1606年
イギリス国王ジェームス1世の勅許状に基づき設立、ロンドン会社(後にヴァージニア会社)が、
1607年 105人の植民者を新大陸の一地点に送り?けた ジェームズタウンと名付けられた。イギリス最初の植民地ヴァージニアの発祥地となる。
以後、かつてスペイン人がした様な原住民を根絶やし的に酷使し金銀採掘を行って略奪的搾取を目的にした植民地としてではなく、自ら開拓に従事し農業生産を営む事によって富を蓄積する事を目的にした定住植民地としての道を辿る事になる。
1619年
これまでより沢山の植民者と年期奉公人が本国から送られて来た。
他に、会社は極貧者と植民地花嫁を送って、労働力を側面から補強する事にした。
この年8月20日一隻のオランダ船がジェームズタウンにやって来て、20人のアフリカ黒人を陸上げして売り渡した。
1620年11月
102人の巡礼始祖(ピルグリム・ファーザーズ)を乗せたメイフラワー号が、予定より来たのコード?岬に着き上陸。アメリカにおけるイギリス植民地の第2になる。
1672年
ヨーク公をはじめ王政復古の王侯貴族、大商人、大プランターらによって巨大な奴隷貿易独占会社である『王立アフリカ会社』が設立され、1595年にスペイン王室は自国植民地への奴隷貿易に請負制を導入、1640年まではポルトガルが、さらに1701年にはフランスが奴隷貿易の独占をしていたが、1713年にはイギリスの手に帰し、1750年までイギリスの独占であった。
イギリスにとっては18世紀に入るとスペイン領植民地との奴隷貿易は次第に重要さを失い、むしろ北アメリカの自国の植民地の方が益々多くの奴隷を必要とする様になってきていた。
1698年
『王位アフリカ会社』が奴隷貿易の独占を廃止し、その代わり10%の税を課す事で、イギリス国旗を立てた全ての船に開放。イギリス領アメリカの植民地の船主や大商人達が、この儲けの大きい取引きに参加し始める。
やがて、ロードアイランドが黒人奴隷貿易の中心地になり18世紀には最盛期を迎え、黒人奴隷はブラジル、カリブ海諸島、中央アメリカ、イギリス領アメリカ植民地のいずれかに運び込まれていたが、だんだんイギリス領アメリカへ直接運ばれる事が次第に多くなっていった。
18世紀(1700年代)以降
17世紀(1600年代)末までは、北からニューハンプシャー、マサチューセッツ、コネティカット、ロードアイランド、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルベニア、デラウェア、メリーランド、ヴァージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナの12州から成るイギリス領アメリカ植民地における黒人奴隷の数も少しずつ増加していたが、各植民地の基礎がほぼ出来上がった17世紀末まではさして見るべきものはなかった。
1732年
産後のジョージアが加わり植民地は13州になった。
植民地の当初から奴隷労働を必要としなかった北部植民地ではあったが、南部植民地においては煙草その他の主要商品作物の生産に従事していた当時の労働力の主たる担い手は黒人奴隷ではなく、白人の年期奉公人だった。
当時、白人の年期奉公人もイギリス国内で土地を奪われた農民や都市の貧窮民だった。彼らは逃亡を企てれば鞭で打たれ、焼印を押されたりする事も多かった。その境遇は奴隷に近かったが、年期が明けると自由人として生活できる様になり一定の給付を受けた。
ヴァージニアでは1625年には総人口1200人のうち500人が、1670年には4万人のうち6000人が白人年期奉公人で、ヴァージニアの黒人奴隷2000人の3倍にもあたる。1635年~1705年までの時期に毎年1500~2000人の白人奉公人を輸入していた。
18世紀に入ると煙草栽培が急速に発展し、サウスカロライナやジョージアでは米、続いて藍の栽培が促進され、これらの生産の増大に伴い白人の年期奉公人はプランターにとっては労働力の提供者として不満足なものである事が明らかになってきた。一定の年期が明けると自由人として他に去ってゆく様な労働力を必要なだけ維持しておく事は、生産規模が大きく成れば成るほどプランターにとって困難であり、黒人奴隷に比べると費用も高くついた。
この様に南部では安い労働力を、北部では大商人や船主達が奴隷貿易を極めて有利な職業として大規模に従事し始める事になる。北部、南部、イギリス本国の三者が一致して、ここで初めてアメリカ植民地の黒人奴隷の大量輸入が始まった。
白人奉公人の輸入がどんどん減少してゆくにつれ、黒人奴隷の輸入が増加していった状況は独立革命の頃になると、白人奉公人の輸入は殆ど無くなったと言われている。
1661年
ヴァージニアの植民地議会が黒人奴隷を終身奴隷とし、白人奉公人とは異なった身分にするという法律を制定。黒人奴隷制度を法制化したのに伴い、最後にジョージアが1750年に制度化し、植民地全土に黒人奴隷制度が法制化された。
独立革命当時の植民地全体の総人口約250万人のうち50万人程が黒人だったが、1790年に行われたアメリカ初の国勢調査では総人口393万人のうち70万人が黒人奴隷、自由黒人を含めると約76万人であった。
1776年
アメリカ合衆国独立戦争
1777年
まだ州に成っていなかったヴァーモントが奴隷制度を廃止したのを皮切りに、北部諸州では戦中戦後にかけて次第に廃止されていき、南部でも個人的な奴隷解放が広く行われた。
1787年
北西部領地条例?によって後のオハイオ、インディアナ、イリノイ、ミシガン、ウィスコンシンでは初めから奴隷制度は禁止され、1807年奴隷貿易禁止の法律が議会を通過した。
1783年
この年のパリ条約の結果、北はカナダ、南はフロリダを境に、西はミシシッピーに至る全域を手に入れ、合衆国の公有地になったが
1803年
ハイチでの奴隷革命が成功して、黒人共和国が誕生した。