2020年03月サウンド・インスタレーション試論――音響芸術における歴史的かつ理論的背景――

サウンド・インスタレーション試論

音響芸術における歴史的かつ理論的背景

(ここで公開している論文たちには校正での訂正が反映されていない部分があり、実際の掲載稿とは若干相違があります。また図版は掲載していません。引用などの場合、必ず、公開された原文をご参照ください。)

中川克志

What is Sound Installation?: Analysis of the Historical and Theoretical Backgrounds of Sound Installation in the Context of Art of Sound

NAKAGAWA Katsushi

[Abstract]

This paper summarizes the historical and theoretical backgrounds of the "sound installation" in the context of Art of Sound. As for the historical development, while referring to Ouzonian 2015, the author summarized how the trends such as Satie, Cage, Brian Eno, and R.M. Schafer led to the sound installation by Max Neuhaus in the 1970s. As for the theoretical background, the author referred to Cox 2018 and noted that the sound installation shifted its creative and aesthetic focus from temporal experience to spatial experience. Along with this paper, the author publishes a paper entitled “How to Explore Sound Installation: Four Focuses You Can Use When Examining Sound Installation Wokrs." Please refer to this article (中川2020a and 2020b) as well.

1.はじめに

室内の天井から床に斜めに張り渡された6本のワイヤーのような線に、48個のスピーカーが取り付けられ、室内の隅にも4つのスピーカーが設置されている。それぞれがそれぞれの周期で、日仏英の合成音声で何かの言葉の断片を再生している。言葉が天井から降り注いでくるかのようだ。刀根康尚《雨が降る(Il Pleut)》(2011/2017)である。2017年に行われた第2回札幌国際芸術祭で、札幌国際芸術の森美術館に展示されていた。朗読されるのはフランスの詩人ギョーム・アポリネールの「視覚詩」の一つ「雨が降る(Il Pleut)」である。実はこの詩は、主題にふさわしい図形に詩行を並べたやり方「カリグラム」で書かれており、斜めに書かれた状態で出版された。天井から床まで斜めに設置されたスピーカーから言葉を発するこのサウンド・インスタレーションでは、雨ではなく言葉が上から降ってくるいわば三次元のカリグラムが試みられたわけだ。刀根康尚は、1950年代末から短期間、小杉武久らと共に「グループ音楽」として活動し、1960年代には多くの前衛運動に参加すると共に批評家としての存在感を示し、1972年に渡米した後は合衆国で活動してきた。1980年代以降はCDの盤面に傷をつけたwounded CDで知られる。音楽家・批評家としての彼の活動は知っていたが(馬場2016、馬場2017)、彼がこうした美術館で展示する視覚作品をも制作していたことは知らなかったので、私は、洗練されたコンセプト、明快な素材の配置、コンセプトを十全に表現しつつもそこだけには収斂しない豊穣な音響体験など、このサウンド・インスタレーションのバランスの良さに感心した。

とはいえところで「サウンド・インスタレーション」とは何か。この問いに答えるために私は、本論文との姉妹論文として、同時に「サウンド・インスタレーション試論――4つの比較軸の提案――」という論文も作成した(中川2020a, 2020b)。合わせて参照していただきたい。姉妹論文はサウンド・インスタレーションとされる作品群の諸特徴を考察するために、サウンド・インスタレーションについて考えるためのいくつかの比較軸を提案したものである。対して本論では、サウンド・インスタレーションが出現した歴史的経緯とその理論的背景を整理しておきたい。本論では「サウンド・インスタレーション」のことを、緩やかに〈時間ではなく空間に規定される、音を使う芸術。室内や屋外に音を設置し、その空間や場所・環境を体験させる表現形態をとる作品〉と規定しておきたい[1]。「サウンド・インスタレーション」はいつごろどのようにして登場したのか。

以下では、まず、先行研究を整理しつつ、サウンド・インスタレーションが登場するに至った歴史的経緯を音響芸術の文脈を中心に整理し、次に、クリストフ・コックス(Christoph Cox)の著作『音の地層:音、芸術、形而上学(Sonic Flux: Sound, Art, and Metaphysics)』(Cox2018)を参照しつつ、その理論的意義を音響芸術の文脈のなかで理解し、サウンド・インスタレーションの今日的意義であると私が考えるものについて言及する。

ところで、本論は現代美術の文脈におけるサウンド・インスタレーションの意義を検討するものではない。〈「サウンド・インスタレーション」とは1960年代後半の美術の領域に登場した「環境芸術」の一種であり、インスタレーションという現代美術の領域の表現形式に聴覚的要素が組み込まれたもの(に過ぎないの)だ〉と考えるならば、この私のアプローチは偏っており、現代美術の文脈をより強調した「サウンド・インスタレーション」論が書かれるべきだし、英語版Wikipediaを始めとして多くの場合、サウンド・インスタレーションとは現代美術の産物と理解されることが多いように思う[2]。ただし、私は、(芸術における音の歴史を考える際に)しばしば出会うこうした視覚美術偏重主義を是正したいとも考えている。結局のところ、芸術における音の歴史を考える際に美術の文脈ばかりを強調するのは、美術だけが芸術であると誤解するするがゆえに音楽もまた芸術であることを忘れているからだ、と私は考えている[3]。本論は、そのような視覚美術偏重主義から距離を取るためにもサウンド・インスタレーションの音楽的文脈を意図的に強調=偏重していることを、予めお断りしておく。本論は美術と音楽双方の文脈を統合した立場を模索する準備論文である。私と同じくOuzounian2015も、ゲンダイオンガクの文脈を重視しつつサウンド・インスタレーションが成立した経緯を整理している。この博士論文に基づくサウンド・インスタレーション論文は、現代美術とゲンダイオンガクという領域において「空間」概念を変化させたものとしてサウンド・インスタレーションを位置づける重要な論文だが、彼女の歴史記述は少し視覚美術の文脈を重視しすぎているように私には感じられる。それゆえ、私は特に2章でOuzonian2015とは異なる固有名詞に注目している。

またところで、本論は「サウンド・インスタレーション」試論であり、「サウンド・アート」試論ではない。これは、私がサウンド・アートとサウンド・インスタレーションを厳密に区別したいからではなく、このサウンド・インスタレーション試論(と姉妹論文と)を今後計画しているサウンド・アート論の予備作業として位置づけているからであり、現段階ではまだ両者を歴史的にも理論的にもうまく区別できていない(が、厳密には区別できず区別する必要もあるまいとも予想している)。この旨、お断りしておく。

2.現代音楽の文脈:歴史的背景

まずは、現代音楽でサウンド・インスタレーションが出現する歴史的文脈を確認する。

サウンド・インスタレーションの起点には、多くの場合、(5)マックス・ニューハウス《タイムズ・スクウェア》(1977-92、2002-)が置かれる(中川真1992, 1998, 2004, 2006, 2007あるいは庄野1986, 1991, 1992, 1996など)[4]。また、その起源として、(2)1950年代以降のケージによる音楽的素材としての環境音への注目、あるいは(1)(ケージの起点としての)1920年代のエリック・サティ《家具の音楽》などがあげられる。さらに、同時代的な並行現象として、(3)1970年代に広まったR.M.シェーファーによるサウンドスケープの思想と、(4)1970年代後半以降のブライアン・イーノによるアンビエント・ミュージックが言及される。つまり、実験音楽的な傾向のゲンダイオンガクが環境音に注意を促すことで、様々なタイプの環境音楽とシェーファーの「サウンドスケープ」の思想が登場し、さらには〈環境音を利用する(必ずしも「音楽」というディシプリンに限定されない)音響芸術〉としてのサウンド・インスタレーションが登場した、という語りである。Ouzonian2015においてもマックス・ニューハウスの活動(5)が契機として位置づけられるのは同じだが、同時代の現象であるサウンドスケープの思想(3)やアンビエントミュージック(4)への言及はなく、前史の記述が厚くなっている[5]。本論では、(1)から(5)のこの語りを次のようにまとめることでより概括的な記述を目指したい。

2.1.環境となる音楽、音楽としての環境、サウンド・インスタレーションへ

(1)1920年にサティは《家具の音楽(musique d’ameublement)》を構想した。それは(ジョン・ケージが引用した)サティの言葉によれば「メロディアスで、ナイフとフォークの音を和らげるけれど、それを支配したり自身を押し付けたりしない音楽」であり、「一緒に食事している友人達との間に時にやってくる、あの重苦しい沈黙を埋め」たり、「会話のやり取りの中にがやがや入り込んでくる通りのノイズを中和する」音楽、つまりBGMのようなものだった(Cage1958: 76)。これは、12小節が何度も反復される管弦楽曲で、三楽章の各曲の名前はそれぞれ「1. 県知事の私室の壁紙 / 2. 錬鉄の綴れ織り 3. 音のタイル張り舗道」という。

(2)1940年代以降のケージはサティから大きな影響を受け、自らの音楽作品に環境音を導入するようになった。ケージは「家具の音楽」について「ナイフとフォークの音を考慮に入れることがなぜ必要なのか?…これは、明らかに意図的な行為を周囲の非意図的なものと関係付ける、という問題なのだ。…」(Cage1958: 80)と語っていた。実はサティとケージの環境音へのアプローチは異なっており、芸術音楽の環境化と環境音の芸術化との対立として定式化できる。というのも、サティの目的は自らの作曲作品が環境となることであるのに対して、ケージの目的は環境音を自らの作曲作品の取り込む(つまり、ケージの場合、あくまでも自らの作曲作品は残存する)ことだったからだ[6]。とはいえしかし、ケージは、環境音に注意を向けること、環境音と作曲作品を必然的に関連付ける態度をサティから学んだと言えよう。こうして実験音楽は「環境音」を音楽的素材として用いるようになった。実験音楽における音楽的素材の拡大の戦略と音楽的素材としての環境音の利用とについては、中川2002、中川2008b、中川2010を参照していただきたい

(3)1960年代以降に増加していった環境に対する関心――1962年のレイチェル・カーソン『沈黙の春』など――の延長線上で、あるいは、環境の音を美的に捉えて自らの音楽作品に取り込もうとするケージ的な実験音楽の影響下で、カナダの作曲家/音楽教育家/思想家のマリー・シェーファーは、1960年代後半から70年代にかけて、ランドスケープ(風景)という言葉を模して「サウンドスケープ(音の風景、音環境)」という言葉を作り出した。その詳細は、1977年に出版された彼(と彼の研究グループ)の博物学的な学識が披瀝される『世界の調律』に詳しい(シェーファー1986)。彼は世界の音環境をある種の作曲作品に例えることで、(作曲家が音楽作品を作曲するように)サウンドスケープを調整するサウンドスケープ・デザイナーという存在を想定した。シェーファーは(実験)音楽をヒントに、しかし、音楽芸術という領域を超えて、環境音にアプローチするやり方を切り開いたと言えよう。聴覚的経験だけを強調したことに対する彼のサウンドスケープ概念に対する批判などもあるが(Ingold2007、和泉2018)、彼が世界の音環境に注意を向けた功績は、否定すべくもない。

(4)1970年代にブライアン・イーノはアンビエント・ミュージックを創始することで、ケージとは異なるやり方で環境音と自らの作曲作品を関連付けた。彼のアンビエント・ミュージックは、BGMやサティ《家具の音楽》と同じくそれ自身に注意を向けられることを目指さないが、同時に、自らに注意を向けられても構わない、とする音楽だった。結果的に〈その音楽が存在することで聴き手の環境や空間や場所に対する知覚が変容すること〉を狙うものだった。彼が初めて「アンビエント・ミュージック」を制作したのは1975年で、アルバム『Music for Airport』(1978)のライナーノートには「アンビエント・ミュージックは、とくにどれを強調するということはないが、様々なレベルの聴取のあり方を許容しなければならない。この音楽は注意深いものであるとともに、無視できるものでもなければならないのだ」と書いていた。この音楽は聴き手に聴こえるか聴こえないかぎりぎりの境目で「光の色や雨の音と同じように、環境の一部と化した音楽」であり、音楽家の感情表現も何らかの物語表現も目指さず、ただ、環境に伴奏し、その空間と場所の知覚に何らかの影響を与えようとする音楽なのである(タム1994、Scoates2019など)。

(5)マックス・ニューハウス《タイムズ・スクウェア》(1977-92、2002-)

おそらくは、こうして環境としての音楽利用と音楽のための環境音利用という志向が交差するどこかで、〈音楽作品における「始まり」と「終わり」という時間的枠組み〉にとらわれずに音を用いる音響芸術という発想が出現したのではないか[7][8]。何が最初のサウンド・インスタレーションであるかという議論は避けるが、自覚的に空間/環境に音響を設置した最初期の作品として画期的なのは、マックス・ニューハウス《タイムズ・スクウェア》である。実験音楽作品を多く演奏する打楽器奏者として活動していたニューハウスは、「始まり」と「終わり」という時間的枠組みがあり、作曲家のエクリチュールに基づき演奏家が音響を現実化するという、音響作品を作曲する以外のやり方で、環境の音に注意を向けた。NYの地下鉄各線のハブであるタイムズ・スクウェア駅に降りていく地下降のひとつに、サイン波を発生させる発振器を取り付けたのである(Neuhaus1994a, 1994b, 1994c)。これは1977年に設置されて1992年に一旦取り外された後、2002年に再設置された(そして現在に至る)。

Youtubeにあげられているいくつかの動画からも判別できる通り、ここに設置された音は、音そのものには特段の特徴はなく、低域から高域に至る複数の人工的な音が複合した持続音であり、その音色や音響変化で人の注意力を集めようとするものではない。おそらくはむしろその逆に、あまり人の注意力を惹かない音として、タイムズ・スクウェアの雑踏(人と車の通行音、地下鉄の通行音など)に紛れ込んであまり聞こえない音である。それゆえ、通行人がその音に気づくことはあまりなく、たいていは気づかれずに無視される。ただし、幸運にもその音に気づいた通行人だけは、その音に耳を傾けることをきっかけに、しかしその音そのものは聞いていても大して面白くないものであるがゆえに、その音ではなくタイムズ・スクウェアの音環境に耳を傾ける、という仕掛けである。目立たずに継続して存在する街角の持続音をきっかけに、世界の音環境に改めて注意を向ける、というサウンドデザインが施されたわけだ(中川真1992, 1998, 2004, 2006, 2007あるいは庄野1986, 1991, 1992, 1996など)。これがニューハウスの最初の常設のサウンド・インスタレーションであり、世界的にも最初期の古典的なサウンド・インスタレーションである。

2.2.いくつかの言説

以上、サウンド・インスタレーションの出現に関する代表的な説明だろうものの概要である。こうした言説の事例を確認しておこう。

まずは1990年に書かれた庄野泰子(たいこ)「サウンド・インスタレーション」(庄野泰子1990)という小文を見ておこう。これは庄野泰子へのインタビューから構成されたもので、日本で1990年に雑誌『ur』のアンビエント・ミュージック特集号に掲載された[9]。これは、サウンド・インスタレーションを、ゲンダイオンガク以降の「環境への志向」の発展形として位置づける言説の事例で、短い分量なので参照しやすいので参照している。庄野泰子はサウンド・インスタレーションをこれからの都市デザインに必要なものとして言及し「その時設置される音というのは、あくまで私たちが環境と交感するためのきっかけを与える、いわば”触媒”として位置付けられるべきで、そこから各人が何を感じどう思うかは、個々の感性や状況に委ねられるべきでしょう」(庄野泰子1990:40)と述べる。そして、サウンド・インスタレーションの事例として横浜市西鶴屋橋のサウンド・デザインに言及し、現代の音環境をテーマに活動する音響的アヴァンギャルドとして、ケージの《0’00’’》、ビル・フォンタナの「音の再配置」というコンセプト、そしてニューハウスのタイムズ・スクウェアに言及する。さらに、庄野進が環境音楽を美学的に分析して四分類した「環境への音楽」(1986)――環境的要素を用いる音楽、環境の中で行われる音楽、環境としての音楽、環境と相互作用する音楽――に言及し、最後にブライアン・イーノに言及する。庄野泰子のこの小文は、サウンド・インスタレーションという問題圏で言及されるべき事例が過不足なく言及されている。サウンドスケープ、ケージ、マックス・ニューハウス、ブライアン・イーノといった作家とその作品、あるいは、(日本の場合は)庄野進「環境への音楽」(1986)が典型的に言及される[10]。私は、庄野泰子のこの小文などを参照しつつ、いくつかの固有名詞のつながりを2.1.のように整理したわけである。

また、サウンド・インスタレーションを、ゲンダイオンガクのみならず現代美術をも含めた「環境への志向」の発展形として位置づける言説の事例として、アラン・リクト2010(原著は2007)をあげることができる。「サウンド・アート」というジャンルについて厳密な定義を下さずに概観する本書において、リクトは、第二部「環境とサウンドスケープ」で、ケージ以降のあらゆる音への志向や、環境の要素を自身の作品に活用する様々な試みに言及し、芸術活動の場所がコンサート・ホールから環境に移行した、というまとめ方をしている。いわく、「自然音も人工音も、すぺての音に耳を傾けよというケージの主張、これこそがサウンドアートの端緒だ。そして、そのことを追求していくにつれて、コンサート・ホールから環境そのものへとステージが移っていった」(リクト2010:129)わけである。ここで言及される作家は、ルッソロ、ケージ、シェフェール、シェーファーなど「実験音楽」の正史において常に言及される名前だけではない。自然風を利用して音を発する作品たち――ゴードン・モナハン《エオリアン・ハープ》(1984)など――や、アースワーク(ランドアート)――ウォルター・デ・マリアの作品など――、ヒルデガルド・ヴェスターカンプ、ビル・フォンタナ、フィールド・レコーディングを活用する作家としてデヴィッド・ダン、ブライアン・イーノのアンビエント・ミュージック、コンサートホールに代わるものだがサイトスペシフィックではないタイプのものとしてのラジオ・アート(リクト2010:120)なども言及される。サウンド・インスタレーションという問題圏の広さを知るために役立つまとめだと言えよう。

リクトの概観は厳密な分析や定義を与えるような論考ではないが、随所で興味深い指摘がなされている。本論にかかわる指摘をあげておくと、リクトは、サウンド・インスタレーションの意義は感覚のスケールを拡大したことだ、と指摘している。(マイケル・フリード「芸術と客体性」(1967)でとりあげられた)トニー・スミスの高速道路の経験(リクト2010:114)に言及し、アースワークの作品経験と同じように、環境音を使うサウンド・インスタレーションも、作品あるいは商品としてパッケージ化するのが困難だと指摘している。そして、「音楽がもたらすスケール(尺度/寸法)の感覚を劇的に拡張させたこと一一これこそがサウンド・インスタレーションの意味ではないだろうか。ほかの諸芸術におけるスケール感覚に近似したものは、音楽においては時間の継続、持続、またもちろん音量やオーケストレーション(総合的な調和)によってもたらされてきた」(リクト2010:126)と指摘するわけである。私が先ほど、〈音楽作品における「始まり」と「終わり」という時間的枠組み〉にとらわれずに音を用いる、という言い方でまとめたアプローチが、ここでは、スケールが劇的に拡張された、という言い方で表現されている。リクトによるサウンド・インスタレーションに関する言説は、ゲンダイオンガクのみならず現代美術をも含めた「環境への志向」の発展形として位置づける言説の事例であり、その意義を〈感覚の尺度の拡張〉に求めるもの、と整理できるだろう[11]

もうひとつ、これは少し特殊事例あるいは個別事例かもしれないが、サウンド・インスタレーションを〈世界の写し鏡〉と位置づけるSalomé Voegelinの言説を紹介しておこう。〈世界の写し鏡〉というのは私の表現である。フォーゲリンは2014年の著書『Sonic Possible Worlds: Hearing the Continuum of Sound.』(Voegelin2014)で、音環境の経験と何らかのレベルで環境音に関わる作品とをたくさん論じている。本書における著者の目的は「目には見えない音の物質性と私達自身の音響的主観性とを、言葉を通じて、アクセスできるもの、聞こえるもの、考えられるものにすること」そして「聴取に基づく作文、哲学と認識論を刷新して複層化する音響的な感受性に向かう作文を訓練すること」である(Voegelin2014: 2)。この著作におけるフォーゲリンは順序立てて何かを論証するというタイプの学術的な記述を行っていないので、乱暴で単純化したまとめ方になるが、Voegelin2014はおそらく、音を用いる作品を大量に記述し分析することを通じて、〈聴覚的にアプローチして知覚できる世界の諸相〉を記述しようとしている、とまとめられるのではないか。フォーゲリンは、(環境経験が単一感覚による世界経験に還元されてしまう傾向があるがゆえに)「サウンドスケープ」概念を批判するティム・インゴルド(Ingold 2010、和泉2018)に同意しつつ、〈世界の複層性と複数性を認識するためにも世界の裏側を聞くことは重要だ〉と考える点でインゴルドとは立場が異なる(Voegelin2014: 9-14)。世界の〈複層性と複数性〉というのは中川の言い方である。フォーゲリンはたくさんの作品分析を行っており、個々の作品が開示する個々の世界を分類して記述している(5章)。私は(フォーゲリンの扱う作品の多くは日本では経験できないこともあり)フォーゲリンの作品記述やその分類にはあまり賛同できないのだが、本書における、個々の作品の開示する「音響が可能とする世界(sonic possible world)」を記述するというアプローチそのものには好感を抱いている。個々の作品が音を通じて開示する世界はそれぞれ異なり、世界を開示するやり方も作品内部の構造によって異なるので、個々の作品における「音響が可能とする世界(sonic possible world)」には〈複層性と複数性〉がある。個々の芸術作品における〈複層性と複数性〉を単純に整理してしまわずに、まずはその複雑性を記述して認めていこうというアプローチに好感を抱く。いずれにせよ、フォーゲリンのアプローチは、サウンド・インスタレーションというジャンルあるいは作品形態が十分に成熟したジャンルをすでに形成していることの傍証だ、と言えるだろう。サウンド・インスタレーションとはマックス・ニューハウスだけの徒花などではなく、その後、様々な可能性が追及されることになる可能性に満ちたジャンルだったのである。

3.現代音楽の文脈:理論的背景――音と空間――

さて、では、こうしたサウンド・インスタレーションはどのような歴史的位置づけと意義を持っているのだろうか。まず参照したいのは、サウンド・アートについて哲学的な知見から発言を続けてきたChristoph Coxが、これまで発表してきた議論を集大成した著作『音の地層:音、芸術、形而上学(Sonic Flux: Sound, Art, and Metaphysics)』(Cox2018)である。また、同様の視点で、よりコンパクトな長さで、同じく美学的見地からサウンド・アートの歴史的な意義に触れるCarmen Pradoの論文「サウンド・アートの登場:音のケージを開く(The Emergence of Sound Art: Opening the Cages of Sound.)」(Prado2017)も参照しよう。二人とも「サウンド・インスタレーション」ではなく「サウンド・アート」について語っているが、序文で述べた理由から私はまだ「サウンド・インスタレーション」と「サウンド・アート」をうまく区別できていないし、ここで参照する二人も共に「サウンド・アート」と「サウンド・インスタレーション」を区別していない[12]。本節では、そのような意味で、「サウンド・アート」(と「サウンド・インスタレーション」とを区別せずにその両者)の歴史的位置づけと意義を整理しておこう。

ふたりの議論は〈サウンド・アートとは、既存の伝統的な音楽や実験音楽へのアンチテーゼとして、時間から空間へと創作の焦点が変化した帰結だ〉と要約できる。

サウンド・アートについて考えるためには、いくつかのやり方がある。歴史的文脈の考察――この用語が初めて使われるようになったのは1970年代あたりで、展覧会名称に使われるようになるのは1980年代以降だ等々といった歴史的考察――や、美的理念としての考察――「ミニマル・アート」や「ポップ・アート」と同様に「音」をその美的理念を象徴する作品群のためのレッテルとして理解するといった考察――、素材を指すレッテル名として理解――「ビデオ・アート」と同じメカニズムを持つジャンル名として理解することに関する考察――、などが代表である。ジャンル名である以上、その枠組みの中で理解されることを拒否するアーティストもいるし、境界線は常に曖昧である。とりわけ「音楽」と「サウンド・アート」の境界線を誰にとっても明快なあり方で分けることはできまい。ケージ以降、「音楽」は限りなく拡大されたからだ。また、結局のところジャンル名はジャンル名でしかなく、重要なのは個々の作品が持つ強度である。作者にとっても、自分の作品がサウンド・アートと呼ばれるか音楽と呼ばれるかということは、気になるかもしれないが、究極的には最重要の問題ではないはずだ。

コックスの本はこうした「サウンド・アート」について考えるための概略的で大きな枠組みを与えてくれる。なぜなら、コックスにとって「「サウンド・アート」とは自然発生的な芸術あるいは芸術ジャンルの名前ではなく、個別の実践やプロジェクトの間に共通性を見出すための概念装置[a conceptual device]」(Cox2018: 5)だからである。つまり、コックスの戦略はこうである。20世紀以降に展開した作曲家の音楽としての西洋芸術音楽、いわゆるゲンダイオンガクは、20世紀後半にケージ以降の実験音楽において、既存の音楽的伝統からかなり隔絶した音響芸術を生み出した。また、同じく20世紀後半には、そうしたゲンダイオンガクとは異なる文脈を基盤に、視覚美術の文脈のなかで音を扱う音響芸術が出現した。それらは相互に影響し合ったり、その起源も複雑に絡み合ったりしているだろうが、そうした複雑な係累を単純に整理することは困難である。そこでとにかく、そうした〈ゲンダイオンガクの発展としての新しい音楽〉や〈音を扱う美術としての新しい美術〉やその両者の中間形態のようなもの、それらすべてを総称する言葉として「sound art」というレッテルを使う。これがコックスの戦略だと言えよう。

こうすることで、コックスは、20世紀後半の文化の地層における音の流れの変化とそれに照応する芸術作品とについて考察することができる。1章ではドゥルーズやメイヤスーを参照し、〈音は対象[object]ではなく効果[effect]だ〉〈芸術における音は現実の再現[representation]ではなく現実の一部だ〉ことを主張する。いわば、音響存在論の基盤を固める。2章ではジャック・アタリとクリス・カトラーを参照しつつ、19世紀後半以降の音響再生産技術が人間の音に対するアプローチをどのように変化させたか、を概観する。いわば音響メディア論の基盤を固める。3章ではバルト「聴くこと」という小文を用いて、聞くこと、聴くこと、音響再生産技術に媒介された無意識的な聴取について、聴取の類型論を展開する。4章では、20世紀以降の新しい音響芸術を考察する。コックスにとってその新しい音響芸術とは、既存の音楽が取り扱ってこなかったノイズを扱う芸術であり、その新しい音響芸術を「サウンド・アート」と呼ぶのである。ここは、20世紀以降の新しい「サウンド・アート」に関する理論的・歴史的概要を論じる章である。5章ではそのサウンド・アートにおける時間性、時間経験の問題を論じ、6章では視聴覚を用いる芸術経験について、シナステジア、総合芸術作品、視覚的音楽と称される作品群の存在構造を分析する。この書籍全体を通じて、概括的な枠組みを提示してくれることがコックスの議論の利点であり、また、それぞれの議論において必ず具体的な作品分析を付随させるのが、彼の議論の魅力である。

コックスが想定しているのは次のような歴史である。19世紀後半に音響再生産技術が出現し、それゆえ、あるいは同時代の並行現象として、芸術音楽が変化し、新しい音響芸術――ルッソロ、ヴァレーズ、ケージ、シェーファー、ニューハウスなど――が登場した。コックスは、この変化に象徴される音や聴取の変化のパラダイムを「音の地層(sonic flux)」と呼び、そうした新しい音や聴取を探求する芸術を「サウンド・アート」と呼ぶわけである。このような意味で、コックスの議論において「サウンド・アート」は「概念装置」(Cox2018: 5)なのだし、さらに言えば、コックスの歴史と理論においてこれは操作概念なのである。

では、この「サウンド・アート」の歴史的位置づけと意義はどのように整理されるのだろうか。

コックスは5章でサウンド・アートにおける時間経験について考察している。ここでコックスが主張することは、〈サウンド・アートの作品経験の焦点が音楽における時間経験から音響の空間経験に推移していったこと〉、〈とはいえ、単に作品経験の焦点が時間から空間に推移したと述べるだけでは不十分であり、音楽における時間経験とサウンド・アートにおける時間経験の違いについて述べねばならないこと〉、〈前者ではオブジェとしての時間経験が、後者ではプロセスとしての時間経験が生じること〉である。こう主張するためにコックスは、ケージの《4分33秒》やモートン・フェルドマンの作曲作品における時間経験に言及し、計測可能な時間と計測されない時間――持続――という2つの時間概念を抽出する。次にコックスは、「音楽」という文脈を逸脱させるという点でケージの影響を受けたアーティストとして、マックス・ニューハウスに言及し、ニューハウスが空間的性質に関心を持つにつれて音楽という文脈から離れていった経緯を説明する。そしてコックスは、ニューハウスがこのように変化していった原因をケージからの影響だけではなく、現代美術におけるミニマル・アートとインスタレーション(という作品形態)にも求め、マイケル・フリード「芸術と客体性」(1967)をとりあげ、ミニマル・アートとインスタレーションにおける時間経験について論述する。コックスによれば「ミニマル・アートとインスタレーションは、無制限の流れにある時間という時間概念、延々と続く流動する持続を肯定する」(Cox2018: 149)[13]。そしてコックスによれば、ミニマリズムとインスタレーション(における時間経験)からサウンド・アート(の時間経験)が登場したわけである(152)[14]

コックスのこの歴史的見取り図は有用である。単純化すれば、要するに、〈ケージ以降の実験音楽において「音楽」という文脈から逸脱することによって、また、ミニマル・アートとインスタレーション以降に観客参加型の受容が当たり前になることによって、その作品経験の焦点が時間から空間に移行し、さらに、オブジェ経験としてではなくプロセス経験として時間が経験されるような音響芸術、それがサウンド・アートだ〉というのがコックスのパースペクティヴだと言えよう。

同様に、作品経験の焦点が時間から空間に移行したものとして、サウンド・アートを論じるのが、Carmen Pardoである(Pardo2017)。彼女はサウンド・アートの出現について考察しながら、そこでは制作の焦点が、音響における時間の関係性を構築することから、音響における空間の関係性を設定することへと変化したと述べている(Pardo2017: 39)。

彼女は、既存の伝統的な音楽とは異なり、音に注意を向ける芸術としての「サウンド・アート」が3つの問題圏――楽音と非楽音の区別を探求する問題圏、〈あらゆる音は音楽になり得る〉という命題を巡る問題圏、「サウンド・アート」という用語が出現することでもたらされた問題圏――に属していると指摘し、それぞれを解説することで、音楽からサウンド・アートへといたる展開をさぐる、という議論を展開している。彼女の議論は、コックスと同様、〈ケージが開拓してくれた領域こそが、音楽ではない音響芸術を開拓した〉という枠組みを採用している[15][16]。このような変化が起きた技術的背景として、コックスが19世紀後半の音響再生産機器(フォノグラフやグラモフォン)に言及したように、彼女は電報、電話、無線にも言及する。そうした技術の発達とともに〈芸術音楽の作曲における関心事が、時間を合理的に扱うことから空間を合理的に扱うことへと変化してきた〉というのが彼女の歴史的見取り図である[17]。つまり、彼女の主張は単純化すれば、〈音楽は音の時間性に基づくのに対し、サウンド・アートは音の空間性に基づく〉というものである。

以上、コックスとパルドゥの議論を確認してきた。サウンド・アート(あるいはサウンド・インスタレーション)の歴史的意義は、19世紀後半以降の音文化の変化に呼応して出現した芸術形態であること、と整理できるだろう。そして〈音楽から〈新しい芸術としてのサウンド・アート〉へといたる発展を測る物差しとして、時間から空間へと制作の焦点が変化したこと、というものさしが用いられる〉と言えるだろう[18]

4.まとめにかえて

以上、サウンド・インスタレーションなるジャンル、領域、作品形態について、現代音楽における歴史的経緯と理論的意義を整理してきた。簡潔ではあるが、〈現代音楽の文脈に重点を置いてサウンド・インスタレーションが出現してきた歴史的経緯とその理論的意義を整理する〉という目的は十分果たせたと思う。ただし、すでに述べたように、私は現在、現代美術の文脈におけるサウンド・インスタレーションの意義について検討する論考を準備中である。本論はそれと相互補完的な関係を持つ。私は、両論文を作成することで、芸術(あるいは現代アート)と(現代)美術と(現代)音楽との関係を整理したいと思っている。

また、これもすでに述べたように、本論文は、姉妹論文「サウンド・インスタレーション試論――4つの比較軸の提案――」(中川2020a, 2020b)とともに書かれ、発表されたものである。本論文単体でも完結した内容だが、姉妹論文と共に「サウンド・インスタレーション」を問うという問題意識を共有しており、さらに、最終的には「サウンド・アート」論へと展開していく予定である。近年中に「サウンド・アート論」を完成させることを、私にとっての最も重要な今後の課題であると宣言することで、この試論を終える。

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17


[1] 姉妹論文(中川2020a, 2020b)と同内容となるが、一般的な考察を述べておく。

字義通り考えるならば、サウンド・インスタレーションとは音を設置したものである。音響的要素だけで完結する(とされる)「音楽」とは異なり、空間あるいは環境に音を設置することーーあるいは設置されたものーーとして提示された作品といえよう。また、〈60年代辺りから現代美術において(「ミニマル・アート」など台座のない彫刻の増加も一因となり)増えてきた(既存の「作品」「オブジェ」とは異なり)作者の制作物と空間あるいは環境との関係性を鑑賞する「インスタレーション」〉のヴァリエーションであり、そこに音が加えられたもの、でもあるとも言えるだろう。つまり、音響的要素が主体となる場合も付属的に付加される場合もある。暫定的な定義として、音楽やオブジェとの区別を念頭に、それゆえ、サウンド・インスタレーションとは〈時間ではなく空間に規定される、音を使う芸術。室内や屋外に音を設置し、その空間や場所・環境を体験させる表現形態をとる作品〉といえるだろう。このジャンルあるいは作品形態に関するさらなる考察は姉妹論文(中川2020a, 2020b)で行なっている。

[2] 現時点(2019年5月14日)で確認できるWikipediaの「Sound installation」という項目(https://en.wikipedia.org/wiki/Sound_installation ; accsess: 9/20/2019)は、これが美術の一形態であることを強調した説明であり、(実験)音楽と比較して説明するのではなく、「インスタレーション」や「サウンド・スカルプチュア」と比較することで「サウンド・インスタレーション」を説明している。いわく、「サウンド・インスタレーション」は通常の「インスタレーション」に音を加えたものでそれゆえ時間的要素を含みこんだものである、「サウンド・スカルプチュア」とは異なり「サウンド・インスタレーション」は三次元だし様々な音響オブジェを組織化する原理は作品に内在するのではなく外的環境に属している、等々。後述するが、ここから私たちは、サウンド・インスタレーションの歴史的意義を、三次元の客体としての物理的なオブジェのみならず、オブジェと空間/環境との関係性に求める、という語り方を知る。マイケル・フリード「芸術と客体性」(1967)における議論に類似した語り方であり、「芸術の環境化」というキーワードで知られる理解だと言えよう。

[3] 美術こそが芸術であり芸術(あるいは現代アート)とは美術(だけ)である、とする視覚美術偏重主義として、私は、例えば千葉成夫の『現代美術逸脱史』(千葉1986)などを念頭に置いている。ここで検討される「類としての美術」とは結局のところ、「絵画」と「彫刻」だけである。千葉は「絵画」と「彫刻」以外のもの――パフォーマンス・アート――などを「美術」から排する(わけだが、ただし、千葉は(周到なことに)〈パフォーマンス・アートは「芸術(あるいは現代アート)」ではない〉とは決して明言しない)。こうした〈美術にあらずんば芸術(あるいは現代アート)にあらず〉という理解は、芸術(あるいは現代アート)をとりまく環境下で広範に流通していると感じる。近くは2017年の札幌国際芸術祭に対する評判にそのような前提があった。

[4] 何が最初のサウンド・アートであり、最初のサウンド・インスタレーションであるかは問わない。Gál2017によれば、sound installationという言葉の最も古い用例は1973年らしいが、ダグラス・カーンによれば、60年代からアルヴィン・ルシエは自作を「サウンド・アート」と呼んでいたし、その他にも多くの芸術家が自作を「サウンド・アート」や「サウンド・インスタレーション」と呼んでいたらしい(2006年1月21日のダグラス・カーンとの会話より)。おそらく「より古いサウンド・アート/サウンド・インスタレーション」はいつまでも再発見され続けるだろうし、最古のxxx発見競争に参加することは避けておきたい。

いちおう、いくつかの「最古」の事例を列挙してみる。ただし、いずれも、自分の作品をサウンド・インスタレーション「として」認識していたのかどうかは不明だし、それらをサウンド・インスタレーション「として」解釈することにどの程度の意味があるのかも不明である。

2014年8月号の『The Wire』誌に掲載されたBernie Krauseへのインタビュー(“Invisible Jukebox.” p.23)で、彼は、最初のサウンド・インスタレーションは1951年にサンフランシスコで行われた、と述べている(誰の何という作品かは述べていない)。

また、1955年に展示された田中敦子《ベル》(1955)も、美術館内でベルを鳴り響かせるインスタレーションなので、最初のサウンド・インスタレーションだ、と言うことも可能である(北條2017、鷲田2007)。

あるいは、戦後日本文化研究者のウィリアム・マロッティによれば、読売アンデパンダン展で初めて「音」を組み込んだ作品を作ったのは、1962年に最後に行われた第五回の刀根康尚である(Marotti2013: 188)。

あるいはGrubbs2014によれば、最初のサウンド・インスタレーションはBruce Nauman, Six Sound Problems for Konrad Fischer (1968)である(47)。

あるいはLicht2019によれば、サウンド・インスタレーションとはマックス・ニューハウスが1971年に作った造語である(Licht 2019: Chapter 1, Section 2, para. 7)。

[5] Ouzonian2015においてもマックス・ニューハウスの活動(5)が契機として位置づけられるのは同じだが、同時代の現象であるサウンドスケープの思想(3)やアンビエントミュージック(4)への言及はなく、前史の記述が厚くなっており、私の歴史ではケージに代表させて語った環境音への注目という事態をより詳しく扱っており、ゲンダイオンガクにおける作曲パラメーターへの「空間」の導入、音よりも空間に注意の焦点が置かれるフルクサスの実践、ヨゼフ・ボイスや1970年代にサン・フランシスコのベイエリアにいたアーティスト(と『Space/Time/Sound: Conceptual Art in the San Francisco bay Area, the 1970s』という展覧会)など彫刻の一要素として音を使うアーティストの出現などに言及している。

[6] マイケル・ナイマンが指摘するように、サティとケージでは聴取対象が異なる。サティにとって環境音は積極的な聴取対象ではないが、ケージにとっては、環境音こそが聴取対象である。《4’33’’》(1952)とは、聴き手は聴衆のざわめきなどの「環境音」を積極的に興味深く聴くべし、という作曲家ケージのマニフェストである(Nyman1973: 70、あるいは、中川2001、中川2008(博士論文)を参照)。

[7] 〈サウンド・アートは、現代音楽に空間あるいは視覚的要素を持ち込み、現代美術に時間あるいは聴覚的要素を持ち込んだ〉と整理することもできる。Ouzounian2015も基本的にはこうした見解のもとでサウンド・インスタレーションの成立経緯を整理しているようだ。いずれの領域においてもサウンド・アートは脱領域的な存在として機能するがゆえに、サウンド・アート研究は、20世紀後半以降の現代音楽と現代美術の歴史研究のみならず、そもそも、(現代)音楽と(現代)美術とは何がどのように違うのか、といった比較文化論的な考察にも貢献するだろう。

[8] 音楽作品における時間的枠組みは、「音楽作品」が本来的に持っていると勘違いされてきたかもしれないが、おそらく、これは(中世以降の西洋芸術音楽にとっては本来的で本質的なものといえるかもしれないが)他の様々な文化の音楽にとっては、それらの多くには認められるかもしれないが決して「本来的」とも「必須」ともいえない、というべきだろう。「始まり」や「終わり」が不明瞭な(そしてそれが何の欠点でもないような)音楽は、多くある。

[9] とりわけ日本では、1980年代に、サウンド・インスタレーションなる芸術形態と、サウンドスケープの思想と、ブライアン・イーノのアンビエント・ミュージックがほぼ同時期に輸入されたことは、日本の文脈について考えるためには重要だろう。その最良の成果のひとつが、芦川聡の遺稿集でもあった『波の記譜法』(1986年)である(小川ほか1986)。この遺稿集の編者の一部が、シェーファーの『世界の調律』を翻訳出版したのも1986年である(シェーファー1986)。

[10] ちなみに、1950年代から2000年前後までの『美術手帖』を調査した限りでは、日本における最初のサウンド・インスタレーションは、おそらく、1972年に村岡三郎らが行ったものである(1972年7月20-30日に、大阪市南区道頓堀「コンドル」およびその一帯で、店内はテープレコーダー三台で、屋外にはスピーカー三台で、オシロスコープも三台使って、心臓音を放送した、という記録がある。これは2018年に「日本美術サウンドアーカイヴ」によって再制作された)。ただしそれは「サウンド・インスタレーション」とは形容されなかった。また、『美術手帖』誌上では「サウンド・インスタレーション」という言葉は80年代後半まで使われない(1988年7月に藤原和通展を紹介する身近なレビューのなかで「サウンド・インスタレーション」という言葉が出現する)。

ちなみに『美術手帖』において「インスタレーション」が流行り、その関連で、当時日本に輸入されたブライアン・イーノが流行るのは、80年代前半である。

[11] リクト2010の原著は2007年に刊行され、本論文執筆中の2019年に、その増補改訂版であるLicht2019が刊行された。サウンド・アートやサウンド・インスタレーションを、ゲンダイオンガクと現代美術における「環境への志向」の発展形として位置づけるという基本的見解に変化はない。

ただし、著作の全体的な構造は大きく変化している。リクト2010では「環境とサウンドスケープ」という章の中で20世紀のゲンダイオンガクと美術の動向をまとめていたが、Licht2019では、「サウンド・アートの前史と初期の作品たち」という章の前半に「音と空間」「初期のサウンド・インスタレーション」「環境:田舎と都市、屋内と屋外」「サウンド・アートとランド・アート」といった節を設け、そのなかで、ゲンダイオンガクにおける空間化などの問題に言及する。サウンド・インスタレーションの意義を〈感覚の尺度の拡張〉に積極的に位置づける主張は控えられているように思われる。

[12] 既存の伝統的な音楽とは異なる実践として制作された事例としてマックス・ニューハウス《タイムズ・スクウェア》に言及するなど、二人ともサウンド・アートとサウンド・インスタレーションを〈伝統的な音楽とは異なる音を用いる実践〉として区別せずに扱っている。というよりも、伝統的な音楽やケージ的な実験音楽と、〈それ以降の音を扱う芸術〉との違いを記述することが重要なのであって、〈それ以降の音を扱う芸術〉の下位分類をさらに考えることは二人の関心事ではない。対して、私の問題関心は基本的には〈それ以降の音を扱う芸術〉の分析にあり、本論はそのために、サウンド・インスタレーションについて検討する、というものである。だからといって、私は「サウンド・アート」と「サウンド・インスタレーション」とを厳格に区別すべきだと考えているわけではない(し、できないだろうしする意味もあまりなかろうと考えている)が。

[13] 時間経験について。

コックスによれば、これは、計測可能な時間とベルグソン的な意味での計測不可能な質的に充実した持続との対立でもある。この二種類の時間の対立は、ケージ以降の実験音楽に関する美的特質の言説に慣れていれば馴染みのある対立であり、要するに、これはオブジェ音楽とプロセス音楽との対立なのだ。〈作家が作り上げた対象物を鑑賞(聴取)してその構造や美的特徴を読み取る/伝達される〉という伝統的な西洋芸術音楽における音楽的コミュニケーション図式に則るオブジェ音楽と、〈作家が作り上げるのは鑑賞対象ではなく音響が生成される設計図であり、聴取者はその設計図に基づいて音響が生成されるプロセスを玩味する、作家はそのような状況を準備する〉という積極的で能動的な聴取を求めるケージ以降の実験音楽におけるプロセス音楽との対立なのだ(Nyman1974)。

コックスは最終的にメイヤスーのハイパーカオス理論を持ち出し、これらの時間経験について論じてるが、中川には、その形而上学的アプローチはあまりに抽象的すぎてさほど有用だとは思えない。なので、本論ではその説明は省略する。

[14] コックスは、サウンド・アートは、ミニマリズムとインスタレーション以降の文脈の中に登場した、と述べる。中川はこの主張に異議はないが、では、具体的にミニマリズムの中から登場したサウンド・アートは何か、インスタレーションから登場したサウンド・アートは何か、と考えたとき、コックスの議論では具体的にはマックス・ニューハウスしか言及されないのは残念である。この本の別の箇所では同時期のアルヴィン・ルシエの作品が取り上げられ論じられているところもあるが、この章では言及されない。これは、コックスの議論の目的があくまでも歴史的な枠組み設定にあり、個別的な作品の歴史記述ではないことを示している、といえよう。コックスの議論を参照する上で肝に銘じておかねばならない。

[15] 「ケージが開拓した新しい聴取の在り方が空間を切り開いた。そこでは、普通は芸術とみなされるものに対する聴取と日常生活の音に対する聴取との差異はもはや問題ではない」(Carmen2017: 37)。

[16] 彼女の枠組みでは、サウンド・アートこそが視覚美術における視覚優先主義を弱体化させたものである。ただし、そのことは(コックスがミニマル・アートとインスタレーション・アートが契機だと主張したようなやり方では)明確に論証されていないように私には思われる。

[17] 「楽譜における時間の合理化は、商業や給与生活者のための時間計測機器の技術的発達と並行して発展した(Crosby1997)。同様に、楽譜における空間の合理化は、人口統計学と国土の図形的かつ統計的表現における都市空間の合理化と並行して発展した。これは、都市の通路を均質化させ、一定の交差パターンを形成させた。」(Carmen2017: 39)

[18] 日本の展開についてはまだ明確にされていないことも多く、論じるには時期尚早かもしれないが、大枠はコックスの概要に似ていると思われる。とはいえ、日本には日本独自の文脈と歴史的経緯がある。詳細の記述は今後の課題とせざるを得ないが、80年代にインスタレーションという表現形態とサウンドスケープの思想とブライアン・イーノのアンビエント・ミュージックがほぼ同時に輸入されたこと、また80年代に民族音楽学と音楽教育学がパラダイムシフトを促していたことは、西洋とは異なる状況として留意すべきだろう。そうした状況が、おそらくは80年代後半の、鈴木昭男《ひなたぼっこの空間》というある種の特異作品を生み出すことにもつながったのかもしれない。こうした事項については今後の課題だが、一部は中川2017、NAKAGAWA2018, NAKAGAWA2019に発表した。