30.絶対不可論

ものごとの絶対を証明することは出来ません。

ものごとには、「存在と現象」があります。

それは、「時空」と言う空間と時間のバランスから織り成された「四次元」の上での

「存在と現象」です。

それはエネルギーの形態の違いです。

エネルギーが滞留すれば「存在」となり、変化すれば「現象」となると言えます。

しかしその絶対を、証明することは出来ません。

私たちは「認識」を通して、「存在と現象」を知るだけです。

私たちの「認識」がどれだけ曖昧であるかは、よく知られたことです。

その「認識」をもって、絶対は証明できません。

「存在と現象」は、そのすべてが「論理構造」で成り立っています。

論理について、【1.想定論理】において、以下のように述べました。

論理とは、ある二つの物事が互いに関連しているとき、その関連を、もっとも単純な

原理の組み合わせで解いていく筋道のことです。

物事の関連は、以下の三つの原理に分けられます。

(1)所属の関係 (2)組み合わせの関係 (3)変化の関係

(1)所属の関係とは、例えば、「人間は哺乳類である(に属する)」というような、

物事の所属の範囲をあらわすものです。

所属の範囲は、言葉の定義によって限定されます。

二つの関係としては、AはBに属する、BはAに属する、AとBの一部分が共通する、

AとBは無関係である、の4パターンがあります。

(2)組み合わせの関係とは、ジグソーパズルのように、部分が集まって全体となる

関係です。部分の総和は全体になり、部分の重複も不足もありません。

(3)変化の関係とは、「風が吹けば、枝がゆれる」というような、ある物事に対して、

何かが付加する、または削除されて、別の形に、確率的に変化するということです。

A+α⇒B(またはA-α⇒B)

Aとαは原因となり、Bは結果となる、因果の関係とも言えます。

以上が、論理を構成する三つの基本原理です。

私たちは、(1)「所属の関係」において、ものごとを完全に定義することは出来ません。

また、そのものが完全に、その所属に含まれるのかどうかも言い切れません。

すなわち、この論理は、たえず完全に成り立つとは言えないわけです。

(2)「組み合わせの関係」においても、部分の合計が全体になることは、経験的に

知っているだけで、証明は出来ません。

たとえば、「1+1=2」という単純な数式も、経験的に正しいと思っているだけで、

その証明は不可能です。

経験的に知っており、人々の多くの共通認識である原理を、人は「公理」として、

「証明や論理を必要とせずに、真と仮定できる命題」としました。

「1+1=2」も「公理」となります。

何を「公理」とするか、その判断も人の認識によるため、曖昧さが残ります。

この論理もまた、完全、絶対とは言えないわけです。

(3)「変化の関係」においては、「確率」が大きく影響します。

この「確率」もまた、証明不可能です。

サイコロを振って、1の目が六分の一の確率で出ることの証明は不可です。

この論理もまた、絶対とは言えません。

この世の中には、完全や絶対は存在します。

ものごとはすべて、完全で絶対な論理構造で成り立っています。

しかし人は、それを完全に絶対には、認識できないのです。

このように原理的な内容においても、証明が不可能であるのに、

現実の、複雑に絡み合った論理構造では、さらにその証明は不可能となります。

証明が不可能では、ものごとの論理構造の解明に確信が持てず、

あてのない仮定の積み重ねになってしまいます。

すなわち、証明できない原理を公理とし、

それ以外のものは、公理の組み合わせで証明していくという、

思考の整理が必要となります。

公理とは、経験的、統計的であり、その公理が他の公理と矛盾せずに成立できる

各々の仮定の原理と定義します。

これらを公理と決めるのは、人類の持つ「知性の整合性」です。

「知性の整合性」とは、絶えず経験を深め、統計を増やし、自分の知識の体系(知性)内で、

明らかな矛盾が発生していないか(整合性)を確認し、自ら絶えず見直しを行う、知性の

基本性能のことです。

個人の「知性の整合性」は、社会や文明において、さらに全体的に見直しをされ、

要素化、統一化、普遍化されて、社会に共有の「知性の整合性」となります。

公理はさらに、以下のように分類することが出来ます。

実証公理:数学、物理、化学的法則や原理のように、数多くの実証によって

万人が事実と認められる、また反証が不可能な命題(論理)を言う。

想定公理:現状で検証は不可能だが、他の公理からの類推や、その公理を含む

体系内で矛盾が認められない命題(論理)を言う。

実証公理から想定公理へ徐々に変化をしていき、その度合いを決めるのは、

「知性の整合性」の賛成度です。

たとえば、「人間は動物である」と言うのは、万人が納得する実証公理です。

「人間は思考する動物である」と言えば、万人ではないが多くの人が納得するでしょう。

やや想定公理ぎみに変化してきました。

「人間は創造する動物である」と言えば、納得できない人も多く出てくるでしょう。

仮定性が強くなり、想定公理と言えます。

「知性の整合性」は文明の進化とともに、成熟していきます。

「知性の整合性」の目指すところは、「問題解決による、秩序の形成」です。

そしてそれは、「知性の整合性」を築く人が「万人の幸福」を目指しているからです。

人が真実を知りたがるのは、幸福を目指しているからです。

しかし私たちは、完全で絶対な真実を知ることは出来ません。

究極で、知ったことにしておく必要があるのです。

それが、「絶対不可論」です。

「知性の整合性」は、「絶対不可論」を知らなければなりません。

それは、人の知性の限界です。

それをふまえた上で、謙虚に思考や議論をしないと、

その場の「知性の整合性」は成熟せず、また、誤りを犯してしまうでしょう。