星加哲さんは、妹尾隆一郎の大学生時代からの旧友です。
『オフ・ザ・ウォール・ブルース・バンド』のギタリストでも有りました。
妹尾がビクターからファーストアルバムを出したのは
星加さんが、ビクターの社員でディレクターをしてくれたからという事も決めての一つでした。
妹尾隆一郎が、レコーディングをしたビクタースタジオ内の一室を、星加さんが借りて下さいました。
2013年3月19日に、お話を伺いました。
妹尾:初めて、哲ちゃんに会った時の状況が、どんな風だったか、あんまり覚えてないのよね。
星加さん:中央大学のフォークソングクラブじゃないかな。
メグ、橋本メグ(ドラム.男性)のバンドが共通の知り合い。
妹尾:橋本メグは中央大学だった?
星加さん:バンドの他のメンバーの誰かが中央大学だったんだ。
保福(ヴォーカル)とかの紹介だったのかな?
フォークソングクラブだけどブルースやってるというので、その紹介だと思う。
妹尾:俺もメグと保福が一緒にバンドやってるの覚えてるから。
で、保福がシングル(レコード)を作ろうという話があってね。
その時も、メグが絡んでたかもしれない。
哲ちゃんは法政だっけ?
星加さん:法政大学。
_:お二人は同じ歳ですか?
星加さん:妹尾ちゃん、一浪だっけ?
妹尾:うん。
星加さん:じゃあ、まったく同じだね、僕も一浪だから。
妹尾:で、橋本メグと哲ちゃんは、どういう繋がりだったの?
星加さん:そこらへんがねぇ…
なんか、どっかで一緒にやってたのかな?
ベンチャーズみたいなの、やってた様な気がするのね。
メグはドラムだったよね。
妹尾:うん、そうそう。
星加さん:どっかで一緒にやってたのよ。
で、いっぱい居たのよ。
中央大学が2~3人。で、メグは… メグは武蔵大だ。
妹尾:そうだ武蔵大学だ。
妹尾:『オフ・ザ・ウォール・ブルース・バンド』の最初のメンバーは
だっちゃん(ベース)と、マー坊(戸崎政彦 ドラム)と、哲っちゃんと俺の4人だったかな。
星加さん:あとから、俺が田村くんを連れてきた。
ジャズ系の田村くん。
ー:ピアノの田村博さんですね。
妹尾:『オフ・ザ・ウォール』で、どこかのビアホールで仕事したよね。
その時『サード』かなんかと知り合ったのかな。
星加さん:『サード』の大木トオル(大木トオルとザ・サード)
東京にブルースバンドが少なかったから
「おい、君達!」ってね、上から目線で。
「ブルースやってるの? いいじゃない!」とか「前座やらないか」ってね。
随分、仕事もらったよね。渋谷の『オスカー』とか覚えてるよ。
妹尾:そやね。
妹尾:『オフ・ザ・ウォール』が『ジャンジャン』出る様になってたよね。
その時、確かレイジー・キム(中川公威.ギター&ヴォーカル)と知り合ったんじゃなかったっけ。
星加さん:そうだっけ?
キムは新宿西口に有った店マガジンハーフ(Magazine No.1/2)だったような。
『オフ・ザ・オール』もマガジンハーフ出てたよね。
妹尾:うん、一時期出てたよね。
星加さん:俺なんか入り浸ってたよ。
もっちゃん(森田恭一.ベース)が居て、キムが居て。
まあ、必ず誰か居たから、セッションしたりして。
妹尾:哲っちゃんもキムと一緒にやってたよね。
星加さん:やってた、うん。
妹尾:だから『レイジー・キム・ブルースバンド』のメンバーでも有ったんだよね。
星加さん:ああ、お互いにサブメンだった。
星加さん:俺はね、井草高校から一浪して法政に入ったんだけど。
高校時代のやつとバンド組んで『ジャンジャン』に出てたの。
ビートルズをアレンジしてめちゃくちゃな曲にする様な感じのバンド。バンド名はH.A.T.
そん時はキムは知らないのね、妹尾ちゃんも知らなかった。
それが、予備校と大学一年だから、19~20歳の頃。
そんなのをやってて。妹尾ちゃんを紹介して貰ったんだ。メグだと思う。
「何かやろう! ブルースやろう!」とか云って。
俺ベースやってたんだけど、ベース捨てて。
B.B.キングが好きでねー。
B.B.キング完コピして「ブルースいいなあ!」って思ったのね。
星加さん:大学はバリケード封鎖で行けなかったのね。
妹尾:僕もバリケード封鎖で行ってなかった。
星加さん:法政の文化祭に出たの覚えてる?
妹尾:覚えてる、覚えてる。
星加さん:文化祭にだけは行ける訳。
文化祭の時だけ開くのよ、バリケードが。
その時くらいは大学に行って。
文化祭仕切ってる人に「ちょっと手伝って。」って云われて
僕ら『オフ・ザ・ウォール』が出て、
あとは藤井真一くん(ベース)のバンド『ジプシー・ブラッド』を呼んだ。
それから、小坂忠『フォー・ジョー・ハーフ』四畳半ね。
妹尾:それ覚えてるわ。
中庭みたいな所でやったよね、校舎と校舎の間の。
こういうイベントの時にヤマハから、いろいろなPAを借りて来てくれたのが
岡井大二くん(『四人囃子』ドラム)のお兄さん。
星加さん:つぐあき君(『四人囃子』のマネージャー)。
僕が、一番覚えているのは『四人囃子』と『安全バンド』と一緒にやって。
『四人囃子』は売れてて知名度が有ったから、学園祭に一杯出させて貰ったね。
妹尾:まあ、抱き合わせで出させて貰ったよね。
星加さん:僕達がいつも出番が一番最初だったの、それよく覚えてる。
妹尾:岡井さんの兄貴のプロデュースで、まあいわば音楽事務所的な事をやってて
『四人囃子』と『安全バンド』は兄弟バンドみたいなもんで
それに僕ら仲良くして貰ってた。
妹尾:『オフ・ザ・ウォール』と『ローラーコースター』の境目が判らんのよ。
『オフ・ザ・ウォール』でマガジンハーフに出る様になってから
山崎よしきや中島正雄とかと知り合ったんだよね。
山崎から「関西ばっかりじゃなくて、東京でもブルースバンドやりたい」って
話をされて、ちょうど俺も同じ事を思っていたんで、一緒にやる様に成ったの。
星加さん:妹尾ちゃん、ライブのMCで言ってたけど、
『オフ・ザ・ウォール』が東京で作った最初のブルースバンドだって。
妹尾:そう。
星加さん:『オフ・ザ・ウォール』解散とか、『オフ・ザ・ウォール』やめようとか、覚えないな。
妹尾:俺もない。
星加さん:俺は、ちょっと前、先にやめてるから。
そのあと、ちょっとは続いてたのは知ってる。
だからメンバーは、だっちゃんとマー坊と土屋潔くん(ギター)。
妹尾:土屋くんかもしれんなあ、そやそや。
星加さん:そこらへんで、もう『オフ・ザ・ウォール』やめて
『ローラーコースター』に成ったんじゃないの。
それは、俺知らないけど。
妹尾:そうかそうか、哲っちゃんが『オフ・ザ・ウォール』抜けて…
それは、ビクターに就職したから?
星加さん:あまり、言いたくない。
三人:笑い
星加さん:あと、もっちゃん(森田恭一)だな。
妹尾:もっちゃんは『ブルースハウス』に入る前に
『ローラーコースター』のベースやりたいと云ったんだけど
既に、伊藤くんというベースが決まっていたから。
星加さん:伊藤くんって、中央大学の後輩でしょ。
妹尾:そう。だから伊藤くんを切れなくて
もっちゃんをメンバーに入れる事ができなかったの。
伊藤さんは一番最初の『ローラーコースター』のベースでメンバーに成りましたが
病気の為、まもなく『ローラーコースター』を抜けました。
妹尾:ビクターでレコーディングする、前だと思うんだけど、代々木の『山野ホール』で
三日間くらいコンサートした時、哲ちゃんは、『レイジー・キム・ブルースバンド』に入ってて
『アベレージ・ホワイト・バンド』の曲演ったの覚えてる?
星加さん:それは『クルセイダーズ』の『Put it where you want it』バンド名はBluethumb Unity
妹尾:ああ、そうか。
星加さん:演ったの、覚えてる、覚えてる。
妹尾ちゃんは?
妹尾:僕は『ローラーコースター』で。
『ウエストロード』が出た日もあった。
代々木の、山野愛子の『山野ホール』
星加さん:うんうん、やった、やった。
妹尾:そんな、こんなして、自主的なコンサートして、結構盛り上がったなあ。
星加さん:レコーディングの前だね。
妹尾:レコーディングした後、哲ちゃんと僕とは一緒に活動はしてないもんね。
ずっと、仕事忙しかったしね。
星加さん:ほとんどギター弾かなかったね。
土屋くんに三年程ギター貸してたの。テレキャス。
妹尾:あっそう。本当。あの武蔵大の土屋くん。
星加さん:彼バリバリだよな。
南佳孝とかやってるよね。
妹尾:『ジャンジャン』でキムに会ったの覚えてないかな?
星加さん:覚えてないなあ。
『オフ・ザ・ウォール』で『ジャンジャン』に出てたのは覚えてるけど。
なんか『ジャンジャン』の西村くんっていう人が『オフ・ザ・ウォール』を気に入ってくれて
仕事を一杯くれたの覚えてる?
妹尾:いや、覚えてない。
星加さん:『ジャンジャン』終わった後さ、「疲れてるのに悪いんだけど…」って云って
横浜のBP(米軍の人がよく来る店)に行ったの覚えてるよ。
妹尾:そうか、覚えてないな。
星加さん:ねえ、マガジンハーフ・ライブってのが有るじゃない、自主制作のレコード。
あれ、『ウエストロード』とキムと。
『夕焼け』と『オフ・ザ・ウォール』も入ってた?
妹尾:『夕焼け』と『オフ・ザ・ウォール』は入ってないと思うよ。
星加さん:そのレコードのライブを録るぞっていうプランを聞いてたんだけど
録る日の一週間か二週間前に『オフ・ザ・ウォール』をやめたのね、それは覚えてる。
妹尾:そうだ、そうだ、マガジンハーフで作ったレコードの事も、やっぱり書いておかな、あかんなあ。
この頃はレイジー・キムが日本語でブルース歌ってたんで
それに刺激受けて、『ウエストロード』の永井隆くんも俺も日本語で歌ったりしてた。
レイジー・キムの『キング・ビー』今でも覚えてるけどね。
♪俺は ウジ虫~♪ とかね(笑)
星加さん:あの頃の妹尾ちゃん、凄くよかったよ。
りゅうちゃん(井出隆一)、平尾くん(平尾麻脳)マノ。
妹尾:りゅうちゃん良かったなあ。
なんせ、あの頃流行ったのは重た~いブルースな。
もの凄い、ゆっくりしてて…
星加さん:そうそう。
妹尾ちゃんがレコード出した後は、いろんな人達が一杯レコードに成ったよね。
妹尾:トリオレコードというのが出来て、一発目は『憂歌団』
ー:トリオレコードですか?
妹尾:そう、オーディオのトリオね。
トリオっていう会社が有ったの。
星加さん:トリオをつくったのがケンウッド。
ケンウッドというのは、むこうの電化製品会社。
今はビクターを買ったの。
今ケンウッドJVCっていうの。昔はケンウッド・トリオでしょ。
妹尾:ああ、そうやな。
星加さん:ナカエさんっていう先輩が居るんだけど。
次郎吉に入り浸りで、ジロマス(高円寺の『次郎吉』マスター.故荒井誠)と仲良くて。
で、俺も仲良くて。
『憂歌団』の担当ディレクター、プロデューサーだったのね。
それで、ラジオ局に行くでしょ。
えらいなあ~って思ったのはね、
『憂歌団』の曲のプロモーションに『おそうじオバチャン』の格好してまわってる訳。
「かけてくださ~い!」って。
妹尾:ああ、そうだったんだあ!
星加さん:こんな事しなきゃ、いけねえのかよ!って思った訳よ(笑)
でも、えらいなあ~って思ってさ。
妹尾:最近、キムに会った?
星加さん:キム、会わない。
妹尾:俺も会わない。淡路島に住んでるらしい。
星加さん:最後に会ったのは、いつだろう、結構前だなあ。
ああ、タバサ(星加さんの奥様)の偲ぶ会の時来てくれたんだ。
去年? 一昨年かな?
もう、三回忌だよ。
妹尾:三回忌か。
星加さん:三回忌、終わった。早いよ~
妹尾:哲ちゃん、ところで足痛いのは痛風?
星加さん:謎の病気。判んないのよ、まだ。
医者が云うには、ひょっとしたら、最悪ホーキング博士。
妹尾:ホーキング博士みたいに、筋萎縮症?
星加さん:筋萎縮症。
よく云うと、俺、運動しないし足めちゃくちゃ細いのよ。
筋肉が普通の人より無いだけ(笑)
妹尾:ああ、そうかそうか。
星加さん:だから、月一回通院してるんだけど。リハビリもしてるんだけど。
まあ、まだ解明できてないらしい。
ホーキング博士って異常なんだってね。
あの病気って、あんまり長生きする人いないんだって。
ー:そうですね、ホーキング博士は病気に成ってから長いですね。
星加さん:おじいさんだよ!
妹尾:そやね。
ホーキング博士は現在71歳
筋萎縮性側索硬化症と診断されてから50年が経つ
ー:星加さんは、両足ですか?
星加さん:左足。
左足の親指が上がらないのね。
親指上がらないって、すごく大変よ。
スリッパ履けないでしょ。
ズボン、靴下履くの大変でしょ。
別に歩けない事ないんだけど、よく転けたのね。
何でもない所で転けてさ。
本当は上げてるつもりが上がってないから、つまづいちゃう訳。
杖つかなくても歩けるんだけど、変な歩き方してるんだよ、自分で見ても。
左足をかばってる歩き方。
ー:どこかをかばってると、からだの他の所もいろいろ痛く成ってくるんですよね。
妹尾:大森のお化け屋敷には中央大学のフォークソングクラブの連中も、よく遊びに来てたよなあ。
星加さん:うん。だから橋本メグも、よく来てて、
メグと『B.B.キング・ファンクラブ』作ったの覚えてるよ。
たぶん、僕ら二人を紹介してくれた人だと思うのね。
のちに、キングレコードに入って、ず~とキングの宣伝やってた。
ジャンキュウ(マージャンのパチンコ)やり過ぎて、腱鞘炎に成って
ドラム叩けなくなっちゃって、バカだよね(笑)
妹尾:まあ、話が合ったからね。
保福とメグの繋がりで、俺もメグと会ってたから。それで知りおうたんやね、哲ちゃんと。
星加さん:だっちゃんとマー坊は、妹尾ちゃんが連れて来たの?
妹尾:そうだったかな?そうだと思うわ。
俺、『四人囃子』とか、その前から知り合いだったから。
マー坊は森園からの紹介だと思う。
星加さん:マー坊は、中学、高校で森園とバンドやってたしね。
だっちゃんってさ、我々より三つ位下かと思ってたら、一つなんだね。25年生まれなんだね。
妹尾ちゃんに悪いんだけど、今思うによ、だっちゃんは、まあ、しっかりしてたよな。
妹尾:うん、しっかりしてた。人間としてな。
星加さん:そう、人間として。普通っていうか、常識が一番有ったよね。
俺ら、ないからさ(笑)
『オフ・ザ・ウォール』で一番やる気だった頃さ、
でっかい楽器車、『オフ・ザ・ウォール』用の楽器車も買ったし。
妹尾:ワゴンエースみたいな型で、運転席と助手席以外は座席は無くて
後ろは荷物だけが置ける様になってる。
ー:メンバーは乗らないんですか?
妹尾:メンバーも乗るよ。椅子は無いけど後ろに。
布団かなんか敷いて、ゴロゴロしてた。ドラムセットやアンプも一緒に。
ー:車に乗って地方にも行ったんですか?
星加さん:行った覚えないんだよな。
買っただけで(笑)
妹尾:あんまり遠くまで行った覚えないなあ。
星加さん:ない。
妹尾:東京中心に、まあ、東京近郊やな。
神奈川辺りまでかな。
宇都宮とか行ったかな?
星加さん:覚えないなあ。
妹尾:『オフ・ザ・ウォール』で、俺もう一つ覚えてるのは、草津温泉。
第一企画かなんかの。
星加さん:草津温泉はね、あのハコでしょ。
俺と妹尾ちゃんだけ。違うメンバーだった。
妹尾:あっそうか。
星加さん:妹尾ちゃんが、俺に仕事くれたの。
草津温泉で一週間か二週間かな。
妹尾ちゃんの知り合いのドラムとかと。
で、ブルースじゃないのね。ジミヘンとか、クラプトンとか。
「出来ない!」っての(笑)
ー:一週間か二週間もですか。ハコって?
妹尾:毎晩、毎晩、演るの。
ライブハウスのライブじゃなくて、
お客さんが、ワーワー云って踊ってる所にバンドが入るの。
だから、一般的な曲を演らなきゃいけないの、乗りやすい曲。
お客さんが知らなくてもいいから、踊りやすい曲。
だから、その頃流行の、リズム&ブルースとかロックとかね。
ー:じゃあ、ディスコみたいなものですね。
妹尾:そうね。
星加さん:客が、おじさん、おばさんで、浴衣着てね。
風呂上がりで、一杯やってね、それから来る訳ですよ。
妹尾:だから、我々は演歌はできないけどね。
それはそれでいいのよ、別に。
そういう意味では何演ってもいいんだけどね。
星加さん:「チーク踊るから、演れ!」って云われると、スローブルースね。
妹尾:そういう時は、BBキング演ればいいんだよな。
♪カキカ クイ~~ン♪とか。
『オフ・ザ・ウォール』って何年位やってたかねぇ?
2年位かな?
星加さん:2~3年だね。
『オフ・ザ・ウォール』って名前付けたの妹尾ちゃん?
妹尾:うん、そう。
『リトル・ウォルター』の曲で『オフ・ザ・ウォール』って曲が有って。
星加さん:『オフ・ザ・ウォール・ブルースバンド』って云ってたよね、
なんか、この頃居るんだよ。YouTube で見つけたんだけど。
『オフ・ザ・ウォール・ブルースバンド』っていうイギリスの、へたくそなバンド。
どうしようもねえなあー!って。
三人大笑い
妹尾:あの頃は、なんか、いわゆる、
「俺たち、バンドでレコーディングしてプロ目指すぞー!」とかって感じじゃなかったからさあ。
星加さん:うん。
妹尾:面白くて、楽しくて、やってたからね。
友達に声掛けられて「おい、やろか~」って感じで。
星加さん:ドラムのマー坊が、一番最初の頃から、高校中退するって云ってて。
結構、話したよね。人生相談。
マー坊は5歳下で、その頃5つ違うと、結構違うじゃない。
ちょっと、責任感じたよね。
妹尾:うん、そうそう。
マー坊は、なんせプロ目指してたんだよね。
星加さん:マー坊が「『オフ・ザ・ウォール』やめて、ドラマー目指します!」って言ったのが
20歳過ぎだから、『オフ・ザ・ウォール』は3年~4年やってたんだ。
まあ、さっき云ってた『四人囃子』と『安全バンド』で、いつも仕事をくれてね。
3バンドで文化祭まわって。
ある時、結構ギャラ入ったの。15分位演奏して、文化祭ってギャラ良かったのよ。
「ひょっとして、食っていかれるかな!」って思ったけど、食っていかれなかったね。
文化祭の有る月だけで。水商売だよね。
星加さん:俺、覚えてるんだけどね。
伸ちゃん(故塩次伸二)がね、俺たちの演奏聴いて
「哲ちゃん、やっぱりブルースやなあ!」って言ったんだよ。
「わしら、どう考えてもオールマンやから」って。
そういえば、あの頃の『ウエストロード』はオールマンみたいのばっかりやってたもんね。
「やっぱり、重いリズムしてんなあ!」って伸ちゃん言ってさ。
妹尾:レイジー・キムの影響、大きかったよな。
キムが持ってる、いわゆるブルースの重みみたいなものを、僕らはひしひしと感じて
「こういうのがブルースだ!」と思ったから。
ところが、『ウエストロード』は京都で、まだロックバンドみたいな事やってたから。
星加さん:俺、あとで聞いたんだけど
マー坊とかね、キムによく居残されて、マガジンハーフで。
「ちょっと、君おしえてあげる!」って、アフタービートとか。
「もう、散々怒られた!」ってマー坊から聞いた。
妹尾:そうか、キムにね。
星加さん:キムは我々とは、ちょっと違うよね。
現実にロンドンにも住んでたしさ、アメリカにも住んでて
実際に黒人が演奏してるのを観て来た人だから。
妹尾:そうだよね。
星加さん:俺たちは、LP(レコード)だけだもん。
そりゃ、凄いよね。
で、キムの最後の一言ね。
「もう、バンド活動やめる事に成りました。」
「裏の世界は、随分見て来たから、もう、いいです」みたいな。
三人大爆笑
ー:そうですか、この音楽(ブルース)は、やはり裏の世界なんですね。
星加さん:妹尾ちゃんも、御曹司だったんでしょ。
妹尾:いやいや、そんな大した事ないよ、僕の家は。
一時期は、羽振り良かったみたいやけどね。
だけど、僕が『オフ・ザ・ウォール』とかやってた時は
別に、うちの会社、そんなに大したもんじゃなかったから。
俺が勘当に成ってからよ(笑)
だけど、確かに邸は広かったけどね。
星加さん:宝塚ね。
妹尾:うん、宝塚の。
なんせ、親父とお袋の土地合わせると700坪。
星加さん:それを、御曹司って云うんですよ。
2013年6月28日
妹尾隆一郎が初めてブルースを演奏したバンドは中央大学の仲間達と組んだ『ダルマ・ブルースバンド』です。
このバンドは中央大学内での活動だったようです。
その次の『オフ・ザ・ウォール・ブルースバンド』は中央大学以外の人達がメンバーで
ライブハウスなどの店でも活動する様に成りましたが、
妹尾隆一郎にとっては大学生時代の遊び感覚が大きく、
ブルースの好きな仲間と演奏して楽しむという部分では『ダルマ・ブルースバンド』と同じでした。
次に結成した『ウィーピング・ハープ・セノオ&ヒズ・ローラーコースター』は、
東京で本格的にシカゴブルースの音楽活動をやろうと作ったバンドです。
妹尾隆一郎の初めてのソロアルバム『メッシン・アラウンド』発売時(1976年)に作られた小冊子の中に
『ローラーコースター』についての短い記載がありました。
当時の人達が結成当時の『ローラーコースター』をどの様に見ていたかを伺い知る事ができます。
『…………… .彼はその後、ついにローラー・コースターという彼の子分衆を結成させた。
ローラー・コースターのメンバーが子分であるというのは彼自身が、バンドの前に、
”ヒズ”をつけ加えていることからも解るけど、文字通りセノオによって
シカゴ・ブルースを吹き込まれたメンメンばかり。
このバンドの活動期の1年間というものは、とにかくあらゆるコンサートに出演しまくり、
今日のシカゴ・ブルースの第一人者という位置を獲得したわけである。 ………………』抜粋.
この文章は勿論、妹尾隆一郎が書いたものではありません。
子分という言葉には違和感を感じるものの、この文の通りであると妹尾は言います。
『ローラーコースター』というバンドでシカゴブルースを本格的にやっていこうという
妹尾の決意は大きかったと思われます。
当時の日本ブルース界の人達も、この妹尾の決意を理解していたと思われます。
妹尾隆一郎は大学入学が決まり東京に来てからも、毎月関西で音楽活動をしていました。
東京では『ダルマ・ブルースバンド』『オフ・ザ・ウォール・ブルースバンド』
『レイジー・キム・ブルースバンド』は約1年間はメンバーでした。
関西では『ウエストロード』のメンバーであり、上田正樹や『憂歌団』『夕焼け楽団』などとも
一緒に演ったり、いろいろなバンドのゲストとして参加しました。
まさに、東と西を繋ぐパイプ役をしていたと云えるでしょう。
この頃は自分のバンドだけで活動していた人ばかりで、妹尾隆一郎のように東京と関西の多くの人達と
音楽活動を共にしていた人は、他には居ませんでした。
2013年7月16日