大学生の頃は運転免許をとるのは製薬会社のプロパー(医薬情報担当者, MR)志願の友人達と決め込んでいた.自家用車を持つなど考えたこともなかった.挙句の果ては,大気汚染の元凶と主張していたくらいである.最近,「なぜ運転免許をとったのか」とその動機を訊かれた.他人とは異なる明確な動機があったのは事実である.
私が九大薬学部助手の頃は,コンピュータを利用するには大型計算機センター(国立大学の共同利用施設)に出向いて計算する必要があった.九州内の大学の研究者は九大へ出張して計算していた.九大内でも分離キャンパスにいる教官はセンターの在る箱崎キャンパスへ行って仕事をする必要があった.当時,私は単結晶X線解析のためフーリエ合成や最小二乗法の計算を大型計算機センターで行っていた.
その頃は,計算する度に数千枚のプログラムと回折データをカードで読み込ませて実行する必要があった.写真に示すように一枚のカードには英数文字80字がパンチできる.プログラムカード(図下段)の場合は72桁,70−80はカードの通し番号,ばらばらになった際には番号順に列べればプログラムが復元できるというわけである.一箱にカード2000枚が入っていた.かなりの重さになる.
使用していたプログラムは千枚程度,回折データカードは2−4千枚,つねにみかん箱一杯くらいのカードを持ち運ぶ必要があった.車の免許を持っていなかったので,同僚の先生の車に便乗したりしてどうにか仕事を進めたが.どうしても小回りがきかないので,時間の合間に車の免許を取得するため自動車学校に通った.そのことからも当時の計算機利用のための労力を想像して頂けるだろう.
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右図 現在も所有しているジュラルミン製カードケース(1000枚収納可能)
大きさは7.375インチx3.25インチ(18.7×8.3cm)
下段のFORTRANカードの場合,
1枚は72バイト,1000枚で72キロバイト
1万枚で720キロバイト 1MBフロッピー一枚以下である.
現在,カメラのメモリーは1GB (1000MB)は普通であり,1億枚以上になる.
計算機センターではカードリーダーで数千枚のカードを読み込ませる必要があった.ところが,カードは使っていくうちにキズが付き読み込まなくなる.読み込めないカードは弾き飛ばされカードリーダーは停止する.急いで打ち直し再入力させて読み込みを続けるわけであるが,作業している私の横にはジョブ入力を待っている人が列をなしている.声には出さないが視線は明らかに「何やってんだ」そのものだった.ひやひやしながら読み込みが終了するとほっとして力がぬけてしまう状態だったと言っても過言ではない.まさに精神的に重労働な仕事であった.経験しないと到底理解してもらえないと思う.
ところが,日本の大型計算機が36ビットからIBM互換の32ビットに換わった際,データセットという概念が導入され,大記憶装置にプログラムやデータを登録しておけば,それ以降はそれを数行の制御文で呼び出して実行する画期的な方式に変わった.現在のパソコンのファイルに相当する.大型計算機センターのデータセット説明会に出席したのは薬学部からは私だけであった.おかげで,X線解析,力場計算や分子軌道計算の処理が飛躍的に早くなったのは言うまでもない.
その後,ディスプレイ専用端末が使えるようになりほとんどの計算処理がネットワークを利用して実行出来るようになった.ちょうどその頃,計算センターとは別のキャンパスにある堅粕地区(医学部,薬学部,医療短大)に端末室を作ってくれるという話が持ち上がった.センター通いが日課になっていた数人の教官は飛び上がって喜んだ.ところが,薬学部の教官会議(教授会に助手も参加した会議)でそのことが議題になった際,薬学部内への誘致は意外にも否決された.その理由は決して忘れられるものではない.ある教授の言った言葉は「そんなものに利用できる部屋はない」であった.教授層で誘致に賛成の発言をする人は物理化学研究室を除いては居なかった.当時,大型計算機センターではDNAの配列を声で出して読み上げる二人組の医学部教員(基礎系)がいた.DNAのデータベースを作るための作業であったことはいうまでもない.薬学部では,コンピュータの役割を理解した教員がほとんどいなかったといっても過言ではない.
熊大へ異動した後,専用回線によるネットワークが敷設された際,木工室をつぶして端末室に充ててくれた.九大薬学部とは対照的な対応に感謝した.そのことがきっかけで薬学部キャンパスに情報処理演習が可能なパソコン室が誕生した.全国の医療系学部の中では,コンピュータ教育にいち早く対応したため「情報化に対応できる薬剤師の養成」等の課題で文科省の教育改善経費を複数回貰うことができた.何となくうまくことが運んだのは,時代の変化と思ったが単なる幻想であった.なるべく学部に迷惑を掛けないように予算面の努力したために皆が黙認しただけであることが後になって分かった.
その後しばらくはうまく行ったが,光ケーブルを敷設する段階になり予期しない障害にぶつかった.(コンピュータに対応できない)教授の中に「コンピュータ不要論」を主張する人があらわれ,先見性のない言動はその教授の定年まで続いた.信じてもらえないかも知れないが,計算機不要論を聞かなくなったのはごく最近のことである.
定年後の私立大学では計画段階で薬学部独自のコンピュータ室の設置を申し入れ作ることができたが,学生定員の半分のコンピュータしか存在しないため,同じ内容のコンピュータ実習(CBTも二度にわけて実施)を2回実施することになった.4年制課程の1回生が卒業した後に機種更新(リプレイス)を申し入れたところ,早すぎると文句を言われたが,共用試験CBTのためには必須であることを理解してもらいどうにか実現した.どこの大学も情報処理担当教員は計算機を更新するのに苦労しているようである.(2011/12/27)
追記
合成化学と情報処理,二足のわらじでたいへん苦労したが,よいこともあった.九州大学では大型計算センターは公務員宿舎と薬学部の中間にあり,通勤の往きにジョブを投入,帰りに出力リストを持ち帰り,次の朝の入力のため,夕飯を食べながら計算結果をチェックした.電子密度を表す三次元の数値表から原子位置を探し出す作業をやっていたのだが,子供たちはそれを見て父親はいつも勉強していると思ったらしい.息子は東京大学教養学部を卒業し,現在大手監査法人で公認会計士をしているが,いまだに知識欲は衰えていないようである.