舟形道(ふながたみち)
山梨市内を縦貫している「青梅街道」の小原東地区に通称「舟形道」と言われる広い道がある。
この「舟形道」は、今から数百年前に「六斎市場」が開設され、一般の人々の生活を支えてきた市場跡である。
市は、毎月八日、十八日、二十八日に行われ、「八日市場」の地名として残っている。
この市場の開かれた道の形が、湖面に浮かぶ舟のようだ、という先人の優雅な発想が、いつか次第に「舟形道」と呼びなれて、この名で親しまれてきた。
この道は、七日市場地区の杉原商店付近より、川を分岐し、分岐点より川が道路を斜めに横断して、舟形を描くように道路の両側を川が流れている。
道幅は、日下部農協付近から、小原東の火の見やぐらよりやや下った所までが広くなり、舟底の形になる。
その位置より、道幅は次第に狭くなり、両側を流れる川は、川日屋菓子店付近より、反対側の美容院の方向に舟形を描くようにして一つの川となり、そこまでが舟形道と呼ぱれていた。
市は、この道の中に範囲を定め、品物の保護や、計画的な火事場どろぼうの予防等、被害を最小限に防ぎ、悪に利用されやすい状況から守るための策であったという。
市場には、「上木戸」「下木戸」という番所を設けて木戸銭を支払って中に入り、持ち寄った品物の品定めをしては物々交換が行なわれたが、次第に棚(店)を作って品物を並べて、品定めがしやすいように工夫された。
江戸中期に至って、甲斐府中(甲府)などより、木綿、魚、薪炭、小間物など一切の日常生活必需品の流通が行われ、経済の要路として八の日の市が活気にあふれていった。
市場には、市役、商役を置き、日を定めて市場を開設したので「日切市」ともいわれたが、次第に座商の商店街に変わり、明治初年には廃止された。
この道路の長さは、二百メートル、中程の道幅の広い所が二十メートル位ある。
また、明治四十年代の頃までは、中央の北はずれに道祖神が祀られ、南はずれには市神が祀られてあり、その傍らには高札場(法度や掟などを書いて掲げた場所)もあったと伝えられている。
「八日市場」と呼びなれ、「舟形道」と愛称されたこのあたりも、今は閑静な住宅街となってしまい、県指定の市場跡の標識や句碑等が、道路の傍らに名残りをとどめているにすぎない。