絹本著色達磨図(国宝・絵画)
絹本著色達磨像
指定区分:国宝(絵画)
指定名称:絹本著色達磨図(けんぽんちゃくしょくだるまず)
指定年月日:昭和28年11月14日指定
所在地:甲州市塩山上於曽2026
所有者:向嶽寺
概要
塩山向嶽寺に古くから伝わる縦123.0センチ、幅61.2センチのこの達磨像は、わが国に数多い達磨像図の中でも特に有名で、且つ禅宗美術史上重要な位置を占めている。
かつて宋画とみられたこともあるが、用筆に宋画特有のきびしさがなく、画面全体に温雅な趣きが漂い、脚下の岩座も、宋画に見る剛直な岩角を作っていない。
思うに、南宋画の影響を強く受けたわが国の画人が、心血を注いで描いたもので、建長寺蔵の「蘭溪道隆像」とともに、わが国における南宗画様式の早期受容の一端を窺い得る貴重な文化財であろう。
達磨像の肉身は、やや黄色味を帯び、朱色の頭布と法衣の用筆と相まって、活き活きとした面貌をとらえ、四方をにらむ両眸は俗に「八方にらみの達磨」といわれている。流暢な蘭葉描き風の太い黒線で法衣の褶を刻み、暈染を賦して立体感を現し、座禅を組む岸壁も重厚な安定感を与えている。
まことに名手の霊腕を揮った逸品というべき像である。
上方の賛は、建長寺開山であり、また本県甲府市東光寺・韮崎市永岳寺等の開山でもある大覚禅師蘭溪道隆が、朗然居士(ろうぜんこじ)という人物のために着けたもので、次のように読める。
「
香至国王之季子。
般若多羅之克家。
遊竺乾破六宗之執見。
来震旦開五葉之奇花。
香伝日域。
瑞応河沙。
少林元不墜霊芽。
移向侯門発異葩。
建長蘭溪道隆為 朗然居士 拝賛。
」
為書の主、朗然居士とは誰であろうか、古来問題の人物であるが、確実にはわからない。
その邸宅を侯門というところから察すると、鎌倉幕府の執権と見るのが至当であろう。
かつては北条時頼説も唱えられたが、鎌倉建長寺所蔵の蘭溪道隆像の賛に、「辛未季春 住持建長禅寺 宋蘭溪道隆 奉為朗然居士 書于観瀾閣」とあり、辛未は文永8年に当たり、時頼の死後8年であるから、朗然即時頼説は根拠を失う。
辛未の年に時頼の子時宗は既に21歳、文永5年以来幕府執権となり、兼ねて禅道に励み、道隆には深く帰依していた。朗然居士は時宗の号とみて差し支えないと思う。
道隆は宋の蜀の蘭溪の人、寛元4年(1246)に来日した。
北条時頼厚く帰依し建長寺の開山に請じた。
在住13年、大いに教化を垂れたが、のち勅命を蒙り、京都建仁寺住持となった。
3年後に建長寺に帰住したが、悪僧の讒言に遭い甲斐に配流された。
文永9年(1272)のことである。
板垣庄東光寺、甘利庄永岳寺の2寺は道隆開山の峡中最古の禅刹である。
3年ののち赦されて鎌倉の寿福寺に住山したが、またもや讒されて甲斐に遷り、漸く弘安元年(1278)4月赦され、建長寺に帰住した。
同年7月、66歳で示寂した。
朝延よりは大覚禅師と勅謚された。
わが国禅師号の嚆矢である。
道隆は宋にあった頃、書家張即之の書を究めてこれをわが国に伝えた。
即之の書は唐の褚遂良、宋の米元章らの筆法を学び、これに即之の創意を加えて独自の風格を帯びたもので、鋭い筆鋒による剛健な書体は、書道史上に特異な地位を占めている。
これを究めた道隆の書は、門下禅僧らを通じて日本書道に大きな影響を与えた。
向嶽寺達磨像賛の文化財的価値は、この点からも高く評価される。
[出典:『山梨の文化財国指定編』平成元年:山梨県教育委員会発行]