第30話. 植物の心 (2006/02/26 予告編作成、02/28加筆、03/01発表、03/07加筆、09/18写真追加、2018/09/14 加筆)
植物には動物のような神経はありません 。にもかかわらず、植物は心を持っていると思います。(⇒2018/09/14、「植物にも動物と良く似た神経システムがある」との下記記事が米国AAAS発行のScienceに掲載されました。
http://science.sciencemag.org/content/361/6407/1068
これによると、植物でも動物と同じようにカルシウムイオン濃度変化の波が信号として伝えられるそうです。カルシウムイオン濃度変化があると細胞が光るように改変した植物の葉に傷をつけたところ、カルシウムイオン濃度変化に対応する発光の波が植物の葉を伝わる様子が映像として示されています。十年以上前に下記の仮説を作成した時には、いつかこのようなことを証明する人が出てくるとは思っていましたが、感慨無量です。)
第11話 「生命と非生命の境目」で、「心は畢竟柳が風になびくのと同じ、大宇宙の生命の表れ」だと書きました。また、第23話 「DNA/RNAによらない生命の可能性」の中で、「台風を生む仕組みは生命のようなものだ」とも書きました。
そのような観点から見れば、「植物にも心がある」という仮説はそれ程違和感のある仮説では無いと思います。しかし、今回は、そのような流れの中での話ではなく、人の心との類似性ということに焦点を当ててお話をしたいと思います。
欅などの大きく育つ樹を寄せ植えのように何本か集めて植えた場合、成長すると互いの枝を競合させないように協調しあって広げるために、結果として1本の樹のように樹形を整えてきます。小生にはあたかも欅がお互いに同属であることを認知してコミュニケーションしあっているように見えます。
また、雑草の一つですが、大毛蓼(写真参照)という夏から秋にかけて濃いピンクの大きな稲穂状の花を咲かせる草がありますが、この草は水の吸い上げに大変敏感で、ある程度大きくなると移植には向かないようです。あるとき、若い大毛蓼を移植しようと掘り出した時に、激しいショックを受けたようにみるみる打ちひしがれて、移植までの束の間も持たずに枯れてしまったことがありました。まさにショック死のように見えました。 (下の写真が大毛蓼です)
また、多くの草花で見られることですが、雨や風で倒れた草花が、重力を検知して、倒れた茎の途中から茎を曲げて身を起こし花を咲かせようとします。あるいは、生垣の内側の日当たりの悪いところの草花が、生垣の間から顔を出してきます。
「植え込みを越えて顔出す野菊かな ('98/10/04 守谷)」
このような例を持ち出すと、ある人は、「これらは一見植物に心があるように見えるが、それは、単に植物がその細胞のDNAに組み込まれたプログラムに従って、環境変化に対応しているに過ぎず、これを持って植物に心があるなどというのは、人間の感傷に過ぎない」と言われるかもしれません。
しかし、人間の心とて、突き詰めてみれば、似たりよったりの仕組みだと思います。(第31話参照)。内側から見ると(主観的に見ると)、我々には心というものが明らかにあるように見えます。しかし、心の働きを外側から見ると(客観的に見ると)、それは、柳が風になびくのと変わるところはありません。
植物の心も、外側から見ると、単にDNAに組み込まれたプログラムに従って、(大自然の法に従って)、環境変化に対応しているという風に見えますが、仮に我々が植物になりきることができて、植物として内側から世界を眺めた場合には、日照りには喉が渇いたと感じ、自分を愛でる人間を好ましく思い、大風で倒されそうな日には倒されまいと必死に踏ん張り、土の中の養分を求めて栄養に行き当たった場合には一時の幸せを感じ、周りを動き回る昆虫や人間をせわしない者共と感じるのではないかと思います。
我々生命は、そのように感じるようになっているのです。そのように感じるからこそ、我々個体の存続を脅かす事象から苦痛を感じ逃れようとし、逆に存続にプラスになる事象を好ましいと感じるのです。何十億年にわたる生命の進化の結果として、我々生命は、生命として内側から見ると、物事をそのように感じるようになっているのです。しかし、それは外側から見たら、柳が風になびくのとなんら変わることは無く、単に大宇宙の法則に従って環境に反応しているに過ぎません。