後屋敷
後屋敷という地名の起こりについては、二つの説があります。
その一つは、「甲斐国志」に記されているもので、東後屋敷の天台宗光福寺の付近に、武田金吾の屋敷があったのによるとしています。
この屋敷は、周囲に六十間(約百十メートル)四方位の土手をめぐらして、その外側が堀になっていたと言われています。
しかし、武田金吾がどのような人物かは不明で、わずかに「一連寺過去帳」の文明年間(一四六九~八六年)のはじめに名が見えているだけです。
また、金吾というのは、本来、衛門府(宮中の諸門を警備した役所)の中国名でもありましたから、役所名であったとも考えられますので本名は別にあったかも知れません。
しかし、金吾の墓と伝えられるものが、絵見堂という所にあります。
約五百年前の慶長年間頃にはすでに屋敷はなく、栗の木や雑木の樹林となっており、その広さは約六反歩位(六十アール)あったと伝えられています。
地区の人々は、樹林を開懇して畑にし生活の糧を得ようとしたところ、堀跡の中に大きな根株があり、堀り起こしてみると、たくさんの消し炭や道祖神の丸い石がゴロゴロと無数に出たり、男根石等も発見されました。
そのため、それら一切を屋敷の東南隅に鏡と一緒に埋めて、「経塚」として祭壇を作りました。
旧一月十五日に団子を供えて、祖先の供養と地区住民の健康と安全を祈願する祭行事として継承されてきました。
もう一つの説では、地域の人々の間の伝承で、昔、五つの屋敷があったから五屋敷だとしています。
現在も東後屋敷に、小屋敷、久保屋敷などの小字があり、その西の方には、県の史跡に指定されている連方屋敷もあるので、あるいは、この説が当たっているかも知れません。
武田氏時代の文書(もんじょ)には、後屋敷郷が付近の狩野川郷や石森郷と並んで見えていますが、江戸時代には東後屋敷村と西後屋敷村の二つに分かれており、これが明治七年に合併して後屋敷村となりました。
江戸時代の村がのちの市町村の大字になるのが普通ですが、山梨市後屋敷地区の場含は、東後屋敷、三ヶ所、鴨居寺、上の割の四つになっています。
つまり西後屋敷が三つに分かれているわけですが、そのもとを古文書によって調べてみますと、宝永二年(一七〇五年)、時の領主柳沢吉保が西後屋敷村の中の豊後(ぶんご)、新町、木戸の三集落をまとめて三ヶ所と名づけ、三ヶ所組、鴨居寺組、上の割組にそれぞれ一人ずつ計三人の名主を置くことにしたとあります。
豊後は江戸時代のはじめに定期市が開かれ、馬の完買がさかんだったところ、その市場の出入口に発達したのが、木戸だと伝えられていますが、武田金吾の屋敷の木戸があったからだとも言われています。