ニューヨーク、ではなく、「信長の野望」というゲームの略です(信長の野望シリーズ)。
信長の野望シリーズのいくつかには、須賀川城が出てきます。
そこで”須賀川の歴史”を考察してみます。
■地形
須賀川の町は、北から東に阿武隈川、北から西に釈迦堂側があります。
これは、北からの敵(蝦夷など)を数Km単位~数百m単位で二重に防ぎ、南からの援軍(朝廷または幕府軍)を受け入れられようになっています。
[須賀川 数Km単位]
※釈迦堂川・阿武隈川の流れは、矢印と逆です。
須賀川は、阿武隈川・釈迦堂川で挟まれたなかに丘陵や小川があります。
丘陵・小川の間に寺社閣などを造ることで二重に防衛できる地形です。
下図の赤点線で囲まれたところが須賀川城らしいです。
小さい平城なので、伊達政宗が侵攻してきたとき、籠城しなかったのもうなずけます。
[須賀川 数百m単位]
水色線が掘り、青丸が池、赤丸が丘陵、赤線が小川。
■須賀川の歴史
□古墳~飛鳥~奈良時代
成務天皇の時代、天津彦根命の14世にあたる建許侶命の子、建彌依米命(建弥依米命、たけみよりめのみこと)を石背(いわせ)国造に定めた、とあります。
石背国造の系図ですが、以下のようです。
建彌依米命 → 健経津見命 → 健与佐命 → 健磐主命 → 弟磐主命 → 綾持命 → 大富命
【吉彌侯部】
安見 → 安村 → 友村主 → 友麻呂 → 影麻呂 → 安麻呂 → 大足彦 → 稚足彦
【磐瀬】
人上(豊雄) → 豊光 ・・・
石背国造が、建彌依米命の子孫(~命)から、奥羽の大族、君子部氏になったのは、深い姻戚関係になっていたかもしれません。
吉彌(弥または美)侯部(きみこべ)氏は、上古代からの奥羽の大族です。
阿倍臣氏系という丈部、大伴連氏系の大伴部・丸子部 及び上毛野君氏系の吉弥侯部があげられます。
本来は「君子部」であったとものとみられるが、天平勝宝9年(757年3月)に「吉美侯部」に改称されています。
毛野氏がその伴造だったと考えられており、賜姓の際には多く「上毛野」某公、「下毛野」某公の氏名を賜っています。
吉彌(弥)侯部人上は、769年〈神護景雲3年〉3月13日、大国造の道嶋宿祢嶋足の申請により、磐瀬郡の人で外正六位上の吉弥侯部人上 に磐瀬朝臣の姓を賜った、とされています。
きうり天王祭の祭神は、石背国17代国造豊足彦といわれ、生前の徳により、旭ヶ岡に祭られ岩瀬天王と称されたそうです。
吉彌侯部人上が18世らしいです。
17代国造の豊足彦は、系図や名前から、記述がないですが、稚足彦 と 人上(豊雄)の間だと思われます。
石背国17代国造豊足彦は、生前、広いきゅうり畑を有していたことから「きうり天王様」となったそうです。
宝暦年間(1750年代)に疫病が流行り、人々は尊の崇りであろうと考え、旭ヶ岡から尊の霊をお迎えして祭事を行い、きゅうりを供えたところ、疫病は消散し、その後は疫病にかかるものがなくなったそうです。
石背国17代国造豊足彦の崇りというのが気になります。
おそらくは戦死か病死なのかと思われます。
推測ですが、磐瀬朝臣姓を賜るのは豊足彦だったのではないでしょうか。
□平安時代~鎌倉時代
平安時代後半、前九年の役→後三年の役があり、奥州藤原氏が平泉より北の奥六郡を支配し、宮城県南部と福島県の豪族とは主従関係を結んでいました。
文治五年(1189)、源頼朝の奥州征伐ののち、小山政光の子朝光は白河・岩瀬・名取の三郡を与えられたそうです。
その後の正応二年(1289)、結城朝光の孫広綱の弟祐広が初めて白河に移住したと伝えられています。
□南北朝時代~室町時代
室町時代、鎌倉公方足利持氏から、二階堂氏が岩瀬郡の支配を許された、あります。南北朝時代、白河結城氏は南朝、二階堂氏は北朝についたことが関係しているかも知れません。
その後、永享の乱で二階堂氏は室町幕府の持氏追討の命に従い参戦します。
※永享十一年(1439)、敗れた持氏は自害し、南奥州の地は、鎌倉府体制から有力大名らを軸とした時代になります。
二階堂為氏は、一族の二階堂治部大輔を派遣して須賀川を治めさせたが、治部大輔は勝手に須賀川城を築いたり、租税を私したりした。鎌倉にいた二階堂為氏は、永享の乱で関東の本領を没収されていたこともあり、須賀川に下向する。文安元年(1444)鎌倉を出発し、六日の行程をついて須賀川に着いたが、治部は、城を閉ざして攻め立ててきた。
二階堂為氏は須田秀一の協力を得て城地の回復を図る。治部は、自分の娘三千代姫を為氏の室として和睦を申し込む。しかし家臣たちは須田美濃守を代表として為氏に諫言を行い、三千代姫を離縁した。文安五年、須賀川城攻めが開始された。治部は城に火を放って自害する。
天文の乱のとき、二階堂輝行は伊達稙宗に加担して、田村隆顕・葦名盛氏らとともに晴宗と戦った。弘治二年(1556)、二階堂輝行は白河領の矢吹に侵入するが、永禄二年(1559)、白河勢の反撃にあい、和を講じる。
二階堂盛義は永禄九年(1566)、葦名氏と和睦し、嫡男の盛隆を葦名氏に養子として入れる。
天正八年、葦名盛氏が死去し、家督は二階堂氏から人質として黒川に送られていた盛隆が継いだ。盛隆は葦名氏の家督を継ぐとともに、盛義の死後の二階堂氏の家政も取り仕切った。しかし、天正十二年(1584)、盛隆は家臣によって殺害される。以後、須賀川城は、伊達晴宗の娘で盛隆の母の阿南姫が守り、家老須田盛秀が実質的な城代となる。
一方、葦名氏は、伊達政宗の弟竺丸を迎えようとする派と、佐竹義重の二男で白河氏を継いでいる義広を迎えようとする派と分裂する。佐竹義広が家督を継いだ。そして佐竹・葦名氏を中心に反伊達連合軍が結成される。
伊達政宗と反伊達連合軍との間で「人取橋の合戦」が戦われたが、数に優る連合軍が撤退する。
そして天正十七年、「摺上原の合戦」が起り、葦名氏は敗れ、義広は実家の佐竹氏を頼って会津を落去し、葦名氏は滅亡する。
伊達政宗は再三にわたり、阿南姫に帰順を勧めたが、帰属せず籠城の準備する。
天正十七年十二月、政宗は総攻撃を命じ、須賀川城は落城し二階堂氏は滅亡した。
天正18年(1590年)、奥州仕置ののち、蒲生氏郷に領を与えられる。
文禄4年(1595年)2月7日、蒲生氏郷は40歳で病死する。
嫡子の蒲生秀行が継いだが、慶長3年(1598年)、蒲生氏は家内不穏の動きから宇都宮12万石に減封され、上杉景勝が移封される。
慶長6年(1601年)、蒲生秀行が会津藩主となり、家臣の蒲生郷成が須賀川城に入る。
□江戸時代
寛永4年(1627年)、加藤嘉明が会津藩主となった後、まもなく須賀川城は廃城となる。
丹羽家(1627年 - 1643年)
榊原家(1643年 - 1649年)
本多家(1649年 - 1681年)
松平〔奥平松平〕家(1681年 - 1692年)
松平〔越前松平〕家(1692年 - 1741年)
松平〔久松松平〕家11万石 (1741年 - 1823年)
阿部家(1823年 - 1866年、1868年)
戊辰戦争時は藩主不在で係争の地となる。
■備考
こどもとたまに遊ぶ”にゃんこ大戦争”が、もうひとつのNYだったりします。