08.神のシステム

前回【7.環境論】において、自己環境の確立について述べました。

自己環境とは、自分のまわりに作る、城壁のようなものと言えます。

環境のいろいろな攻撃から、自分を守ります。

前回では、、秩序思考を用いて、論理的に確立する方法を述べましたが、

論理にあいまいなところがあると、自信が持てない、

論理の一部でも破綻すると、全体が連鎖的に破綻してしまうことがある、

などの欠点があります。

他には、概念によって、自己環境を確立する方法があります。

武士道や商人魂や、職人根性などのように、

専門的な技術や、制度、思想を基本にして、外郭のイメージ(概念)を設定、

自己環境を確立するという方法です。

技術、制度、思想などは、時代の進歩とともに変化していきます。

古くなったものを基本にしていては、自己環境の目的である、

欲求の達成に効果が薄くなります。

概念による確立には、そういう欠点があります。

もう一つ、信念によって、自己環境を確立する方法があります。

信念とは、ある原理を、理屈を超えて、無条件に信じ込み、疑いをもたないことです。

宗教が、その代表です。

自分にとっての絶対であるため、他者とのかかわりを拒絶してしまう欠点があります。

しかし自分を守るという面では、非常に効果があります。

宗教は、はまり込むと危険ですが、人が生きる上での悩み解決に、

有効な部分もあります。

このレクチャーでは、宗教と神について述べます。

宗教の一般的な構造は、以下のようになっています。

完全、絶対的に優れた存在があります。

いわゆる、神です。

神のいう言葉は、すべて真実であり、疑うことは許されません。

論理はありますが、その基本となる原理は、

不明瞭で、気まぐれであり、一定していません。

権威をもって、人の生きる方法を指示します。

指示に従わなければ、天罰として、多かれ少なかれ損害を受けると、

恫喝します。

指示に従えば、生きる苦しみから逃れられると解きます。

神とは、何でしょうか?

一つは、私たちのいる次元より、高い次元にいて、

この次元を自由に出来る存在とするものです。

二次元に住む生物がいるのならば、私たちが、彼らにとって神であるわけです。

キリスト教の造物主、イスラム教のアラーが、この考えです。

一つは、私たちより、さらに進化した生物であるとするものです。

私たちが、下等な生物の生死、運命を、ある程度自由に操れるように、

私たちより、さらに高度な能力を持つものが、私たちを操れる立場にいるわけです。

神が宇宙人であるという説や、文明の進んだ古代人という説が、これに含まれます。

修行よって、さらに高度な能力を身に付けた場合もあります。

仏教の仏陀や、菩薩などが、この考えです。

もう一つは、神を霊的存在とするものです。

自然界に宿っているといわれるもののけ、死者の霊魂などです。

ギリシャ神話の神々や、日本の神道の神々も、これに含まれます。

神の能力とは、何でしょうか?

神は、人知を超えたものとして、物理的な法則に関係ない、超能力を発揮します。

力の大きさは、宇宙レベルから、サイコロの好きな目を出す程度まで、さまざまです。

万物を創造する。

時間を超える。

ものごとを自由に操れる。

ものごとを自由に変化できる。

因果を自由に操れる。

このような能力をもつ神は、実在するのでしようか?

または、実在したのでしょうか?

人類が登場するまでに、地球で約40億年の、生物の歴史があります。

その膨大な時間は、生物の進化にとって、自然であり、

それらに、高い知性や意識が手を貸したような、明らかな事実は発見されていません。

現在まで、物理的な法則に従わずに、ものごとが起こったという現象の、

明白な事実も、発見されていません。

神が実在し、何千年と、人とかかわってきているとしたら、

その事実が、多少とも発見されているはずです。

すなわち、

突然の創造物の事実もなく、

時代を逆行するような物の事実もなく、

因果に従わず、

自由に変化する物の事実もない、ということです。

また、人が神に求めてきた救済も、その力で報われたという事実はなく、

人が神と呼んできたものは、存在しないと言えます。

神が存在しないのなら、それは人類の大きな発明の一つだと言えます。

人は、神を、なぜ必要としたのでしょうか?

人は、外環境から、うむを言わさず、攻撃や妨害を受けます。

内環境からは、欲求を満たせと、絶え間なく迫られます。

人は、外環境と内環境のはざ間で、多大なストレスを受けます。

ストレスが大きすぎると、人は、生きることに絶望します。

この絶望感を解消するために、人知を超えた能力に頼ります。

人には、老苦、病苦、死苦、孤独苦、別離苦と、

疲労苦、不快苦、蔑苦(劣等苦)、不満苦、貧苦の十苦があります。

この苦しみから、具体的に逃れる術がないとき、

人は、自分の苦しみに、正面から向かうことを止め、

強く願いを念じる、祈るという行為で、意識を無意識化し、

将来に、希望を託します。

その祈る対象として、神が発明されたのです。

発明された神を象徴として、構造化されたものが、宗教です。

大きな不安、大きな苦痛から、意識を守るためには、

何か絶対的なものを想定して、無意識となって念じる、この方法は、

異常事態になった時の、自己環境の維持に有効です。

これを、神のシステムと呼びます。

神のシステムを取り入れるためには、念じる対象となる『神』が必要です。

既成の『神』を、自分なりの観念で理解して、対象とする方法もありますが、

ここでは改めて、『神』の観念を想定します。

生命は、命をつなぎ、種をつなごうとします。

種は、次々と分化して、多彩化します。

そして、種同士は競争して、強いものが残ります。

生命は、永遠に、命を受け継いでいこうとしています。

生物の進化は、それら確率の法則に、多くの偶然や気まぐれがからんで進んで来ました。

人まで進化すると、生物は、受身であった自然に対して、対応できるようになります。

生物同士、競争することから、共同することを可能としました。

これらの生命の進化と働きは、自然現象で説明できますが、

何らかの意志をもっているような振る舞いに見えます。

この仮想の意志を、『神』とします。

この『神』は、生命を守り、生命を導き、生命を癒します。

この『神』を尊重することは、生命を尊重することにつながります。

この『神』に祈ることは、生命を健全に整えます。

『神』に強く念じることによって、意識は無意識となって、

感情や欲求を抑制し、対応の繰り返しを中断させ、願いに集中します。

そのことによって、心身は落ち着き、

ものごとに対して、冷静に対処できるようになります。

念じることによって、願いは明確になり、その手段も明らかになります。

願いをかなえることに迷いがなくなり、願いをかなえる方向に、すべてが関連してきます。

これが、神のシステムの効果です。