前回【7.環境論】において、自己環境の確立について述べました。
自己環境とは、自分のまわりに作る、城壁のようなものと言えます。
環境のいろいろな攻撃から、自分を守ります。
前回では、、秩序思考を用いて、論理的に確立する方法を述べましたが、
論理にあいまいなところがあると、自信が持てない、
論理の一部でも破綻すると、全体が連鎖的に破綻してしまうことがある、
などの欠点があります。
他には、概念によって、自己環境を確立する方法があります。
武士道や商人魂や、職人根性などのように、
専門的な技術や、制度、思想を基本にして、外郭のイメージ(概念)を設定、
自己環境を確立するという方法です。
技術、制度、思想などは、時代の進歩とともに変化していきます。
古くなったものを基本にしていては、自己環境の目的である、
欲求の達成に効果が薄くなります。
概念による確立には、そういう欠点があります。
もう一つ、信念によって、自己環境を確立する方法があります。
信念とは、ある原理を、理屈を超えて、無条件に信じ込み、疑いをもたないことです。
宗教が、その代表です。
自分にとっての絶対であるため、他者とのかかわりを拒絶してしまう欠点があります。
しかし自分を守るという面では、非常に効果があります。
宗教は、はまり込むと危険ですが、人が生きる上での悩み解決に、
有効な部分もあります。
このレクチャーでは、宗教と神について述べます。
宗教の一般的な構造は、以下のようになっています。
完全、絶対的に優れた存在があります。
いわゆる、神です。
神のいう言葉は、すべて真実であり、疑うことは許されません。
論理はありますが、その基本となる原理は、
不明瞭で、気まぐれであり、一定していません。
権威をもって、人の生きる方法を指示します。
指示に従わなければ、天罰として、多かれ少なかれ損害を受けると、
恫喝します。
指示に従えば、生きる苦しみから逃れられると解きます。
神とは、何でしょうか?
一つは、私たちのいる次元より、高い次元にいて、
この次元を自由に出来る存在とするものです。
二次元に住む生物がいるのならば、私たちが、彼らにとって神であるわけです。
キリスト教の造物主、イスラム教のアラーが、この考えです。
一つは、私たちより、さらに進化した生物であるとするものです。
私たちが、下等な生物の生死、運命を、ある程度自由に操れるように、
私たちより、さらに高度な能力を持つものが、私たちを操れる立場にいるわけです。
神が宇宙人であるという説や、文明の進んだ古代人という説が、これに含まれます。
修行よって、さらに高度な能力を身に付けた場合もあります。
仏教の仏陀や、菩薩などが、この考えです。
もう一つは、神を霊的存在とするものです。
自然界に宿っているといわれるもののけ、死者の霊魂などです。
ギリシャ神話の神々や、日本の神道の神々も、これに含まれます。
神の能力とは、何でしょうか?
神は、人知を超えたものとして、物理的な法則に関係ない、超能力を発揮します。
力の大きさは、宇宙レベルから、サイコロの好きな目を出す程度まで、さまざまです。
万物を創造する。
時間を超える。
ものごとを自由に操れる。
ものごとを自由に変化できる。
因果を自由に操れる。
このような能力をもつ神は、実在するのでしようか?
または、実在したのでしょうか?
人類が登場するまでに、地球で約40億年の、生物の歴史があります。
その膨大な時間は、生物の進化にとって、自然であり、
それらに、高い知性や意識が手を貸したような、明らかな事実は発見されていません。
現在まで、物理的な法則に従わずに、ものごとが起こったという現象の、
明白な事実も、発見されていません。
神が実在し、何千年と、人とかかわってきているとしたら、
その事実が、多少とも発見されているはずです。
すなわち、
突然の創造物の事実もなく、
時代を逆行するような物の事実もなく、
因果に従わず、
自由に変化する物の事実もない、ということです。
また、人が神に求めてきた救済も、その力で報われたという事実はなく、
人が神と呼んできたものは、存在しないと言えます。
神が存在しないのなら、それは人類の大きな発明の一つだと言えます。
人は、神を、なぜ必要としたのでしょうか?
人は、外環境から、うむを言わさず、攻撃や妨害を受けます。
内環境からは、欲求を満たせと、絶え間なく迫られます。
人は、外環境と内環境のはざ間で、多大なストレスを受けます。
ストレスが大きすぎると、人は、生きることに絶望します。
この絶望感を解消するために、人知を超えた能力に頼ります。
人には、老苦、病苦、死苦、孤独苦、別離苦と、
疲労苦、不快苦、蔑苦(劣等苦)、不満苦、貧苦の十苦があります。
この苦しみから、具体的に逃れる術がないとき、
人は、自分の苦しみに、正面から向かうことを止め、
強く願いを念じる、祈るという行為で、意識を無意識化し、
将来に、希望を託します。
その祈る対象として、神が発明されたのです。
発明された神を象徴として、構造化されたものが、宗教です。
大きな不安、大きな苦痛から、意識を守るためには、
何か絶対的なものを想定して、無意識となって念じる、この方法は、
異常事態になった時の、自己環境の維持に有効です。
これを、神のシステムと呼びます。
神のシステムを取り入れるためには、念じる対象となる『神』が必要です。
既成の『神』を、自分なりの観念で理解して、対象とする方法もありますが、
ここでは改めて、『神』の観念を想定します。
生命は、命をつなぎ、種をつなごうとします。
種は、次々と分化して、多彩化します。
そして、種同士は競争して、強いものが残ります。
生命は、永遠に、命を受け継いでいこうとしています。
生物の進化は、それら確率の法則に、多くの偶然や気まぐれがからんで進んで来ました。
人まで進化すると、生物は、受身であった自然に対して、対応できるようになります。
生物同士、競争することから、共同することを可能としました。
これらの生命の進化と働きは、自然現象で説明できますが、
何らかの意志をもっているような振る舞いに見えます。
この仮想の意志を、『神』とします。
この『神』は、生命を守り、生命を導き、生命を癒します。
この『神』を尊重することは、生命を尊重することにつながります。
この『神』に祈ることは、生命を健全に整えます。
『神』に強く念じることによって、意識は無意識となって、
感情や欲求を抑制し、対応の繰り返しを中断させ、願いに集中します。
そのことによって、心身は落ち着き、
ものごとに対して、冷静に対処できるようになります。
念じることによって、願いは明確になり、その手段も明らかになります。
願いをかなえることに迷いがなくなり、願いをかなえる方向に、すべてが関連してきます。
これが、神のシステムの効果です。