《Ridges on the Horizontal Plane》2011.もあげられよう(Soundings 2013)。部屋の真ん中に吊るしたスクリーンの片方からは8mmフィルムで、反対側からはスライド映写機で、日常を切り取った映像や静止画像を投影している。部屋の隅からは扇風機が風を送っている。全体的に、様々な仕掛けを通じて、スライドから映写される日常の風景が異化される作品だといえよう。あるいは、角田俊也や佐藤実が運営していたレーベルWrk(https://www.ms-wrk.com/)の作品もまた、日常に潜む事物の振動を主題とする作品であった。。

[20] これもまた今後の課題だが、私は、コンセプチュアル・サウンドについて論じることで、1990年代後半以降の日本におけるサウンドアートと音響派の展開について比較考察していきたいと考えている。

[21] ちなみに、これは、デヴィッド・グラッブスの著作カバーに使われている(Grubbs 2014)。

[22] ただし、近年、「サウンド・アート」の起源のひとつとして、60年代あるいは70年代以降のギャラリーで展示されるようになった映像作品が音を伴っていたこと、に注目する研究がいくつか出現した(Hegarty 2016, Rogers 2013)。Hegarty 2016は、映像作品の音響的側面に注目した作品分析を集めた研究書として有用である。また、Rogers 2013は、視覚美術の文脈に音が登場するようになった経緯のひとつを明らかにする歴史研究として意義ある。今後の発展が期待される研究領域である。

[23] また、「Soundings」展(MoMA, NY、2013年)で展示されていた王虹凱(WANG Hong-Kai)《Music While We Work》(2011)でも、映像が展示されていた。が、これはそもそもは、台湾を中心に活動する作家が、台湾の工場など人々が労働している場所の音響を採集し、その音を、労働者と共に音楽制作に用いた、というアートプロジェクトの記録映像だった。つまり、これは音/音楽を用いるアートプロジェクトの記録映像であり、映像中の音声が何らかの美的鑑賞の対象物として提示されているわけではなかった。これは、音/音楽を用いるアート・プロジェクトであり、ダグラス・バレット(G. Douglas Barrett)の考える「after sound art」な音楽活動――あるいはソーシャリー・エンゲージド・アート、あるいはリレーショナル・アート――として位置づけるべき作品なのだろう(Barrett 2016)。

[24] ここでは、「サウンド・アート」や「ルシエ」はある種の「言い訳」ないしはツールとして使われているに過ぎないともいえる。ただし、このことは言い換えれば、「サウンド・アート」がツールとして使われるほど十分に成熟・陳腐化したことを示す、ともいえる。それゆえ私は、この作品がこの展覧会(「Soundings」展、MoMA, NY、2013年)の最後に置かれていたことは、この展覧会が「サウンド・アートの成熟」を示す展覧会であることを雄弁に主張していたように感じられた。

[25] 同様の認識は珍しくない。例えば、Artscape制作の「Artwords(現代美術用語辞典ver.2.0)」の事典項目「インタラクティヴ・アート」https://artscape.jp/artword/index.php/インタラクティヴ・アート)(執筆は星野太)を見よ。

[26] インスタレーション作品ではないがインタラクティヴな作品として、藤本由紀夫の諸々のオルゴール作品や、ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラーのWalks系統の作品がある。2012年のドクメンタで公開された《Alter Bahnhof Video Walk》を、中川は体験したことがある(https://www.cardiffmiller.com/artworks/walks/bahnhof.html)。

[27] 美術館ウェブサイト:https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=30&d=2

[28] これと同様の事例として、「Soundings」展(MoMA, NY、2013年)に出品されていた作品群のなかでは、Sergei Tcherepnin, Motor-Matter Bench. 2013.がある。これは、広大なMoMAの建物の中で「Soundings」展が開催されている空間に入る直前に設置されていたベンチである。しかし、展示空間の前に設置されていたし、トイレのそばに設置されていたので、来訪者の多くからは通常の休憩用ベンチと勘違いされており、作品を経験するために座るために、私はかなり待たなければならなかった。そして、実際にベンチに座って作品を経験してみて、多くの人がそのようにこの作品を休憩用ベンチだと勘違いするのも仕方ないことがわかった。なぜなら、座っても何も「聴こえて」こなかったからだ。私は2013年9月11日から21日にNYに調査出張した時にこの展覧会に何度か行ったが、どの時もこの作品は壊れていたようだ。

[29] これと同様の事例として、スティーヴ・パーカー(Steve Parker)による《Tubascopes》(2017)がある(本人ウェブサイト:https://www.steve-parker.net/war-tuba)。これは、聴音機――空気中・水中・地中などの音波を聞き取る装置――を模して作られたもので、屋外に設置されたこの作品に耳を澄ませることで、周囲の音環境に対して改めて注意を促す、という仕掛けである。「聴音機」という軍事技術を模していることが、この作品においてどのような意義を持っているかは明らかではないが、少なくともこれがインタラクティヴな要素を持っていることは間違いない。

画像リスト

キャプション:「サウンド・インスタレーション試論:4つの比較軸の提案 _1/2」用

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松本秋則《オトノフウケイ》(2019年ヴァージョン)

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アルヴィン・ルシエ《細く長い針金の上の音楽》(1977)

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マックス・ニューハウス《タイムズ・スクウェア》(1977-92、2002-)

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藤本由紀夫《Ears of the Rooftop》(1990)、撮影:Kiyotoshi Takashima

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ステファン・ヴィティエロ《A Bell for Every Minute》(2010), IN2257.30. Photograph by Jonathan Muzikar

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藤本由紀夫《Stars》(1990)

画像7

ジャネット・カーディフ《40声のモテット》(2001)

画像8

トリスタン・ペリッチ《Microtonal Wall》(2011), IN2257.4. Photograph by Jonathan Muzikar

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デヴィッド・チュードア《Rainforest V (variation 1)》(2019再制作, MoMA, NY)

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田中敦子《ベル》(1955)、第3回ゲンビ展に際し京都市美術館で《作品(ベル)》を設置する田中敦子(「朝日新聞」1955年11月24日夕刊に掲載)

画像11

Bill Fontana『Satellite sound bridge Cologne-San Francisco (Ohrbruecke / Soundbridge Koeln - San Francisco)』(Wergo, WER 6302-2, 1994年)

画像12

クリスチャン・マークレイ《ギター・ドラッグ》(2000)

画像13

鈴木昭男《日向ぼっこの空間》完成当時(1988年9月23日)

画像14

フランシスコ・ロペス、2004年のデュッセルドルフのコンサート会場における椅子の配置

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スーザン・フィリップス《Study for Strings》(2012), IN2257.13. Photograph by Jonathan Muzikar

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ジャナ・ウィンダレン《Ultrafield》(2013), IN2257.24. Photograph by Jonathan Muzikar

画像17

小杉武久《Mano-dharma, electronic》(1967-2017、芦屋市立美術博物館「小杉武久 音楽のピクニック」展)、撮影:高嶋清俊

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カールステン・ニコライ《Wellenwanne Ifo》(2012), IN2257.7. Photograph by Jonathan Muzikar

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例えば《Cube》(1989)など

キャプション:「サウンド・インスタレーション試論:4つの比較軸の提案 _2/2」用

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マルコ・フシナート《Mass Black Implosion (Shaar, Iannis Xenakis)》(2012)

画像21-1

クリスティン・スン・キム《All Day》(2012)

画像21-2

クリスティン・スン・キム《All Night》(2012)

画像22

マークレイ《Drumkit》(1999)

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マークレイ《Shuffle》より

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小杉武久《五十四音点在》(1980)

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カミーユ・ノーメント《Triplight》(2008), IN2257.6. Photograph by Jonathan Muzikar

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リチャード・ガレット《Before Me》(2012), IN2257.22. Photograph by Jonathan Muzikar

画像27

フロリアン・ヘッカー《Affordance》(2013), IN2257.27. Photograph by Jonathan Muzikar

画像28

ヤコブ・キルケゴール《AION》(2006)

画像29

ローリー・アンダーソン《ハンドフォン・テーブル》(1978)

画像30

フロリアン・クラール《アリーナのためのクランクフェルト・ナンバー3》(2004)、撮影:渡邉修

画像典拠

キャプション:「サウンド・インスタレーション試論:4つの比較軸の提案 _1/2」用

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松本秋則《オトノフウケイ》(2019年ヴァージョン)

典拠

BankART1929BLOG「「雨ニモマケズ」展開催中! 2019年3月10日」(http://bankart1929.seesaa.net/archives/20190310-1.html)

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アルヴィン・ルシエ《細く長い針金の上の音楽》(1977)

典拠

ドキュメンタリー『NO IDEAS BUT IN THINKGS: The composer Alvin Lucier.』(2013)公式ウェブサイト(http://alvin-lucier-film.com/moaltw.html)

画像3

マックス・ニューハウス《タイムズ・スクウェア》(1977-92、2002-)

典拠

Ulrich Loock “Times Square: Max Neuhaus’s Sound Work in New York City.” Open! Platform for Art, Culture & the Public Domain. November 1, 2005. https://www.onlineopen.org/times-square

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藤本由紀夫《Ears of the Rooftop》(1990)、撮影:Kiyotoshi Takashima

典拠

西宮市大谷記念美術館「Audio picnic 10/10」(2006年5月27日)図録ポストカード

画像5

ステファン・ヴィティエロ《A Bell for Every Minute》(2010), IN2257.30. Photograph by Jonathan Muzikar

典拠

「Soundings: A Contemporary Score」展(2013)公式ウェブサイト(https://www.moma.org/calendar/exhibitions/1351)

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藤本由紀夫《Stars》(1990)

典拠

ギャラリーShugoArtsのウェブサイト(http://shugoarts.com/news/3300/)

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ジャネット・カーディフ《40声のモテット》(2001)

典拠

Licht 2007: 51

画像8

トリスタン・ペリッチ《Microtonal Wall》(2011), IN2257.4. Photograph by Jonathan Muzikar

典拠

「Soundings: A Contemporary Score」展(2013)公式ウェブサイト(https://www.moma.org/calendar/exhibitions/1351)

画像9

デヴィッド・チュードア《Rainforest V (variation 1)》(2019再制作, MoMA, NY)

典拠

“An Immersive Sound Installation at MoMA Introduces the Studio. By Joshua Barone.” New York Times. 2019-10-17. https://www.nytimes.com/2019/10/17/arts/design/moma-the-studio.html

画像10

田中敦子《ベル》(1955)、第3回ゲンビ展に際し京都市美術館で《作品(ベル)》を設置する田中敦子(「朝日新聞」1955年11月24日夕刊に掲載)

典拠

鷲田2007:37

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Bill Fontana『Satellite sound bridge Cologne-San Francisco (Ohrbruecke / Soundbridge Koeln - San Francisco)』(CD, Wergo, WER 6302-2, 1994年)

画像12

クリスチャン・マークレイ《ギター・ドラッグ》(2000)

典拠

Marclay, Ferguson, and Kwon 2003: 77

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鈴木昭男《日向ぼっこの空間》完成当時(1988年9月23日)

典拠

鈴木昭男の公式ウェブサイト(https://www.akiosuzuki.com/work/space-in-the-sun/)

画像14

フランシスコ・ロペス、2004年のデュッセルドルフのコンサート会場における椅子の配置

典拠

Licht 2007: 50

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スーザン・フィリップス《Study for Strings》(2012), IN2257.13. Photograph by Jonathan Muzikar

典拠

「Soundings: A Contemporary Score」展(2013)公式ウェブサイト(https://www.moma.org/calendar/exhibitions/1351)

画像16

ジャナ・ウィンダレン《Ultrafield》(2013), IN2257.24. Photograph by Jonathan Muzikar

典拠

「Soundings: A Contemporary Score」展(2013)公式ウェブサイト(https://www.moma.org/calendar/exhibitions/1351)

画像17

小杉武久《Mano-dharma, electronic》(1967-2017、芦屋市立美術博物館「小杉武久 音楽のピクニック」展)、撮影:高嶋清俊

典拠

椹木野衣「小杉武久とマランダという名の亀、その終わりのない旅と夢」 『artscape』2019年05月15日号掲載(https://artscape.jp/focus/10154654_1635.html)

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カールステン・ニコライ《Wellenwanne Ifo》(2012), IN2257.7. Photograph by Jonathan Muzikar

典拠

「Soundings: A Contemporary Score」展(2013)公式ウェブサイト(https://www.moma.org/calendar/exhibitions/1351)

画像19

例えば《Cube》(1989)など

典拠

Licht 2007: 233

キャプション:「サウンド・インスタレーション試論:4つの比較軸の提案 _2/2」用

画像20

マルコ・フシナート《Mass Black Implosion (Shaar, Iannis Xenakis)》(2012)

典拠

Soundings 2013: 28

画像21-1

クリスティン・スン・キム《All Day》(2012)

典拠

Soundings 2013: 38

画像21-2

クリスティン・スン・キム《All Night》(2012)

典拠

Soundings 2013: 39

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マークレイ《Drumkit》(1999)

典拠

Marclay, Ferguson, and Kwon 2003: 71

画像23

マークレイ《Shuffle》より

典拠

Marclay 2007より

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小杉武久《五十四音点在》(1980)

典拠

「小杉武久 音の世界 新しい夏」展(芦屋市立美術博物館、1996)におけるパフォーマンスの記録ビデオよりキャプチュア

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カミーユ・ノーメント《Triplight》(2008), IN2257.6. Photograph by Jonathan Muzikar

典拠

「Soundings: A Contemporary Score」展(2013)公式ウェブサイト(https://www.moma.org/calendar/exhibitions/1351)

画像26

リチャード・ガレット《Before Me》(2012), IN2257.22. Photograph by Jonathan Muzikar

典拠

「Soundings: A Contemporary Score」展(2013)公式ウェブサイト(https://www.moma.org/calendar/exhibitions/1351)

画像27

フロリアン・ヘッカー《Affordance》(2013), IN2257.27. Photograph by Jonathan Muzikar

典拠

「Soundings: A Contemporary Score」展(2013)公式ウェブサイト(https://www.moma.org/calendar/exhibitions/1351)

画像28

ヤコブ・キルケゴール《AION》(2006)

典拠

Soundings 2013: 43

画像29

ローリー・アンダーソン《ハンドフォン・テーブル》(1978)

典拠

Beil and Kraut 2012: 230

画像30

フロリアン・クラール《アリーナのためのクランクフェルト・ナンバー3》(2004)、撮影:渡邉修

典拠

金沢21世紀美術館ウェブサイト(https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=30&d=2)