比丘尼原(びくにっぱら)
国宝で有名な清白寺の東の農面道路と、その東方百メートル位の所に祀られている木の宮神社との間の地区一帯を、今でもこの付近の人々は、ビクニッパラと呼んでいます。
ビクニッパラは漢字では比丘尼原と書き、この地名にはその昔実在した一人の尼さんの話が秘められています。
時は天授六年(一三八○年)まだ新築間もない塩山の向獄寺を一人の女性が何やら思いつめた様子で訪れました。
「抜遂禅師(ばっすいぜんじ)、只今、いわくありげの美しい女性が禅師にお取り次ぎをとそこに参っております。」
寺の者に案内された女性を一目見た抜遂禅師は、その容姿に思わず息をのみました。
粗未な衣をまとった女性は身なりこそ慎ましいものではありましたが、色が抜けるように白く、日頃は抹香の標う薄暗い僧坊にまるで大輸の白い百合の花を活けた様に見えました。
「して、そなたは拙僧に何用あって参ったのかな。」
禅師に促された女性は美しい顔を曇らせて、「私は、塩後の善正寺、赤松円心の娘にて乙野と申します。
訳あって仏道に入りたく、こうしてお願いに参りました。
どうか私を弟子にして下さい。」
「おやめなされ。そなたのように年若く美しい女性が参る所ではない。」
禅師は言下に断り、乙野を帰そうとしました。
「何を申されます。当寺に参禅が叶うことだけが私の夢でございます。どうか願いをお聞きとどけ下さいませ。」
乙野は、きっとした表情で禅師を見、尚も再度訪れる決意を述べました。
しかし禅師は、「やがて髪をおろしたことを必ず悔い申そう。美しい女性はそれなりに幸せな過ごし方があるはずじゃ。」
と、再三の願いも聞き入れてはもらえませんでした。
この時禅師と乙野は、おのおのの気持ちを歌に託しました。
乙野がまず一首、乗(のり)得ては、櫓棹(ろざお)もいらずあま小舟 其の浦々の風に任せん と、差し止げると禅師は、乗得ても心ゆるすなあま小舟 高瀬の浪のあらん限りは と、返しました。
落胆した乙野は、仕方なく善正寺に戻り、しばらくの間、下塩後から東後屋敷の木の宮神社辺りまで続く当家の所有地の一部を耕しながら、日々を過ごしておりました。
しかし、仏門に入る夢を片時とて忘れた訳ではありませんでした。
意を決した乙野は、ある日髪をおろし、顔に焼きゴテを当て、自らの顔をまるで別人のように醜く変えてしまいました。
そして乙野は、赤松円心より授かり大切にしていた勅子観音を当寺に預け、ここを去ったのでした。
変わりはてた姿で再び向獄寺を訪ねた乙野は、面をばうらみてぞ焼く塩の山 尼の煙と人や見るらん と、詠み、再び初心を貫ぬこうとしましたので、さすがの禅師もこれに心を動かし、即座に仏門に入ることを許しました。
遂に入門得度した乙野は、禅師から理庵尼(りあんに)という法号をもらい、永徳元年(一三八一年)向獄寺の末寺として今の上井尻に洞外庵を開堂しました。
理庵尼はこの庵で朝夕の読経に励み、参禅に精進し仏道を極めました。
そして洞外庵の周りばかりでなく、塩後、東後屋敷、あるいは抜遂禅師の開山による牧洞寺(上岩下)辺りの人々にまで広く仏果の道を説き、仏徒としての生活をささやかに送りました。
またこれらの地域の林野の開拓にも余念がなかったと伝えられています。
何十年かの布教の後、理庵尼は故郷である京郡(赤松円心の養女となる前は京にいたといわれる)にのぼり、則祐寺という寺で亡くなったとも伝えられていますが、岩下の牧洞寺の傍らには墳墓、石塔が残っており、ここで亡くなったという説にも十分うなずけます。
後に、土地の人々は理庵尼が顔を焼いたところを鉄火原、髪をおろした所を髪切塚、布教や開墾した地域をビクニッパラと呼ぶようになりました。
残念ながら鉄火原の地名は確認できませんが、髪切塚は善正寺(赤松家)の近くに、またビクニッパラは冒頭で触れたように東後屋敷の一部の地名として残っていて、現在は果樹地帯となっております。