第11話. 生命と非生命の境目 (2005/01/14) (2007/11/18一部文言修正。青字部分)
今回は仮説では無く、まじめな主張です。
我々は生命は特別なものだと思っています。DNAまたはRNAにコードされて生成される生命は、山や川、水や火、風や岩、あるいは星とは根本的に異なるものと考えています。あるいは、生と死は明確な差があると考えています。
そうでしょうか?
今でもそうですが、生命に対する研究や、心あるいは脳に関する研究がどんどん進んでいくと、生命と無生命、あるいは、生と死の間には根本的な差は無く、どちらも大宇宙の法則に従って、運動し、反応し、形を変えていっているだけだということが愈々明らかになると思います。
我々は自分の目から見えるもの、五感で捕らえるもの、心で感じるものを中心に自分と環境を理解しようとします。すると、どうしても自分は特別なものだという考えにとらわれてしまいます。
自分を中心に世界を捉えると、以下のような見解が生まれてきます。
・ 「我思うゆえに我在り」 「自分が死んだら世界も終わる」
・ 日本は神の国、元寇の役で神風が吹いた
・ 霊長類は進化の頂点。 「神は自分に似せて人を作った」 「進化論は誤り。偶然と自然淘汰で、人間を始めとするこんな精巧な生き物が出来るわけが無い。神様が作られた。」 「宇宙は人間の為に作られた。 神は、人間に対して、宇宙の謎、仕組みを解明する使命を与えられた。」
・ 動物は人間と同じ仲間だが、植物は違う。動物は食べてはいけないが、植物は食べてよい。
・ 中絶は生命を殺すことになる。中絶反対。 (しかし、月経やマスターベーションで卵子や精子が失われることは、生命でないと見て問題にしない。)
・ 心の働きが畢竟分子化学反応であるということは信じられない。
これらの見解(自分を中心に世界を捉える考え方)は、時として人種差別や宗教戦争の基となり、進化論や地動説の排斥、菜食主義や、捕鯨反対運動ともなり、多くの争いごとの基ともなっています。
一方、自分を客観的に捉えると、下記の見解が生まれてきます。
・ 自分は日本人
・ 日本人は人類
・ 人類は動物
・ 動物は生物。 植物も生物。
・ 生命活動は個体維持と子孫残し
・ 上記は分子化学反応
・ 分子化学反応は物理法則の表れ
・ 物理法則は大宇宙の生命 (法) の現れ
・ 畢竟、心の働きも、柳が風になびくのと同じ、大宇宙の生命の表れ
これらの見解は、自然科学の進歩により、愈々明らかになって来ましたが、一方、弊害として、酒鬼薔薇セイトの事件にあるような命の軽視 (野菜の命と人の命に差は無いではないか?) や、社会秩序維持や人間の倫理観に対する挑戦という面も持ってきました。
また、この見解では、人間は大宇宙の悠久たる営みの中に泡のように生まれて直ぐに消え去るはかない存在であり、自分ばかりでなく、人類も、地球も、太陽系も、この宇宙すら恐らく、やがて消え去り、現在の痕跡を残さないということになることが突きつけられますので、泡のような存在の人間としては、やるせなく、その事実を受け入れがたく、なんとか絶対でありたいという願望との葛藤が生まれるということになります。
この主観と客観の折り合いをつけるために、人は倫理 (人は社会生活を営む生物だから、殺しあっては社会を維持できない。) や宗教を発展させたと思います。
また、西洋における自然科学の発展は、上記の主観に対する反発としてなされて来たと思います。現在でもその争いはあり、今後もずっと続くでしょう。
世の中はそのように主観と客観の争いが続くとして、あなた自身はどのように折り合いつけますか?
客観の究極は 「畢竟、心の働きも、柳が風になびくのと同じ、大宇宙の生命の表れ」 だと思いますが、これを主観の究極 「我々は、大宇宙の生命と一体、生も死も無い」 に重ね合わせることができるでしょうか? 我々とは何か、自分とは何かを問い続けて見てください。