妹尾隆一郎46歳 

ブルースは俺のエネルギー



落ち込んだくらいじゃブルースじゃない

 戦前、一時期、黒人の間だけだったけどブルースブームがあって、その頃ブルースをやっていた人を戦後再発掘して白人の前でやらせて、これが本当のブルースだといったのが1960年代の事。

スリーピー・ジョン・エステスっていう、日本に来た一番最初のブルースマンなんかも、目が見えなくて、極貧の生活をしているところを発見されて録音させられたんだよね。

日本でいわゆるブルースというと、オタク的なジャンルの狭い意味でのブルースでしょ。

でも音楽的に3コードの音楽というたらブルースだけじゃなくて、ロックもそうだしチャック・ベリーなんかも殆ど3コードだし、いわゆるビートが8ビートでロックンロールといわれているだけでロカビリーも3コードブルースが多いよね。

 今の区分でいくと8ビートでやるとロックンロールというイメージになってしまうけど、良くも悪くも、黒人と白人の人種と文化の違いがあって、ロカビリーとロックンロールとブルースの違いは歌詞の内容からも出てくると思う。

ただ世間でブルースが勘違いされやすいなと僕自身が思うのは、ブルースというのは人生の間の辛い事、悲しい事だと一般的に言われているけど、全ての人間にブルースが当てはまるというとそうは思わない。

黒人にしか当てはまらないと思う。

落ち込んだくらいじゃブルースじゃないんだよね。

拡大解釈して、人間が苦しい時にブルースがうまれるなんていうけれど、その辺で解釈したら黒人のブルースというのは分からないと思うよね。

質が高いとか低いの問題ではなく、質の違いなんですよ。

黒人の場合は「朝起きたらブルースがすぐそこにいた」という歌詞が多いんだけど、朝起きるのが嫌なわけ。朝、目覚めたくないの。そういう感覚というのは自分が肌身でひしひしと感じなければ分からないでしょう。極端に言えばブルースしか友達がいないみたいなね。人間の友達はいなくて、すぐ纏わりついてくる嫌な事、それがブルース。

典型的な歌があってGood Morning Mr.Blues. ご機嫌ようブルースさんていうんやけどね。

もう人生の腐れ縁みたいな感じで黒人は生きているからね。

諦めの感覚が分からんとブルースは分からないと思う。

極端に言うと、日本人にブルースはできないという気持ちが僕の中にはあるわけ。

何でかというと黒人のような生活をしていないから、日本という社会がブルースというものを生みだす社会じゃないからね。

演歌が生まれてくるような社会基盤だから。ブルースという音楽が生身の生活を表す音楽だったら、理屈からいえば日本人の中から出てくるのは、黒人のブルースとは同じにはなりえないよね。


生活の中から滲み出てくる音楽

 例えば、民謡や民族音楽は生活に根ざした素朴な人間の心の中から生まれてきているというのはフィーリングで分かるでしょ。

それと同じように歌詞は分からなかったんやけど、ブルースが生活の中から滲み出てきている音楽ということは聞き始めの頃でも感じたよね。

これは単なる商業音楽とは違う、音楽を立派にやろうとしているのではなくて、何か違っていた。

だからブルースを歌う黒人たちも、どんな生活しているのかなという興味がわいてきて、黒人文化とか、アメリカ社会とかいろいろ調べ始めてね。

もともと歴史も好きだったから、黒人がどういう風にしてアフリカからアメリカに連れてこられて、どんな風な奴隷制度に縛られていて、どういう風に彼らが生活してきたかということを本なんかで調べたんですよ。

そうすると、アメリカの奴隷の状況とそれ以外のローマ時代の奴隷の状況や、同じ16、7世紀の中南米の奴隷の状況とは全然違うというのがよく分かってね…….。

例えば同じ人が、奴隷として売られていく場合、アメリカに売られていくのと、中南米に売られていくのでは、人生が大きく違ってきてしまうわけ。

他のところでは、奴隷といってもまだ人間の尊厳が残されているけれど、アメリカ国内では人間の尊厳はすべて否定されているからね。

中南米の黒人たちの間では、文化もある程度残されていたから、音楽にも影響が現れているでしょ。

ところがアメリカの黒人音楽というのは、全くのゼロからスタートした音楽なんですよ。

音楽だけで見ても、アメリカの黒人にはアフリカの音楽が全然残っていないでしょ。

だからアフリカをイメージする黒人の民族音楽の中からブルースが出てきたと思われているのは大きな間違い。

アメリカに連れてこられた黒人が、そこで全く新しい民族として生みだした音楽がブルースなんですよ。

ゴスペルも同じこと。ただ、ゴスペルは発散する音楽だからね。できるだけ大きな声で神様にお願いして、聞いてもらおうという解放の音楽だから、そういう意味ではブルースとは違うよね。

1970年代の日本では黒人のレコードも売っていなかったし、黒人のことを知る資料なんてひとつもなかった。ましてや黒人の奴隷状況というのも分からないし、日本の社会にいたら国際社会というのも見えないしね。

あの頃でさえ、アメリカの南部では、カラーズオンリーというのがあって差別されていたみたいやからね。当時のアメリカは自由の国や、って思っていたけど、とんでもないということを知らなかった。

黒人も白人もみな自由と思っていたから、一種のカルチャーショックみたいなものをうけたよね。


染みついた諦めの感覚

 ポールバタフィールドの’Born in Chicago’ という歌のなかで「おい坊主、ピストル持ってなあかんぞ」と言う歌詞があるんやけど、転々とさまよう生活を送っていたから彼ら黒人の間ではピストルはステイタスだった。

白人から殺されてしまったりするから、野宿するときなんかの護身用にいね。

誰も見ていないところでは、ひどいことされるからね。

1950年代の南部なんかではリンチとか当然だったみたいでしょ。

ビリーホリデイの曲で「奇妙な果実」という歌があるんやけど、あれは、黒人の首吊り死体が木からぶらさがっている光景を歌っているんですよ。

リンチされて木につり下げられた黒人をバックに記念撮影をしている写真なんかも僕は実際に見たことはあるしね。

何かあったら黒人のせいにしていたからね。強盗・婦女暴行があったら、まず黒人が疑われてしまう。「私たち白人の間にそんなことする人がおるわけない」と言って、黒人をスケープゴートにするわけ。

そういうアメリカの弊害を描いた映画はいっぱいあるでしょ。

 公民権運動とかで変わったとはいっても結局大きな流れの中ではなにもかわらない、という感覚は黒人の中にはあるやろうね。

例えば、ショッピングしていて店に入って服を見ていたら、店員は盗まれやしないかと思ってすぐに近づいてくる。そういうのはビビっと感じる。

だから黒人は堂々と道路を歩けない、みんなおどおどして歩いているわけ。

自分の力ではどうしようもないものを抱えていて、頑張ってもしょうがない、そういう感覚が染みついてしまっている。

アメリカの黒人たちは、自分のことを主張できないという状況にずっと追いやられているわけだからね。

「自由がない」という歌詞があっても、黒人が歌うのと白人が歌うのでは同じ歌詞でも内容が違ってくるのは当然ですよ。


SHOUT と MOANING の違い

 人種差別とかで実際に物理的に束縛されて、黒人の中からブルースが生まれてきたけど、白人の若者たちにも目に見えない精神的な束縛があって、そこから解放されたいというのでピッピーが出てきたわけよ。

精神的なブルースというのは当時白人にもあって、それの一つの形がロカビリーでもう一つの形がピッピーロックだったんやね。

その中で、サウンドも歌詞もブルースっぽいのがジャニス・ジョップリン。

でも、彼女の場合は白人の中の精神的な苦痛から出てくるブルース感覚であって、黒人のブルースとは内容が違う。

ジャニスなんかは叫んでいるでしょう。

叫ぶというのは、つまりそれを言える自由があるって事なんだよね。

Moaningと言う言葉があって、痛みに耐えられなくて出てくる唸り声のことを言うんだけど。

苦しさを抑えても抑えても突き上げてくる、そういうものがブルースなんですよ。

だから歌詞には抑え込んだものの百分の一くらいしか出てこない。

だからシャウトしない。マディー・ウォーターズなんかもシャウトしているように聞こえるんだけど、実際は全然シャウトしていない。

 ピッピー時代のロックがブルースの影響を受けているのは凄い分かるよね。

これはサウンドの面だけではない。

なぜロックが生まれてきて、なぜ彼らがピッピーをやったかというと、リズムアンドブルースに出てくる歌詞に共鳴して、自分たちの社会の中のどうしたらいいか分からない部分のヒントをもらったわけ。

つまりブルースの中には既成概念を打ち崩して、人間とはこうあるべきだと、こう生きるべきだというヒントがあったんやね。

でも白人の言うフリーダムはちょっと違ってね、黒人の場合は人生に諦めを持っているでしょ。

一生懸命やっても仕方がないという気持ちを持ちながら、だけど一個の人間として、もっとしっかりして、ピュアになろう、悪い感情から自分を解放しようという自己改革のためのフリーダムなんだよね。

そしてもうひとつ、本当の市民としての権利を勝ち取ろうという意味でのフリーダム、そのふたつが合体したのが、黒人の言うフリーダムやから。


落語はブルースに通じる

 落語の中身と、ブルースの題材はよく似ているんですよ。

貧しくて長屋に住んでいるような人達から生まれてくる文化と、黒人の生活感覚とダブっているところがあるんだろうね。

例えば、落語で花見に行くにしても、水を入れてお酒のつもりとか、何かを卵焼きに見立てたりとか、全部「何かのつもり」でしょ、ああいう感覚ね。

それは要するに人生をおちゃらけているわけよ。おちゃらけというのと本気みたいなのが隠れていて、その行き来が落語の面白いところでしょ。黒人のブルースもそういう感覚があるよね。

 見にくるお客さんの方にも似たノリがあって、落語は笑うところが決まっているのに、何回聞いても、「そうなんだよ」とみんなで決まったところで笑うやろ。ブルースも次の展開が見えていて、どうなるか分かっているのに、「やっぱりそうこなくっちゃ」って感じでね。そして同じものをやるにしても、演じる人によって違ってきちゃったりするしね……。

 落語にしろブルースにしろ、なんもカッコつけてないから心地いいんだよね。

ブルースも落語も言ってみれば、その日その日を生きている人間から出てくる生活感覚であると同時に、社会に対するアンチテーゼ、プロテストソングでしょ。

ところが白人がプロテクトソングをやると本気で怒っちゃうからね。

それは自由である人間だから本気で怒れるんだよね。

正義感に目覚めて怒っている、正義感のある人間というのは自己確立ができて、自分という人格が社会の中でちゃんと認められている人だよね。

怒る元気もない人間が怒る気持ちも失せて、泣く気持ちも失せたところに、初めてブルースが出てくるんじゃないかと思うんだけどね。

 だからといって暗いばかりじゃなくて、実際に生身の人間がおるわけだから、人生一回しかないという感覚も当然あって、いつか本当の人生を送りたいという願望もあるわけよ。

だけど現実には無理やという思いもあった、いつも揺れ動いている。

本気になったところで仕方ないと思いながらも、でも本気になってしまうというような天性の朗らかさを持っていて、だからこそ今まで生きてこられたのかもしれないしね。それがなかったら、みんな自殺しているよね。


エネルギーを与えてくれる音楽

「雑草は強い」というのと同じで、そういう気はないんだろうけど、回りから見ると、ごっつう強く見えるよね。

そのエネルギーを欲しいわけよ。踏みつけられても踏みつけられても、立ち上がるようなエネルギーを感じて自分が生命力を得るようなところがあるから、その辺が音楽のええところ。

そしてブルースは特に、その生命力がつよくて、元気が出てくる。だから好きなんやろうね。

人生観を変えてくれる音楽やから。人生に対して判断力を与えてくれでしょ。

最初はよく分からなくて、リズム感やドライブ感が気持ち良くて聞いていたわけやけどね。

 日本もバブルが崩壊して、今までの安定した生活から、もっと大変な時代になっていくやろうけど、そういう変動の時に、黒人たちがどういう風に生きてきたか、というようなことは非常に参考になるんやないかと思うよね。

もはや、死ぬまでの間の安定した生活を望むような社会ではない、自分がポンと放り出された時に、どう生きるかという生き方の問題ですよ。

ブルースはそういうことに対して答えを与えてくれる、これでよかったんや、なんの心配もいらん、ってね。

 フラストレーションを吹き飛ばすようなパワーがブルースにはあるし、フラストレーションを持たないような生き方をみんなでできると思うしね。

ロックがウケるのも既成の概念を崩そうとする精神に、みんなが無意識のうちに賛同しているんだよね。

もっと違う、人間の本来の姿があるはずなのに、というところの答えをくれるから、ロックを聴いているんでしょ。

音楽的にも内容的にも社会に対するアンチテーゼとか、人間はこうあるべきだというところの答えを用意してくれる音楽なんですよ、ブルースもロックも。


ブルースにかんしてはアマチュア

 単純に音楽だけ聞いてもブルースが魅力あるのは、3コードの中に音楽のエッセンスがあるから。いわゆる原材料、料理でいったら、素材がいいんですよね。

そしてブルースは音楽と人間と社会とのかかわりというものが密接で、生活の一部なんだよね。生活の中に愛もあれば恋もあり、社会から受ける影響もあり、そういう中から生活の一部として歌が出てくる。

だから、音楽にメッセージがあるよね。メッセージがなければ商業ポップスやからね。

音楽の持つパワーは音でメッセージを伝えることができるということでしょ。

 今まで話してきたことはあくまで僕の想像出会って、黒人やないんやから、最終的には分からんし、ましてや人生観とかは人に押しつけることではないし、僕が勝手に思っていることやけど。

それでも、自分がミュージシャンとしてやっていきたいと思って、実際にそういう世界に飛び込んで、将来の不安とかを持ったりした中で、ブルースが支えになってきたということがあるから、そういうエネルギーをくれるということは伝えたいよね。

なぜ僕等が歌うかと言えば、そこまで知った以上、そういうような人生もあるよというのを一つの人生の参考として、みんなに伝えるというのが役目かなと思っているから。それがあるからステージに立つわけよ。

もっと分かってもらいたいと思うから、ブルースやる前に、曲の内容を簡単に話したりするんですよ。

 僕はブルース一本で食えないから、アマチュアなんです。

ハーモニカプレイヤーとしては胸を張って「ハーモニカを吹いているんや!」と言えるけど、ブルースに関しては言えないところがあるよね。

俺は日本人であって、黒人じゃないからね。だから、みなさんにブルースの疑似体験をしてもらえる人間の一人という感覚ね。

僕等も少しはみんなに教えてあげられるよ、みたいなね……。

だからブルースに関しては永遠にアマチュア精神を持ちながら、やっていくんやろうね。


1995年 妹尾龍一郎

 




シュガー・ブルーのツアー(1989年)をプロデュース

 「シュガー・ブルー」をよく知っている日本人の女の人から電話をもらって「シュガー・ブルーが日本でやれる方法はないか」という相談を受けたので、それじゃ呼んでみようかということになったんですよ。

でも、もう一つの原動力になったのは、沢山いいアーティストは居るのに日本に来るのはジジイやババアばかりやと。

あの頃でさえブルースのコンサートといえばハキのない演奏をして、しかもバックバンドのひどいのが多かったからね。

ブルースってこんなもんや、というように質の低い音楽だというイメージを持たれてしまうのが嫌やったんですよ。

名前は知られていなくても、いいアーティストを呼んで本当のブルースを聴きたい、聴いてもらいたい、というのでしかけをかけたというわけです。


シュガー・ブルーは僕等が望むブルースらしいブルースをやってくれたわけではないけれど、ハーモニカの音と生き生きしたバンドの音を聞かせてくれたよね。

日本では名前のない人だったから、銀座で写真展を開いたり、ブルーマンの人形を作る人の展覧会をやったり、シュガー・ブルーをまず単独で日本に呼んでJIROKICHI でデモ演奏させたり、2年くらい前から準備をみっちり整えてやりましたよ。そうでないととっても動員できないからね。

あれは、物凄いエネルギーを使ったから、もう2度とできないやろうね。まあ、いい経験でしたよ。

あれをやったから黒人に対する見方がひとつ増えたし、黒人のミュージシャンがどんな生活をしているのかということも、おぼろげながら見えてきたしね。

俺はその時点でアメルカには2度行ってたんやけど、まだシカゴには行ってなかったんですよ。まずコンサート会場にもほとんど行かなかったしね。

最初行った時に知りたかったのは、音楽のことではなくてアメリカ社会のあり方や人間の生き方だったからね。

だからシカゴから遠いところばかり行ってましたね。白人がブルースやるのはどういう感覚なのか、日本人に果たしてブルースはできるのか、俺は日本人という血統を持っているのにブルースばかりやっていていいのだろうか……とかね。

答えは出ない。でも僕のやって来た道はこれでよかったんやという感覚はますます強くなったよね。

いい演奏、いい音楽は生活が見えてくるでしょう。それが見えないとブルースじゃないんですよ。音楽の持つパワーというのはそこなんですよ。


1995年 妹尾龍一郎