浪人時代

第4話 浪人時代


妹尾:大学受験に失敗して、大阪市内に有るYMCAの予備校に通う様になった。

その頃、僕は別の目標が有った。

実は、普通の大学にいきたくなかったの。

音楽が好きに成っちゃったもんで、将来、音楽と関連のある仕事がしたいと思う様になったの。

自分がミュージシャンに成れるとは思わなかったから、まずは音楽関連の仕事。

または、電気や機械が好きだったから、電気関係の仕事でもいいなあ、と思ってた。

高校生の時にアンプを作ってたりもしたしね。

それが、グヤトーンのハープアンプに繋がってるの。

高校の放送部にはレコードを掛ける設備は無かったので、自分のレコードプレーヤーを持ち込んで

レコードを再生する為のプリアンプを自分で作って、真空管を使ってね。

自作のプリアンプと放送部のアンプを使ってレコードを流してたの。

その後、お小遣いを貯めて買ったパイオニアのアンプを使った。


_:アンプの作り方は何で覚えたんですか?

妹尾:自分で勉強したの。

_:本でも買って来て調べたんですか?

妹尾:そうだよ。

その頃さ、真空管一本だけで作るラジオとか有ったの。

小学生の時は電気の勉強で、乾電池を使ってモーターを作ったりしたでしょ。

モーターの小っちゃな模型があって、それをモーターの軸にして、エナメル線を巻いてモーターを作って電池に付けて廻す。

そんな実験とかが大好きだったの。

鉄道模型も好きで、お小遣いが少なかったから、鉄道模型作るにもモーターを自分で作ってた。

あとは部品を買って来て100Vの電源から直流15V位に落とす装置も自分で作って。いろいろやってた。

こんな事が好きだったから、ステレオも作った。

スピーカーを単体で買って来て、自分でスピーカーボックス作って、自分で作ったアンプで鳴らしたりもしてた。

中学生の時、お金がなかったので、小っちゃなステレオのレコードプレーヤーだけを買って来て

大きい音で聴きたいからFMラジオに繋いでたんだけど、ラジオを通して聴くとモノラルでしか聴けなくて

どうしてもステレオでレコードを聴きたく成ったので、イヤホンを二つ買って来てレコードプレーヤーに繋いで

自分で工夫してステレオにして聴いていた事もあった。

だから、大阪の日本橋とか、東京の秋葉原の様な電気街で、ステレオ売り場担当の店員に成るのもいいなあ、と思ってた。

ああ、それから、部品買った来てメーターも作ってたね。

_:何のメーターですか?

妹尾:アンプとかに付いてるメーター。

音に反応して動くやつ。

メーター有るとカッコええやん。

部品買って来て、ハンダ付けして作ったりしたの。


電気屋さんの店員もいいけど、ステレオのアンプを作ったりする技師に成れたらいいなあ、とかも思って

電気に関する学校、当時有名だったのは千代田電子工学院。

電気技師に成るための勉強ができる2年間の専門学校。

最悪の場合い家出して、その専門学校の夜間で勉強しながら、昼間はジャズ喫茶かロック喫茶でバイトして。

まずは金貯めて夜間部に入学できたらいいなあ、と考えた。

毎日、大阪市内のYMCAの予備校に行ってたんだけど、ほとんど予備校には行かず『S.S.』という名のロック喫茶に行ってたので

バイトさせて貰って、どの位稼げるかやってみたの。

学費と生活費を稼ごうと思ったんだけどね。

家出して、どっかにアパート借りて、学費も稼いで、やっていけるかな~、と思ったんだけど…

計算したら、ぜんぜんあかん。

こりゃ、しゃあないな!と諦めて、

親父の云う通り、普通の大学に行きながら、何とかせなあかんな、という事になったの。


_:お父様には、千代田の専門学校に行きたいのだけど、と言わなかったんですか?

妹尾:言ったよ。

でも、ハナから駄目!!

一応ね、親父は小さいながらも会社の経営者だったから、長男で1人息子の俺に後継がせようとか考えていたんだろうし。


まあ、そうやって、『S.S.』というロック喫茶でバイトする様に成って、ロックやフォークの連中とかと知り合ったりして。

その頃知り合ったのが、大家まさじ。フォークの、ディランセカンドのね。

それと、この頃面白い経験をしたのは、大阪に初めて『はっぴいえんど』を呼んだの。

『はっぴいえんど』は、まだ売れる前で、自費出版だったと思うけど、最初のLPレコードを出したところで

それを聴いた皆が「いいな!いいな!」云って、「『はっぴいえんど』に来てもらおう!」という事に成ったの。

『S.S.』でも生ライブやったりしてね。

その時に知り合ったのが、大阪万博会場でアルバイトしてた人とか、通訳してた人とか、いろんな仲間が集まって来て、

広まっていって、自主的なコンサートをやろう!という話に成り、

大阪城公園で『ラブ・イン・ロック・大阪』というタイトルのコンサートを企画したの。

大阪市に申請して大阪城公園を借りて、ステージや機材など、何から何まで自分達でセットして、コンサートをやった。

このコンサートは『春一番』が始まるきっかけになったの。


『ラブ・イン・ロック・大阪』に参加したバンドは10数バンド。

関西のロックやってる連中に声かけて、フリーコンサートね。

僕はベース弾いて歌ったの。

メンバーは適当なメンバー。「やろうぜ~」で集まった、やろうぜメンバー。


_:その頃、練習する場所はあったんですか?

妹尾:コンサートを企画した人の中に金持ちのボンボンが居て、その家の離れを、

まるで治外法権みたいにして使って、生音出して練習した。

そこを事務所みたいにもしてたね。

_:その時の仲間は学生や社会人だったんですか?

妹尾:学生も社会人も居れば、ニートも居れば、プー太郎も居た。

金が無くなると土方仕事をして稼いでいた人も居た。

そういう土方関係の工事現場の機械とか借りて来てステージ組んだり、

大工仕事が得意なやつは「ステージ作り、俺にまかせろ!」ってね。

みんなが、ワァ~~~と自主的に集まるの。

ステージに使うコンパネは、工事現場で要らなく成ったのを貰ったり。いくらでも使い回し出来た。

PAのセットはヤマハから借りてきたりしたね。

特にヤマハが力を入れ始めた頃だったので、どんどんタダで貸してくれた。

バンド連中が大勢集まるから宣伝にも成るしね。


ヤマハは独立採算制で、各店舗の店長は好きな様に出来たの。

僕たちとヤマハと、お互いに信頼関係も出来てきて、ヤマハがイベントする時に「バンド貸してよ」とかね。

それで関西で始まったのが『8.8ロックデイ』

最初の何年かはコンサートだけだったので、僕も毎年参加していた。

この『8.8ロックデイ』が関西で成功したので、ヤマハ本社が予算を組んで、東京でも『イーストウエスト』という大規模な

日本全国規模のコンテスト・イベントが始まったの。

この『イーストウエスト』から出て来たのに、『サザンオールスターズ』とか『カシオペア』なんかが居るよね。


_:ところで、大学受験の勉強はしていたんですか?

妹尾:あんまりしてなかったね。

でも浪人している間に、知らんうちに力が付いたのか、俺もどこかの大学に滑り込まなきゃならないしね。

それで、大阪の大学の入学試験は白紙同然のテスト用紙を提出して。

何しろ、東京に行かなきゃいけないと思っていたから。

いつまでも関西に居たら、親父の言いなりにしてなきゃいけないから。

あれするな、これするな、云われて。関西から逃げ出すつもりも有って。

あと、東京に行ったら、音楽に関連した情報が、いろいろ有るだろうとも思ってたし。

それで、東京の中央大学に受かって。

ひとまず、荻窪のアパートに。


2013.5.18.




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