【2.意識とは】以降において、人の行動反応は以下のようであると
述べました。
知覚―認識・記憶―欲求―感情―意識―行動反応
これらは、どのように発達してきたのでしょうか?
神経系統の発達した生物は、本能によって行動を起こします。
本能とは、遺伝子に書き込まれた「生命反応」情報にもとづいて作られた、
神経系統の中核(脳)での、行動反応を示唆する情報伝達の仕組みと言えます。
魚類は、状況を知覚して、簡単な記憶と照合して認識し、行動反応を起こします。
爬虫類・鳥類は、状況を知覚して、基本的な記憶と照合して認識し、単純な欲求が起こり、
そして行動反応を起こします。
哺乳類は、状況を知覚して、記憶と照合して認識し、欲求が起こり、
そして単純な感情反応を起こして、行動反応を起こします。
本能は、基本的な機能に、これらの反応の繰り返しが蓄積されて、発達していきます。
発達した本能は、ふたたびこれらの行動反応の大きな動機となります。
本能は、三つに大別できます。
生存本能(生命を維持しようとする)
種存本能(自己または種の遺伝子を子孫に残そうとする)
存在本能(上の本能を補助する、自己の存在をアピールする)
そしてヒトは、状況を知覚し、記憶と照合して認識し、欲求が起こり、
そして感情反応を起こして、その後、意識が働いて対応を想定して、
行動反応を起こします。
「意識」とは、ヒトが手に入れた、環境への対応能力です。
今までの生物は全て、環境のなすがままになるだけでした。
ヒトははじめて、環境に働きかけて、それを変化させることが出来るように
なりました。
「意識」は、ヒトが五つの機能から成り立っています。
観察:ものごとの変化の差異を知る。
記憶:ものごとをパターン化して記憶する。
分析:ものごとを分解して整理する。
推理:ものごとの因果を予想する。
創造:新たに、ものごとを組み立てる。
これらの機能は、ヒトが仮の状況を想定できるようになったからです。
すなわち、仮想認識を発生させる機能を持った脳の領域が、「意識」です。
「意識」は、ヒトにおいて脳が発達し、反応(情報処理速度)が早くなったこと、
非常に記憶力(情報処理量)が増したことにもとづきます。
すなわち、ヒトの脳は、ものごとを整理して記憶すること(パターン認識)、
記憶したものを整理することに、非常に効率をあげることが出来るようになりました。
記憶した状況を設定しておいて、それを想定の中で、自由に変更したり、
組み合わせたり出来るようになったのです。
たとえば、高い木の枝になったリンゴの実があるとします。
そばに、台と長い棒があります。
台に乗っても、リンゴには届きません。
また棒を使っても、少し届かず、リンゴの実を払い落とすことは出来ません。
多くのヒトは、台に乗って棒を使って、リンゴを払い落とすでしょう。
すなわち台と棒を使う二つの状況を想定して、組み合わせたのです。
これが、「意識」の働きで、環境へ対応したということです。
ヒトの意識に、もう一つ大きく影響する要素があります。
それは、ヒトが群れで生きる動物であると言うことです。
生物が群れで生きるのは、種族の強力化と群れへの埋没です。
個で生きるより、当然、群れで生きるほうが、種族としては強力となります。
敵の存在に気づきやすくなり、また餌も見つけやすくなります。
群れの力により、敵を撃退でき、また餌を手に入れやすくします。
そして、群れの中に埋没してしまえば、敵からの攻撃を避けやすくなります。
また、種族の中で、遺伝子を選択化、多様化させるためには、
出来るだけ大きな群れの中にいた方がよいことになります。
しかし、群れの中にいれば、他との諍いが起こります。
餌の取り合いが起こります。
また、群れとしての行動を強制され、自由な行動を抑制されます。
ヒトの群れは、ヒトが環境を変えれる能力を得たとことから、
さらに、共同、協調による、環境への集団での対応を可能にしました。
そのために、さらに群れからの個への行動の強制、抑制がより強くなります。
それらの強制、抑制は、群れの構造が複雑になるほど、逆に対応の効率化を
下げてしまう場合も出てきます。
ヒトは状況を認識して、本能と照らし合わされて、欲求が起こります。
欲求は、大きく快楽追求と不快苦回避の二つに分けられます。
「意識」は、それを達成しようと対応を図ります。
対応の目的が達成されれば、脳はその褒美として「達成感」という快感を得ます。
その達成感は、また本能の「存在本能」を満足させます。
こうしてヒトでは、その意識の領域(意識野)で、「達成欲求」を発生させました。
しかし、それらの欲求はすべて達成が可能なわけではありません。
達成が困難なものほど、その欲求が強くなる傾向があり、
そして達成できなければ、大きなストレスを受けます。
達成できないことが、さらに新たな問題として認識され、
また欲求、感情、対応の意識回路を回して、不快のループが始まってしまい、
ストレスはより増幅されていきます。
ヒトもまた、生命を維持するために、外界にエネルギーを求め、
そして外敵と戦い、身を守り、そして種を繋ぐために配偶者を求め、
子孫を守っていこうとします。
それらの欲求は、もちろんスムーズに達成されるわけではありません。
そして上で述べたような、群れでの強制、束縛を受けて、
ヒトは、多大なるストレスを受け続けることになります。
そのストレスを解消するために、ヒトは「心」という仕組みを作り出したのです。
人は、生命を守るために、種族を守るために、そして自分の存在価値を守るために、
環境と戦い、そして様々なストレスを受けます。
人は、ストレスを受けると、そのストレスを解消して、正常な状態に戻ろうと、
意識下において、いくつかの対応をします。
それが、「心(精神)」の役目です。
意識は、認識・記憶野-欲求野-感情野-意識野からなる意識回路からなっていると、
述べてきました。
「心」の領域は、意識野に存在し、その意識回路全体を覆うようにして、
その回路のバランスをとろうとします。
意識回路のメンテナンス装置が「心」です。
「心」の対応を、彼が彼女に交際を申し込んで断られたという大きなストレスを受けた
場合を、例にとってあげます。
(A)正当化:筋道を立てて、自分を正当化し納得しようとする。
「付き合っている彼氏と別れられないから、仕方なく自分を断ったのだろう」
(B)愚劣化:自分は大したことはないと卑下する。
「どうせ自分には大した価値もないから断られて当然だ」
(C)特異化:自分は特別な存在だと、自分を許容する。
「自分の価値を、彼女は理解できなかったのだ」
(D)社会化:倫理観や正義感のためと、自分を許容する。
「自分にはすべき使命があるから、こんなことに構ってはいられない」
(E)非社会化:非社会的、反社会的な立場で、他者を認めない。
「女なんてものは、低俗な生き物だ」
(F)自然化:本能の欲求に従ったと、自分を許容する。
「自分の望む通りにやったんだから仕方がない」
(G)一般化:他者の多くも同じだと一般化する。
「男のほとんどは、ふられた経験を持っている」
(H)同様化:特異な者と同じだと同様化する。
「偉大な彼も、ふられた経験があると言っていた」
(I)逃避化:思考を停止して放棄する。
「もう何もかもどうなったって構わない」
(J )熱中化:他に熱中して、思考をすり代える。
「とにかくゲームで気を紛らわそう」
(K)信念化:理屈ではなく、自分は絶対に正しい言い聞かせる。
「自分は間違っていない、自分は正しい」
(L)権威化:書物など権威によって、自分の行為を正当化する。
「心理学上、女性は一度は断るものと言われている」
(M)運命化:大きな力によって導かれたと感じる。
「これもまた運命だ」
(N)成長化:未熟な自分が成長する過程と理解する。
「これも人間として成長するための試練だ」
(O)妄想化:ありえない筋道を立てて、非常識な結論を導く。
「彼女は自分を愛し過ぎてしまったのだ」、
(P)客観化:第三者として、主観性を排して自分を見る。
「彼女は自分に関心がないのだ」
これら「心」の対応は、人によって、その得意な対応が違います。
過去の経験によって、もっとも効果の良かった対応を、
すなわち、心の安定を容易にとられたもの得意とするのです。
その対応のとり方が、人格とも言えます。
人は、「意識」や「心(精神)」を中心に生きているため、
それが「生命」そのものという感覚になってしまいがちですが、
「意識」や「心」、「人格」もまた、生きるための機能の一つなのです。
人は、その生きることに、どんなに高尚な意義を持たせようとしても、
上で述べた意識回路が受けるストレスの解消対策の一つを出発点としていることが
多いのです。
たとえば、動物的な欲望を排して、人間性の成熟を目指していたとしても、
それは、上で述べたストレス解消の(D)社会化、またはそれに(C)特異化、
(N)成長化を組み合わせて出来てきた対応の一つから始まった可能性が高いのです。
もし、その人が、それらのストレスも受けない状態になったとしたら、
または強い欲望を受けて、別のストレスを感じたとしたならば、
その高尚な目的を維持することを、やめてしまうことも多くあります。
すなわち人とは、自分の受けたストレスを何とか解消しようと、
精神的な安定を求めて、絶えず対応し続ける生き物なのです。
生きる意味や価値などを求めることも、場合によっては結局、二の次にされて
しまうのです。
しかし人は、そのとった対応に、非常にこだわる面もあります。
対応は、ほとんどが過去の対応の成果に基づいていると述べました。
今の対応を否定されることは、過去の自分を否定されることに繋がります。
すなわち、その対応を否定されることは、人格を否定されることに近いからです。
これら「心」の対応が、その人の中で習慣化し、法則化した状態が、
「意志」です。
たとえば、ある人が「多くのことにチャレンジしたい」という「意志」を
持っていたとします。
その「意志」も、「心」の対応の(J)熱中化、(N)成長化から発していると言えます。
「意志」は、対応の効果より、過去の対応の成果、
すなわち自分の人格を守る方向に働く傾向があります。
人格を守ることを優先しすぎ、効果を問わなくなると、
その「意志」は固執、つまり「意地」となります。
そしてその「意地」を守るためには、人はその身体の犠牲もいとわないことも
あります。
たとえば、宗教に救いを求める者は、、ストレスの解消を行う、
(K)信念化、(L)権威化、(M)運命化などの組み合わせを、
神や教祖への信仰と言う形で、一括で行おうとしていると言えます。
やがてその信仰が強くなりすぎると、ストレスの解消どころか、
自己犠牲、生活犠牲で発生する多大なストレスもいとわなくなり、
身を滅ぼしてしまうなどと言うことにもなりかねます。
これら全て、人の「心」の働きで生み出されるものです。
上に述べた「心」の16項の対応において、
もっとも理性的であるのは、(P)客観化です。
これは自分の欲求や感情を無視して、第三者の立場で自分を見るという、
意識野における優れた仮想認識能力が必要です。
第三者の立場として、他の15項の対応を見直せば、
より真に正しい対応に近づけるとも言えます。
ストレスを感じた、その問題を解決するために、
自分のことを考えずに、第三者として対応するためには、
根本的、全体的、バランス的で、明確な対応が必要となります。
すなわち、秩序志向が必要です。
人は、秩序の整ったものに、美しさを感じ、感動します。
それは、秩序的なものは、人の心を安定させ、豊かさと可能性を感じさせるからです。
人の「意識」は、達成欲求を生み出しました。
その達成欲求を満たすために、次に秩序欲求が生まれました。
どんなものごとでも、効率よく達成するためには、
環境の、より秩序が整っている状態が望ましいからです。
秩序欲求は他の欲求と比べ弱いものですが、
その欲求は、心のストレス対応に対して、その真の効果を問い続けます。
人が生きることに意味や価値を求め、そこに有意義な生き方を見い出そう
とするのは、「意識」のもつ理性の働きです。
「心」は、「意識」全体を覆うメンテナンス装置ですが、
「意識」はさらに、その「心」の対応を吟味し、秩序化という高レベルに導くのです。
上で、ストレス解消のための対応を、人間性の成熟を目指すことの出発点とした
例を述べました。
その対応も、この「意識」の 「秩序欲求」と結びついて、
そして、その吟味を受けることによって、さらにレベルの高い「心」の対応となり、
ストレスや欲求の状況が変わったとしても、戸惑うことなく
確固とした強い意志で、人間性の成熟を目指せるようになるのです。
なぜ、「心」の対応の高レベル化が必要なのでしょうか?
それは人が、弱い生き物だからです。
人は、強く生きなければならないからです。
環境に、強く対応していかなければならないからです。
長い歴史の中で、人は、より強く対応出来るようになってきました。
それは、理性の力です。
純粋な「理性」とは、(O)客観化のすすんだもの、
すなわち、秩序を重視し、思考が「意識」や「心」の束縛から離脱したものです。
ものごとの道理を理解し、自分を廻る世界との調和をとろうとする志向です。
それは人の「心」の中で、非常に危うい存在です。
すぐに「意識」や「心」の対応に影響されてしまうからです。
「理性」は、 心の中に、ほのかに点いた灯りのようです。
あたりを照らし、行く道を示します。
だがそれは、容易に消えてしまうものでもあります。
灯が消えれば、人は闇雲にうごめいているだけです。
灯を点け、その灯を守らなければないません。
それが人が人である真の「プライド」だからです。
「理性」は、さらに人類が強くなることを望んでいます。
それは「理性」が「生命」の尊さと危うさを知っているからです。
奇跡で生まれた「生命」への、感謝を知っているからです。
「理性」は優しく穏やかです。
「理性」は「愛」に基づいています。
「心」は、意識回路のメンテナンス装置です。
より高いレベルに成長した「心」は、人や環境を正しく導きます。
そしてそれは廻り廻って、やがて、あなたを幸福へ導きます。 (07.1.22)