立石(たていし)
七日市場の八幡橋入口への十字路、三日市場線の右側道路沿いに、大きな「立石」が建てられてある。
それは安山岩の自然石であるが、高さは、地上部分がニメートル余りで極めて粗雑な七面柱に加工され、太さは約四十センチ位である。
昔は、今の「火葬場」の西北の八幡橋下の坂の上に大きな塚があって、その上に建てられてあったと言われているが、そこの「立石」が何時、何のために今の場所に移されたかはわからない。
この「立石」を中心とした笛吹川左岸一帯の地域が、昔からの峡東文化の発祥地であると伝えられている。
昭和二十四年に、日下部中学校(現在の山梨北中学校)の建設現場で、日下部遣跡が発見され、四回にわたる発掘調査の結果、三十数個の住居跡がみつかり、奈良時代から平安時代初頭にかけての集落遺跡であることが判明し、たくさんの墨書土器や全属製品も出土した。
出土品は、現在日下部公民館に展示されている。
又、七日子遣跡が発見されたときに、「立石」付近からも多くの土器が発掘され、「立石」を中心とした所に、先史時代の住民の生活集落が形成された事が明らかにされた。
昔、甲斐国造(くにもみやっこ)に関係する記録として、「古事記」の開化の段に「日下部連(むらじ)」という名が書かれてあり、皇室の私有民である名代としての日下部の管掌者だったと考えられている。
地名も旧日下部村があり、明治以後も峡東地方を統轄する官公署のほとんどが、小原一帯に集まっていた。
古い歴史のふるさとだった地に現存する「立石」は、先住民族の融和娯楽の祭礼遣跡としてのメンヒル(巨石記念物の一種)ではないか、あるいはその時代の偉大な統治者を埋葬した墓石(標石)ではないかとも言われ、更には笛吹川を境にしての八幡地区と日下部地区の境界標石ではないかとも言われている。
この「立石」の建てられている付近は、いつの頃からか、「立石地区」という地名で呼ぱれている。