初代マネージャーの高橋真一郎さんと_その1
第7話 初代マネージャーの高橋真一郎さんと_その1
人名や店名などに間違いが有りましたらお許し下さい。
話が前後いたしますが、懐かしく昔話をしている真一郎さんと妹尾です。
2012年 12月22日、大阪塚本『ハウリンバー』近くの小さな店でコーヒーを飲みながら、
そして、店内に流れるクリスマスソングの音量が気に成りながら、お話を聞かせて戴きました。
妹尾:最初に知り合ったのは、いつやったかなあ?
真一郎さん:妹尾くんを見てたんは、京都で『ウェストロード』と一緒にやってた頃。
僕が妹尾くんの歌を初めて聴いたのは、中野でやったライブのリハーサルの時で
僕もスタッフで手伝ってたので、
『Same old Bleus』を聴いて、「ハープもええけど、歌もええなあ!」って思った。
この時、一緒に関西から来てた友人が「もう、東京にいこうや!」と言い出して、東京に出て来たの。
そして、次の年にやったのが、『ブルースパワー』のコンサート。
日比谷野音の『スプリングカーニバル』
これを企画したのが、僕と科木と中條の三人。
妹尾:この『スプリングカーニバル』の時、高校の親友に金持ちの息子が居て、100万円金借りたよ。
真一郎さん:俺も大阪の友達に100万円借りて。あの頃の100万円だから
妹尾:大きいよな。
真一郎さん:このコンサートの、ちょっと前に、妹尾くんから「マネージャーしてくれ。」と言われたの。
科木が音楽事務所みたいのやってて、ここでの仕事もやってた。
この頃、妹尾くんが東京でバンドを作ろうと、山崎やカワグチ、森田を引っぱって来た。
妹尾くんがバンド名候補を三つ位持って来て「どれが、いい?」云うて、みんなでワーワー云いながら
「ローラーコースターが、いんちゃうか!」で、ローラーコースターに決まったなあ。
正式名は『ウィーピング・ハープ・セノオ&ヒズ・ローラーコースター』1974年結成
妹尾:その頃から下北沢に住んでたもんな。
真一郎さん:友人と一緒にアパート借りてたんだけど、その友人が、ちょっと事情があって強制送還。
その後、東北沢の妹尾くんの部屋に居候させてもろうて、
妹尾:そうやったかな? 忘れてたな。
真一郎さん:そこで僕倒れたんですわ、肺に穴空いて。
それで、僕も強制送還。姫路の実家に帰った。
で、3年寝込んでました。
_:それじゃ、一緒に活動していたのは
妹尾&真一郎:2年か、3年くらい。
妹尾:いろんな事、いっぱい有ったから、もっともっと長かった気がするけどなあ。
真一郎さん:毎月の様に京都に行ってたよなあ。
妹尾:そうそう、車で。ハイエースに乗って。
真一郎さん:その頃、京都には『拾得』と、ちょっとしてから『サーカス&サーカス』というライブハウスが出来たんですよ。
大阪には『バーボンハウス』。神戸のサンロードの中にあった『サンダーハウス』。
こんな店を3つか4つ廻って、他にコンサートがあったらコンサートやって。
僕が妹尾くんのマネージャーとして一緒に動いたのは、郡山でやった『ワンステップフェスティバル』。
『ウェストロード』が出て、妹尾くんにも出て欲しいと話がきたの。
これが僕の最初の仕事。
まだ、『ローラーコースター』は出来てなかった時。
それから、もう、あちこち行きましたね。
妹尾:当時のライブは単独ライブじゃなかったから。
真一郎さん:もし関西でコンサートがあったら、間違いなく京都と大阪と神戸のライブハウスに頼んでスケジュール入れて貰った。
妹尾:その頃は、そんなにライブハウスなかったから。
真一郎さん:東京でも『マンダラ』と『いちごの目覚まし時計』と
北千住に一つ有って。(もしかして、三ノ輪の『モンド』)
そんなもんだったね。六本木の『ピットイン』とか有名なとこは別として。
妹尾:まあ、それと学園祭でのライブだね。
真一郎さん:10月、11月は学園祭で。恒例だったのは跡見(跡見学園女子大学)と女子美(女子美術大学)。
関西では平安女学院。
妹尾:他には、みんな自主的に、どっかの野外ホールや公民館みたいなとこを借りてライブやったりとか、
方々でゲリラ的なライブが有ったから、そういうライブでいろんなバンドと知り合った。
お互い聴いてて「おお、カッコええなあ、こいつら!」と思って話しかけるやん、
それで、どんどん輪が広がるんやな。
真一郎さん:関西で、いろんなバンドメンバーと知り合った時に、
妹尾くんが「あいつ、ええ!!」とか云ってはるんですよ。
それが、国府やったな。
妹尾:ああ、そうそう。
真一郎さん:神戸かなんかでコンサート有って、『アシットセブン』とか『ローラーコースター』とか『ピンクス』とか
5バンド位出て、先に『ピンクス』がやってて、
妹尾くんが「あのピアノがええ!」言い出して「引っぱってこい」とか言って、
結局、東京に来たんやな、あいつ。
妹尾:俺、その国府の実家まで行って、お母さんに直談判して、で、東京にやって来たんだよ。
真一郎さん:『ウィーピング・ハープ・セノオ&ヒズ・ローラーコースター』の最初のメンバーは
山崎とカワグチと森田マコト。森田マコトが、よくすっぽかして。
妹尾:そうそう、福生に住んでて遠いから。
真一郎さん:起きへんのさ。
妹尾:すぐ、遅刻しよるのさ。
前の晩、酒飲んで、起きられへん。
真一郎さん:もう、しゃあないんで、あちこち電話して
妹尾:それで同じ名前の森田恭一(もっちゃん)に
「今日うちのバンドやってくれへんか、頼むわ」ってベース弾いて貰う。
真一郎さん:もっちゃんが一番多かったね。
もっちゃん家は郵便局だったから、すぐ連絡ついた。
電話ない頃だったからね。
「お願いします!」って拝み倒してね。
そうこうしてる間に「もうしゃあない」云うて、カワグチが生井を引っぱって来たんよね。生井クニヒコ。
それで、これがオリジナルメンバーに成ったんやな。
妹尾:うん、そうやな。
真一郎さん:それから、『ビクター』と『徳間』と『ホノグラム』とから、妹尾くんのレコード出さへんか。って話がきて。
「妹尾くん単独でって言ってるけど、どっちがええねん?」って訊いたら
妹尾くんは「バンドでもやりたいし…」
それから、ちょっとして、僕倒れたんですよ。
妹尾:あとは、ダイコウが引き継いでな。
真一郎さん:そう、長戸大幸がな。
彼は、あの頃から事務所借りて、俺と正雄ちゃん(中島正雄)に「一緒にやろう、やろう。」って声掛けてきてた。
俺はケンちゃん(科木)との絡みがあったんで、ケンちゃん見捨てる訳にはいかんし、と思ってたから。
妹尾:何しろ、当時は、バンドメンバーもコンサートやるスタッフも、みんな一色単に成って暮らして居て仲間だったからね。
真一郎さん:下北沢の文化衆宅が、一番凄かったですね。
2階の一番奥が、科木蓮(しなきれん)。その向いに妹尾くんが住んでいて、その下が、ゲンさん。
妹尾:ああ、ゲンさんね。
真一郎さん:映画監督?
妹尾:舞台照明やってた。
真一郎さん:あれがゲンさん、サカモトゲンさんやろ?
で、もう一人のゲンさんが舞台監督やってた。ロックミュージカルとかやってて。
そんな人ばっかり住んでたアパートというか、文化衆宅。
まあ、ほんまに雑多に居ったね、男の子も女の子も。
妹尾:いろんな人が出入りして、ぜんぜん知らんやつが一杯居ったもん。
真一郎さん:今と違うて、鍵掛けるなんて概念は無かったよね。
みんな勝手に出入りしてた。
真一郎さん:『ローラーコースター』で行った大きなコンサートは、
福井の九頭竜湖で大きなコンサートをしたね。
同じ福井の山中温泉でも、三日程やった。『夕焼け祭り』評論家の増渕英紀(ますぶちひでき)が企画した。
『めんたんぴん』という金沢に居ったバンドも出て。
妹尾:金沢系で有名なのは、『めんたんぴん』と『久保田麻琴』やな。
真一郎さん:あん時、久保田麻琴さんと妹尾くん一緒にやって、めちゃくちゃ良かったよ!
で、あれから久保田さんのレコーディングに参加したんだよね。
妹尾:うん、参加したよ。
_:『久保田麻琴と夕焼け楽団』
これが、妹尾さん初めてのレコーディングですね。
アマチュアからプロへの境目がはっきりしないので、
このレコーディングの仕事からプロミュージシャンに成ったと考えています。
真一郎さん:久保田さんが、舞台の上から「妹尾ちゃん! 妹尾ちゃん!」云うて呼んで。
妹尾くん、どこかに行って遊んどるし。探しまわって。
あの頃は自由やったね。
コンサートでも、今みたいに、きっちり決まってないから、いい加減で。
ある時、上田正樹のバンドの裕ちゃんが、えろう酔っぱらって、ベース弾かんとどっか行ってしもうて。
珍しかった。あんなはしゃいでる裕ちゃん初めてみた。(笑)
あと、コンサートというと『ブルースパワー』が続いたんですよ。
『山野ホール』と『日本青年館』、青山の『VAN99ホール』。
東京でやった、でかいコンサートはこれくらい。
妹尾:そこら辺、関わってたんや。
俺、ほんま、もうなあ…
あの頃、特に長い事やってた様な気がしてたから、
どこで何やったか、ぜんぜん覚えてない。
真一郎さん:あっちこち行ったからね。
2013.5.18.