日下部の地名と歴史
日下部の地名は、
正倉院御物中、和銅七年(七〇八年)十月に貢納された(あさぎぬ)の墨書銘に
「甲斐国山梨郡可美里日下部■■■■■一匹」
とあることに由来する。
日下部の起こりは、雄略天皇の皇后草香幡姫の名を冠して全国に設置された名代である。
日下部は徳川時代、小原村西分、小原村東分、七日市場村、下井尻村の4ヶ村であった。
明治8年2月、上記4ヶ村は合併して日下部村となる。
昭和7年10月町制施行。
同29年7月、日下部町は加納岩町、八幡村、山梨村、日川村、後屋敷村、岩手村と合併して、山梨市となる。
平成17年3月、牧丘町、三富村と合併して現在に至る。
地区内の七日市場が、かつての日下部氏の私有地とみられ、
そこにある七日子神社は地元では貢明神とも呼ばれ、
飛鳥時代から平安時代までの宮中の産養の儀には、そのあたりの御料田からの貢米が用いられた。
境内には俊頼の「君が代は七彦の粥七かへり祝ふことばにあへざらめやは」(尾上八郎揮毫)の歌碑が建立されており、
「七彦や君が貢の寄り来るは差出の磯の波のうねうね」「貢せしその甲斐ありて七彦の今も絶えせぬ神の端垣」
などの古い歌もある。
なお、七日子粥の行事は、日下部地区フィールドミュージアムの一環として平成十七年から復活し、
かつての御料田で、古代米の栽培を行ない、新嘗祭の日には七彦粥を炊き、参詣者にふるまっている。
神社の南東二キロ山梨北中学校(旧 日下部中学校)敷地内の県指定「日下部上代集落遺跡」からは、
革帯の飾り金具、「王」と記された墨書土器、火打ち鎌などが出土し、中央との関わりを示している。
かつての中央銀行日下部支店、日下部記念病院、日下部警察署、日下部保健所等は、
現在他地区に移転したが、今も日下部の名を冠している。
また、現在のJR山梨市駅も加納岩地区に設置されたが「日下部駅」と称していた。
山梨市駅前には、
「日下部駅にて、
友の汽車われらの汽車と窓ならび 暮れたる山に言ふ別れかな 鉄寛
いにしへの差出の磯を破らじと笛吹川の身を曲ぐるかな 晶子」
の鴛鴦歌碑が建っている。
笛吹川西岸の窪八幡神社(重文)、
差出の磯
「しほのやま差出の磯に住む千鳥 君がみ代をば八千代とぞ鳴く」
の歌で知られ、かつては都人のあこがれの地であった賀歌の歌枕。
万力林(日本の森林百選)などを含めた一帯は、
昭和60年に「やまなしの歴史文化公園『日下部の里』」として県指定を受けている。
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山梨市にある「日下部(くさかべ)」という地名の由来は、
古代の日本の制度や皇室に深く関わっています。
主な由来と歴史は以下の通りです。
1. 歴史的記録(奈良時代の古文書)山梨における「日下部」という地名は非常に古くから存在しています。
奈良時代の和銅7年(708年)に作られ、正倉院に宝物として納められた布(あさぎぬ)の墨書銘に、
すでに「甲斐国山梨郡可美里(かみのさと)日下部」という記述が残されています。
これが、文献上で確認できるこの地名の最も古い記録です。
2. 名代(なしろ)としての由来「日下部」という名称自体は、
日本全国に見られる古い部民制(古代の労働・管理組織)の名称に由来します。
一般的には、古墳時代に皇族の名前を冠して全国に設置された「名代(なしろ=天皇や皇族の称号・名を記念して作られた部民)」であるとされています。
具体的には、仁徳天皇の皇子である大日下王(おおかさかのおおきみ)や、
その妹であり雄略天皇の皇后となった若日下王(わかくさかのおおきみ/草香幡姫)などの名に由来するという説が有力視されています。
3. 「日下(くさか)」の言葉のルーツ「日下」という言葉自体は、
大阪府東大阪市周辺の古地名である「草香(くさか・日下)」に由来するといわれています。
難波(大阪)から見て「日が最初に照らすところ(日の下)」を意味していたり、
神武天皇東征の故事に登場する地名であったりすることから、
大和朝廷に関連する深い歴史を持っています。
大和朝廷の勢力が地方へと拡大していく中で、
こうした皇室ゆかりの人名や部民の名称(日下部)が、
甲斐国のこの山梨郡の地にも持ち込まれ、定着していったのが「日下部」の由来となっています。