吉村弘再考:環境音楽とサウンド・アートの先駆者

以下は、2023年の吉村弘の展覧会(「吉村弘 風景の音 音の風景」、神奈川県立近代美術館鎌倉別館、2023年4月29日から9月3日まで))に合わせて企画された書籍のために書いた文章です。原稿は2023年1月10日に提出したのですが、書籍の企画がなくなってしまったので、お蔵入りとなっていました。とはいえ、僕は是非とも最後の「近年のKankyō Ongaku再評価について一言」を述べておきたいので、編集者の手の入っていない文章なので雑なところもあるのですが、公開しておきます。 2024年7月2日 中川克志


中川克志 _吉村弘再考(230110) _230110.pdf

はじめに

 私は2011年に吉村弘や1980年代日本におけるサウンド・アートについて研究し始めた。吉村弘は、芦川聡とともに、1980年代に日本で初めて環境音楽のレコードを制作した音楽家だが、1980年代に盛んになり始めた日本におけるサウンド・アートの草分けでもある。私は、彼の「Sound Garden」展を追いかけることから、日本の〈芸術における音の歴史〉の発掘作業を始めた。吉村と同時代を生きていた人々の多くはまだ現役で活動中なので、彼のそうした仕事を直接的に知っている人はたくさんいる。しかし、それらは(当たり前だが)未だ歴史化されていないので、吉村弘と面識のない私のような人間が、1980年代日本におけるサウンド・アートの状況を知ることは難しい。なので、私は、それらを調べて論文などを書いている。

 そうしているうちに、2010年代後半に、思いがけないところから吉村弘の名前が聞こえてくるようになった。世界各地のレコードディガーやDJあるいはYouTubeアルゴリズムが、日本のハウス、アンビエント、ニュー・ミュージック、1980年代シティポップや環境音楽を掘り起こしたことで、吉村弘の1980年代の環境音楽が2010年代にKankyō Ongakuとして再評価されたのだった。2018年に『Kankyō Ongaku: Japanese Ambient, Environmental & New Age Music 1980-1990』というコンピレーション・アルバムが、(Spencer Doran a.k.a. Visible Cloakや北沢洋祐らの尽力で)Light in the Atticというシアトルのリイシュー・レーベルから発売されたことが有名だろう。これは2020年グラミー賞最優秀ヒストリカル・アルバム部門にもノミネートされた。他にも、吉村弘のアルバムが次々とリイシューされ、2020年にNetflixが制作したアニメ『日本沈没2020』では、クラブDJが吉村弘『Green』(1986)に4つ打ちビートを重ねていた。

 Kankyō Ongaku再評価は面白い現象だが、その分析は今は措く。これはまだ現在進行中の現象だし、私がこの小文で言いたいことは別の事柄だからだ。私が言いたいことはふたつ。まず、1980年代の環境音楽と2010年代のKankyō Ongakuとではその文脈が違うということ。そして、吉村弘を再評価するなら、彼の環境音楽だけではなく彼がサウンド・アートに関わったことについても再評価されて欲しいということである。


1. 1980年代日本の環境音楽

 吉村弘(1940-2003)のアルバムのなかで最も知られているのは『Music For Nine Post Cards』だろう。これは、芦川聡(1953-1983)が立ち上げたレーベル「サウンドプロセス」が最初にリリースしたLPで、「波の記譜法」の第一弾として1982年4月に販売された(第二弾が6月に発売された芦川聡『スティル・ウェイ』。いずれも名盤である)。『Music For Nine Post Cards』に収録された楽曲は1980年頃から制作され始めており、その一部はLPに収録する前に、品川にあった原美術館で実験的に流されていた。これは特定の建物や公共空間など、環境のために制作された音楽なのだ。吉村が釧路市立博物館の館内環境音(1983年)や営団地下鉄南北線の発車サイン音(1991年)などを制作したこともよく知られている。

 芦川聡も1980年代日本のアヴァンギャルドな音楽にとって重要な人物である。彼はアールヴィヴァンのレコード売り場で、あるいは文筆家や音楽家として、1980年代前半の日本にアヴァンギャルドな音楽や珍しい音楽をたくさん紹介したが、惜しくも1983年に夭折した。彼の遺稿を集めて出版されたのが『波の記譜法――環境音楽とはなにか――』(1986年3月)という書籍である。この本は環境音楽について総合的に紹介する書籍で、他にも、環境音楽を考える理論的な文章(庄野進、鳥越けい子、田中直子、小川博司、庄野泰子、若尾裕など)、実践者の立場からの発言(鈴木昭男、高野昌昭、氏家啓雄+坪谷ゆかり、松本秋則、高田みどり、江崎健次郎、吉村弘、田中宗隆、星野圭朗)、ディスコグラフィが収録されていた。ここには1980年代日本の環境音楽を取り巻いていた文脈が垣間見える。いずれも本書[中川:この原稿が掲載予定だった書籍のこと]の端々にその名前が頻出する。

 まず、環境音の存在に改めて注意を向けるべしというR.M.シェーファーのサウンドスケープの思想。当時はシェーファーの思想が浸透しつつあった時期で、同年12月にはシェーファーの主著『世界の調律』の邦訳(原著は1977年)が出版された。この共訳者(鳥越けい子、小川博司、庄野泰子、田中直子、若尾裕)は『波の記譜法』の編著者(小川博司、庄野泰子、田中直子、鳥越けい子)と重なっており、両書は日本のサウンドスケープ輸入史におけるメルクマールである。次に、この本のディスコグラフィでも1セクションが使われているブライアン・イーノのアンビエント・ミュージック。1975年以降にイーノは、じっくり聞かれても良いし無視されても構わないというコンセプトのアンビエント・ミュージックを提唱し始めた。イーノのこうした活動を最初に紹介したのは1980年前後の阿木譲のRock Magazine誌である。その後、おそらく1983年のイーノの初来日と原宿ラフォーレでの展覧会などを契機に、環境に対する人の反応に様々なレベルで介入したりしなかったりする音楽というそのコンセプトは広く知られるようになっていたようだ。第三に、マックス・ニューハウスのサウンド・インスタレーション《タイムズ・スクウェア》(1977-1992, 2002-)。現代音楽を演奏する打楽器奏者として出発したニューハウスは、環境音に注意を向けるやり方を模索するなかで、時間芸術としての音楽作品から空間/環境に音響を設置するサウンド・インスタレーションへと向かった。NYのタイムズ・スクウェア駅の昇降口あたりに人工音を発する装置を設置することで、周囲の音環境を捉え返すきっかけを設定するこの作品は、当時、サウンド・インスタレーションの代表的事例として広く知られていた。1980年代日本の環境音楽は、サウンドスケープの思想、アンビエント・ミュージック、サウンド・インスタレーションなどと同じ文脈の中で理解されていたのだ。

 ここでは受け手の創造的な自発性が重視されることを指摘しておきたい。いずれも聞き手の有無に関係なく客体あるいはオブジェとして存在する自律的な音楽作品ではなく、環境(音)との関連の中で変化する音響聴取の在り方を重視する思想あるいは作品形態である。サウンドスケープとは、単なる客観的に計測された環境音の配置というよりも、人々が音環境の存在に気づくことを促す概念であり、聴き手それぞれの脳内で聴覚的に記号化された音風景である。アンビエント・ミュージックとは、人工的な代理環境を提供するいわゆるBGMとは異なり、聴き手の環境に対する注意の深度に相関して、聴き手と環境との関係を調整するような音楽である。ニューハウスのサウンド・インスタレーションの肝は、多くの場合は気付かれない人工的な電子音に気付いた人が、その違和感から、周囲の環境音に改めて注意を向けるかもしれない、ということにある。聴き手の能動的な聴取の在り方を誘発し、音響環境に改めて注意を向けさせるこうした実践を、庄野進は「環境への音楽」と呼んだ(『波の記譜法』収録の論考より)。環境音楽の意義もまた、その音響の形式的特徴ではなく、環境に対する聴き手の能動的な聴取の在り方を誘発することに求められた。『波の記譜法』のカバーには、芦川聡の「もしかしたら、その環境には、たった1音だけあればいいのかもしれない」という言葉が印刷されていた。

 これが1980年代環境音楽の位置していた文脈である。こうした文脈のなかに位置づけられるのは、ジョン・ケージ的な実験音楽の延長線上で1980年代環境音楽を理解しようとするからだということも指摘しておこう。


2. 1980年代日本のサウンド・アート

 80年代以降の吉村は、それ以前にも増して、ギャラリーや画廊で活動したり音のある美術を制作展示したりするようになった。吉村は早くも1981年に、創作楽器「サウンド・チューブ」を制作している。これは缶を2つ繋げた円筒の中に水が入っており、レインスティックのように上下逆さにすると、円筒内を水が流れてタプタプタプという音を発する音具である。マルチプル作品で、重量感が心地よく、いわく言い難い書類仕事をこなしながら何ともやりきれない気持ちになった時、気分転換によく効く(ような気がする)。

 また吉村は、しばしば、日本では最初期の試みとなるサウンド・アートの展覧会の企画立案を行った。その多くは六本木ストライプハウス美術館で開催された。吉村はまず、『仕掛けられた音たち サウンドインスタレーションによる音地図』(1984年9月)と『Visual Soundings 仕掛けられた音たち』(1985年5月)という2つの展覧会を企画した。また、1985年の展覧会で知り合った東京藝術大学の学生グループWAYが企画した『From Sound』(1986年11月)という展覧会に参加した。

 その後、1987年から1994年にかけて「Sound Garden」展(以下、SG展)が6回開催された。順に、『SG 1 音のする美術館』(1987年6月)、『SG 2 音を見つけた美術館』(1988年9月)、『SG 3 音ずれてみたい美術館』(1990年3月)、『SG 4 音ぎの国の美術館』(1991年10月)、『SG 5 聴感覚美術館』(1993年3月)、『SG 6 聴現実美術館』(1994年10月)である。これは日本で最初期のサウンド・アートの展覧会であり、継続して複数回開催されたこと、その後も活躍する多くのアーティストが関わったこと、その企画立案展示の経緯がしっかりと記録されていること、といった理由から重要である。

 出品作家は総計52名。主として東京芸術大学美術学部あるいは音楽学部出身あるいは在学中の学生や若いアーティストが、毎回、20-25個の作品を出品していた。6回全てに出品したのは4名(尼子靖、直川礼雄、渡辺林太郎、吉村弘)、5回出品が3名(柿崎隆之、金沢健一、大阪洋史)、4回出品は4名(平田五郎、関根秀樹、渡辺広孝、八杉真由美)。他にも、氏家啓雄、坪谷ゆかり、逢坂卓郎、松本秋則、クリストフ・シャルル、藤本由紀夫、鈴木瑛倫子らも参加していた。出品回数の多少にかかわらずほとんどの出品作家が吉村よりひとまわり以上若い(当時の吉村はすでに40代、SG1開催時には1975年生まれの今の私とほぼ同じ年齢である…)。吉村は実績と無関係に多くの若手作家に声をかけSG展をプロデュースしたが、それができたのは吉村の人柄によるところが大きいようだ。SG展のインタビュー調査時には吉村の気さくで親しみやすい性格に言及されるのが常であった。

 作曲家である吉村弘は、なぜ、美術館で展覧会を開催するようになったのか? 吉村弘は1990年にこう述べている。「生態系からしだいに遠ざかっていく都市のなかで、うるおいのある音の風景を求める視座は、音と音楽とのはざまで揺れ動いている。一方、音楽も環境のなかではノイズ化して、ノイズの一種として聞き流されていることが今日の定石的な音の風景になってしまっている」。そして、こうした問題意識から「素朴に音を楽しむ、そんな心のゆとりをもてる空間を模索」(157)するためにサウンド・ガーデン展を開催してきたのだ、と彼は述べる。吉村は、音を楽しむ「空間」を模索した結果として、音を扱う美術の展覧会を開催するようになったのである。おそらく、吉村弘は、サウンドスケープの思想やイーノのアンビエント・ミュージックやサウンド・インスタレーションを経由することで、時間ではなく空間に基づいて音を分節するアプローチに可能性を感じたのではないか。音を楽しむために、時間芸術としての音楽から空間芸術としてのサウンド・アートを追及するようになったのではないか。

 また、この時期、『造形発見展:音と造形』(こどもの城、1986年と1987年)と『音のある美術』(栃木県立美術館、1989年)という展覧会が開催された。いずれも日本のサウンド・アートの初期の代表的な展覧会である。この2つの展覧会のいずれかに参加し、さらに、ストライプハウス美術館で開催された展覧会のいずれかにも参加した作家は、金沢健一、松本秋則、ムーサ、鈴木昭男、牛島達治、WAY、吉村弘。彼ら、そしてSG展に参加した作家たちは、1980年代日本の〈芸術における音の歴史〉の中核的人物だといえるのではないか。

 このように、吉村弘は日本の〈芸術における音の歴史〉の初期において、時間芸術としての音楽から空間芸術としてのサウンド・アートを開拓した作家として重要である。日本のサウンド・アート史に残したこの足跡からも吉村弘が再評価されることを願う。


3. 吉村弘という可能性

 以上、この小文が吉村弘について考えようとする人にとって参考となれば幸いである。最後に、近年のKankyō Ongaku再評価について一言述べておきたい。

 1980年代の環境音楽が2010年代にKankyō Ongakuとして評価されたのは、吉村弘の音楽がレコード音楽として再発見されたからだ。環境と交錯する音楽ではなく、録音物として、ヘッドフォンで繰り返し聴取されたりクラブ音楽として消費されたりするレコード音楽として、再評価されたからだ。レコード音楽として再発見されたのは、Kankyō Ongakuに先んじて再評価された1980年代日本のシティポップも同じだった(Light in the AtticはKankyō Ongakuの前にシティポップのコンピレーション・アルバムを発売していた)。1980年代日本のシティポップとは、1980年代には存在していなかったが2000年代以降に再評価されることで遡及的に構築されたカテゴリーかもしれない。が、いずれにせよ、1980年代には異なる文脈に存在していた別々の音楽たち――後に「シティポップ」と呼ばれるポピュラー音楽と環境音楽――が21世紀以降にレコード音楽として再発見され、両者は混交しつつある、と考えられるのではないか。ここで私が述べておきたいことは、これは1980年代の文脈を踏まえていない間違えた聞き方だ、ということではない。そうではなく、文化とは誤解をはらみながらも影響を与え合うものなのだから、再発見され、元々の文脈とは違った在り方で再配置され、再活用されるというのは、何か新しい可能性を生み出すに違いない、ということだ。きっとここから面白いことが生じるに違いない。

 その象徴として、近年の吉村弘再評価の機運を喜んでおこう。また、サウンド・アートの開拓者としての吉村弘再評価の機運が高まることも期待したい。


参考資料

1980年代日本のサウンド・アートについて。中川克志『サウンド・アートの系譜学』(ナカニシヤ、2023年)あるいは中川克志「日本における〈音のある芸術の歴史〉を目指して」(細川周平(編)『音と耳から考える』(アルテスパブリッシング、2021年)所収)を参照。

吉村弘に関する基本的な情報は、2005年に神奈川県立近代美術館で開催された『吉村弘の世界 音のかたち、かたちの音』の展覧会図録を参照。また、吉村弘『都市の音』(春秋社、1990)も参照。

2010年代Kankyō Ongaku再評価については次の記事を参照。動物豆知識bot  2019 「環境音楽の再発見・目次/バレアリック、アンビエント、シティ・ポップ、細野晴臣、グライム、ニューエイジ、環境音楽」 note(ノート)2019年3月1日掲載  https://note.com/ykic/n/nd7d514f8d8d9 (2023年1月10日最終確認)。