妹尾隆一郎が想い出を話している音源が見つかりました。
『想い出話しだよ〜』の元に成った音源です。
収録後すぐに隆一郎がパソコンに保存していました。
隆一郎が生まれてから小学生時代、中学生時代、高校生時代の三つです。
聞き手は私。
隆一郎とこんな風に色々な話しをした事が昨日のように感じられます。
2018年 9月 26日 妹尾菊江
生まれてから小学生時代の想い出話しです。
2012年11月16日収録
児童音楽コンクールはNHKではなく朝日放送のラジオ番組『朝の童謡』だった事が解りました。
賞状が見つかりました。
2018. 8. 11.
お父さんから貰った録音機は、シンクロ‐リーダー【synchro-reader】印刷できる磁気録音再生装置。紙の表に文字を印刷し、裏に磁気録音膜をつけ、読み聞きが同時にできるようにしたもの。1958年に日本人が発明したそうです。
1_ 幼い頃は...
隆一郎の父は戦前、満州で小学校の先生をしていました。
妻を病気で亡くし、幼い娘は日本の妻の両親の元へ預けました。
終戦後はシベリアに連れて行かれました。
シベリアでの強制労働に耐え、無事、岡山の実家に帰って来ました。
そして、大阪市内に住む娘との縁談が持ち上がりました。
その娘は両親を亡くし、妹弟四人と暮らして居ました。
父は、その妹弟の面倒をみる事と、その娘の父親が遣っていた会社の再建をする約束で結婚しました。
そして、1949年(昭和24年)6月17日、隆一郎が誕生しました。
妹尾隆一郎の話
親父がやっていた仕事は青写真。
今で云うコピーだね。昔は青焼きと云ってた。
新聞を印刷する様な、でっか~い、大きなロールの紙に、
いろいろな設計図を書いたトレッシングペーパーから転写する仕事だった。
小さな家内工業から始まり、その内、設計士も雇い、青焼きの機械を作る職人も雇って、
その職人さんは機械に錆び止めのペンキを塗ったり、ちょっとした部品を作ったりしてたね。
旋盤も有ったね。
お袋の弟(一番下の妹弟)は、僕が物心ついた頃には大学生だった。
オートバイに乗せてもらったり、よく一緒に遊んでくれた凄くいい伯父さんだった。
その叔父さんは、よくクラシック音楽のレコードを聴いていて。
ステレオを持ってたの。今で云うステレオだけど、昔のモノラルのね。
その頃は SP盤で、その大事にしていたレコードを聴かせてくれたのを覚えてる。
叔父さんは大学卒業後はヤマハに就職して、
ピアノの内部(ハンマー部分などだと思う)の研究や設計をしていた。
仕事場の食堂みたいな所にラジオが置いてあって、皆ラジオ聞きながら仕事してたんだ。
だから僕もよくラジオを聞いてた。相撲とか野球とかね。
家の中では、おばさんが料理を作ってくれたりしていて、
泊まり込みで働いている人も居たから、会社の寮の様にも成っていたんだ。
お婆ちゃんもラジオを持っていて、僕は3歳位だったと思うけど、
NHK第2放送、AMラジオね。『浪曲アワー』というのをやってて
毎晩9時頃から15分位放送してたと思うんだけど、
その『浪曲アワー』を聞きながら、お婆ちゃんに添い寝してもらってた。
だから、一番最初に音楽的な事で接したのは浪曲やね。
もちろん、ラジオだから歌謡曲も聞いたよ。
でも、幼稚園に入る前までは浪曲がメインだったと思う。
時々ラジオ聞きながら寝てしまった事もあったけど、
殆どは、お婆ちゃんが「終わったぞ! 寝よか!」って、
浪曲アワーが終わってから寝てた。
_:幼い子供でも、浪曲を聞いて面白かったですか?
妹尾:面白かった! もの凄く面白かった!
_:どんな浪曲を聞いていたか覚えてますか?
妹尾:広沢虎造! 広沢虎造の浪曲アワーだった。
今でも覚えてるのが『秋葉の火祭り』
清水次郎長伝の中の『秋葉の火祭り』
次郎長の子分達が、いろんな人と接触したり、喧嘩したりという話。
三味線も唄もはいってるしね。
それと、「赤城の山も今宵かぎり...」の国定忠治ね。面白いな!
他におぼえてるのは....
「寿司食いねえ」
「酒飲みねえ」
「江戸っ子だってねえ」
「神田の生まれよ」
「馬鹿はしななきゃ治らない」
お婆ちゃんは浪曲だけじゃ飽き足らず、旅芝居が来ると観に行ってたな。
お芝居が好きだった。人情ものが好きだったなあ。
2_ 児童音楽コンクール
幼稚園の頃なぜか解らなかったが、幼稚園が終わった後、
一人残されて、先生に歌の練習を一生懸命やらされたのでした。
妹尾隆一郎の話
僕も歌は嫌いじゃなかったので、何の疑問もなく先生と童謡など、
いろんな歌を練習したと思うよ。
その結果が出たのが、小学校に入学して間もない頃、
関西で行われた児童音楽コンクールだった。
会場は天王寺の野外音楽堂だったので、全国大会ではないと思う。
ラジオで放送されたから、NHK主催のコンクールだったのではないかと思うんだ。
僕は『七つの子』を歌い、二等賞に成った。
一等賞はピアノを演奏した女の子だったんだ。
その後、ラジオ局に行って録音したと記憶してるんだけど。
その録音した音がラジオで流されたの。
「可愛いい、おかっぱ頭の、お坊ちゃんです。では歌って頂きましょう」と
言われたのを覚えてる。
その録音したのを、SP盤のレコードにしてくれて2~3枚貰ったんだけど、
当時は大事にしてたんだけど、今は無い。
副賞にグリコのキャラメルを貰ったんだ。
おまけ付きキャラメルを一年分だから365個ね。
ダンボール二つか三つだったと思うよ。
押し入れに隠して有った。
「一日一個ね」って感じで、そういうの覚えてる。
3_ 追手門学院小学校
_:ところで小学校ですが、公立小学校ではなくて、
お父様が決めた私立小学校に入学したんでしたね。
妹尾:そうなの、私立の追手門学院小学校。
親父が戦前、小学校の先生をしてたから、
師範学校関連の人達の間で有名だった学校。
私立だけど、軍隊的な厳しい学校だったの。
_:この小学校は英語の授業があったそうですが。
一年生から勉強したんですか?
妹尾:いやいや、一年生じゃなくて、三年生から。
_:それで、英語が好きだったそうですね。
妹尾:そうね。
結構、英語の成績良かった。
小学校5~6年生に成るとイソップを英語で読んでたよ。
_:に小学校の思い出は?
妹尾:小学校一年生の時の担任は音楽の先生だったの。
それは児童音楽コンクールの関連もあったのかもしれない。
小学校の放課後、十数人の生徒が残されて、
その担任の先生に児童楽団の練習させられたの。
僕はハーモニカを吹いてたんだよね。
_:どんなハーモニカですか?
妹尾:シングルのハーモニカだけど。半音付きのハーモニカね。
昔、タイガースのタローが吹いてたハーモニカ。
ピアノと同じ様に、黒い鍵盤部分がハーモニカの上にちょっとずらして付いてるの。
他にはトライアングルやカスタネットも有れば木琴も有った。
先生が一緒にピアノを弾いてね。
何かの行事のたびに演奏してたね。
今その先生が Weeping Harp Senoh のハーモニカを知ったら、びっくりするでしょうね。
聴かせてあげたい。
聴いてもらいたいです。
妹尾;この追手門学院小学校は、大阪城のすぐそばに有って、
家は大阪の西の外れの方の西淀川だったから、バス通学してたの。
そのバスの中で、美空ひばりとか灰田勝彦とか三橋美智也なんかの歌を歌ってた記憶がある。
バスの中で歌ってても誰にも怒られなかったから、ズ~ッと歌ってたと思うよ。
得意に成って歌ってたんじゃないかな(笑)
だから、もの凄く懐かしいなあ。
今、大人に成って思うと、子供がバスの中で大声で歌ってたら「うるさい!」って云うだろうね。
昔の大人の人は、ニコニコと聞いてくれてたんじゃないかな。
_:きっと楽しそうに歌ってたんでしょうね。
「また、あの子が乗ってきた!」なんて思ってたお客さんも居たかもしれませんね。
妹尾:そうそう、友達と、毎日同じ時刻のバスに乗る約束をして、ワイワイ楽しく乗ってたね。
_:お友達は歌わなかったんですか?
妹尾:友達は歌わないで、「せのおくん、うたってよ!」って云ってた。
2013.3.25.
プロフィールに、児童音楽コンクールで二等賞に成ったのは 幼稚園の頃と記載していましたが、
今回、妹尾隆一郎が当時をよ~く思い出した所、小学校入学して間もなくだった事が判明致しました。
プロフィールを訂正致しました。 2013.3.25.
この程、コンクールの賞状が見つかりました。
NHKではなく、朝日放送のラジオ番組『朝の童謡』だった事が解りました。
2018. 8. 11.