_:東京に出て来る時は伯父さんが車で送って下さったそうですね。
妹尾:東名高速道路、まだ車が殆ど走ってなかった。
途中で、エンスト起こしてね。JAFに来てもらった様な気がする。
その伯父さんは、岡山の親父の兄さんで、戦前は飛行機のパイロットしてた人。
大学に入学したんだけど、学園紛争で自宅待機。
その間、東京に友達が出来ないし、大阪のロック連中に会いに行ってたんだ。
親には内緒で東京と大阪を行ったり来たり。
大阪では、『S.S.』に泊めて貰ったりしてた。
その内、だんだんとブルース系のバンドが出てきて、『優歌団』とか『上田正樹とサウス トゥ サウス』とかね。
『サウス トゥ サウス』は、最初上田正樹と有山じゅんじの二人だけだったの。
その時、ちょくちょくハモニカで入れて貰ってた。
_:当時はどんなところでライブしていたんですか?
妹尾:ディスコとか。ブーケン達とディスコバンドしてた。
垂井ちゃんのバンドでもやってたなあ。
他には、コンサート系の、ロックイベント的なグループと知り合って。
高校生の時に知り合った久保田が『ウェストロード』を紹介してくれたの。
久保田は大学生に成ってから『ウェストロード』のメンバーでハモニカやっていたんだけど
抜けるから、替わりにハモニカの俺に『ウェストロード』でやらないかと言ってくれたの。
_:中央大学では、音楽サークルに入ってたんですよね。
妹尾:入学して、ちょっとしてからサークルに入った。中大フォーク研究会。
入学した年の12月頃に、大学近くの喫茶店に入ったら、フォークソング研究会の発表会のポスターが貼って有って
その発表会を見に行ったら、あんまり好きな音楽じゃないな、と思ったんだけど
知り合いがだれも居なかったので、これに入ったら友達できるかな、っと思ってね。
_:フォークソングって、どんな曲をやっていたんですか?
妹尾:『ピーター・ポール&マリー』とか。古いカントリー&ウェスタンとか。
まあ云わば、当時のロック色から云えば、もの凄くオーソドックスな、古いカントリー&ウェスタンね。
だから、僕個人としては、あまり魅力を感じなかった。
その内、世の中は『ボブ・ディラン』も出てきて、フォークソングもロック色が強くなってきた。
ヒッピー的なフォークソングが流行る様に成ってきた。
ギリギリなのが、『ピーター・ポール&マリー』とか『キングストーン・トリオ』や『ブラザースフォー』
当時のフォークソング研究会では、異端に近い『ボブ・ディラン』は、ぜんぜん駄目って感じやね。
高校の時ベースやってた。と言ったら、「じゃ、君ベースやりなさい。」って言われて、ウッドベース担当に成ったの。
そして、ブルーグラスをやったの。
♬ダンダカ ジャンジャン ダンダカ ジャンジャン……..♬ ♪ウィ~~~~~ン♪
_:♪ウィ~~~~~ン♪ って何ですか?
妹尾:歌う前に、うなり上げるのよ。
♪ウェ~~~~~ン♪って。 ♬ダンダカ ダンダン……..♬で始まって。
_:まだ、ブルースはやってなかったんですか?
『ウェストロード』も、まだブルースバンドではなくて、『オールマン・ブラザースバンド』だったそうですね。
妹尾:『オールマン・ブラザースバンド』というのは、ブルース色の濃いロックバンド。
だから、『ストーミー・マンデー』とかもやってた。
_:大学生の時は。フォークソング研究会にだけ居たんですか?
他の音楽サークルには入らなかったんですか?
妹尾:クラブは4年間、このフォークソング研究会だけ。
学年が留年しても、クラブは4年間しか置いてくれないからね。
5年目からは、先輩として顔出せても、クラブの中では活動出来ないの。
_:ところで、ベースは4年間やっていたんですか?
妹尾:大学1年生の12月頃に入って、2年目くらいはウッドベース弾いてたな。
フォークソング研究会では、ベース弾く人間が、いつも必要だったから、
新入生に「ベース弾きなさい。」って渡すわけ。
僕は2年生に成ってもベース弾いてたけど、暫くして新入生にベースを渡してからは
「じゃ、俺、ハモニカやるわ。」って感じ。
ブルーグラスにはハモニカ入ってるし、カントリー&ウェスタンにもハモニカ入ってるし。
「昔、ちょっとハモニカやってたし、ハモニカやってみるわ!」って感じでね。
2013.5.18.