星加哲さんは、妹尾隆一郎の大学生時代からの旧友です。
『オフ・ザ・ウォール・ブルース・バンド』のギタリストでも有りました。
妹尾がビクターからファーストアルバムを出したのは
星加さんが、ビクターの社員でディレクターをしてくれたからという事も決めての一つでした。
妹尾隆一郎が、レコーディングをしたビクタースタジオ内の一室を、星加さんが借りて下さいました。
2013年3月19日に、お話を伺いました。
星加さん:僕は大学5年生で留年したから、ビクターでアルバイトしてたのね。
妹尾:哲ちゃんが、ビクターの社員で『フライング・ドック』のディレクターとして
僕にレコーディングの話を持って来てくれたので、ビクターでやるって決めたんだけど。
その時、哲ちゃんはレイジー・キム(中川公威)とバンドやってたし、
レイジー・キムはブルースに造詣が深いからと云って、
プロデューサーの立場に連れて来てくれて、レコーディングが決まったんだよね。
その時は、大幸(長戸大幸)がマネージャーだった。
星加さん:そう、そうなのよ。
大幸が、突然、下北に、わざと四畳半の安い部屋に住んで、
妹尾:三畳や、三畳。
星加さん:三畳か。 そういうヤツなんだよ。
妹尾:「ブルースやるには、そういう生活しなきゃいけない!」みたいな事云って。
そして、俺のマネージャーやらせてくれ!って云って。
で、ビクターとの契約は、大幸が全部やってくれた。
星加さん:それで、2枚レコード出したんだよね。
1枚目『メッシン・アラウンド』は、レイジー・キムがプロデューサーで次郎吉ライブ。
妹尾:そう、次郎吉ライブ。
たしか、75年の12月。
星加さん:75年? 昭和で云うと?
ー:昭和51年ですね。
妹尾:レコードが発売に成ったのが、76年に成ってからなんで...
レコーディングは、前の年75年の12月だったと思うんだ。
星加さん:そっか、そっか。昭和51年に、アルバイトから社員にして貰ったの。
で、その時『フライング・ドック・レーベル』にいかされたのね。
そして、ディレクタ-という職について、第一弾。
妹尾:その時、僕は『ローラーコースター』のメンバーだけで、レコード作るもんやと
思ってたけど、いろんな人とやらないかというのは、哲ちゃんのアドバイス?
星加さん:うん、そう。
妹尾:レコード会社との契約は、大幸が話したと思うんだけど
『ローラーコースター』というバンド名で出すんじゃなくて
妹尾隆一郎のソロにした方がいいという事に成り
ソロにするには、どうするか?
それじゃ僕は、「今までやってきた、いろいろな人達とやりたい」という
話をして、了承したんやね。
ちょっと疑問があるんやけど、黒人のドラムでジミー・ホップスという人が
レコーディングに参加してるんだけど、誰が彼を連れてきたの?
星加さん:キム。
まだ、若い頃の渡辺香津美とか、六本木界隈のいわゆるジャズクラブに出てたらしくて
キムが知ってたの。
妹尾:キム、顔広いよね。
誰にでも、話し掛けるし。
星加さん:キムはね、バンド引退して会社員をメインにやってたんで
一番困ったのが「土、日しか出来ない。」って云われたの。
「俺、土、日、休みなんですけど。ええ~~」みたいな。
でも、やったのよね。
次郎吉で三日位やったっけ?
土、日の二日間だったかな? その後のフィックス、ミックスも全部土、日。
妹尾:録れるだけ録って。
それ以外にもスタジオで録ったけどね。
星加さん:えっ、そうだっけ?
妹尾:ビクタースタジオ、ここで。
星加さん:それ2枚目じゃないの?
妹尾:いやいや。1枚目。
星加さん:忘れてた。
そうか、そんなに金かけたのか(笑)
妹尾:その当時、レコーディング前やけど、チェスのビンテージシリーズのLPが出て
そういうレコード聴いて、必死に成って練習した関係も有って
ビクターからレコード出したんだよね。
ところが、レコーディング中に「シカゴの本物の黒人のブルースのレコードが
100枚位しか売れないのに、お前ら日本人が何枚売れると思ってるんだ!」って言われて
俺「アホンダラ!」って。
哲ちゃん、俺がそう云った時、現場に居た?
星加さん:居たよ~
妹尾ちゃん(フライング・ドッグ/チーフPのK.H.と)しょっちゅう喧嘩してた。
まず、おかしいのはね。妹尾ちゃんは知らないと思うけど...
やっぱり、上司しだいなのね。
ず~とアルバイトで終わる人も居るし。
僕をすぐ社員にしてくれた人が、凄くいい人でね、佐藤修さんって云う人なんだけど。
ちょっと大きい話に成っちゃうんだけど、彼が、その当時のビクターを見て
なんか、もう、世間は、井上陽水の『氷の世界』だとか、ユーミンだとかなのに
ビクターは、まだ演歌とアイドルばかり。遅れてるんじゃないかと。
洋楽の人なんだけど、それで作ったレーベルなんですよ『フライング・ドック』って。
で、俺なんて言われるかと思ったら「ビクターの古い体質を、とにかく開拓してくれ!」って。
で、何やってもいいって訳。
もう、こっちのもんよ(笑)
内心、喜んじゃってさ。
すぐ、妹尾ちゃんだよ! 頭に浮かんだのは。
妹尾:そうか。
星加さん:それでレコード作ったんだけど。
やっぱり、会社全体から見れば、人事も総務も有って
「売れねえのばっかり作った」って言われると
「売れなきゃいけないんだなあ、会社員ディレクターっていうのは」って思った訳。
でもね、妹尾ちゃんのレコード2枚目までは、めちゃくちゃ自由。
妹尾:そうそう、自由に作れたね。
星加さん:まだ、バブルだったからね。
結構、お金も「ちょっと、制作費ください」って云ったら、くれたしね。
妹尾:1枚目のレコードは、当時僕の知ってる日本中のブルース好きな連中と、
僕がいいなあと思った連中で、レコーディングした事のない人も集めて作ろうと思った。
レコード出してた人は、ほんの僅かな人で、それ以外の人達はレコード作れなかったのね。
だから、大阪や名古屋や東京で知ってる連中に声を掛けてさ、
最低一曲位は、どっかの所に絡められる様にと考えて
もの凄く、贅沢な作り方して貰ったよね。
32曲位レコーディングして、その1曲に対して違うメンバーで演奏して、
テイクは100以上録ったかな。
星加さん:次郎吉にタク(レコーディングコンソールという録音用の調整卓)を運んでね。
妹尾:そうそう、レコーディングのタクね。
こんな、でっか~いレコーダーもね。
星加さん:キムがね、「ライブの方が、らしさが出るんじゃないかな」って云って。
スタジオにこもってね、音を積み重ねていく音楽じゃないから。
妹尾:で、演る方自身も、現場で一緒に「せ~の!」で音出さないと雰囲気出ないから。
しかも、まだアマチュアに毛が生えた位のもんでしょ。
だから、ヘッドホンして、ドラムとベースとギターが入ってるとこに、あとから自分が
歌ったりすると、なんか乗らへん。乗れないっていうかな。
ー:スタジオ録音は初めてでは難しいですものね。
妹尾:そう、経験が無いとね。
しかも、一生懸命やって、頑張ったあと、スタジオのガラスの向こうでさ
真剣な顔して喋ってる人達見ると
「あいつ、下手やなあ、またあそこでガチャやって、どうする? OKにする?」
とか言われてる気がしてさ。
(三人で大笑い)
妹尾:ところが、向こうは「どうする?休憩でもする?」とか「てんやもんでも取る?」
とか話してるだけだったりする。
今なら解るけどね。
だから、次郎吉のライブレコーディングは良かったと思う。
星加さん:今だに言ってるんだけど『Weeping Harp Senoh 』のレコードなのに
最初の3曲はハーモニカ入ってないんだよね。
妹尾:そうそうそうそう。
星加さん:まあ、いっぱい録ったんだけど、最終的には14~15曲。
演ってもレコードに入らなかった人も居たね。 それが残念だったのね。
吾妻光良くんも何曲も演ってくれたのに、入らなかったんだから。正雄ちゃん(中島正雄)とかも。
妹尾:そうだ、そうだ、レコードには入ってないんだ。
吾妻は2枚目で演って貰ったんだ。
そういうのも有って...
星加さん:吾妻と正雄ちゃん「じゃあ、2枚目で演ってね」みたいな話したの。
やっぱり、曲と妹尾ちゃん優先だから。
妹尾ちゃんのアルバムだから、しょうがないんだよな。
妹尾:最初から皆に云ってたんだよね。
こうこう、こういう作り方するんで。もし、もれたら御免ねって。
で、皆「いいよ。」って云ってくれてたけどね。
メンバーを誰と誰の組み合わせにするかとか、何時頃からやるかとか、何時に呼ぶかとかさ
スケジュール調整が凄く大変だったよね。
星加さん:大変だった、凄く大変だった。
あの。初めて訊くんだけど、おかしいんだけど、妹尾ちゃん親に勘当されてて
ビクターからレコードが出る事に成ったって云ったら、ちょっとお父さんも納得した
みたいな話って、本当? そんな事はないの?
妹尾:当時、ビクターは日本最強のひとつやからね。
俺、別にさ、親父にレコード出すとか云ってないし。
だけど、親父が、どうも知り合いから聞いたらしいんだ。
それから、ちょくちょく連絡くる様に成ってさ。
で、会社も丁度羽振りが良く成って、東京に支社出したりして、今は無いけどね。
それで2~3ヶ月に一回は東京に出張して来てて「来い!」とか呼び出されたりして。
ー:勘当は、何年かだけだったんですね。
大学の問題が原因だったんですね。
星加さん:妹尾ちゃん、大学中退? 卒業?
妹尾:いやいや、除籍。
星加さん:何それ? 除籍?
(三人で大笑い)
妹尾:最悪でしょ、籍無いんだから。
星加さん:除籍ってビークでしょ。クビでしょ。
ー:何もなかった事にと、いう事ですね。
妹尾:そうそう。抹消というか...
大学に入学した事も抹消。
星加さん:ああそう、中退でもない。
なんで? 行かなかったから?
妹尾:うん、行かなかったから、そう。
普通、大学4年間で出来なかった事を、次の2年間で取り返せばOKという制度でしょ。
まあ、6年間やったんだけど取り返せないから、8年間。
で、結局、一単位も取れなかったの。
星加さん:一単位も?
じゃ、俺良かった。
俺はね、大学から送ってくるの、郵送で。で、参考書や教科書見て書いて送り返すの。
それで、みんな取れたの。だって、学園封鎖で入れないんだもん。
妹尾:ああ、そうやね。
星加さん:体育だけは出席日数、法政は高校有るでしょ、いっぱい。法政一高とか。
体育は8時に高校に行かなきゃならないの。
法政二校かなんかで、横浜まで遠いんだよ。
それが、大学5年の留年した時も落ちたの。
妹尾:日数、足らずで?
星加さん:うん、一回も行ってないの。
妹尾:ああ、君やって、そうやないか(笑)
星加さん:それで、頼みに頼んで、
ビクターでアルバイトしてたでしょ。で、社員にしてくれるって云われたので
それを言って、酒持ってった気がするんだよ。
「お願いします!」って言って、卒業できたの。
ー:卒業できないと、社員には成れないですものね。
星加さん:その頃はね、まあ今もそうか。卒業しないと社員に成れないよ。
飯田久彦(チャコちゃん)の様なピンク・レディでビクターの売上の3分の1も売上げちゃった人は別格だけど。
ー:レコード会社は、レコードの売り上げが、何より大事な事でしょうから。
星加さん:普通の会社員なんですよ。
だから、好きな音楽じゃない方がかえって会社員として良かったなあ、と思う事が何度もあるもの。
普通の営業、普通の宣伝、普通の人事だから。CDという商品を売ってる。
僕らは、言い方なんだけど、工場ですよ。
「星加ちゃん、早く売れる物作ってきてよ!」って。
「そうじゃないだろう!」って。「音楽っていうものを作ってるんだ!」って。
そういってもさ、CDを売る訳だから、LPを売る訳だからさ。
「そうじゃないんじゃない? 中身をうるんだから!」って何回も言ってたんだけど。
工場、普通でいう工場。
「即席ラーメン作ってるんじゃねえだろう!」って話したんだけど。
ー:ずっとビクターに居たんですか?
星加さん:30年。最初は3年位かなって思ってたんだけど。
ー:ずっと、制作ですか?
星加さん:うん、僕は。
試験受けて入ると、工場行かされたり、必ず地方ね。
営業所行かされたり、セールスマンやらされたり。
僕はないの、途中入社だから。
妹尾:まあ、だけど、ビクターのさ、僕の、その、ソロのレコードね。
契約できたのがさ、出発点だからさ。
一応、なんとか、ここまで来られたのもね。
あのレコード、ちょっと時間掛かったけど、割りかし売れたんだよね。
随分あとに成って知ったんだけど。
俺、全然売れなかったと思ってたんだけど...
星加さん:最終トータルで云ったら、8000、1万までは、ちょっといかなかったけど、
8000位はいったよね。
あと、日暮さん(日暮泰文)の所(ブルース・インターアクションズ/Pヴァイン・レコード))がね、
CD出してくれて、それも入れれば1万枚位。
妹尾:そうだね、CDにして出してくれたね。
ー:2枚目のレコード『ブギ・タイム』も星加さんですよね。
星加さん:はい。
妹尾:ギターの渡辺香津美、当時17歳位やったかな?
星加さん:そうだね、凄いギタリストだった。
妹尾ちゃん、結構すんなりやってくれたんだっけ?
あれ、俺の企画なのね。
1枚目がライブだったから、次はやっぱりレコーディングっていうんで。
やっぱりレコードは積み重ねじゃない、アレンジもきちんとして、
何回も聴くものだから。
ポンタ(村上“ポンタ”秀一、ドラム)とか、凄い、いいメンバー集めたんだよね。
妹尾:そう、いいメンバーだった。
星加さん:1枚目の時、御免ねっていう吾妻とか中島正雄も呼んで。
で、長戸大幸が... 思い出した。
「ストリングスのアレンジをやらせてくれ」って言ってね。
サンプル300枚位くれって言って、何したと思う?
「僕のアレンジです」って、妹尾ちゃんのプロモーションじゃねえんだよ。
あいつ、自分のプロモーションしてる訳。
「このストリングスのアレンジは僕です」って業界中ばらまいたんだよ。
それ、凄いなあ~って思った。
妹尾:(笑)それ、ビーイングの始まりやな。
いや、でもね、ストリングスのアレンジが出来るっていうのは、大したもんだよ。
星加さん:うん、うん。
妹尾:それでね、『世界の空軍』で売れてね。
ー:『世界の空軍』って何ですか?
妹尾:『世界の空軍』っていう映画。
ジェット戦闘機がバーン!って飛んで行くのとかね。
そういう映像につける音楽を大幸が作曲して、それが売れちゃったの。
それで、ビーイングが生まれたの。
ー:その『世界の空軍』というレコードはどこから出たんですか?
妹尾:キングレコードで『世界の空軍』のオリジナルトラックを録音して、
それが売れたもんだから、大幸はキングレコードから業績を認められて
自分のレーベルを作ったの。
ー:という事は、ビーイングはキングレコードのレーベルだったんですね。
妹尾:最初はね。
星加さん:随分、売れたよ。
エマニエル坊やって、小っちゃい男の子も、長戸大幸だし。三原順子もだし。
大幸が、よく云ってたけど、キングだと「長戸先生!」って云われて、
ビクター来ると「だいこう!」って呼ばれて
妹尾ちゃんのボーヤみたいな扱いで、ぜんぜん違うんだって(笑)
妹尾:でも、大幸は、一生懸命やってくれたからね。
いろんな所から、たくさん仕事取って来てくれてさ。
あっ、あれもそうだったよな。
11PM(イレブンピーエム)での『世界の夕陽シリーズ』はビクター系列だっけ?
哲ちゃん、知らないかな?
星加さん:大幸が持って来た仕事?
妹尾:日本テレビの番組『11PM』の『世界の夕陽シリーズ』に
僕が音楽つけるの、やったんだけど...
イワクラさん、イワクラさんって人、ビクターに所属してなかった?
星加さん:イワクラさん? 知らんなあ。
妹尾:じゃあ、違うんだ。
ー:あの~、東京のブルース仲間から、仲間外れに成って無視されたのは、
1枚目のレコードを出したあとですか?
妹尾:そうそう、1枚目。
『ローラーコースター』というバンドだけで、レコードを作ると、メンバーは思ってたのが、
妹尾隆一郎のソロアルバムに成って、いろんな人の一員としてしか参加出来なかったので、
バンドのメンバーが「なんや~!」って事に成ったらしいの。
哲ちゃん、それは聞いてない?
星加さん:なんとなく、聞いた気もする。
妹尾:だから、東京でやってきた『ローラーコースター』関連の連中が
なんせ「妹尾はバンドを出しにつこうたー!」みたいな感じで。
「ひどいヤツやー!」ってね。
その当時、レコードの契約っていうのは、レコード会社と契約するだけでさ、
みんなは大金が入ると思い込んでたからさ。
星加さん&妹尾:大笑い
妹尾:お金全部、俺が契約金とか独り占めしてさ。
外から来た、訳の解らんさ、大幸というマネージャーを使って、
妹尾が勝手にビクターと契約して、俺ら一緒にブルースやってきた仲間を
出しに使うたー!みたいな感じで...
星加さん:あっ、そうなの。
ー:長かったんですよね、五年位?
妹尾:長かったよ。
星加さん:あっ、そうだったの。
でも、あのメンバーも入ってるよね。
妹尾:入ってるよ。
あのね、『ローラーコースター』のメンバーとして、
いわゆる胸を張れる様なレコードが出来なかったのも有ったのね。
それだけじゃなくて、たぶん、レコード会社と契約するという事は、
契約金がなんぼとかさ、当時なんやかやと話題になったから。
いろんなバンドが独占契約というと、何百万円!とかさ。
そんな事あらへんのやけどな(笑)
それは、もう、経理やってる哲ちゃんが、よく知ってる。
星加さん:契約金って無いんだよね。
矢沢永吉が、ソニーからどっか移る時、移籍料ってのがね、欲しい方が払うよね。
そういうのは有るけど、契約金ってのは無いんだよ。
妹尾:レコードが出て、ある程度売れるまで一銭も入ってこなかったもんね、こっちには。
レコードが何枚売れました。だから、その内の歌唱印税が3%だったのね。
でも当時、3%貰えるのは結構多い方だったみたいね。
星加さん:すごいよ。
妹尾:歌唱印税だけでね、作詞も作曲もしてないし、制作費も出してないから、俺本人は。
でも、スタジオ入ったり、いろんな調整してた間は、他の仕事は出来ないでしょ。
だから、その間は無収入だからね。
星加さん:レコード1000枚か2000枚分の3%を先にあげるっていう
アドバンスっていうのがあるのね。
それは有った? 無かった?
妹尾:有った、有った。
初版1000枚かなんかで。
何枚プレスしてコピー作って、まず初版1000枚作って各店に渡します、と。
それが売り切れれば、第2版を作って出します、って感じで。
最初の1000枚については、先渡ししてくれた。
お金、それだけやからね。
だけど、他のメンバーはレコーディングに参加したら、
一人にいくらというギャラが貰えたけど、俺は貰えなかった。
俺のソロアルバムだから。
その代わり、レコードが売れれば売れる程、3%で貰えるけどね。
それは、あとからくるんやから。
星加さん:そうか、作詞作曲まるで無かったんだ。
妹尾:まるで無かった。
だから、無理矢理一曲、オリジナル曲を作ってやったけど、何もならへんわな。
星加さん:それ入ってたっけ?
妹尾:入ってると思うよ。
星加さん:2枚目は、結構、作詞作曲してオリジナル多かったよね。
妹尾:そうそう。
なんか一時期、2枚目のレコードに入ってるギタリストの渡辺香津美が
僕とレコーディングした時の僕の曲を、自分で録り直したのをレコードにして出して、
その印税が俺の作曲料として入ってきたのよ。
星加さん:カバーしたんだね。
CDってのは、それが大きいのよ。
やっぱり、書かなきゃ(笑)
妹尾:今はとにかくさ、レコード会社も作詞作曲できるアーティストでないと
契約してくれない傾向にあるもんね。
星加さん:それはあるね。
それは、なぜかというと、そのレコード会社と契約すると、著作権の運営を
レコード会社と関連のある会社がやるから、また儲かるしみたいな。
まあ、ビクターが有ればビクター出版が有るみたいな。
音楽出版って、結構みんな一緒にしてるけど、別なんだよ。
レコード会社自体に出版の機能はない訳。
だから、ビクターにはビクター出版というのを別に作って。
あれ、三ヶ月に一回かなんか払うんだよね、著作権。たとえ、1枚でもね。
妹尾:今でも、ありがたい。
時々、半年に一度位、53円とかのがある(笑)
星加さん:ビクター出版から?
ー:ビクター出版からもきてましたね。
かえって、申し訳ないみたいでね...
妹尾:53円だと、連絡の封書郵送代だけでもなあ...
星加さん:俺もそう思うんだけど、
3000円か4000円に成らないと振り込まれないシステムになったらしいよ。
妹尾:でもまあ、そうやってね、レコード会社でレコーディングした経歴があるから
いろんなアーティストのね、スタジオ・アーティストとして、時々入れるやん。
そうすると、そのCDが売れたりすると、バックで入れてるだけでさ、
チョロチョロ入ってくるから。
でも、もう今は、ほとんどが大昔の事なんで、あんまりないけどね。
一時期は年間に何十万円か入ってきた事も有ったけど。
ー:『サザンオールスターズ』桑田さんのが、随分有りましたよね。
星加さん:『サザン』の1枚目のレコードって、妹尾ちゃん入ってるよね。
妹尾:入ってるよ、俺3枚目まで入ってるよ。
星加さん:あっ本当。 高垣(プロデューサー)ってのが...
妹尾:高垣さん、そうそうそう。
星加さん:一つ上なんだけど、洋楽から『フライング・ドック』
その次『インビテーション・レーベル』って
いうんだけど、ず~と一緒だったのね。
妹尾:高垣さんは、なんか僕に良くしてくれてね。
で、『イーストウエスト』の審査員、僕は末端の審査員やってて、
その最終決定戦を僕は見に行ってたら、高垣さんがさ、
「ねえ、ねえ、妹尾ちゃん、桑田佳祐のバンドどう思う?」って云うからさ
「俺、いいと思うよ!あれ、ぜったい一番やな!」って云ってたら、
一番ならへんかったのね。
星加さん:そうそう、歌唱賞だけだったんだよね。
妹尾:うん、そう。
でも、高垣さんが「良かったー!」って。
レコード会社が殺到したら困るからって、
高垣さんが「サザンオールスターズをビクターと契約したいと思うんだけど、妹尾ちゃん、どう思う?」って云うから、
「うん、ええと思うよ!」って答えたの。
高垣さん「あいつ、カッコいい!」って云ってたなあ。
星加さん:その時、審査員だったの?
妹尾:いや、その時審査員じゃなくて、なんとか支部みたいな所の審査員をやってたので
その最終決定戦は、ヤマハから招待されて行ってたのね。
星加さん:その時のグランプリ覚えてる?
『カシオペア』だよね。
妹尾:そうそう、『カシオペア』覚えてる。
星加さん:男の歌唱賞が桑田で、女の歌唱賞がシボっていうのね。次郎吉に出てたの。
福生の子だったかな。俺はそっちがいいと思った。アレサみたいなさ。
消えちゃった、どっか行っちゃった...
妹尾:そんな切っ掛けがあったから
高垣さんが、ビクターと『サザン』が契約して
最初のレコードを作る時に「妹尾ちゃん、ちょっとアドバイスしてくれよ」って
云われて、で、仲良くなって。
だから、1枚目のLPレコードには3曲位ハモニカ入れたかな。
星加さん:あっ、これ、面白い話がある。
その一つ先輩の高垣さんが、『勝手にシンドバット』出して。
同年月日発売で、俺もデヒュー・シングルの
『おとぼけキャッツ』(ダディ竹千代と東京おとぼけキャッツ)出して。
妹尾:おお、おとぼけキャッツ。
星加さん:『電気クラゲ』っていうタイトルなんだよ。
で、おとぼけのダディ竹千代が桑田と仲良かったらしくて
「桑田ちょっと来い!」って、
「発売日も一緒じゃないか、下北ロフトで発売記念コンサートやるから、お前ら前座で出ろ!」
って言ったんだよ。 そして、やったの、前座で、サザンが。
妹尾:ヘエ~、『サザン』が前座でねぇ。
星加さん:一ヶ月後
『勝手にシンドバット』50万枚
『電気クラゲ』1千枚か2千枚
妹尾:その『おとぼけキャッツ』に居たギターの、寺中名人と俺も知り合って、『デイブレイク』
星加さん:そうだ、『デイブレイク』は寺中だ。
妹尾:桑田達が、えらく売れちゃったもんで、俺も縁遠くなって、
そこまでは売れなかった寺中達とやる事になって(笑)
でもさ、最初のレコード作った時、桑田達のレコードね。
「曲が出来ない、出来ない」って云って、悩んでたなあ。
先日、ある人が、役に立つのではないかと送って下さった物があります。
それは、妹尾隆一郎最初のソロアルバム『メッシン・アラウンド』が発売された時に
ビクターが作った冊子です。
その中に、『レコーディング・日誌』というのがありまして、
正確なレコーディングの日程などが書かれてました。
妹尾さんの記憶ではレコーディングは1975年の12月との事でしたが、残念でした。
長い音楽活動の中では、数えきれない程のレコーディングをしているので、
他のレコーディングの記憶と混同しているのでしょう。
正確には、1976年4月30日と5月2日の二日間はスタジオ録音。
同年5月3日(月)くもり、5月4日(火)くもりちょっと雨、5月5日(水)くもり、5月6日(木)くもり。
この四日間が、東京高円寺『次郎吉』でのライヴセッション録音でした。
この冊子には、なかなか興味深い事がいろいろ書いてありまして、
その文面から、1976年頃の雰囲気、仲間達の様子が少し解ったような気がしました。
2013年7月17日
妹尾隆一郎最初のソロアルバム『メッシン・アラウンド』
が発売された時の小冊子の表紙