短剣道理論

 沢庵禅師が剣と禅の極意を習合させ、「禅武一体」を唱えた。

禅における心理の探求は、禅の始祖といわれる、達磨和尚の「二入四行論」にあるとおり、道を極めるには、一つには理入(理論から教育する)と、一つには行入(実践行動から教育する)の二つの方法がある。

 武道の教え方も理論的な裏づけを確立した心の充実を図りながら実践活動を行う方法と、まず実践活動を行いながら理論的な真理を体得していく方法がある。いずれの方法でも最終的には、人間としての心技体の発達に努めることが目的でなくてはならない。

短剣道においても、理論的な裏づけを持った実践教育がなされることによって、「心」の面の充実を図りながら教育していくことが大切である。


1 平常心

 短剣道は対人動作であり、自分の動きだけで試合ができるものではない。

 相手の動きに応じて自分の動きが決められる場合も多く、心理的にも技術的にもきわめて複雑な競技であるといえる。

 従って、短剣道においては、試合に臨んでも平常の心構えと変わらない心理状態を保つことができれば、力むことも緊張することもなく最も安定した状態で試合をすることができる。

 平常心とは常日頃の心持ちであり、即ち人間本来の心の状態をいうのであって、「武道」に叶った心の修行である。

 平常心を保つためには、試合の直前に生活態度を改めたから維持できるものではない。日頃の努力が大切である。

 「無刀とるつもり位を稽古して小太刀の心かんがみて知れ」



2 四戒

 武道における四つの戒めとは、「驚き」「懼(おそ)れ」「疑い」「惑い」のことをいう。

 このうち一つでも心の中に生じたら自己の心が乱れて、相手に隙があってもそれを見出すことができなくなり、勝ちを得ることはできないのみならず、自分が萎縮して隙が生まれ、相手に乗じる余地を与えることになる。

 「驚き」とは、俄に予期しない事態が起きて、心がこれに動かされることであり、そのため一時的に心身の活動を乱すため、正常な判断や適切な処置をとることができず、甚だしい場合は茫然自失の状態に陥り、なす術を知らない心理状態をいうものである。

 「懼れ」とは、恐怖のことであり、恐怖の念が強くなると、精神活動が渋滞し、手足が痙攣してその動きを失うことがある。相手の体躯の大きいことや、掛け声が大きかったり、自分が相手の虚勢によって及ばないと思い込み、進退の如何なる場合でもやられてしまうものと恐れをなし、自ら負けてしまう状態をいう。

 「疑い」とは、相手への見定めがなく、自分の心に決断のないこと、遅疑逡巡することをいうもので、疑うときは注意力が萎縮するものである。

 「惑い」とは、心が惑うことであり、心が惑うときは精神が混迷して敏速な判断ができず、軽快な身のこなしができないことをいう。


 これ等の四戒は、自分自身の心が作るものであるから、日常常住座臥から精神的修養に努力していく必要がある。最近のメンタルトレーニングも究極は心の鍛錬である。



3 間合

 短剣道は対人競技であり、しかも竹刀等という媒体を用いての競技であるため、相手との距離感が大切である。それが間合というものである。

 間合いは相手と自分の間隔を合わせるのではなく、相手と自分とがそれぞれ突き・打つ事のできる位置を取ることが間合というものであるから、間合には一定の距離があるわけでなく、自分には自分の間合があり、相手には相手の間合があるのである。

 それは各人の体格、技倆、用具の長短等によって決まるものであり、自分は相手を制しやすく、相手は我を捉え難い空間的、物理的、時間的、心理的な間合を持つ必要がある。

 短剣道では「突き」・「打ち」技であるため、「点」で効果を判定する突きと、剣道のように「物打ち」に若干の幅がある「線」で効果を判定するので、間合は特に大切である。


◎大は小、小は大ぞと心得て、うごく太刀には、はやく勝つべし。

◎一足を五寸の延に打といえば、敵を我間に入れてこそ勝つ。



4 残心

 一刀流の伝書の中に「残心とは心を残すことであり、全然勝ちと見ても油断しない教えである。たとえ手応えのある程に突くなり切るなりするよりも、敵に如何なる備えがるか計り難し、兎の毛の入らぬ間より不慮のあることは多い、打ち倒し首を取りても心を残すことから、残心と名付けたり」とあり、このように残心とは、突き・打ちたる後に油断しないようにということで、多くはこの意味に用いられているが、一方では技を出すときは心を残さず全身全霊をもって突く・打つことを残心といっているところもある。

 ここで注意しなくてはいけないのは、技を施した後の引上げを残心と混同する向きがあるが、残心は試合の継続である。引上げは試合からの逃避であり本質的な違いがある。

残心には三つの心がある。


 (1) 突く・打つときに心残りがないこと。

 (2) 突き・打ちたる後に心を残すこと。

 (3) 突き・打ち誤りありたるときに心を残こと。



5 放心

 武道で放心というのは、心を全てに放つことである。即ち心が物事に捕らわれないようにすることである。

 心が一つの事に縛られることなく、自由自在の状態であれば注意力が全ての方向に行き渡り、どんな事にも対応することができる。

 「孟子」の中に放心という字句があるが、これは最も良い心の状態の表現にしている。



6 止心(ししん)

 武道で「止心」とは、相手の全体を見ないでその一部分のみにこだわる事を言っており、相手が突き又は打ち込んできたら受け止めよう、外そう、押さえよう等のことを考えると、それのみに心がとらわれるので自分の動きが鈍り、不覚を取ることが多い。

 短剣道においては、僅かの隙を見出して「突く」又は「打つ」のであるから、常に頭の先から足の先までを人目で見抜くように心掛けることが大切である。止心があると相手の奇手に惑わされることがある。



7 機会

 短剣道においては、自分も相手も絶えず動いているので、千変万化の動きの間には突き又は打つべき機会は多く生じるものである。

 しかし、その機会は瞬間的に過ぎ去ってしまう

 試合等で機会を発見したときは間髪を入れず、果敢にそして敏速な技を出さなくてはならない。この修行を重ねていくと機会が「形」として表れないうちに「勘」によって知ることができるようになり、思わず知らずの内に(心手期せずして)突き又は打ちができるものである。

これを近代スポーツでは動作の自動化と呼んでいる。無意識のうちに用いる技こそが武道の神髄といえるものであろう。

 試合において常に勝ち目を何処に求めるかが「機会」であり、ここが勝ち目と悟った時に力を集中してこそ勝てるのである。


 (1) 出頭

  相手が打突の動作を起こす時には必ず「起こり」という隙が生じるものであり、その兆候や初動の瞬間に技を出していけば、抵抗なしに突き又は打つことができる。


 (2) 引く処

  攻めたてられて技が出せないとき、また、退く立場におかれた時は、体勢の立て直しをすることに精一杯の努力をするものである。其処をすかさず突く又は打つことが良い。


(3) 技の尽きた処

  相手が連続的に技を出して来るところを、間合、体勢を堅持して凌いでいれば、相手の持続力も尽きてしまい、体勢や呼吸を整えるために技が途切れる時がある。其処を見逃さず反撃して技を出し攻め勝つことが良い。


 (4) 居ついた処

  心身ともに整い、精神が充実していれば居つく事はない筈であるが、精神の緊張が緩むか、精神の集中が乱れたりすると心身の活動が鈍り、瞬間的であるが技が停止することがある。そこをすかさず攻めるのが良い。

五輪之書には、「踏みつむる足」として、踏みつけて動きの止まる足を嫌う足としている。


(5) 受け止めた処

  相手の突き又は打ちに対して受け止めることは、突かれ又は打たれはしないが、反面自らは技を出すことはできない。相手に受け止められた時には、その技を攻勢に転じさせないように、あくまでも技を出していけば必ず勝つ機会が生じる。人間には反応があり表を受けたら次は裏に対応するものであるから、意表をついた連続攻撃が必要である。


 (6) 四戒があるとき

  相手に「驚き」「懼れ」「疑い」「惑い」の状態が生じたときには技が止まるので、其処を攻めるべきである。


 (7) その他

  相手の呼吸が乱れたとき、大きく息を吸い込むときなどがあるが、息を吸い込む時には技も力も出せない。



8 三つの先

 短剣道においては、常に機先を制するかどうかということが勝敗の分かれ目である。「先んずれば人を制し、後れれば人に制せられる」の教えのように先を取ることが大切であり、先には「先先の先」「先」「後の先」の三つの形の上で分けられる。


 (1) 先先の先(せんせんのせん)

  これは我が方より相手にかかる先であり、竹刀等を構えて相手と対峙したときには、互いに相手を突こう又は打とういう意思を持っている。

  この相手の突こう又は打とうという意志に先立って、意思と体さばきを中心にして「たゆまず」「かたまらず」相手の心を崩すことである。


 (2) 先

  相手が我が方に懸ってくる時に慌てることなく、相手が近づくに従って出鼻を挫いてひるませ、我が方が先を取って勝つことができるのである。


 (3) 後の先

  相手が我が方より早く突き又は打ちを仕掛けてきたときは、我は心静かに強く懸かり、ひともみもふたもみもして凌ぎ行く間に先を取り、勝つことである。

「先持後」とは小太刀で、先に取りかかる、同時に取りかかる、後れてとりかかることをいう。



9 三殺法

 短剣道においては、相手の「剣を封じ」「技を封じ」「気を封じる」事を三殺法という。


 (1) 剣を封じるとは

  相手の竹刀等を左右に押さえ、打ち払う等して、相手の剣先の自由な動きを封殺してしまうことである。


 (2) 技を封じるとは

  「先」を取って間断なく攻めたて、相手に技を使わせる余裕を与えない事である。こうすれば相手は常に守りにまわることとなり、攻勢に圧倒され意気は挫かれ、体制も崩れていくように動きを封殺することである。


 (3) 気を封じるとは

  絶えず気力を全身にみなぎらせ、先を取る気分で相手を抑え、気位で攻め、自分の間合を上手にとり、相手の心をおびやかし心理的に萎縮させ、気分を封殺することである。



10 懸待一致(けんたいいっち)

 懸待一致とは、懸る中にも待ちがあり、待ちの中にも懸る気持ちが大切であるということである。別には「懸中待」「待中懸」とも言っている。攻める時にも相手の出方を警戒し、守りの中にも攻める機会を捉えるアグレッシブな態度が、勝ちを収める要素である。小太刀において「手は待ちに、足は懸にて弛みなく、行く水鳥の心なるべし」と言っている。



11 勘

 ここが勝機である、ここが潮時である、いまが突く・打つチャンスであるということはできても、実際の場面に瞬間の機会を捉え技を出すことは難しい。千変万化極まりない試合の最中に、今が突く・打つチャンスだと思って技を出しても間に合わないことが多い。「稲妻の瞬間に雷は終わっている」「火打石も打った瞬間に火が出る」電光石火のうちに変化がある。試合において隙を認めて技を出そうとした時には隙は消えている。したがって隙を見出した瞬間に、心期せずして技を出していないと勝つことはできない。「今だ」の「い」の字の時に「突き」が出れば成功するわけである。それが長年の修練によって身についた「勝負勘」である。勝負勘は日頃の練習によって間隔が集積され、その成果として自ら生まれるものである。

勘を養うには、自分の技の修練とともに、相手の使術、個癖、考え方、心の持ち方等を見抜く術を養うことが大切である。



12 合気を外す

 短剣道で「合気を外す」ということは、相手が強く荒々しくくれば、こちらは軽く柔らかく受け流す。相手が弱く柔らかく立ち向かえば、こちらは徹底して強く果敢に攻め立てる事をいうものである。全て相手の意表に出ること、相手の鋭鋒をかわすようにすることができれば、試合上手、戦い上手ということである。要するに石と石を打ち合わせたり、面と面を突き・打ち合わせたのでは、合い突き・相打ちとなり勝敗は決まらない。



13 虚実

 試合における極意は、勝ち易きに勝つことであり、最も労少なくして効果の大きい方法をとることが大切である。実を避けて虚を突き・打つ、虚をもって誘い実をもって突き・打つということである。

 「実」とは精神気分が充実して油断なく集中力が行き届いていることであり、「虚」とは実の反対で心身に虚隙を生じている時のことを言っている。実があれば必ず虚があり、強いところがあれば必ず弱いところがあるものである。千手観音のように死角がないことが理想であるが果たすことは難しい。相手の強いところを攻めるには、それ以上の力が必要であるが、相手の弱いところを攻めれば、半分の力で制することができる。相手の虚に乗じ相手が最も嫌うところを攻めることが虚実の妙法である。余分な骨折りで力に対し力で頼ることは下手なやり方である。

 剣術の極意書に「裏身とは、しき身の裏の勝負なり、よく心得して詰めひろきせよ」(裏身とは正しい構えの裏であり、しき身とは正眼の構え)と言っている。



14 隙

 何事に選らず、隙があれば人につけ入れられるから、隙を作らない事を研究していくことが大切である。隙は「心」「構え」「動き」の三つがある。


 (1) 心の隙

  心は動作を起こす源である。その心に何処か抜けた処があれば集中力が鈍り、心に空虚なものが生まれ隙となる。気分が満ち満ちて足の裏から頭の毛の先に至るまで、注意力が行き届き流動自在な状態としておかないと、一点のみ気をとられたり、余分なことを考える事が多くなり隙を作ってしまう。


 (2) 構えの隙

  構えはいわば城である。完全な構えは難攻不落の城と同様に相手に対しては有利である。剣先を相手の中心に定めて体勢を整え、自分の主要部位を完全にガードし、どのような技にも応じられるような「進退自然の構え」になっていれば、相手が容易に突き込んではこれないであろう。しかし、構えは常に心の構えと一体でなければならない。


 (3) 動作の隙

  動作の隙は全て動作の初動において「起こり」「準備の動き」「徴候」が生じるとともに、動きの間には注意力が浮動しがちである。これらの状態において隙が生じるのである。この隙を作らないためには、「先」の気構えと「残心」が必要である。漫然と突き技を出しても出頭を狙われるし、突いた後に残心がなければ技が尽きたところ、居ついたところを狙われるので、動作の間の隙を作らない反応の速さ、間合の取り方、起こりを察知されない動きの研究が大切である。



15 心、気、力の一致

 「心気力」とか、「気剣体」または「心眼足」という言葉は、内容的には全て同意語である。


 (1) 心とは知覚し、判断し、思慮分別をめぐらすもので、心の静的な分野。


 (2) 気とは意志であって、心の判断によって始動を起こすもので、心の動的な分野。


 (3) 力とは、五体の運動能力であり、竹刀等の保持力、突きまたは打つ力、体さばき、脚力等の総称である。


 以上の三者が瞬間的にコンビネーションよく働くように稽古することが大切である。



16 攻め方

 相手を攻めていく場合には、剣先(けんせん)で攻める場合と、気力で攻める場合がある。その際は体は絶えず剣先と気力が並行的に働くものである。そのためには常に体勢を整えて崩さないことが大切である。剣先で攻める場合でも、単に形のみで攻めるのでなく気力が伴っていなくてはならない。一言でいえば、攻めは気剣体が一致した動作でなければ威圧感がない。


◎小太刀には、二寸五分のはずしあり身ぎわの勝ちは、おさえてぞよき



17 手の内

 短剣道では、「手の内」という言葉がある。別には「掌中の作用」ともいっている。これは次のような作用である。


 (1) 竹刀等を持つ右手の握り方


 (2) 掌(たなごころ)の力の入れ方


 (3) 使術の際の両手の筋収縮の度合い


 (4) 使術後の両手の解筋の度合い


 以上の身体的な作用を総合的にいったものである。


 ア 右手の握り方

  右手は竹刀等の柄を弦(つる)を上にして握り、小指、薬指で軽く握り、中指、人差し指、親指は添える程度でよい。


 イ 力の入れ方

  肩や腕にはほとんど力みなく、技を施す瞬間に握り締める。


 ウ 筋収縮と解除

  技を施した際の右手の握り締め方であるが、刃筋と力の方向が一致することである。



18 冴について

 短剣道は、突き打ちによって勝ち負けを決める武道競技であるので、技の「冴」が必要である。これは手の内と相俟って使術の際に表れる竹刀等の重さに加速をもって突き打てば、それが短時間であればあるほど打突の力が大きく表れるものである。このように瞬間的に手の内の十分締まった、素早い使術の事を冴という。

 いくら竹刀等が重くても、また、力を強く加えても技を用いる時間がスローであれば冴は生まれない。

 冴は、足さばき、両腕の働き、手の内、先の心構えを日頃の鍛錬の間に修得していくことが大切である。



19 気合について

 「気合」とは、気力を全身にみなぎらせ、少しの油断も邪念もないことをいう。即ち無声・有声とを問わず全身に充実した気力と心が一致した状態であって、相手に少しの隙も与えないと同時に、相手に少しの隙が生じた時には間髪を入れずに技を施す事のできる状態にあることである。長年の練習によって心と眼が明らかになり、心気体が統一されてくると、自然のうちに変化に対応できる技や力が発揮できる。



20 掛け声(発声)について

 「掛け声」は、充実した気合が必要に応じて自然に発するものであり、必要以上に口先だけで発声するものではない。人間が瞬間的に力を発揮する場合には発声を伴った方が力量が大きいことは、筋肉の収縮率実験においても明らかである。反対に息を深く吸い込むときには力はでない。掛け声には初中後の三つのこえというものがある。


 *「初めに相手を威圧する声」

 *「戦いの間には調子を低く腹の底から勢力を示す声と、相手を打突するときにはヤー、エイ、トーと筋収縮を助長する声」

 *「勝った後には大きく強くかかる声」


がそれである。


 掛け声は気力を増し、使術の勢いを増し、相手を威圧し、勝ちを示すものであるべきで、無闇に発声することは疲労防止の上からも慎むべきである。



21 呼吸について

 短剣道では相手の呼吸を計るということがある。呼吸は武道種目の練習において極めて大切である。人は息を深く吸い込む時には十分な力を発揮することはできない。力を出すという事は筋収縮であり、そのためには息を吐くか止めることが必要である。掛け声も呼吸の一部であり息を吐く事の変化であるから、身体的には酸素負債となるのでその補充のためには、息を吸い込まなくてはならない。呼吸を計るということは試合中に相手が呼吸を整えるために(酸素を補充する呼吸)深く息を吸うタイミングを見抜くことである。当然相手もそれをはかるのであるから、日頃から心臓肺臓機能を高めておくエアロビクストレーニングが大切である。第2稽古はその一手段である。



22 守、破、離


 (1) 「守」とは、

  短剣道を学ぶに当たって、師匠、先生の教えを忠実に守って短剣道の理合いや技を修練することである。昔でいうならば習う流派の基本と特徴及び理念を正しく修得することである。


 (2) 「破」とは、

  今まで学んだ流派の教え、即ち規則・法則を十分体得して自分のものとし、更に進んで研究的な態度が強くなり、「守」の段階では得られなかった新たな興味を覚え、次第に短剣道の内省的な面を深く考え、今まで師の教えを守っていた以上の力を身に付けることである。この過程では他のいろいろな武道の良いところを学び取っていけば、それだけ内在するものが豊かになり、それまでの殻を破った段階である。


 (3) 「離」とは、

  破における心境・力量なりを一段と向上した状態のことを言っており、即ち心身ともに自由自在で、剣理の神髄を極め、自然と創意が生じ、なお進歩すれば新しい技を導き出すものである。「修行は初めはほぐし、なかたびは苦しめ、末に胆の練ることを教えるなり」と一刀流の極意書に述べている。人生においてもこの段階的発達が大切なことである。



23 品格

 武道の最終目的は心身の健全な発達であり、人格の完成にあることは修行の基本である。短剣道においても心技体のバランスの取れた発達を目指すところに存在意義があり、そこに品格が備わって来るものである。品格とはどのようなものかというと、気高く美意識の整った状態にあることを指している。真実であるもの善の善なるものの多くが美であるように、武道においても正しいもの真剣味に溢れているものほど気品を感じさせるものはない。試合に臨んで端正で洗練された試合態度、強さを恐れない態度、弱さを侮らない態度、相手の人格を尊重した態度がミックスされて真剣に戦うところに、自ずと品格が生まれて来るものである。品格は外形を整えただけであったり、もの真似だけで備わるものではない。心の持ち方が素直であることも大切な要素である。

 品格を阻害するものには、「慢心」「粗野」「偽善」等がある。


 *正しく強く明るいこと。


 *技倆が伸び伸びと垢抜けしていること。


 *気分が充実し緊張感があること。


 *身体発達に貢献すること。


 *身だしなみ、礼儀正しいこと。


 短剣道を志す者は、以上の事を常に心掛けて稽古に臨み、人間としての品格を高めなくてはならない。



24 用語解説


 (1) 理合

  原理法則に合っていること。陰陽の法則のもとづく真理。

 (自分と相手との間にとり行われる動きが合理的で筋道にかなうこと)


 (2) 気位

  その人の育ちや環境から生まれる優越感と自信からくる威力、相手の攻めを察知する能力。


 (3) 剣先

  短剣の先端部、常に相手の正中線につけることが大切。


 (4) 剣筋

  剣の突く方向と力の入る方向。


 (5) 刃筋

  刃の当たる方向と力の入る方向。


 (6) 物打ち部

  竹刀等の先端から、約1/3の部分で刃部側をいう。


 (7) 会得

  内容、知識を十分に理解して自分のものにする。


 (8) 習得

  学問、技術を習って身につける。


 (9) 習得

  規定と学業の過程を履修し終えること。


 (10) 体得

  人に教わったり、本を読んで覚えたりするばかりでなく、自分で経験してみて、真の意味を理解する。


 (11) 修練

  練習。


 (12) 修行

  ひとりだちできる、より高い段階を目指して、技倆について日夜工夫して自己を鍛えること。


 (13) 修業

  ある程度の学問、技術を習って身につけること。


 (14) 錬磨

  体、精神、技術などを鍛え磨くこと。


 (15) 稽古

  昔のことを手本にして技術を習うこと。武術や技倆などを習うこと。


 (16) 練習

  技術や芸能が上達するように、同じことを何回も繰り返して習うこと。


 (17) 錬成

  心身を鍛えて立派な人間になる。


 (18) 位攻め

  自信に満ち溢れ、全身にみなぎる気勢で相手を威圧するような攻め。