万力の御林
今から四百年も五百年もの昔、笛吹川は毎年のように大雨が降ると氾温し、近郷の村々は大洪水に見舞われ、人々は苦しみきっておった。
とくに川筋にあたる加納岩村、万力村をはじめとして落合、正徳寺、岩下の村々はひどく、はては甲斐の盆地全体をも水で押し流してしまうほどの被害を与えておったそうだ。
時の領主であった武田信虎公は、この災害を何とかして防げないものかと考えた。
それは、生活に困窮を極めている民衆の救出はもとより、戦国の世を制し全国統一を志す甲斐国守としての威信にかかわることでもあった。
そこで、信虎公は部下に笛吹川の流れをつぶさに調べさせ、治水の場所として、差出を起点とするよう計画し、我が子信玄にその工事を命じた。
後に、関東から東海を経て京にも上る勢いを見せた信玄公は、その時未だ二十歳を越えたばかりの若者であったがすでに孫子の兵法を学んでおった。
「人は城、人は石垣、人は掘、情けは味方、仇は敵なり」戦国の世にあって、強固な城閣を造り他国を寄せ付けず威圧していた諸大名をよそに、戦時には自ら先兵となって働く民、百姓の生活を安定させることの方がより重要であるとする考えは、信玄公の政治に対する基本であった。
それに常日頃、学間ずきな信玄公を、ひよわで、武将としての素質に欠けると罵る父信虎公をどうしても見返し、自身の名運をかけて工事にあたろうと、差出の急流に立った。
思ったより早い流れに「何としてもこの急流を止めねばならぬ」この言葉を繰り返し、繰り返し胸にきざんだ。
昔、中国の春秋時代、後の世まで名を知られた兵法学者の孫子が生きておった。
孫子は、生きている人々がかもしだす社会の営み、政治経済の中から兵法をあみだし、また、その兵法を人々の生き方に応用するという待異な兵法を考えだした人だ。
あるとき、隊列を作って雁が飛び去っていくさまを見て、敵の力を弱め戦に勝利する方法を思いついた。
信玄公は、笛吹川の急流を眺めながら、不思議にもその孫子の兵法にこだわりはじめていた。
急流を阻むように、第一の堤、第二の提と等間隔に堤を築いていけばあるいは、この流れを緩やかに出来るかも知れぬと、はじめの考えから徐々に確信を持ちはじめてきた。
こうして、差出を起点とした雁行堤(がんこうてい)は、信玄公の発案をもとに設計され、労力奉仕の立札がたてられ、大勢の人々の血のにじむような大工事が始まったといわれる。
この雁行堤のおかげで、後のちまで長く大洪水に見舞われることはなくなった。
この万力林の雁行堤には、次のような話も語り継がれている。
信玄公が立てた人足集めの立札を見て、どこからともなくきたお万、力三の夫婦がおった。
夫婦は作業奉仕を申し出て毎日よく働いた。
二人は体憩時にも目でうなずきあって、歌をうたって皆を笑わせたり励ましたりするのだ。
そのうちにお万が女衆頭を力三が男衆頭を命ぜられてからは、工事が順調に運び、二人は皆の尊敬の的となり、翌年夏の始めには雁行堤も見事に並び、植樹作業も立派に完了していた。
そして、その頃には二人はどこともなく旅立って人々は不思議に思っていた。
その後、見事に生育する林を見て人々は、二人の力と大衆の力を思い起こして万力林と呼び、領主の造った林だからと御林とも呼び馴れ、万力の御林と愛称される歴史ある目然林となった。
今、林の中に雁行堤の一部が保存されている。
つの虫も、あやめも山つづじも咲きほこった万力林が、近年、市民の努力によって、新しい、近代的な公園に変わりつつあるのは、信玄公の時代、大勢の人々の工事にかけた命がけの水との戦いに報いるためにも、よい材料となっていると思う。